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響ちゃん

三ヶ郷城跡 群馬県みどり市東町花輪 (2021/10/24 訪問)

黒川八城(座間城・沢入城・草木城・神戸城・小中城・三ヶ郷城・五覧田城・神梅城)の一つで、花輪交差点から国道122号を草木ダム方面に100m程進んだ所の林道から徒歩で30分程で行けるぽい。
構造は南北に堀切、東西に虎口、北側に土塁を確認。
林道は途中分岐が幾つかあるけど、コンクリート舗装を辿って舗装が無くなった先の分岐を右側を選び暫く歩くと獣道になり、獣道をひたすら登っていくと南側の堀切に行けるっぽい。
国道沿いは路駐不可。
林道入った所も多少広そうな場所はあるけどお薦めはしないっぽい。
私は花輪地区運動広場(261 383 574*03)に車を停めさせてもらったぽい。

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カズサン

復元大書院と二の丸 (2012/06/11 訪問)

 平成24年6月三木城、柏原城を廻り篠山城を訪ねました、平成12年大書院が復元され兄夫婦と登城してから12年目の登城です、今回は大書院は外側からの観察、見学、12年経って復元書院も日に焼け経年変化して来ました、二の丸、天守台、三の丸と巡り沢山写真を撮りましたので先に高石垣の天守台で投稿しましたので、続きとして復元大書院、書院の在る二の丸を主として投稿させて頂きます。
 いつもながら素晴らしい城郭ですまた城下町も賑わい家並みの風情も有り名物のぼたん鍋は逸品です時々は堪能してます。

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小城小次郎

築土神社が九段下にあるのでややこしい (2021/08/09 訪問)

新宿区筑土八幡にある筑土八幡神社のある場所にあったらしいが九段下にも築土神社があるので実は筑土城は九段下にあるものと思い込んでいた。築土神社も筑土八幡神社に同居していた時代があってこんな名前になっているらしい。

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カズサン

高石垣の天守台と本丸 (2012/06/11 訪問)

 平成24年6月三木城、柏原陣屋を廻り何度と訪ねてる篠山城を訪ねました、大書院が復元された平成12年に兄夫婦と訪ねじっくりと大書院を観察、鑑賞しましたので今回は二の丸周りから大書院を眺め、二の丸、本丸、天守台と廻り、三の丸に降りて周囲と天守台の高石垣をじっくり眺め、内堀が発掘調査され復元作業が少しずつですが進んで居ります、今現在も進行中です。 
 写真を沢山撮りましたので惚れ惚れする高石垣天守台、本丸編で先ず投稿します。
 続きあり。

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POYO58

伊賀上野城といえば…! (2021/10/24 訪問)

伊賀上野城は最初は豊臣方の筒井定次によって築城されました。しかし今その後は、徳川方の藤堂高虎が改修しました。つまり、最初は東軍が敵だった城がなんと、後になって西軍が敵になっている城です。面白い!さらにこの城は日本一石垣が高い城なんです!とても美しかったです。また、ここは松尾芭蕉の生誕地でもあります。ぜひ行ってみてください。

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POYO58

明智光秀ゆかりの地。 武田信玄、勝頼と信長との激戦地! (2021/10/23 訪問)

土岐高山城は明智光秀の先祖である土岐氏の城です。この城では、武田と織田の戦いの激戦地として有名です。現在は整備された門と展望台があります。近くには、お地蔵があったり、霊園があります。ぜひ行ってみてください。

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いんげん丸虫

古城 長野県長野市戸隠 (2021/10/24 訪問)

古城(ふるじょう) 各地にある名です。結構良い城跡が多い気がします。
詳細は不明。長い尾根を数本の堀切で断ち切るという単純な縄張りです。
小さな石積の遺構や土橋も確認できます。
遺構の状態は良くお勧めです。雰囲気も良かったです。
道路から直ぐに行けます。通行も多くないので路駐可能です。

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POYO58

森蘭丸の生誕地、再築城を防いだ城!? (2021/10/23 訪問)

美濃金山城は森蘭丸の生誕地です。美濃金山城は森氏一族の城です。最終的には森氏が取り壊し、再築城を防いだことで有名です。
ちなみに森蘭丸は本能寺の変で信長と共に戦い戦死した人です。
どのように壊したかを見てみるととても面白かったですが、今回特に紹介したいのは石垣です。美濃金山城には何箇所か石垣が残されています。これは、他の者が築城する前に入れないように石垣だけが残されていました。明智光秀ゆかりの地ではありませんが、面白い城です。ぜひ行ってみてください。

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肉球

北根代官所・埼玉県深谷市 (2021/09/11 訪問)

