常照寺が城跡で駐車場もあります。
参道脇に吉田城の石碑が立っています。
参道の左右は曲輪ですが藪化しています。
山門の手前両側に空堀が残っています。
また、本堂裏手の墓地のところにも空堀が残ります。
元々は平安末期に大掾氏が築いた城ですが、後に江戸氏の水戸城の支城となりました。
常照寺は水戸光圀が創建した寺でなかなか雰囲気のある良いお寺でした。
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2022/05/28 18:01
2022/05/28 15:42
整備された公園 (2022/05/03 訪問)
散歩するにはいいところ!
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2022/05/28 15:30
2022/05/28 11:52
2022/05/28 09:46
2022/05/28 08:25
大分県お城巡り その2 (2022/05/22 訪問)
「もり山」で中津名物唐揚げで腹ごしらえしてからお城に隣接した歴史博物館石垣シアターでビデオを見た後登城。模擬天守閣から眺めると中津城が三大水城の一つであるのが感じられます。黒田と細川時代の石垣がY字に交わるのが見られるのが二の丸公園側ですがこの時期草が茂って少しわかりにくかったです。その後は街中にのこる「おかこい山」にも行きました何ヵ所かありますがお寺の境内や住宅街なので徒歩で回るのをおすすめします。
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2022/05/28 08:00
大分県お城巡り その1 (2022/05/22 訪問)
豊後森藩資料館「わらべの里」で資料と三の丸駐車場への地図を頂きました。まずは麓の陣屋跡の庭園と栖鳳楼を徒歩で見学(途中野生の鹿に遭遇!)してから車で三の丸駐車場へ。三の丸石垣→竪堀(畝状空堀群)を経て毛利高政時代の穴太積み石垣を見ながら二の丸曲輪で一休み。いよいよ本丸に向かいますが正面虎口からのルートは現在本丸北側石垣修復工事の
ため迂回して本丸跡に到着。三の丸駐車場からの往復で30~40分くらいです。石高が少なく城持ちを許されなかった森藩久留嶋氏でしたがいざという時のため城跡のメンテはしていたとの言い伝えもあります、栖鳳楼は天守閣の趣とも。
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2022/05/28 06:39
一見の価値があるお城 (2022/05/22 訪問)
茅ケ崎城や小机城址と違い、交通も不便であまり有名でないですが、説明板に書いてあるように堀と土塁の組み合わせが秀逸で驚かされます。陣城とも中継地とも思える小さな城跡ですが、誰がどんな時に築いたのか、謎が多く想像を膨らませられます。横浜市周辺の歴史的価値のある城跡がほぼ全て破壊されつくされているなかで貴重な遺跡と思います。是非とも構造を分かりやすく整備して欲しいと思います。
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2022/05/28 00:58
小山の中に (2022/05/03 訪問)
小高い山が城址中心部だとのことで、まずは公園広場の方から登ってみました。園路も整えられ、歩きやすかったのですがあと少しで主郭というところで蜘蛛の巣に阻まれたので退却、大手口の方へまわりました。虎口、土塁、櫓台遺構が確認できましたが、竹やタケノコがたくさんでメンテナンスが大変そうです。説明板にあった井戸跡がわからなかったのですが、坂の上の手作り看板のあたりに貯水池の標柱があり、水脈がありそうでした。
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2022/05/27 23:58
6年ぶりに再訪。 (2022/05/22 訪問)
本丸御殿を鑑賞したいのと,6年前は(天守こそ登ったものの)どうも消化不良的な散策だったので,再訪計画を立ててました。ところが,最強の城に選出されたことで激混みでした…。
晴天の日曜日ということもあり,予想どおりといえば,予想どおり。
個人的には,名古屋嬢の縦巻きカール探しも合わせて実施。昨年の『お城川柳キャンペーン』で,にのまるさんが詠んだ「なごやじょう5部作」が脳裏に焼き付いていますので…<笑>。無事に1名発見しました。写真は撮っていませんが。
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2022/05/27 22:22
【究極の1枚】
4年前の夏、日没間際、閉城時間ギリギリに駆け込んだ丸亀城。
下山後振り返った時に目にした夕闇に浮かぶ天守の美しさはきっと一生忘れません。
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2022/05/27 22:12
前橋城今昔図 (2017/02/18 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/05/27 22:10
泉頭城復元見取図 (2017/08/05 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/05/27 22:08
石垣山城案内図 (2016/07/05 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/05/27 17:15
隠れた国の史跡 (2022/05/21 訪問)
比企城郭群の一つになりますが、杉山城や菅谷館の陰に隠れている山城である小倉城を訪問してみました(。
この城が築かれたのは後北条時代で、城主は上田氏か遠山氏と伝わっているようです。
築城当時、ときがわ地区は、地域にある山林を活用した木工細工(欄間等)がさかんであったようですので、その地域防衛のために、築かれたのであると思います。
この城は、埼玉県ときがわ町と嵐山町の境界近くに位置しており、駅は遠く(最寄り駅は八高線の明覚駅。ここの観光案内所で小倉城の御城印を取り扱っています)、バス路線からも離れていることから、公共交通機関でのアクセスは難しいと思います。
車で行く場合には、嵐山渓谷を先ず目標として、その奥に進んだ処にあります。
訪問者用の駐車場は、大福寺の近くに整備されており(訪問者用のバイオトイレがあり、城のパンフレットを入れた箱もあります)、20台近くは止められると思います。
