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イオ

金王八幡宮 (2022/06/24 訪問)

平安末期に河崎基家(または子の渋谷重家)が築いた城で、渋谷氏代々の居城でしたが、戦国前期に北条軍の侵攻を受け落城しました。渋谷川東部の台地の縁に築かれた丘城で、城跡には河崎基家が創建し渋谷氏の氏神となった金王八幡宮が現在まで続いています。

渋谷駅側から坂道を上って行くと、周囲より一段高いところに金王八幡宮があり、周囲の道路は水堀跡とも云われます。社殿の脇には渋谷城の石垣の一部とされる石(と説明板)があり、唯一の遺構とされています。その説明板によれば「数箇所に湧水がある」とのことですが、そういえばブラタモリの渋谷の回で、渋谷は三つの台地からなり、台地の縁に多くの湧水があることから縄文の昔から人が集まる場所だった…という内容だったのを思い出しました。台地と湧水の存在は城を築くにも最適の地ですよね。

金王八幡宮の名の由来とされる渋谷金王丸常光は、渋谷重家夫妻が渋谷城内の八幡宮に祈願して産まれ、源義朝に仕えて保元・平治の乱を戦い、義朝の菩提を弔うため出家して土佐坊昌俊と称したと伝わります。そのため境内には金王丸を祭神とする金王丸御影堂や、源頼朝が金王丸の忠節を偲んで鎌倉から移植させたとされる金王桜など、金王丸ゆかりの史跡が見られます。ただ、社伝では金王丸=土佐坊とされていますが、明確な史料の裏付けはないようです。
また、現在の金王八幡宮の社殿は江戸初期に春日局と青山忠俊が造営したもので、竹千代(後の徳川家光)が跡継ぎとなることを祈願し、叶えられたことから寄進したものとされます。

出張中の仕事で渋谷に来ていたので、昼休みにちょっと立ち寄ってみましたが、江戸城で手いっぱいでほとんど下調べしていなかったため、先人方の投稿にある宝物殿の渋谷城模型や算額を見落としてしまいました。天地明察も読んでいたのに……無念。あ、でも渋谷クロスタワーのテラスには行きました。尾崎豊世代ですので。あれからもう30年かぁ…。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:末森城 (2022/08/01 訪問)

以前、愛知県の末森城と間違えて攻城済としていましたが、今回は間違えずに石川県の末森城を攻城しました。
荒山城からの転戦です。この地点(36.831822、136.769981)を経由して小道へ入り、橋手前の駐車場(36.833271、136.7771082)に駐車しました。
そこから、緩やか遊歩道を600m程登ると若宮丸、北へ進み三の丸➡二の丸➡本丸と続いています。

築城年代は定かではないようですが、畠山義続の家臣で地頭職であった土肥親真によって築城されたとされますが、詳細は不明のようです。
1577年(天正5年)越後国より侵攻してきた上杉謙信に降伏し、斎藤朝信らが末森城に入ったとの記述があり、その後、そのまま親真が城主として配されたようです。
1580年(天正8年)加賀国の一向一揆を鎮圧した織田信長家臣の柴田勝家らが侵攻してくると、再び降伏しました。
前田利家が能登に入封となると、家臣奥村永福が城番となり、土肥但馬の一族が附属したようです。
1584年(天正12年)越中国の佐々成政は能登を急襲して末森城を囲みますが、前田利家軍数千の急援により、成政軍は撤退しました(末森城の戦い)。
この勝利が前田利家の能登・加賀統治の基礎となりましたが、1615年(慶長20年)の一国一城令により廃城となりました。

橋手前の駐車場から国道上に架けられた橋を渡って城山に入って行くと、「末森城合戦の碑」という大きな石碑があります。
緩やかな遊歩道を登って行くと、若宮丸があり、そこより北に登ると三の丸、二の丸、本丸と段々に高くなって曲輪があります。
若宮丸手前と、三の丸と二の丸間に堀切が確認できます。
末森山頂上の本丸跡の中央付近に案内看板があります。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=御舘館に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:荒山城 (2022/08/01 訪問)

