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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:鴨城 (2022/07/31 訪問)

赤丸城からの転戦です。鴨城址周辺案内図付近(36.725465、136.919879)に到着した時、雨雲が立ち込め、雷が鳴りはじめました。
山城攻城は難しいと判断し、鳥倉集会所の登城口付近で登城を断念しました。

1363年(貞治2年)頃に築城されたようです。当時鴨城には室町幕府方の軍勢が一時駐屯していたことがうかがわれるそうです。
1491年(延徳3年)「カモ山のフタツ城」との記録が在るようです。廃城年代は不明のようですが、戦国期以降に使用された形跡はないようです。

攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=安楽寺城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:赤丸城 (2022/07/31 訪問)

浅井城からの転戦です。八幡宮入口付近(36.739695、136.926212)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、城主は五位庄一帯に勢力があった国人領主中山氏で、天正年間(1573年~1592年)頃は中山国松が城主でした。
天正年間前半、上杉謙信に攻められました。1581年(天正9年)中山氏が佐々成政の支配下に入ります。
1584年(天正12年)頃、前田利家に対する防衛拠点の一つとして改修が施されたようで、虎口などにその痕跡が見られるそうです。また成政による前田方の能登末森城攻めに参加しました。
1585年(天正13年)富山の役によって佐々成政は豊臣秀吉に降伏して越中国新川郡に追われ、佐々成政に与した中山氏は赤丸城から退去し越前の敦賀に移り住んだそうです。
廃城年代は不明のようですが、この時点で赤丸城の存在意義が失われ、間もなく廃城となったそうです。
以前は赤丸城が本城とされ、北東にある浅井城はその出城であるとされていましたが、近年の調査によって浅井城こそが本城であり、赤丸城はその出城であった事が判明したそうです。

八幡宮入口に入口標識が建てられ、拝殿左横に登り口があり登山道が整備されています。
登山道を登って行くと鉄塔の所に出ます。そこを越えていくと主郭手前に大堀切が確認できます。
主郭は山頂東端部で、そこから西に下った空堀に「殿様池」と呼ばれる素掘りの井戸があります。
案内板によれば、これは昭和のはじめに地元で掘りおこされたもので、そのときに木製の滑車や井戸枠のようなものが出土しているようです。
この山頂部の曲輪群から伸びた各尾根に堀切が確認できます。
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=鴨城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:浅井城 (2022/07/31 訪問)

惣領砦からの転戦です。
予定時間を60分遅れで到着した為、観光用トイレ前林道入口付近(36.742049、136.933315)で引き返しました。

延元年間(1336~40年)石黒光景によって築かれたようです。
1341年(興国2年)には南朝方であった光景によって宗良親王が浅井城に奉迎されているようです。
勝興寺の坊官・下間氏(しもつまし)が神保長職との戦いで一時的に拠っていたとされます。
天正年間(1573~92年)五位庄の領主であった中山治部左衛門国松が拠り、弟の次郎兵衛を赤丸城に配置したが、その後、上杉謙信によって攻められたそうです。
1581年(天正9年)中山氏が佐々成政の配下となります。
1585年(天正13年)富山の役によって佐々成政は豊臣秀吉に降伏して越中国新川郡に追われ、佐々成政に与した中山国松は浅井城を退去し、その後、間もなく廃城になったようです。

清水山から南東に延びる尾根先端に位置するようです。
時間の都合で登城しませんでしたが、林道終点まで行けばよかったと悔やんでいます。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=赤丸城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:惣領砦 (2022/07/31 訪問)

飯久保城からの転戦です。
ナビが示した道(氷見南IC付近から進入)にはコンクリート塊にポールがついたものでガードしてあり進入できず、しかも誤って国道160号(高速?)に乗ってしまい、氷見ICまで行って戻ってしまいました。
ふたたび戻ってきて、現地付近より北側から駐車場に行けることがわかり向かいました。30分以上ロスしました。
駐車場入口(36.807812、136.945433)から進入して、90mくらい先の駐車場に駐車しました。