信濃の高島城主日根野高吉の弟吉時の系譜が江戸時代旗本として存続。
領地である北根付近を管理するため築いた代官所です。
代官は名主宇野氏。門と母家が残り子孫の方がお住まいのようです。

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肉球

武家屋敷もあるんです (2021/10/14 訪問)

かつては諏訪湖に面した浮城と呼ばれていたようですが現在は街中に埋もれています。
初めて訪れたのは40数年前の小学生の時。
それ以来幾度となく眺めてきましたが
観光客に観せる物にあまり変化が見られないように感じます。
本丸土戸門から南へ100メートル程のところには1855年築の武家屋敷志賀家住宅が現存しています。
あまり修復はされていないようですが長屋門、母屋、土蔵があります。公開はされていません。
ここの長屋門も修復されずにトタンに覆われています。
立派な観光資源にもなると思いますので、なるべく早い保護活動がされることを願います。


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イオ

一日とことん彦根城(第一郭・未訪部分) (2021/10/03 訪問)

(続き)

出曲輪から引き返し、水手御門から井戸曲輪へ向かいます。昨年もこちらを通りましたが、やはり井戸曲輪の高石垣は見応えがありますね。井戸曲輪を出ると、今度は西の丸東辺の石垣がずっと先まで続いているのが見えます(立入禁止ですが)。そのまま黒門山道を下り、黒御門の前を素通りして北に進むと山崎曲輪に至ります。ここからは未訪の領域です。

黒御門の内堀沿い南側は腰巻石垣であるのに対して、北側は往時は松原内湖に面していたためか石垣になっていて、山崎曲輪の周囲ではなかなかの高さがあります。山崎曲輪の南西隅には山崎御門があり、西側の内堀に面していますが、かつては内堀に架かる橋で長橋口に続いていたようです。

山崎御門から南側の内堀沿いはまた腰巻石垣になり、大手御門まで続いています。しばらく行くと道の両側に石垣が見えてきて、米蔵跡の門かと思いきや、それだけでなく山側は西の丸北端の大堀切へと続く登り石垣でした。米蔵跡は現在では梅林となっていますが、往時は幕府の預り米を収める米蔵が建ち並んでいて、松原内湖から内堀まで船で搬入し、内堀に面した埋門状の水門を通じて運び込んでいたんだとか。

米蔵跡の南からは、大手山道が天秤櫓側の大堀切に続いていて、登って行くと天秤櫓からの攻撃で何度も討死しそうな気分になります。券売所を出ると、大手御門の石垣と鐘の丸に続く登り石垣がそびえ立っています。さすが大手門。重厚な造りです。

本城部にあたる第一郭はこれでひとめぐり。大手門橋から内堀を渡って、第二郭に向かいます(続く)。
 

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todo94

古代山城 (2021/10/04 訪問)

高松城で城カードをゲットした後、徒歩で琴電屋島駅に向かってアプローチ。琴電屋島駅からコミュニティバスで屋島に赴きました。運賃100円ですので山上の駐車料金より安いかと思います。復元された城門を初めて拝むことが出来て満足です。展望スポットを順次回って城門の石垣を遠望することも出来ました。平日と云うことで観光案内所が閉まっており、リーフレットを戴けなかったのが残念でした。帰路は屋島寺から徒歩で下山し、献血ルームオリーブへと向かいました。

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じゅんじん

大雨復旧中 (2021/10/03 訪問)

コロナ封鎖もあけ久々に訪問。大雨の影響で崩落した箇所があり復旧工事中でした。整備も大変だあ。

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じゅんじん

整備が進む (2018/12/30 訪問)

県下最大級の山城です。3年前ですが以前に比べかなり整備が進んでいました。ありがとうございます。

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赤い城

猿ヶ京城 群馬県みなかみ町 (2021/10/10 訪問)

名胡桃城で「みなかみ町山城マップ」というパンフレットを手に取り予定を変更し登城。
城跡には猿ヶ京温泉のホテル湖城閣が建っています。
ホテルの駐車場に車を停め、ホテルの入口に進むと両サイドに堀切がありました。
土塁も残っています。
いつものように堀に降り、赤谷湖の方に進むと折れも良く見ることができました。
猿ヶ京の地名は上杉謙信が名付けたとされています。
ここで宴を開いた際に夢を見たと。
食事をしようとしたら歯が八本抜け、家臣から関八州を手にするという縁起の良い夢ではないかと励まされたそうです。
この日も申の年で申の日、謙信も申年生まれで申が三つ揃ったことによるそうです(パンフレットより)。
ちなみにこの温泉ホテル、混浴だそうです。

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カズサン

織田信包柏原陣屋 (2012/06/11 訪問)