登口から、先ずは郭3に向けて登山道を進みますが、この郭3には石垣の一部が残っています。
この城の石垣は板状に割れた比較的薄い石を積み上げたものであり、高さはそれほど高いものではありません(せいぜい3~5メートルくらい)。この郭3から郭1(本郭)に向かう道は二つに分かれており、左に進み切通にかかる木橋(今は通行止)、虎口を経由してアクセスする方法と、右に進んで枡形虎口を経由してアクセスする方法があります。
いずれの虎口も比較的状態は良く、郭1の周囲を形成する土塁とともに、良く遺構を残しています。
郭1と郭2の間には、クランクを伴う大堀切がありますが、今は枯木で埋もれており、少しわかりづらい状況です。
また、郭2にも虎口と土塁が残っていますが、ここから眼下に小川町の集落を望むことができます。
ここまで述べた郭1~郭3がこの城の見所の中心になります。
年長者とともにゆっくり見たので、攻城時間は約90分。戦国時代の関東では珍しい石垣の残る城で、整備が進んでいるところですので、訪問する価値はあるように思います。
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2022/05/27 13:43
【究極の1枚】 (2022/05/21 訪問)
自分ちの畑から見る楯岩城です。西側は平地からすっくと山が立ち上がり、山体の容積感も適度で、こどもの頃から、とても好きな景観です。花崗閃緑岩の山体を大津茂川が浸食して急斜面を作り、氾濫原が麓までの小さな平野を作っています。
小城小次郎さんの楯岩城投稿とかぶりました。整備ボランティアを募集する地元紙ではご指摘のように土塀跡とありました。
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2022/05/27 07:37
尼子詮久がここにいたかもしれないのだそうだ (2022/01/09 訪問)
以前は迷いやすいお城だったようだが近年登城路が整備され格段に行きやすくなっている。赤松氏一族の広岡氏の城だが尼子詮久が播磨侵攻時にここに入った可能性もあるとか。白い土塁はもしかしたら土塀だったのではなかろうか。
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2022/05/27 06:45
県内の城めぐり2022㉔ (2022/04/07 訪問)
山家城同様、9年ぶり2度目の攻城だというのにこれまた山家城と同様、獣よけフェンスのすぐ右手に伸びる登城路に気付かず、舗装された林道を延々と進んでしまいました。体力と時間を無駄に消耗してしまいましたが、林間に石積や大量の石を見つけることが出来て改めてこの城のすごさを実感することが出来ました。9年前、同時に初攻城したときは林小城、山家城より下の評価でしたが、今回は桐原城に最も魅力を感じました。ただ、同じゴールデンウイークの時期の攻城なのに葉がずいぶん茂ってしまっていて石垣の写真は前回のほうが撮影しやすかったかな。降雪を避けつつ冬枯れの時期の攻城をお勧めします。この城も山家城同様、小笠原氏城跡として長野県史跡に指定されていますが、国史跡に指定されるだけの価値はあると感じます。
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2022/05/27 00:01
明智光秀「最期の30日」を辿る 【第3回】丹波亀山城 (2022/05/08 訪問)
(第2回「坂本城」からの続きです)
天正10年(1582年)5月29日、亀山城にいる光秀の元に信長が安土から本能寺へ入ったとの知らせが密かに届きます。そして3日後の6月1日昼頃、光秀は亀山城数寄屋にて重臣4人(明智秀満(左馬助)、斎藤利三、藤田行政(伝吾)、明智光忠(次右衛門))を密かに集め謀反を打ち明けます。すると4人から返ってきた答えは「皆思いは同じでございます」。これにより光秀の意は決しました!
そして同日午後5時、ついに13,000の軍勢が亀山城を出立しました。しかし、軍勢は毛利のいる西の方角には向かいません。そして、光秀は軍配を東の方角に指しこう叫びます 「我が敵は本能寺にあり!」
しかし、この名台詞(セリフ)は、だいぶ後の江戸幕末の詩人である頼山陽(私と同じ空想が好きなおじさん)が1826年に書いた「日本外史」という本の中の一節にあるもので、実際は極秘の行動なのでそんな事は叫んでないようです。それどころか、途中でたまたま軍勢を見た農民20~30人を(密告されないよう)すべてその場で撫で切りにしたというのですから、もう光秀は残虐者の顔になっていた事がうかがえます(😱~)。
丹波亀山城は、もともとは光秀が丹波攻めのための軍事拠点として築城したもので、兵の収容能力は安土城より大きかったようです。また三重の堀に囲まれ、さらに有事の際には保津川を堰き止めれば巨大な水堀ができる強固な作りになっていました。
現在は宗教法人の敷地になっていますが、受付で申し込めば条件付きですが中を見学させてもらう事ができます。天守は、江戸初期に藤堂高虎が伊予から伊勢へ移封になった際、今治城の天守を解体して伊勢に持って行こうとした所、家康より天下普請に差し出すよう命じられ、この丹波亀山城に差し出した話は有名です。その時の城の再現図がありました(写真④)。明治までその天守は残っていたようです。また下段の石垣(打込接)には刻印があり天下普請で築かれた事を物語っています(写真⑤)。しかし、上段の天守台の石垣は野面積のため、これは光秀時代のものが今でも残っていると思われます(写真⑥⑦)。ということはもしかして🤔?・・・江戸時代には光秀が築いた天守台の上に高虎の天守が建っていたという事になるのでしょうか?😲
うっそうとした木立と苔蒸した石垣に囲まれ、異様な静寂さの中で、かすかに聞こえる(宗教法人の人々が唱える)経の声・・・。この独特な雰囲気の中で私は天守台の脇に立ち、この眼下にこれから本能寺へ向かう13,000の軍勢が整然と隊列を成してここに並んでいる姿がたぶんあったであろうと想像してみました(写真⑧の場所は、かつては広大な曲輪)。 すると何とも言えない急に足が震えてくるような緊張感が襲ってきました(😱~)。
(第4回「本能寺」へ続きます)
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2022/05/26 23:43
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