超入門! お城セミナー 第33回【武将】加藤清正はどんな城を造ったの?

初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法を、ゼロからわかりやすく解説する「超入門! お城セミナー」。今回は、戦国時代に築城の名人として知られていた加藤清正を紹介します。「最強の城」との呼び声高い熊本城を築いた清正の築城術と生涯を紐解きます。

“鉄壁の守り”を目指した築城名人・加藤清正

熊本城、加藤清正、銅像、清正公
熊本城内にある加藤清正の銅像。治水などを積極的に行い熊本の発展に貢献した清正は、現在も熊本の人々から「清正公(せいしょこ)さん」と呼ばれ慕われている

2016年4月の熊本地震で大きな被害を受けた熊本城(熊本県)。この城を築いた武将は誰か知っていますか? そう、かつて熊本の領主だった加藤清正(かとうきよまさ)です。清正は幼い頃から豊臣秀吉に仕え、秀吉の天下統一事業に貢献した人物。熊本では治水工事や灌漑(かんがい)事業などを推進し、戦で荒れ果てていた熊本を復興した名君として慕われています。

賤ヶ岳の七本槍や朝鮮出兵での虎退治など、武勇に優れた将というイメージが強い加藤清正ですが、本連載の第6回でもご紹介したように藤堂高虎(とうどうたかとら)・黒田官兵衛(くろだかんべえ)と並ぶ築城名人としてもその名を知られています。攻城戦の名人であり、優れた築城者でもあった秀吉のそばで築城術を学んだ清正は、熊本城の他にも江戸城(東京都)や名古屋城(愛知県)などの築城に携わっています。

加藤清正、名古屋城、普請、石垣、算木積
清正が普請を担当した名古屋城大天守の石垣。隅部は曲線を描く算木積となっている

加藤清正の城は反りのある高石垣が最大の特徴。彼が自分の居城として築いた熊本城では、下部の緩い勾配が上に行くについて急勾配となる「扇の勾配」という積み方が多用されています。これは「武者返し」とも呼ばれ、敵の侵入を防ぐ効果がありました。また、幾多の戦いを経験した清正は高石垣を厳重にめぐらせた縄張を得意としていました。この熊本城で見られるような反りの強い石垣は、清正の名前をとって「清正流石垣」とも呼ばれています。

熊本城、石垣、加藤清正
熊本城の二様の石垣。手前が加藤家時代に積まれたもので、緩やかな勾配が天端石付近で垂直に変化する様が見てとれる(写真は熊本地震前の様子)

台地の突端に築かれた熊本城は、北・東・南の三方に崖を利用した高石垣がめぐらされており、ここからの侵入は不可能。唯一、地続きになっている本丸の西側には、幅10m以上の空堀を設け、堀の内側に西出丸という曲輪を配置して本丸と二の丸を完全に遮断していました。それだけでも防御は充分なのですが、清正は満足しなかったようで、本丸内にもさらなる仕掛けを施しています。

熊本城、石垣、加藤清正、北十八間櫓
台地の突端に築かれた北十八間櫓の石垣は、城内で最も高い約20mにもなる(写真は熊本地震前の様子)

加藤清正は本丸の入口から御殿へ至るまでの登城路に、敵を高所から狙い撃ちできるように高石垣や櫓を多数設けました。実際に登城路を歩いてみると、道はジグザグに屈曲し、まるで迷路のようになっていて見通しが全くきかないため、上から撃たれたら全滅必至ということがよくわかります。このように清正は、自身の居城に無数の防御策を仕掛け、鉄壁の守りを誇る「最強の城」を造り出したのです。

清正の施した防御設備は、清正の死から約260年経った近代の戦いでその効果を発揮しました。明治10年(1877)に起こった西南戦争で西郷隆盛が熊本城を攻撃しますが、「武者返し」が多用された石垣は西郷軍を寄せ付けず、50日以上に及んだ籠城戦の間、西郷軍は一人たりとも城内に侵入することができなかったのです。

熊本城、登城口、石垣、加藤清正
登城路の石垣。これだけでも閉塞感があるが、往時は多聞櫓や五重櫓も建てられていた(写真は熊本地震前の様子)

近世城郭の発展が生んだ築城名人

熊本城が西南戦争の舞台となったことで加藤清正は築城名人として広く知られるようになりますが、なぜ清正はこのように堅固な城を築くことができたのでしょうか。

一つ目の要因は、冒頭でも触れたように豊臣秀吉に幼い頃から仕えていたことでしょう。そもそも、近世城郭は秀吉が仕えていた織田信長が創出したものでした。秀吉も信長の下で長浜城や姫路城など石垣を持つ近世城郭を築き、信長亡き後は、大坂城や伏見城、名護屋城など信長の城を超える巨大城郭を次々と造り、近世城郭の発展に貢献しています。

名護屋城跡、加藤清正、普請奉行
名護屋城跡。清正は名護屋城の普請奉行を務めていた

加藤清正が秀吉に仕えはじめたのは秀吉が長浜城主になった頃なので、彼は秀吉のそばで日々発展していく築城技術を目の当たりにしていました。そして、秀吉が天下人になると清正は大坂城や名護屋城などの普請に関わるようになり、秀吉が信長のもとで培った築城術を学んでいきます。

清正を築城名人にしたもう一つの要因は、主君・秀吉が命じた朝鮮出兵です。日本を統一した秀吉は明(現在の中国)の征服を目論み、清正をはじめとする配下の武将たちを朝鮮半島へ送り込みます。この時、日本軍は朝鮮半島での拠点として「倭城(わじょう)」という城を各地に築きました。苛烈な戦いを生き抜くために造られた倭城には登り石垣など高い築城技術が用いられ、それらの技術を朝鮮半島に渡海した武将たちが日本に持ち帰ったことで、日本の築城技術はさらに発展します。清正も西生浦(ソセンポ)城や蔚山(ウルサン)城などの倭城を築城しており、蔚山城では飢えに苦しみながら籠城戦を戦い抜くという経験をしています。

加藤清正、石垣、遺構、蔚山城
蔚山城は現在公園となっているが、遺構はわずかに石垣が残るのみである

近代戦を耐え抜き、大地震からの復興に向けて今も歩み続けている熊本城。「最強」と呼ばれた石垣による堅固な防御は、近世城郭の発展とともに生涯を歩んだ加藤清正が、自らの合戦と築城の経験を全て注ぎ込んだ集大成なのです。

熊本城、北十八間櫓、加藤清正、石垣、
熊本地震で倒壊した北十八間櫓は、現在建物の部材や石垣の石材が回収され、防護ネットがかけられている(熊本城総合事務所提供)


執筆・写真/かみゆ
ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。

関連書籍・商品など