理文先生のお城がっこう 城歩き編 第64回 櫓⑥多門櫓1

加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の城歩き編。今回は、「長屋」とも呼ばれる多門櫓がテーマです。多門櫓とはどんな建造物でどのような役割があったのか、全国のお城に残っている様々な種類の多門櫓を例に見ていきましょう。

多門(たもん)(やぐら)は、別名で「長屋(ながや)」「走り長屋」「長櫓」とも呼(よ)ばれます。もともと、多門とは長屋の別名で、一つの建物に、入口の門がたくさん付いていたため、「多くの門」「多門」と呼ばれたのです。城の中で最も手軽で便利な建物が、この多門櫓ではないでしょうか。今回は、様々な多門櫓について見ていきたいと思います。

会津若松城、南走り長屋
会津若松城南走り長屋。平成13年(2001)に復元(ふくげん)された、初の本格的(ほんかくてき)復元建造物(けんぞうぶつ)です。干飯(ほしい)櫓と本丸への表門の鉄門(くろがねもん)をつないでいる多門櫓になります。武器(ぶき)の倉庫でした

「多門櫓」と「多聞櫓」

現在(げんざい)、「たもんやぐら」の書き方は「多聞櫓」が広く使われており、正式な名称(めいしょう)の「多門櫓」の使用例は少なくなっています。「多聞櫓」と書かれ始めるのは、江戸(えど)時代の中頃(ごろ)のことで、この頃の記録に時々見られます。近代になると、多門が長屋と言うことが忘(わす)れられ、「多聞櫓」という書き方が広まったのです。

なぜ、多門櫓が多聞櫓になったのでしょうか。一つは、初めて多門櫓が建てられたのが、松永久秀(まつながひさひで)多聞(多聞山)城(奈良県奈良市)であったため、その城の名前を取って多聞櫓と書かれるようになったとの説です。もう一つは、仏(ほとけ)の説いた教えを守る四天王(してんのう)と呼ばれる神様の一人で、北を守るとされる毘沙門天(びしゃもんてん)(別名を多聞天(たもんてん)、北方天と呼ばれます)をお祀(まつ)りした櫓であったため、多聞櫓と呼ばれるようになったとする説です。どちらにしても、近代になってから呼ばれるようになりました。

それでは、「多門櫓」とは、どんな櫓を呼ぶのでしょうか。江戸時代は、長くて中へ入るための門が多くある櫓のことでした。その長さの基準(きじゅん)は無く、平櫓(ひらやぐら)の細長いタイプと多門櫓の短いタイプとの区別は、はっきりしません。普通は、梁間(はりま)(建物の短い方のことです)が2間から3間(1間は約1.82m)で、桁行(けたゆき)(建物の長い方のことです)が非常に長い櫓のことでした。

人吉城、多門櫓
人吉(ひとよし)城多門櫓。平成5年(1993)に古写真を元に復元されました。2間×25間の規模(きぼ)で、下見板張(したみいたばり)の建物です。接続(せつぞく)する土塀は海鼠壁(なまこかべ)となっています

松山城、一の門南櫓
松山城一の門南櫓(重要文化財)。3間×2間の平櫓。出入口は東面の枡形(ますがた)側に設(もう)けられ、南と西の本丸広場及び本壇(ほんだん)入口側の2面には、石落し・格子窓(こうしまど)・狭間(さま)を備(そな)えています

多門櫓の発展

多門櫓は、松永久秀が築(きず)いた多聞城にあったと言われますが、現在確認(かくにん)することはできません。確実なのは、天正4年(1576)に織田信長(おだのぶなが)が築いた安土(あづち)(滋賀県近江八幡市)で見ることができます。伝本丸跡(あと)で行われた発掘調査(はっくつちょうさ)で、南正面に残る石塁(せきるい)の内側の低石垣(いしがき)の下沿(ぞ)いで礎石(そせき)建物の礎石列が検出(けんしゅつ)されました。これが多門櫓の内側で、石塁の下から外部に面する壁(かべ)を立ち上げていたことが判明(はんめい)しました。城外側は、石垣上に沿って壁が立ち上がっていたと思われます。これ以降(いこう)、石塁上に多門櫓が採用(さいよう)されるようになっていくことになります。

安土城、石塁跡
安土城伝本丸南正面の石塁跡。伝本丸の南側、本丸南虎口(こぐち)と西虎口の櫓の間の2間×15間(1間は6尺5寸)の間に、3棟の多門櫓が連続していたと考えられる石塁が残っています

慶長(けいちょう)期(1596~1615年)でも古い段階(だんかい)に建てられた多門櫓は、複数の平櫓などを連続して建て連ねていたようです。熊本城(熊本県熊本市)や姫路(ひめじ)(兵庫県姫路市)に、複数(ふくすう)(むね)が連続する多門櫓が残されています。

熊本城、多門櫓
熊本城東竹の丸東端(はし)の高石垣上には、南から田子櫓、七間櫓、十四間櫓、四間櫓、源之進(げんのしん)櫓と5棟の多門櫓が連続配置され、東からの攻撃(こうげき)に備えていました

姫路城、多門櫓
姫路城西の丸の通称「長局(ながつぼね)」。「ヨの渡櫓(わたりやぐら)」「ヌの櫓」「カの渡櫓」「化粧(けしょう)櫓」と折れ曲がりながら多門櫓が連続しています。石垣に付く扉(とびら)は外開きの潜(もぐ)り戸です

