理文先生のお城がっこう 城歩き編 第63回 櫓⑤ 天守代用の櫓2

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。今回も、天守がないお城において天守代用という特別な役割を持った櫓がテーマです。御三階櫓と呼ばれる天守代用櫓の全国各地での具体例と、その建築にあたって大名たちが考えていた思惑について見ていきましょう。

前回は、天守(てんしゅ)の代用になった櫓(やぐら)と三重櫓の違(ちが)い、天守代用の櫓と公式に認められた天守との違いなどを見てみました。幕府(ばくふ)に対する遠慮(えんりょ)や気配り、あるいは幕府の考えを推(お)しはかって、天守の代わりの櫓が建てられたことが解(わか)っていただけましたか。今回は、天守代用櫓の例について見ていきましょう。

現存する非公式天守

現存(げんぞん)する最小の天守は、みなさんもお分かりだと思いますが、備中(びっちゅう)松山城(岡山県高梁市)天守で二重二階と我(わ)が国最小の「天守」です。次いで丸岡城(福井県)天守が二重三階、伊予松山(愛媛県松山市)・宇和島(うわじま)(愛媛県宇和島市)・彦根(ひこね)(滋賀県彦根市)の各城の天守が三重三階で、どの天守も御三階(ごさんかい)と同じくらいか、それ以下の大きさでしかありません。しかし、どの天守も武家諸法度(ぶけしょはっと)を広く世間に知らせる前から建てられていた天守ですので、公式な天守として認(みと)められていました。宇和島城天守は、寛文(かんぶん)年間(1661~72)の建て替(か)え、伊予松山城天守は、幕末の嘉永(かえい)5年(1852)の建て直しですが、武家諸法度の公表より前から存在(そんざい)していた幕府公認(こうにん)の天守でしたので、たとえ建て替えや建て直されても「公式天守」ということになります。

弘前(ひろさき)(青森県弘前市)と丸亀(まるがめ)(香川県丸亀市)は、現在は天守と呼(よ)ばれていますが、本来は武家諸法度が広く世間に知らされた後に建てられたため三重の櫓になります。幕府からは「公式天守」として認められていなかったため、天守代用の「御三階」ということになります。両藩(はん)ともに、幕府への気遣(づか)いから建築に際し「御三階」として届(とど)け出を出したためです。

備中松山城天守、丸亀城天守
現存する最小の天守「備中松山城天守」(左)と、現存する天守代用の櫓「丸亀城」天守(右)。松山城は二重二階ですが、丸亀城は三重三階の規模です

最古の御三階櫓

記録に残る一番古い「御三階」の事例は、金沢城(石川県金沢市)「三階御櫓」になります。落雷(らくらい)により天守が焼失したため、慶長(けいちょう)8年(1603)にその天守台の上に建て直された三階櫓が、最古の「三階御櫓」の事例になります。

金沢城は、前田利家が建てた「大坂・駿河(するが)に引き続く名城」といわれた城でした。天守も、武家諸法度発布(はっぷ)以前から建てられていましたので、同じ規模(きぼ)で立て直すことは十分可能(かのう)だったはずです。事実、江戸城(東京都千代田区)や名古屋城(愛知県名古屋市)、駿府(すんぷ)(静岡県静岡市)天守は、慶長8年以後建てられていますので、たとえ建て直したとしてもなんら問題はなかったと思われます。それにもかかわらず、天守を建てることを見合わせたのは、二代利長が関ヶ原合戦前に「謀叛(むほん)の疑(うたが)い」をかけられた時に、江戸に人質(ひとじち)として送った母・芳春院(ほうしゅんいん)が、まだ江戸に居(い)たからなのでしょうか。あるいは、いたずらに幕府に疑いをもたれることを避(さ)けようとしたのかもしれません。

金沢城三階御櫓之図
「金沢城三階御櫓之図」(金沢市立玉川図書館蔵)。下から五間四方、三間四方、二間四方と逓減(ていげん)しています。本図は、当初期ではなく、後の再建(さいけん)後の図面と考えられています

完成した三階御櫓は、3つの入母屋(いりもや)屋根が交互(こうご)に直行(ちょっこう)する三重四階の望楼型(ぼうろうがた)の建物でした。初重(一番下の階)が五間四方、高さ約21m程(ほど)と伊予松山城天守と同じくらいの大きさでした。特徴的(とくちょうてき)なのは、① 初重が内部2階で、上下2列に窓(まど)があること、➁ 壁面(へきめん)の下方4分の3が海鼠壁(なまこかべ)となること、➂ 最上階に廻縁(まわりえん)高欄(こうらん)が廻ること、④ 二重目、三重目に唐破風付出窓(からはふつきでまど)を配したことです。