森寺城からの転戦です。枡形山登り口駐車場(36.955896、136.941968)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、石動山天平寺によって築かれた砦が始まりとされ、一時阿尾城主の菊池入道の城となっていました。
1582年(天正10年)本能寺の変で織田信長が倒れると、越後の上杉氏を後ろ楯として畑山旧臣の温井氏、三宅氏や石動山天平寺の衆徒が立て籠もりますが、前田利家や佐久間盛政の軍勢が攻め落としました。
その後は佐々成政の軍勢が守っていましたが、1584年(天正12年)の末森城合戦で前田利家の軍勢が攻め落とし、翌1585年(天正13年)の佐々成政討伐でも使用されました。

現在は公園として整備されています。主郭は山頂にあり北へ向かって段曲輪があります。
時期的に草が生い茂っていたので堀切、竪堀、切岸など遺構がよく確認できませんでしたが、眺望は素晴らしいです。
城址内は階段が多く付けられています。主郭西側下にあった建造物を模擬櫓と言っていいものか。。。
ここも藪蚊が多く、夏の攻城は防虫ネットと手袋は必須です。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=末森城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:森寺城 (2022/08/01 訪問)

海老瀬城からの転戦です。見学者用駐車場(36.911789、136.959270)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、永正年間(1504年〜1521年)に能登国守護畠山氏によって築かれたと云われています。
元亀年間(1570年〜1573年)から天正年間(1573年〜1592年)はじめ頃の城主は長沢(長曾)光国と伝えられ、1577年(天正5年)には上杉謙信に属して能登国穴水城の守将となっていましたが、翌年討死しています。
1577年(天正5年)上杉謙信は有坂備中に湯山城を攻略させたが、このときの城主は湯山左衛門続甚という。
謙信はその後河田主膳を城主としたが、1579年(天正7年)長連龍によって攻められ落城しました。
佐々成政が越中に入部した後は、湯山城主として斎藤氏が城主でしたが、豊臣秀吉に降伏した後は前田利家の所領となり、廃城となったようです。

駐車場より南側の尾根を進むと尾根沿に3本の堀切があります。
堀切群を通り抜けると、腰曲輪状の地形の百間馬場に着き、そこを過ぎると二の丸に上がる虎口(石垣が積まれています)の所に出ます。
二ノ丸は広く、中央に巨大な井戸跡が残っており、南に切岸が確認できます。また、二の丸の東南側にある大手口の脇にも石垣が積まれていました。
本丸は二の丸の南端部一帯の丘陵上にあり、石垣(土塁状の構築物)が残っています。
駐車場より北側の尾根を進むと搦手口があるようですが、時間の都合で行っていません。
藪蚊が多く、夏の攻城は防虫ネットと手袋は必須です。(車の中まで入られました)
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=荒山城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:海老瀬城 (2022/08/01 訪問)

海老瀬城からの転戦です。離合用空スペース(36.891573、136.962762)に路駐し、登城口(36.890744、136.962795)に向かいました。

詳細は不明のようです。城主については長沢善慶、菊池武勝などが伝えられています。
海老瀬城は古く南北朝の頃から能越を往来する古道「義仲道」に隣接して築かれていました。

曲輪は北端の曲輪1から南に向かって曲輪2、曲輪3と並び、南から東側面を覆うように曲輪4、北から西を覆う曲輪5があります。
曲輪の高低差はあまりなく、横堀の幅も狭く浅いです。
虎口は5つ確認できました。登城口側から虎口5、小さな外枡形の虎口4、曲輪1の東側にある虎口3、馬出の曲輪IIIと木橋で繋がった虎口2、曲輪1の虎口の虎口1です。
撮った写真の8割はピンボケ写真でした。かろうじて投稿できる写真を投稿します。
藪蚊が多く、夏の攻城は防虫ネットと手袋は必須です。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=森寺城に向かいます。

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橋吉

上杉神社 (2022/08/10 訪問)