関ヶ原合戦後の、多くの城が一度に築かれた時期になると、枡形虎口(ますがたこぐち)がほぼ完成することになり、虎口の周囲は多門櫓で囲(かこ)い込(こ)まれました。天守などが建つ、中心となる場所の石垣の上にも採用され、広く大きな水堀(みずぼり)高石垣の上に築かれた多門櫓による、強くしっかりとした外部の攻撃から守るためのラインが完成したのです。

徳川家康に信任(しんにん)され、幕府(ばくふ)が各地の大名に命じて行わせた大規模な築城工事(公儀普請(こうぎぶしん)天下普請(てんかぶしん))の城の設計(せっけい)(縄張(なわばり)のことです)を一人で全部引き受けた藤堂高虎(とうどうたかとら)は、城の主要部を連続した多門櫓で取り囲む城を多く築くことになります。高虎の居城(きょじょう)であった今治(いまばり)(愛媛県今治市)や(つ)(三重県津市)は、完成域(いき)に達した枡形虎口と主要部の周囲を連続した多門櫓で囲み込んだ城だったのです。

高虎が手掛けた公儀普請の城である丹波篠山(たんばささやま)(兵庫県篠山市)や丹波亀山(たんばかめやま)(京都府亀岡市)も、同じように多門櫓で囲まれた構造(こうぞう)でした。幕府の都の拠点(きょてん)となった二条城(京都府京都市)、東海道の拠点名古屋城(愛知県名古屋市)、そして徳川大坂城(大阪府大阪市)では、本丸だけでなく大部分の城を囲むラインの上に多門櫓が採用されることになりました。名古屋城で使用された多門櫓の総延長は約1241m、徳川大坂城では約1719mもあったのです。

丹波篠山城
丹波篠山城は慶長14年(1609)、徳川家康の命により築城の名手・藤堂高虎が縄張をし、わずか6ヶ月で築かせた平山城です。天守は築かれませんでしたが、本丸・二の丸の周囲は多門櫓で囲い込まれる姿で、三の丸へ入る虎口の前面には、いずれも角馬出(かくうまだし)が配されています(作画:香川元太郎、監修:丹波篠山市教育委員会)

多門櫓の内部構造

多門櫓の内部は、通常(つうじょう)は長くて広い一つの細長い部屋になっていました。長すぎる場合は、強度の問題もあり、桁行2間から5間ごとに土の壁で完全に仕切ってしまうこともありました。そうすると、部屋が一列に連続することになるため、部屋同士(どうし)の行き来のために、壁に戸を設けたり仕切りの隅(すみ)の部分を通路として開けたりしていました。また、部屋ごとに直接外から出入りすることができる戸が設けられることもあったのです。長屋に仕切りを入れることで、中に置いておく物資(ぶっし)を仕分けることもできるようになったのです。

彦根城、天秤櫓
彦根(ひこね)城天秤(てんびん)櫓の内部。コの字形の多門櫓の内部は土の壁で仕切られる部分があり、部屋同士の往来のために1間は壁を造らず通路として開けてあります

姫路城西の丸多門櫓では、城外側に一間幅(はば)の廊下(ろうか)(入側(いりがわ))を設け、城内側に多くの小部屋を造(つく)っていました。廊下があることで、小部屋の中を自由に使うことができたのです。

姫路城、西の丸長局
姫路城西の丸長局の内部。堀側(城外側)に廊下(入側廊)を設け、連続する多門櫓の往来を可能(かのう)にしています。右側の仕切られているものが部屋になります

今日ならったお城の用語(※は再掲)

長屋(ながや)
一棟の建物を水平方向で分けて、それぞれ独立(どくりつ)した住まいとした建物で、それぞれの住まいに玄関(げんかん)が付いていました。

※平櫓(ひらやぐら)
一重の櫓。最も簡略(かんりゃく)な櫓で、平面規模も二重櫓より小さいのが普通(ふつう)です。倉庫的な役割(やくわり)が主な櫓になります。

※礎石建物(そせきたてもの)
建物の柱を支(ささ)える土台(基礎(きそ))として、石を用いた建物のことです。柱が直接地面と接していると湿気(しっけ)や食害などで腐食(ふしょく)や老朽化(ろうきゅうか)が早く進むため、それを防(ふせ)ぐために石の上に柱を置きました。初めは寺院建築(けんちく)に用いられ、城に利用されるようになったのは戦国時代の後期になってからのことです。

※枡形(ますがた)
門の内側や外側に、攻(せ)め寄(よ)せてくる敵(てき)が真っすぐ進めないようにするために設けた方形(四角形)の空いた場所のことです。近世の城では、手前に高麗(こうらい)門、奥に櫓門が造られるようになります。

※高石垣(たかいしがき)
高さが5mを越える石垣のことを言います。

※天下普請(てんかぶしん)
城を築かせるために、全国の大名に土木工事などを割(わ)り振(ふ)って手伝わせることを言います。「公儀普請」「手伝い普請」「割普請」ともいわれます。基本的に、現場で働く人足の手配から資材まですべて大名持ちでしたので、経済(けいざい)的に大きな負担(ふたん)でした。築城以外に河川(かせん)改修(かいしゅう)や街道整備(せいび)などの大規模な工事を命じられることもありました。

次回は「櫓⑦ 多門櫓 2」です

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加藤理文(かとうまさふみ)先生
加藤理文先生
公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
普段(ふだん)は、静岡県の中学校の社会科の教員をしています。

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