みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

カズサン

尼ヶ淵から眺める城塁と南櫓・西櫓は感動❣ (2009/05/23 訪問)

 復元整備で甦った松代城を建物、土塁、石垣、年代物石垣、真田邸、旧文武学校、武家屋敷、城下町を充分に堪能して、南東直線に約20km上田城を目指し、よく整備された尼ヶ淵専用駐車場に駐める。
 着いた駐車場からもうドキドキの興奮状態、尼ヶ淵の絶壁、城塁、石垣、石垣台に建つ南櫓と西櫓、ここだけで十分な城郭景観です、初登城は10代の終わり頃、登城した13年前の平成21年5月下旬で40数年は経ていました。

 尼ヶ淵駐車場で十分観察眺望して旧電車道の堀底道から二の丸橋を渡り二の丸へ博物館も見学し、復元成った本丸東虎口櫓門、真田石も眺め櫓門に入る、南櫓、北櫓も同じく、本丸、本丸土塁、西櫓、本丸西虎口、二の丸西から北へ復元された北虎口石垣を眺め、有名な石樋、百間掘跡のグランドを眺めて戻る、約1時間半探訪。
 
 泊りは戸倉上山田温泉旅館、朝浜松を6時出発でしたので温泉にゆっくり浸かり美味しい地酒と料理を堪能、旅館の方にスナックを紹介してもらい歌も2時間程披露。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

おっちゃん

正保城絵図・二之丸居所之図 (2018/05/26 訪問)

現地案内板より抜粋。

+ 続きを読む

おっちゃん

水戸城郭図 (2013/07/14 訪問)

現地案内板より抜粋。

+ 続きを読む

POYO58

菅沼氏の居城 (2022/05/22 訪問)

1470年菅沼定信が築城、田峰菅沼5代目の菅沼定忠が長篠合戦で武田勝頼に味方し、兵を挙げたが、会えなく敗退。その後知らせてを聞いた菅沼定直(定忠の叔父)が謀反を持ちかけ、田峰城への入城をすることができず、勝頼とともに武節城へ逃れ、1576年、田峰城に夜襲をかけ、一族96人を殺害。その後は徳川家康に属し、城主は定利が務めた。

複数の曲輪が置かれ、梯郭式城郭みなっています。遺構は大手門跡にある空堀と土塁のみ。本丸には復元された御殿と物見台があります。御殿は入ることができますが、有料です。また、大手門跡の所には馬防柵らしきものも復元されています。復元されたのは大手門、御殿、物見台の他、厩も復元されています。遺構が少ししかないのは残念ですが、建物の復元により、戦国時代の様子が想像しやすくていいです。御城印は御殿に売っていますが、道の駅のしたらにも売ってます。少し前までは御城印のガチャがあったのですが、今は無くなっています。また僕は行っていませんが、この城びとでは未登録である、津具城、寺脇城など、遺構が残る貴重な城も周辺に存在します。(ただ少し遠いです)そこも是非行ってみては?

評価
遺構:2
建物:3
行きやすさ:2
全体:2

攻城時間
30分くらい

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

おっちゃん

鹿背山城跡配置図 (2017/02/26 訪問)

現地案内板より抜粋。

+ 続きを読む

宗春

若狭・越前攻略戦①玄蕃尾城 (2022/05/05 訪問)

ゴールデンウィークに友人と福井県のお城を訪問しました。
いきなり初戦が玄蕃尾城だったため、普段の運動不足と相まって、かなりしんどい城攻めでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ヒロケン

国宝 二の丸御殿 (2022/05/07 訪問)

徳川家康公が京都滞在中の宿所として二条城の築城に着手したのは1601年ですが、現存する二の丸御殿の建築物はその23年後に改修されたものが現存しています。「にのまるさん」の言葉を引用すれば、やんごとなきお方「後水尾天皇」の二条城行幸(天皇のお出かけ)に備えて1624年から二の丸御殿の大改修が始まり、2年後の1626年に完成しています。御殿内の障壁画についても寛永期の作であることが分かっているそうです。

二条城へは3度目の訪問ですが、9年前の2013年1月27日に訪問した際は、二の丸御殿内撮影禁止(>_<)は知っていましたが、あまりの荘厳さに、つい夢中になり過ぎてパシャパシャと撮影してしまい、スッタフの方に注意されたのを覚えています。大勢の方の前で、撮影禁止(No photo)の看板を目の前に出され「やめて下さい」と言われ我に返りました(>_<)とても恥ずかしい思い出です。
今回は、前回の失敗を踏まえカメラをバックにしまってから見学させて頂きました。皆様もお気を付けくださいませ。

二条城は国宝 二の丸御殿があまりにも有名ですが、城としての備えも充実しており、特にPOYO58さんの言う通り、石垣群が特に素晴らしいと感じています。天守台の大きさ・高さには目を見張るものがあります。その天守台から見る内堀もまた見事で見応えがあります。残念だったのが、本丸御殿が修理中で外観を見ることも、拝観することもできませんでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

