たかとみじんや

高富陣屋

岐阜県山県市


旧国名 : 美濃

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しんちゃん

小藩の抱える黒歴史。陣屋跡の碑は黙して語らず。 (2021/12/26 訪問)

高富陣屋は高富藩の藩庁が置かれたところです。
徳川綱吉の母、桂昌院の異母兄、本庄道章が初代藩主を務めました。
一万石あれば、それなりに格式の高い生活ができるので
桂昌院様様と思いきや、
京の公家衆との付き合いも多く、小藩に見合わない出費が続いたため
8代・道昌のころから財政が行き詰まりはじめ、9代・道貫はあの手この手を使って
増収を図りましたがうまくいかず、10代・道美のころになると財政は完全に破綻
幕末の慶応4年(1868)には20万7400両の借金をかかえ、藩内で打ち壊し、百姓一揆が
おきるという惨状でしたが、取り潰しを受けることなく明治維新を迎え
高富県は岐阜県に編入されました。
そんな黒歴史をかかえる高富陣屋ですが、今では美里会館の駐車場に陣屋跡の碑を
残すのみです。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)9日目:高富陣屋 (2023/04/26 訪問)

篠脇城からの転戦です。美里会館入口(35.496117、136.788942)から進入して駐車しました。

1806年(文化3年)本庄道昌によって築かれました。
本庄氏は1648年(慶安元年)本庄道芳が五代将軍徳川綱吉に仕えて旗本となったことに始まります。
道芳は綱吉の生母桂昌院の異母兄にあたる人物であったことから大身の旗本となったようです。
道芳の孫の本庄道章は1705年(宝永2年)美濃国山県郡と方県郡などに6,000石の加増を受け、10,000石となって諸候に列しました。
道章は当初、岩瀧陣屋を構えていたましが、1709年(宝永6年)には高冨村石畑に陣屋を移し、1806年(文化3年)道昌の時に高冨村天王の高冨陣屋に移ったそうです。

高富陣屋は高冨小学校の北にある美里会館付近に築かれていたそうです。
現在、遺構はなく美里会館に「陣屋の跡」の石碑が建っているのみです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=鷺山城に向かいます。

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ぴーかる

高富陣屋 (2022/04/03 訪問)

【高富陣屋】
<駐車場他>美里会館駐車場
<交通手段>車

<感想>1泊2日郡上の旅7城目。5代将軍徳川綱吉の生母桂昌院の異母兄、本庄道芳の孫、本庄道章が縁故で旗本に取り立てられて1705年に1万石の大名として高富に入ったことから高富藩が立藩した。高富陣屋は1806年、8代藩主の本庄道昌の時に岩滝陣屋から移転しここに陣屋を築いた。現在遺構は残っておらず、美里会館駐車場に陣屋跡碑が残るのみです。
 降雨のため今回の旅は他の攻城を取りやめここにて終了にした。時間が余ったので帰路は下道で大阪に戻った。走行距離540㎞無事走破。

<満足度>◆◇◇

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じゅんじん

美里会館 (2022/01/02 訪問)

美里会館が陣屋跡になります。石碑がありました。

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城郭情報

分類・構造 陣屋
天守構造 なし
築城主 本庄道昌
築城年 文化3年(1806)
主な城主 本庄氏
遺構 消滅
再建造物 石碑(陣屋の跡)
住所 岐阜県山県市高富1287