松が岬おまつり広場 駐車場にバイクも無料でとめられます。

往時の米沢城は、本丸・二の丸・三の丸からなる輪郭式縄張りの城でした。
現在は本丸跡が上杉神社となり、遺構はほとんど残されていません。
堀と土塁くらいでしょうか。

米沢観光コンベンション協会観光案内所
ここで続日本100名城スタンプを押しました。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ13日目:阿尾城 (2022/08/01 訪問)

宿泊先のホテルルートイン高岡駅前を朝4:00に出発して、阿尾城駐車場(36.880740、136.990420)に駐車しました。

築城年代は定かではなく、 天正年間(1573年〜1592年)の城主は菊池右衛門入道武勝・十六郎父子でした。菊池氏は肥後国の菊池氏の末葉だそうです。
上杉謙信没後、菊池氏は織田信長の家臣佐々成政に従っていたが、成政が前田利家と対立するようになると利家の勧誘を受けて前田氏に通じました。
これに対して成政の家臣で守山城主の神保氏張は阿尾城に攻め寄せたが、前田軍と菊池軍でこれを撃退しました。
菊池氏は10,000石を安堵され前田氏に従い、その末裔は1,500石で加賀藩に仕えたそうです。

山上に榊葉乎布神社や白峯神社が祀られいます。
本丸への道は立入禁止になっていました。
撮った写真はピンボケ写真が多く、かろうじて投稿できる写真を投稿します。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=海老瀬城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征を振り返って (2022/08/05 訪問)

今年の7/20~8/4まで「四国&京都&北陸&東海(名古屋市がメイン)」のお城を巡ってきました。
一番の目的は、スタンプ押印も含めた続100名城の完全制覇でした。15泊16日の遠征でしたが、無事目的は達成できました。

今回15泊16日の長期遠征できるのも定年退職したおじさんだからです。
今年は6月上旬にも(対馬&五島&北部九州)遠征しており、さすがに金銭面でイエローカードです。
その為、近場は行くかもしれませんが、今年の遠征はこれが最後になります。しばらくは、来年の遠征計画を立てます。
遠征分の投稿は全て終わっていませんが、現在、頑張って編集していますので、随時投稿します。
ちなみに16日間の攻城歩数=369,498歩(1日平均=23,094歩)、攻城歩行距離=258.59Km(1日平均=16.16Km)でした。

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にのまる

大天守大柱展示場で思ったこと (2022/06/10 訪問)

三の丸広場から天守群を仰ぎ見つつ入城口方面へ向かいますが、有料エリアにはまだ入らず、昭和の大修理の際に取り換えられた大天守大柱展示場を見に行きました。
小屋の中いっぱいに横たえられた旧西大柱は、地階床から6階床まで貫通していた往時の姿を十分に感じるスケールで、間近で見ると経年の重みと味わいがひしひしと伝わってきます。
補強や修理をされながら350年もの間大天守を支えてきた大柱。そこに打たれ、穿たれたほぞやほぞ穴を見ていると、大天守の命を守ってきた大勢の人たちがいたことを思います。築城者として名を残すことのなかった人たちが残したものは職人としての知恵と技術、そして誇り。目の前にあるノミ跡ひとつひとつに彼らの人生の歴史も刻まれているのだと思うととても感慨深かったです。

慶長4年の竣工以来、度重なる崩壊の危機と戦ってきた姫路城。修理の歴史を追うだけで天を仰ぎたくなるほどで、乗り越えてきた苦難の大きさは計り知れません。
現在、国宝天守群の勇壮な姿を拝めるのは、偶然や幸運によって決定的なダメージを免れられたからではなく、城を守り後世に伝えようと尽力された方々がおられたから。お城は貴重な遺物であると同時に過去からの素晴らしいギフトなのだと気づきました。


イオさんへ。
「とことん江戸城」大変興味深く、また楽しく拝読いたしました。毎朝の更新が楽しみで、終わってしまったのが寂しいです。
“そこまで行ったんかーい!”とか、
“すごいタイミングで写真撮ってる!”とか、
“そのポジションで見てみたい!”とか思うところがたくさんあり、その『とことんぶり』には脱帽&敬服です。知らなかったポイントも教えていただけました。感謝です。
最近もちょいちょい江戸城参城していますので、姫路城の投稿が終わりましたらまた改めて感想など書かせていただきたく思います。