戦国時代に築かれ、氷見南部地域の在地領主狩野氏の出城と考えられています。
狩野氏は1560年(永禄3年)頃には越中守護代の神保長職に属していましたが、神保氏の勢力が衰えた天正はじめ(1573年~)頃からは上杉氏に属したようです。
1578年(天正6年)上杉謙信没後には、いち早く織田方に通じました。飯久保城の詰城として、家臣の大前左近と奥野主馬が在城したそうです。
狩野氏は1585年(天正13年)富山の役で佐々成政の降伏後、飯久保城を離れたと推測され、惣領砦はこの頃廃城となったようです。

時間ロスを取り戻す為、遊歩道入口で引き返しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=浅井城に向かいます。

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カズサン

姫路城特別公開拝観して来ました (2022/08/28 訪問)

 ヒロケンさんの投稿に触発されて、武漢コロナウイルス新株感染拡大中ながら心配でしたが、娘夫婦孫を連れて帰省して呉れ孫とのお遊びも済、8月末前後行事の空き及び週間天気の晴日が28日でしたので新幹線を乗り継いで出掛けました、当日は福山城の築城400年祭イベント日ですので福山城へも出向きました。

 浜松始発6時32分に乗るために4時起きまだ暗い、夏休み最終日曜日でしたが、こだま乗り継いだひかりともガラ空き、9時の姫路城開城前に着くも大勢の人が来城されてます。

 天守閣に登るのは平成の大修理工事中に二度見学所から観て以来、1000円の入場料を払い先ずは天守閣を目指す、最近は天守に登らず周囲から白亜の天守群を眺めてるだけなのですが、特別公開の拝観は天守閣階上階まで登らないと入れない、昔からの急階段は一歩一歩手すりを持って、辛い行脚の様なもの、その先に光が! 天守閣は登り階段と下り階段が付き流れはスムーズ、下り切って東小天守入口に、今回の特別公開の受付、500円を払い進と階段前に人数調整の為か東小天守に入った方が降りるまで順番待ち、乾小天守も同じように人数調整。
 
 今回の特別公開は過去一回あったきりで二回目との事、後には公開あるかわからない?、冥途の土産に成るのかな? 公開場所は東小天守、乾小天守、イの渡櫓、ロの渡櫓、ハの渡櫓に成って居り過去には見てない処です。姫路城の写真集などでは見て居りましたし、最近はTVでお城の博士ちゃんが特別に拝観した映像が流れて居り、脳裏に焼き付けて居た処です。
 
 乾小天守の最上階は窓が全開で連子格子も無く撮影は良好、ただ近すぎて大天守閣を全姿撮るのが至難、近くで見る大天守、小天守の東、西、乾と渡櫓のイ、ロ、ハと中庭を写真集ではなく本物を見た事は最高の感激です、また説明の方がロの渡櫓の敷板は築城当時手斧の痕が残ってると説明、投稿写真に入れえおきます。

 今回の滞在は3時間半2時間が天守閣と特別公開の東・乾小天守、イ・ロ・ハ渡櫓、久しぶり備前丸、残りが西の丸、東側の帯曲輪下高石垣、秀吉、官兵衛の頃の石垣を見学、後は姫路駅までの歩き時間。
 アナゴ弁当を駅で購入、運よくキティちゃんこだま新幹線に当たり車中美味しく頂きました。

 次は築城400年祭の福山城へ
 
 
 

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赤い城

湯殿神社 (2022/08/14 訪問)

この日は新井宿城、池上氏館と歩き、3城目がここです。
湯殿神社という小さな神社になっています。
梶原景時の末裔と称する梶原氏の居城とされます。
周辺は住宅地になっていて遺構はありません。湯殿神社の拝殿は少し高い位置にあり、さらにその上に祠もあります。
地形的には何かあっても不思議ではないですね。
わざわざ行くことも無いと思いますが

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おっちゃん

白鳥城址平面図 (2016/12/05 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

白鹿城跡・真山城跡案内図 (2017/04/02 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

白鹿城跡・真山城跡案内図 (2017/04/02 訪問)

現地案内板より抜粋

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まっちゃん88

鹿沼城跡 現地説明会 (2022/09/03 訪問)