また、建物の四隅(すみ)の四本柱を黒い鉄板張(てっぱんばり)とし、屋根は白銀の鉛(なまり)(かわら)を採用(さいよう)。三重櫓でありながら華(はな)やかで美しい飾(かざ)りを付け加え、できる限(かぎ)りぜいたくな建物に仕上げたのです。この御三階に用いられた意匠(いしょう)(デザインのことです)が、金沢城の統一(とういつ)デザインとして幕末まで切れ目なく受け継(つ)がれることになります。天守ではないものの、前田家は加賀100万石の体面や名誉(めいよ)を保(たも)つ「代用櫓」を完成させようとしたためと思われます。
 

二の丸に建てられた巨大な御三階

徳川御三家(ごさんけ)水戸藩が水戸城(茨城県水戸市)に(きず)いた御三階は、その高さ約22mと、現存する高知城(高知県高知市)や伊予松山城天守をも上回り、さらに五重天守の(はぎ)(山口県萩市)天守より1m高い規模を誇(ほこ)る大型(おおがた)の御三階櫓でした。

この御三階は、本丸に建てられず二の丸の南寄(よ)りに建てられました。櫓台となる石垣(いしがき)もない三重五階の建物で、明和3年(1766)頃(ごろ)に徳川宗翰(むねもと)によって再建された建物になります。初重部分が極めて高く、内部は三階となるため、二重目が四階、三重目が五階ということになります。雨よけのために一重目外壁(がいへき)の下の部分を海鼠壁とし、土蔵(どぞう)を造(つく)る時のやり方で、より風雨に強い仕組みとし、天守台を持たない構造(こうぞう)をカバーしていたのです。

水戸城御三階櫓
水戸城御三階櫓古写真(個人蔵)。高さ約22mと三重天守以上の規模を持っていました。初重部分の内部は三階で、二重目が四階、三重目が五階になります

外観に破風(はふ)は1カ所も使われていませんが、屋根は銅(どう)瓦が葺(ふ)かれていました。『水戸温故録草稿(みとおんころくそうこう)』には「此櫓(このやぐら)は殿守(てんしゅ)の心なるにや」と記され、天守として意識(いしき)された天守代用櫓であったことが解ります。明治維新(めいじいしん)の廃城令(はいじょうれい)でも取り壊(こわ)されることなく現存していましたが、昭和20年(1945)、米軍の空襲(くうしゅう)により惜(お)しくも焼け落ちてしまいました。

なお初代の御三階櫓は「三階物見」とよばれる三重櫓で、焼失した当時は銅板葺でしたが、以前は極めて簡素(かんそ)な茅葺(かやぶき)であったと伝わります。

関東地方における譜代の御三階

関東地方は、幕府が近くにあるということで、譜代大名(ふだいだいみょう)といえども天守建築(けんちく)を建てることはありませんでした。諸大名(しょだいみょう)は、幕府の機嫌(きげん)を損(そこ)ねないため天守としてではなく御三階櫓として認可を得(え)たのです。

佐倉城(千葉県佐倉市)、古河(こが)(茨城県古河市)、高崎城(群馬県高崎市)、関宿(せきやど)(千葉県野田市)、(おし)(埼玉県行田市)などには天守代用の御三階が存在していましたが、川越(かわごえ)(埼玉県川越市)では富士見(ふじみ)櫓が、岩槻(いわつき)(埼玉県さいたま市)では二重の瓦櫓が天守代用櫓でした。特別な代用櫓を建てることも無く、櫓を代用としたのです。幕府が高くて、華やかな天守を築くことを嫌(きら)ったがため、とりあえずの手段(しゅだん)として御三階と呼びならわしましたが、中には通常(つうじょう)の三重天守よりはるかに大きな代用櫓もありました。

古河城御三階
古河城御三階古写真(古河歴史博物館蔵)。土井利勝が佐倉城から古河城に移封となり、佐倉城とほぼ同様の無派風の三階櫓を築きました。この櫓は、明治期まで現存していました

土井利勝の築いた佐倉城御三階は、破風の無い層塔型(そうとうがた)三重四階(初重地階の一部穴蔵(あなぐら)を含(ふく)めれば五階)の櫓で、七間×八間の初重の床(ゆか)の部分の半分を崖上(がいじょう)の土塁(どるい)に差しかけた珍(めず)しい造りでした。初重四分の三程が下見板張(したみいたばり)となっていました。同じく土井利勝が築いた古河城御三階は明治期まで現存し、古写真も残されています。佐倉城とほぼ同様の構造で角地から控(ひか)えて建てられ、そこにL字の土塀(どべい)を廻(めぐ)らしたため、遠くからは四重櫓にも見えたと思われます。ともに、高さ約22mと水戸城御三階に肩(かた)を並(なら)べる巨大(きょだい)な櫓だったのです。