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侍ホリタン

天空の城攻城 (2021/11/04 訪問)

徒歩で天守を目指される方は、山麓の高梁高校近くの登山道、もしくは雲海展望台近くの登山道からがオススメです。いずれも40分程度です。
雲海のシーズンは早朝から多くのカメラマンが雲海展望台に集まります。私が訪問した時は3時の時点で数人のカメラマンが陣取ってました。駐車場は雲海展望台入り口に5台ほど駐車出来ます。あとは車道に縦列駐車となりますが道幅は十分あります。周りには明かりがないので懐中電灯、ヘッドライトは必要です。トイレは雲海展望台入り口にあります。

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おっちゃん

八木城城跡図 (2018/03/04 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

八上城主郭部の縄張り (2020/05/30 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

麦島城跡縄張図(推定) (2017/11/04 訪問)

現地案内板より抜粋

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赤い城

旗岡八幡神社の一帯 (2022/08/14 訪問)

東急の荏原町駅からすぐ近く。
旗岡八幡神社と法蓮寺の辺りが跡地とされます。
遺構は残っていません。
住宅地になっていて近くの方々の散歩コースにもなっているようです。

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朝田 辰兵衛

雨で感動だだ下がり… (2020/07/12 訪問)

ここは「晴れてなんぼ」の観光スポットだと思います。周辺もじっくり散策したかったのですが,豪雨と重なったため断念しました。撮れ高ショボ…。

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カズサン

築城400年祭天守北面鉄板張再現 (2022/08/28 訪問)

 姫路城の特別公開を見学の後、築城400年祭で、昭和41年天守再建から56年振りのリニューアルオープン当日福山城へ登城しました、主の目的は天守閣北面の鉄板張の姿を是非観たいとの、三年前に訪ねて以来、先の大戦で空襲焼失した国宝天守閣の北面鉄板張往時の姿の再現を期待願望でした。
 13時過ぎの登城と成りましたが、イベント最中で大勢の人で賑わって居ました、福山城のHPでは各櫓の特別公開、天守閣の公開と報じられており、期待は胸いっぱい、しかし各櫓とも整理券、事前予約との事で入館できない、大変残念な事に。
 主目的の天守閣北面の鉄板張りの天守はバッチリ撮る事が出来ました、イベントテント、イベントの櫓、仮設足場も残って居り400年祭当日の雰囲気は充分感じ取れ大満足です。
 全体では約2時間半の滞在でした。
 先ずは天守閣の鉄板張北面、各種破風、白漆喰真白な天守閣を写真投稿します。
 
 続いて伏見櫓、筋鉄御門、鐘櫓には運よくグループに混じって見学する事が出来き、投稿致します。
 

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イタさん

城跡は舊城寺(旧城寺)、周囲は民家 (2022/08/30 訪問)

 説明板によれば、年代不明だが山田右京之進の居城と言われる。築城は上杉憲清と伝えられ、自然地形を利用し、本丸を最高部におき、二重に空堀をめぐらし、土塁を築き、大手口は喰違虎口になっていた。東側の堀は谷を利用していたとある。
 上杉憲清の子憲直が永享の乱(1438)に敗れ、その後の城主は不明だが、後北条氏の時代に小机城に対し出城の役目をしていたと載っている。慶長年間(1596-1614)に舊城寺(旧城寺)が開かれたと。寺林は、県指定天然記念物に指定されている。
 北側の道路左の斜面切れ目から舊城寺北側の一部が見え出す。門柱があり入れないが、入口で覗わせてもらうと、遺構かは不明だが斜面が数段になっているのが見える。西に回り込み、三保天神前公園を抜けた小道から境内に入れるが、境内との高低差が目立つ。
 簡易な縄張図に喰違虎口があり、山門辺りにでもあったのだろうか。山門を潜った右に横浜市指定、名木古木指定のカヤ、左にイチョウとカヤがあり、その背後がやや高く土塁跡を思わせる。本堂裏から左に一段高く、山田右京之進 城跡碑入口と弓道場がある。土塁?末端に碑が建っている。本堂裏の多くは墓地になり、少し平坦地が続くが竹林で先は急斜面となる。下を見れば遺構らしきものが見えるが、竹などが密生し北から北東側へは踏み込みを躊躇してしまう。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:二塚城 (2022/07/31 訪問)

