超入門! お城セミナー 第77回【武将】名軍師・黒田官兵衛が城づくりの名人だったって本当?

お城に関する素朴な疑問を、初心者向けにわかりやすく解説する連載「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは築城名人の一人・黒田官兵衛をご紹介。豊臣秀吉の軍師として知られ、大河ドラマの主人公にもなった官兵衛が造った城とは、どんな城だったのか。彼が築いた城の特徴を解説します。

広島城
黒田官兵衛が携わった広島城。太田川の水運をおさえるため、河口付近のデルタ地帯に築かれている

築城名人・黒田官兵衛の生涯

この連載の第5回 では「【歴史】築城名人って何をした人?」と題して、築城を得意とした人物について取り上げ、その中で名前が挙がった加藤清正の城造りを第33回の「【武将】加藤清正はどんな城を造ったの?」で解説しました。今回は、同じく築城名人といわれた黒田官兵衛の城造りについて。豊臣秀吉に天下を取らせた名軍師というイメージが最も強い官兵衛ですが、天下の名軍師が造った城は、はたしてどんな特徴があったのでしょうか?

まずは、官兵衛その人について簡単に説明しましょう。まず官兵衛という名前は「字(あざな)」、いわゆる通称で、実名とは別に名乗ったものです。実名は「孝高(よしたか)」。隠居後に名乗った「如水」もよく知られていますね。今回は便宜上、最もよく知られている「官兵衛」の名で統一します。

名軍師、黒田官兵衛
豊臣秀吉を天下人に押し上げた名軍師は、築城の名人でもあった(東京大学史料編纂所蔵・模写)

黒田官兵衛は、黒田職隆(もとたか)の嫡男として播磨国の姫路城(兵庫県)で生まれました。当時は規模の小さな城だったとはいえ…そう、あの姫路城のことです。官兵衛の父・職隆は西播磨地域に勢力をもっていた大名・小寺家の重臣でした。小寺家の本城は御着城(兵庫県)で、姫路城はその支城でした。黒田家はその姫路で城代を務めていたのです。官兵衛も小寺家に仕え、「小寺官兵衛」と名乗っていた頃もありました。

織田信長が勢力を伸ばし中国地方に攻め入ろうとしていた頃、信長の将来性を見込んだ官兵衛は主君を説得し、小寺家は織田家に臣従することになります。官兵衛は中国攻めの司令官だった木下藤吉郎(のちの羽柴秀吉/豊臣秀吉)の案内役となりますが、その大器に惹かれて姫路城を献上して臣従することに。

その後、信長に突如反旗を翻した荒木村重を有岡城(兵庫県)まで説得しに訪れた時に幽閉され、終生足が不自由になってしまいますが、名軍師・竹中半兵衛が他界した秀吉軍の新しい軍師となります。それからは、備中高松城(岡山県)の水攻め、中国大返し、天王山の戦い、四国攻め、九州攻め、小田原合戦、朝鮮出兵などで戦略・戦術家として活躍し、秀吉の天下統一事業を支えました。

姫路城、石垣
現在の姫路城には、黒田時代の遺構は残っていないが、秀吉時代の石垣などが残っている(写真は姫路城上里曲輪の石垣)

地形を活かし防御性の高い城を築く

秀吉の元で才能を大きく開花させた官兵衛は、多くの武将から築城の相談を受け、縄張などのアドバイスをよくしていたようです。さて、官兵衛の城造りには、いくつかのポイントがあります。彼が携わったといわれる城を、このポイントごとに挙げて見てみましょう。

ポイント① 海や川を生かした縄張
沿岸部や河口部を好んで城を築いたのは、物資の流通や情報が、戦略にも領国経営にも重要だと考えていたから。海や川から水を引き込んで広大な水堀をめぐらせることによって、平城の弱点をカバーしました。

広島城(広島県)や高松城(香川県)は官兵衛が縄張に関わったといわれ、初めて自らが築いた居城・中津城(大分県)も周防灘のデルタ地帯を利用し、水を巧みに利用した城でした。

高松城、海城
官兵衛が縄張を手がけた高松城は、海に面し海上交通を監視できる海城であった

ポイント② 城と城下町が一体化
軍事的要素が強かった中世の城は城下町から離れていましたが、官兵衛は城を経済の中心地として発展させるべく、城下町を含めた築城計画を立てました。

物流拠点になるポイント①の水辺の城たちも、この面を併せ持っていることになります。他に、官兵衛が縄張を手がけた鉄壁の巨城・豊臣大坂城(大阪府)や、隠居後の官兵衛が息子の長政と共に築いた最後の居城・福岡城(福岡県)なども、城と城下町が一体化した巨大城郭でした。

香川元太郎、大坂城、イラスト
豊臣時代の大坂城は付近を流れる川を利用し、城下町まで堀で囲む構造だった(イラスト=香川元太郎)

ポイント③ 戦いに徹した実戦的縄張
秀吉という大器の元での数多の実戦経験によって、官兵衛はさまざまな城を生み出していきました。

小田原合戦時に築いた関東初の石垣の城・石垣山城(神奈川県/「一夜城」とも)や、朝鮮出兵の時に築かれて10年も経たないうちに廃城となった破格の巨城・肥前名護屋城(佐賀県)、そして朝鮮の地で築城した複数の倭城は、敵と戦うために一時的に築いた「陣城(じんじろ)」で、いずれも官兵衛が縄張や普請奉行を務めたといわれています。そして、朝鮮で石垣技術を完全に習得した官兵衛が、帰国してから築いた最晩年の城が前出の福岡城です。その見事な実戦仕様を加藤清正が絶賛したという逸話も残っていますね。この時官兵衛は、豊前国との境に通称「六端城(ろくはじょう)と呼ばれる6つの支城網も構築し、領地防衛でも優れた築城技術を発揮しました。

石垣、石垣山城
小田原城攻めの際に築かれた石垣山城の石垣。石垣山城は、陣城でありながら石垣や天守を備えた城だった

天下の名軍師・黒田官兵衛は、持ち前の鋭い観察眼と分析力に、豊富な実戦経験が加わることで、戦うための城であり、かつ領国経営にも至便な、実戦的・合理的な名城を生み出していったのです。ぜひ改めて、官兵衛が関わった城をめぐって「なるほど、この辺りが官兵衛らしい!」という共通点を探してみて下さいね!



執筆・写真/かみゆ歴史編集部
ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。

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