9月3日、4日午前
鹿沼城 障子掘り発掘調査の現地説明会があります。

障子掘り(北条掘り、畝掘り)最後の機会かもしれません。

https://www.city.kanuma.tochigi.jp/0300/info-0000008162-1.html

https://www.city.kanuma.tochigi.jp/0538/info-0000008185-1.html

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モト

三重櫓がカッコ良い (2022/05/24 訪問)

久ぶりの建物のある城跡への攻城です。
三重櫓が復興されてましたがこれがまたカッコ良い。
城跡は広い公園に整備されました。
駐車場もあるので立ち寄りやすいと思います。
遺構は本丸跡に高い土塁が残っており、堀と三重櫓が雰囲気あって満足です。

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肉球

足利陣屋・栃木県足利市 (2022/08/23 訪問)

宇都宮藩戸田氏の分家筋の陣屋跡ですが市街地になり
遺構らしいものは、ほとんど失われています。
藩主が使用していたと言われる井戸が民家敷地内に残り
公園整備されるような記事を読んだ気がしたのですが
まだまだ先のようです。
足利学校の北側に移築されている表門は16年前と比べて
かなり劣化が進んでいます。
個人宅に移築されていますので所有がどこなのかは分かりませんが
早急な保護活動に着手して頂きたいです。

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朝田 辰兵衛

電車の本数,思ったより少ないです。 (2020/11/14 訪問)

電車の本数,思ったより少ないです。余裕かまして散策していたら,泣きを見ました。JR高徳線で1時間待ち…。しっかりタイムマネジメントしましょう。
また,スタンプ設置場所は隣接するエネオスのガソリンスタンドではなく,100mほど離れたシェルのガソリンスタンドです。
なお,パンフレットは,城館内の仮設プレハブ小屋らしき建造物の,郵便受のようなところに収納されております。

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肉球

本堂のデカさに圧倒されます (2022/08/23 訪問)

この日最後の目的地。
日も傾き人出もまばら。人で賑わう日中よりも良かった気がします。
初めて来たのはNHK大河ドラマ太平記が放送されていた頃。
その頃は蕎麦屋に渋めの土産物屋年配の方しか居なかったのに
今は若い人向けの甘味処や今どきの土産物屋に変わり残っている観光客は若者だらけ。
足利学校は拝観時間を過ぎており見学できませんでした。
北門は解体修理中。
たかうじ君広場の駐車場は無料でした。

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横須賀城 (2022/08/30 訪問)

国史跡

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高天神城 (2022/08/30 訪問)

続日本百名城

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掛川城 (2022/08/30 訪問)

日本百名城

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井伊谷城 (2022/08/30 訪問)

浜松市指定史跡

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くらのり

吉川元春館 (2022/08/28 訪問)

中国地方の雄、毛利元就の次男で吉川氏の当主であった吉川元春が1582年(天正10年)の備中高松城の戦いの後、嫡子の吉川元長に家督を譲り隠居した際に、自身の隠居館として1583年(天正11年)に建設を開始した。
南側正面には高さ約3mの巨大な石垣が約80mに渡って続き、後方は山、両側には土塁を築き、多くの建物や廊下の他に庭園もある。正面の石垣は高さ3mにおよび、特徴のある積み方をしている。
この石垣の建築手法は現在も宮島の厳島神社参道の海側の石垣でも見られ、吉川元春館を築いた石工集団が、この石垣の建設にも関与したことをうかがわせる。

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くらのり

小倉山城 (2022/08/28 訪問)

1313年(正和2年)吉川経高が駿河国吉川邑から安芸国大朝庄に移住し、当初駿河丸城を居城にしていたが南北朝末期に吉川経見が近隣に小倉山城を築いた。
以後「鬼吉川」と呼ばれた安芸吉川氏の拠点として栄えた。毛利元就夫人の妙玖(吉川国経の娘)もここで誕生している。吉川元春が1550年(天文19年)に日野山城を築き、居城を移すと小倉山城はその役割を終えた。
建築物はないものの現在も多くの遺構が残っており、1986年(昭和61年)8月28日に吉川氏にかかわる六遺跡が「吉川氏城館跡」として史跡指定した。

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