佐倉城御三階櫓
佐倉城御三階櫓跡。初重地階の一部穴蔵(右側下段)を含めれば五階の櫓で、初重の床の部分の半分を崖上の土塁(写真左)に差しかけた珍しい造りでした

高崎城御三階は、城内でただ一基(き)の三重櫓で、高さ約7~10m程の土塁上にあり、総高(そうだか)約13mとかなり小規模な櫓でした。しかし、外側から見ると、千鳥破風(ちどりはふ)を8ヵ所にも設(もう)け、各階の格子窓(こうしまど)の上に長押型(なげしがた)を配しただけでなく、最上階の妻側に華頭窓(かとうまど)を連続して並べるなど、デザインは天守そのものだったのです。

外様の雄(ゆう)・上杉家では、米沢城(山形県米沢市)城下および主要街道から望める北東隅櫓がシンボルとして天守代用の役割(やくわり)を果たしていました。下見板張の外観で、平側初重の東西、二重目中央に切妻出窓(きりづまでまど)が配され、三階中央部に出格子窓(でごうしまど)を配し、格式(かくしき)を持たせていたのです。このようにいずれの城でも、代用櫓をいかに天守らしく見せるかに工夫が凝(こ)らされていました。関東・東北地方に三重の代用櫓が多いのは、近世城郭(じょうかく)としての築城や改修(かいしゅう)が、元和(げんな)以降になって起こったからです。

松岬城堞図
「松岬(まつがさき)城堞図」(米沢市上杉博物館蔵)。本丸北東隅に置かれた下見板張の三重櫓で、初重の両端(りょうたん)、二重目中央に切妻出窓が描かれています

今日ならったお城の用語(※は再掲)

※天守(てんしゅ)
近世大名の居城(きょじょう)の中心建物で、通常最大規模、高さを持つ建物のことです。安土城天主のみ「天主」と命名したため「天主」と表記しますが、他は「天守」が用いられます。

※御三階櫓(ごさんかい)
天守を建てることができなかった城では、最高格式の櫓である三重櫓を天守の代用としました。この代用の三重櫓は「御三階櫓」などとも呼ばれていました。幕府にはばかり、天守建築を建てなかった関東地方の城に多く見られます。

※天守台(てんしゅだい)
天守を建てるための石垣の台座(だいざ)のことです。

※望楼型(ぼうろうがた)天守
入母屋造(いりもやづくり)(四方に屋根がある建物です)の建物(一階または二階建て)の屋根の上に、上階(望楼部)(一階から三階建て)を載(の)せた形式の建物です。

※海鼠壁(なまこかべ)
土蔵の外壁に多用され、下見板の代わりに瓦を打ち付け、目地に漆喰(しっくい)を盛(も)ったものです。下見板張に比較(ひかく)し、耐久性(たいきゅうせい)が高くなります。

※廻縁(まわりえん)
建物の周囲に廻らされた縁側(えんがわ)のことです。建物の本体の周りに短い柱を立て並べ、それで縁側の板を支(ささ)えたもの。天守の最上階に用いられることが多い施設(しせつ)です。

※高欄(こうらん)
廻縁からの転落を防止(ぼうし)するために手すりを付けますが、高級な造りの手すりであったため、高欄とか欄干(らんかん)と呼びました。

※唐破風付出窓(からはふつきでまど)
出窓の上に、唐破風(屋根本体の軒先(のきさき)を丸みを帯びた形に造形した破風)を付けたものをいいます。

※千鳥破風(ちどりはふ)
屋根の上に載せた三角形の出窓で、装飾(そうしょく)や明るさを確保するために設けられたものです。屋根の上に置くだけで、どこにでも造ることができます。2つ並べたものを「比翼(ひよく)千鳥破風」と言います。

※格子窓(こうしまど)
窓枠(わく)に、角材を縦横(たてよこ)の格子状(じょう)に組み上げた窓を言います。中間に補強(ほきょう)用の水平材が入らずに角材を縦方向に並べたものは、本来連子窓(れんじまど)と言いますが、現在は格子窓と呼ばれています。

※長押形(なげしかた)
書院造(づくり)や寺社建築に使う部材で、柱の表面に打ち付ける横材のことです。格式をあげるために、窓の上下に付けられることが多く見られます。

※華頭窓(かとうまど)
鎌倉(かまくら)時代に、禅宗(せんしゅう)寺院の建築とともに中国から伝来したもので、上枠を火炎(かえん)形(火灯曲線)または花形(花頭曲線)に造った特殊(とくしゅ)な窓のことです。

次回は「櫓⑥ 多門櫓」です

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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