木船城からの転戦です。城碑横(36.716505、137.014340)に路駐しました。

越中守護名越時有の居城で、越中守護所である放生津城の支城でした。
いろんな石碑が建っています。
攻城時間は5分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かいました。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:木船城 (2022/07/31 訪問)

道坪野城からの転戦です。木船城址公園駐車場(36.688659、136.914034)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、 石黒荘を本拠とした石黒氏が南北朝時代以前に進出して木舟城を築いて居城とし、木舟石黒氏となったと云われています。
本流福光石黒氏が1481年(文明13年)山田川で一向一揆との戦いで滅亡したのに対し、木舟石黒氏は戦国時代まで続き、石黒左近蔵人の時代には一大勢力を築いていました。
1574年(天正2年)上杉謙信に攻め落とされて臣従しましたが、1578年(天正6年)上杉謙信の死去を契機に成綱は上杉家を離反して織田信長方に付きました。
1580年(天正8年)、1581年(天正9年)と二度にわたって一向一揆勢の重要拠点で、当時上杉方だった越中国安養寺御坊(勝興寺)を焼き討ち、結果焼亡させていますが、その直後に勝興寺の訴えを聞いた上杉景勝配下の吉江宗信によって木舟城は攻め落とされました。
1581年(天正9年)成綱を始めとする石黒一門30人が信長に近江国佐和山城へと呼び出されますが、その意図が彼らの暗殺である事に気づいた一行は逃走を図るも、近江国長浜で丹羽長秀配下の兵に追いつかれて皆殺しに遭い、豪族としての石黒氏は滅亡しています(成綱の子は後に加賀藩に仕えています)。
1581年(天正9年)木舟城を手に入れた上杉氏は吉江宗信を城将として守らせていましたが、織田方の圧力に抗し切れず吉江宗信は木舟城から海路を使って退去しました。結果木舟城は織田方の手に落ち、佐々成政の支配下に入り、重臣佐々平左衛門が入りました。
1584年(天正12年)佐々軍1万5千名、能登国末森城攻略のため木舟城を出発するも撤退します(末森城の戦い)。
1585年(天正13年)木舟城主佐々平左衛門が越中国守山城主・神保氏張、越中国井波城主・前野勝長と共に、前田方の越中国今石動城を攻めますが、守将の前田秀継、利秀親子によって撃退されました(今石動合戦)。
1585年(天正13年)羽柴秀吉による越中平定で佐々成政が降伏すると、前田利家の弟前田秀継が入城したが、同年の大地震によって秀継夫妻は没し、子の利秀は翌1586年(天正14年)に今石動城に居城を移し廃城となりました。

水田の中の微高地(土塁?)に芝が植えられ、「木舟城跡」の石碑と標柱、説明板が建てられています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=二塚城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:道坪野城 (2022/07/31 訪問)

安楽寺城からの転戦です。国道471号農道入口付近(36.690063、136.827518)から進入して、溜池付近(36.686631、136.827724)に向かいました。

詳細は不明のようで、城主は影野左衛門、松岡新左衛門、三宅新左衛門など諸説あるそうです。

失敗しました。農道入口付近の道が広いから、溜池付近まで車で行けると判断して車で進入してしまいました。
駐車スペースも車を回転するスペースもなく、バックで戻りました。国道471号農道入口付近に路駐して徒歩で行くことをお薦めします。
上記状況で少しパニクリ登城せず撤退しました(入口の写真も撮り忘れています)。今、思えばどうせバックで戻るなら登城すればよかったと悔やんでいます。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=木船城に向かいます。

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