長尾晴景の子 (2022/05/21 訪問)

 福井県竜門寺城を後にして、府中城に向かって歩いていると法栄山蓮尚寺という寺がありました。その案内板に「上杉謙信の兄長尾晴景は失脚し、その子昌景は越後を逃れ朝倉家に仕えた、、」という記述がありました。その子孫がこの寺を再興したとのことですが、長尾晴景に子供がいたというのは初耳で驚きました。上杉謙信関連の書物にも見た記憶がありません。時間があるときに調べてみたい気がします。

+ 続きを読む

チェブ

おじいさんの見解。 (2022/05/04 訪問)

西町児童公園に大きな石柱が立っている「知立城」です。

知立神社の神主でもある永見氏により築かれました。
今川 義元さんが桶狭間で討たれると、今川軍は敗走します。追ってきた織田軍により「知立城」は落城しました。
その後「刈谷城」の水野 忠重さんが、将軍の休憩・宿泊する為の御殿にリフォーム。
1699年の地震で倒壊しました。
と、ざっくりな説明なんですが、、、。

「知立城」である公園入口に車を路駐して、写真だけ写して移動しようとしました。
石碑や説明板はありますが、遺構は宅地化の為、消滅したようなので長居は無用だと思ったのですが、、、。
地元のおじいさんが説明板を見てる時、『今川 義元は沓掛からではなく、知立から出陣した』『時間と距離からして、知立城から桶狭間に向かった』と話しかけてきました。
と、このての話 大好物なので長居してしまいました。
帰って来て調べても、「沓掛城」の前日には「知立城」に本陣を置いた位しか解りません。
今後、この『沓掛城からではなく知立城から、桶狭間に向かった』説が通説になったら、知っていた。と、自慢しようと思います( ´∀`)

東海道の池鯉鮒宿がこの辺りです。
交通の要所だったようなので、今川 義元さん以外、メジャーな武将たちも、この地を通って行ったのではないでしょうか?

なんでもない児童公園が、桶狭間の合戦前の、勝利を信じる今川軍 が賑やかに軍義している様子、伝わってきます。

+ 続きを読む

higekam

歴史を動かした合戦の場 (2022/05/17 訪問)

千早城へ登城というより千早神社へ参拝したといった方が正しいかもしれない。
ただ、鎌倉幕府軍10万に対し約100日城を守り抜いた急峻な地形は当時のままに違いない。
また、神社本殿の裏山(神域につき立入禁止)を下から見上げると当時の山城を感じた。本殿の右手一段下にある金剛山登山道を回り込むように進むと休憩所があって、そのあたりの登山道から見ることができる風景だ。

+ 続きを読む

越前市市役所 (2022/05/21 訪問)

 越前市市役所前に石垣が積みなおされていました。正覚寺に移築門があります。

+ 続きを読む

不破光治 (2022/05/21 訪問)

 府中三人衆のひとり、不破光治の城です。龍門寺の山門前に石碑と案内板があります。
南部の墓地が堀跡だとありましたが、写真は撮りましたが墓石がたくさん写っていましたので投稿はしていません。龍門寺の案内板には土塁が残っていると書かれていました。どこにあるのかわかりませんでした。近くにある卍が辻も関連の施設であった可能性があることが書かれていました。

+ 続きを読む

立ち入り禁止? (2022/05/21 訪問)

 入口に立ち入り禁止のロープが張られていました。分別ある大人になってしまったため強行突破はしていません。
本丸虎口の石垣を見たかったのに残念です。周囲の土塁と空堀の写真を撮って退却しました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

間部詮言 (2022/05/21 訪問)

 JR鯖江駅より徒歩で散策しました。
御用屋敷門が万慶寺裏門として、松阜神社境内に受福堂御門が移築されています。また家老植田家の長屋門も残っています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

五位山 (2022/05/21 訪問)

 朝倉氏の初代敏景の六男景儀の子、景冬が築いたとされています。正寿寺付近が館跡で五位山に詰の城があったと伝わっています。五位山に行きたかったのですが、登城路がわからず、空も泣き出しそうでしたの断念しました。
 JR福井駅前よりバスに乗り三留東バス停で下車。徒歩3分くらいで案内板に行くことができます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

キンヤ

福住中定城 (2022/05/15 訪問)

この地域の有力な豪族の福住氏の居城です。
福住氏は筒井氏に従い姻戚関係にあり、城の改修には筒井氏が関わった可能性があるようです。

南東側の大手は、下から主郭に至るまでのルートは土塁で仕切られ何度か折れがあり横矢が効いてます。
主郭の南から西側を囲む長大な横堀が見事です。
主郭北側背後の折れのある大きな堀切が見応えありました。

コンパクトな城ですが、しっかりと造られ、なかなかテクニカルでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ヒロケン