 平成24年6月三木城を終えて柏原陣屋へ、前回は知識も無く太鼓櫓を見て無かったので綺麗に成った長屋門、御殿車寄せを是非観覧探訪と車を走らせました。
 車は前回も世話になった柏原自治会館前の無料駐車場を利用、そこから大手通りの突き当りに陣屋が在ります。

 慶長3年(1598年)織田信長の弟織田信包が3万6千石で入り4代続き嗣子なく廃絶、途中天領に成り元禄8年(1695年)大和松山藩織田信雄の流れ織田信休が2万石で転封以後明治まで継承される。

 長屋門、御殿も一部残っている、遺失部分は地表に平面表示で遺構を表してる、大手道西に約300、400mの所、太鼓櫓が大歳神社に移築され残ってる。
 前回の登城時より長屋門、土塀、御殿、表面表示、通りが綺麗に整備されて居ました、大切に守っていきたい文化財です。
 通り、城下町の家並みは古き良き風情を残してる。

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カズサン

三木城は肥後守の産地 (2012/06/11 訪問)

 最近の登城投稿も一段落し過去ものですが平成24年6月の三木城初登城を投稿致します。
 車で廻り駐車場は三木城の西の丸に当たる図書館前の無料駐車場(現在はみき歴史資料館)を利用。
 
 直ぐにに本丸に在る三木城主別所長治騎馬像が目を引きます、少し高まった天守台跡、三木合戦絵図のパネル展示がまた目を引きます、本丸、西の丸を見て北西面の崖に模擬土塀が造られて居り美囊川方面に降り土塀撮影、三木城を降りて雲龍寺を参拝し別所長治夫妻の墓を拝む。
 別所氏の離反で上月城の尼子勝久、山中鹿之助が命を落とす事に成り、三木城の兵糧攻め、落城後の鳥取城の兵糧攻めに歴史は刻まれていきます。
 
 美囊川沿いの三木市観光協会に寄り資料と物産を品定め、そこで懐かしい肥後守を見つける秀吉が別所氏を滅ぼし三木城は秀吉弟秀長が治める所と成り、鍛冶職人を堺から引き鍛冶産業を発展させたと(売店の人の話)そこで小学生時代に世話になった鉛筆削り小刀肥後守に久しぶりに対面、小刀肥後守が三木市の産物と初めて知りました、懐かしさのあまりキーホルダーの肥後守を購入よく切れます。

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いんげん丸虫

大築城 長野県長野市戸隠 (2021/10/24 訪問)

荒倉キャンプ場の西の山頂にあります。舗装された林道から30分位登ります。
主郭には巨岩が点在しています。土塁のように利用してたのかな。
20年前に書かれた縄張り図に照らすと北の堀切等は分かりにくくなってますね。

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新ろくべえ

衣笠城に行ってきました (2021/10/24 訪問)

[注意]
この城では蜂がいました。気を付けてください。
(その為城の主郭には行っておりません。
ご了承願います。)
衣笠城に行ってきました‼
この城は平安時代後期~鎌倉時代前期にかけて使われていた城です。
川と川に挟まれ、東に出た半島状の丘陵一帯が城で、まさに天然の要塞です。
源頼義(源頼朝の先祖)に従っていて前九年合戦の役に出陣した、
村岡平太夫為道が戦功によって三浦の地を与えられ、所領となった三浦の地の、
中心にあり、要害堅固のこの地に、両川を自然の堀とし、康平年間(1058~1064)に
築城されたといわれています
その後は為継、義継、義明の四代にわたり三浦の中心地であった
そして1180年に源頼朝の旗揚げによりこの城に平家側の大軍を迎えての攻防戦は、
衣笠合戦と言われている。
丘陵の一番裾が衣笠城の大手門で、緩やかな坂を登り、滝不動に達します。
そして居館は水の便のよい下の写真の一番の付近で、あると言われています。
そして一段上には不動堂と大善寺城があったと伝わり、さらにその裏山には、
衣笠城最後の拠点の詰の城で、金峯山蔵王大権現を祀った社があったといわれている。
その最後の拠点の、最も高いところが物見櫓と呼ばれるところに、
大岩がありその西が急峻な谷になっている
要害の地形を利用し一部に堀や土塁が残っている。
〔城情報〕
・築城年   1058~1064(康平年間)
・種類    山城
・築城者   村岡平太夫為道
・主な城主  村岡氏
・主な遺構  堀、土塁
・看板、石碑 あり

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小城小次郎

お城の適地だったとは思う (2021/08/09 訪問)

源頼朝が陣を敷いた伝承を残す場所に豊島氏一族の滝野川氏が居館を構えたが、太田道灌の豊島氏討滅によって館もろとも歴史の闇に消えた。遺構も何もないが蛇行する旧石神井川がお城の適地だったことを示しているように思う。

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