恩賜元離宮二条城 (2022/05/07 訪問)

二条城はかつての平安京の内内裏であった南東端と神泉苑・冷泉院にまたがる地にあり、東西500m・南北400mにも及ぶ、輪郭式城郭です。二条城と呼ばれる城は4つあり、一つは室町幕府13代将軍義輝の居城。二つめ・三つめは、織田信長公が15代将軍義昭公の居城として建てた城と、信長公が京に滞在中の宿所として建てた城。4つめは徳川家康公が京に滞在中の宿所として建てた城の4つですが、現存している二条城は4つめの徳川家康公が建てた城です。
関ヶ原の合戦で勝利を収めた徳川家康公は、西国の諸大名に命じ築城。1611年に徳川家康公と豊臣秀頼公が会見した場所。約255年後には、徳川幕府15代将軍徳川慶喜公が「大政奉還」を行った城というのは余にも有名な話です。

現在の二条城は恩賜元離宮二条城として一般公開され、世界文化遺産に登録されています。二の丸御殿が国宝に指定・重要文化財が多数あり、世界中から観光客が押し寄せる見所満載の城跡です。

二条城には3回目(小学校の修学旅行を含める(;^ω^))の訪問で5日金沢から帰宅。6日から1泊の京都旅行に出発。今回の京都は、城巡りではなく神社仏閣を巡る旅でしたが、南禅寺・平安神宮・八坂神社・清水寺・建仁寺等々を巡ったが、やっぱり城に行こうと思い立ち、二条城へ。神社仏閣も心に残る素晴らしいもので、京都の素晴らしさを改めて感じた時間でした。
ちなみに、二条城二の丸御殿拝観料1030円・二条城駐車場3時間で1200円・宿泊先のホテルには駐車場は無く、一般の駐車場3200円京都は駐車場代と拝観料が高いと改めて感じた旅行でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ヒロケン

【城と生き物】 (2022/05/07 訪問)

内堀の鯉。ちょっと怖い(; ・`д・´)

+ 続きを読む

赤い城

小田原を見下ろす (2022/05/08 訪問)

続100名城で秀吉が築いた一夜城として有名。
さすがに一夜では無理にしても短期間で当時の関東では見られない圧倒的な石垣の城を造るとは凄いです。
早川駅からみかん畑の中の急坂を登り約40分。
トイレの前に設置されているスタンプを押し、まずは南曲輪の石垣。
野面積みの豪快な石垣です。
さらに西曲輪から主郭裏手の石垣を見学。
二の丸に出ます。
二の丸の先には井戸曲輪、見どころの一つです。
淀化粧の井戸とも云われています。
主郭からは小田原の市街相模湾を見渡すことができます。
天下を取った気分にもなれますね。
本丸の虎口は枡形に、そこから二の丸に戻りました。
二の丸東側の馬屋曲輪にも石垣があり、入口に戻りました。
隣にはヨロイヅカファームがあり、こちらも賑わってました。
スイーツには惹かれないので下山し、鈴廣の蒲鉾をお土産にしました。
小田原は見どころも多く、海鮮も美味しい。
また来ます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

橋吉

交代寄合 (2022/05/17 訪問)

江戸時代の身分制度は複雑であり、なかには例外的なものや特殊なものもいろいろ存在していました。
殿様の世界も同様で、ピンからキリまであったようです。

美濃国石津郡・多良郡を治めていた西高木家(2,300石),東高木家(1,000石),北高木家(1,000石)の三家は「美濃衆」とよばれ、旗本であったが大名的に扱われ、公儀の役務を負い参勤交代も行っていたので、交代寄合と呼ばれていました。
三家とも少禄のため城は持てず、陣屋が置かれていました。

このあたりは、鈴鹿山脈と養老山地に挟まれた山間の小さな盆地で、北は関ヶ原に続きます。

【西高木家陣屋】
西高木家陣屋跡には、上石津郷土資料館が置かれています。
入館料100円の郷土資料館となると、高校の郷土研究部の発表程度の展示に農家の納屋で埃をかぶっていた農機具や調度品が置いてあるぐらいで、あまり期待はできないものですが、ここは違いました。
郷土の歴史や自然に対しかなり詳しく展示されておりましたし、企画展も興味深いものでした。

関ヶ原の合戦の際に島津隊はこの地を通って退却したそうで、これもウリにしているようでした。

1852(嘉永5)年、建造の下屋敷御門を移築しています。
この奥には明治年間建造の主屋がありましたが、公開されていませんでした。

陣屋入口は石垣に囲まれています。
高さはたいしたことないものの、曲線を帯びて積まれています。

【東高木家陣屋】
西高木家陣屋の東に、東高木家の陣屋がありましたが、現在は、土蔵が残されているのみです。

【北高木家陣屋】
陣屋跡地の中央に伊勢街道の新道が通っており、遺構は何も見当たりませんでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ802