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くっしー

石垣の材質が独特 (2021/03/28 訪問)

地質とかあまり詳しくないのでよくわからないのですが、緑泥片岩という少し緑色っぽくて縦にもろい特徴がある石を使っているらしいですね。天守の石垣は野面積みで布積みですが、周辺の曲輪では打込接ぎとか切込接ぎもありました。豊臣秀長に始まり浅野幸長とか紀州藩とかいろいろな人が築城改修に関わっている城らしいですね。

縄張としては、枡形が多いなと…どんだけクランク作るねんと思いますが、まあそれだけ守りも重視ということでしょう。

天守の上からは海を眺めることができました。海運においても重要な拠点ですね。

登城した日は雨でしたが、桜がきれいな城でもありますね。

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小城小次郎

メリハリの利いた土塁と堀 (2020/12/19 訪問)

市貝町には杉山城もあるが村上城もある。ある意味すごい町だと思う。新潟の村上城に比べれば知名度はまだまだだがこちらの村上城も案外すごい。おにぎりみたいな形の主郭を囲む、メリハリの利いた土塁と堀の多重奏は必見だ。

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ぴーかる

大内文化の最高傑作 (2021/03/13 訪問)

【瑠璃光寺・毛利家墓所】山口県山口市
<駐車場他>香山公園無料駐車場
<交通手段>車

<見所>国宝五重塔
<感想>1泊2日中国地方西部の旅番外編。大内氏館来城後に行きました。山口に来た際は是非見てみたかった五重塔です。この塔は説明板の通り、大内義弘の菩提塔で弟の盛見が1442年に建立したものです。瑠璃光寺全体が香山公園となっており、五重塔は無料で外観を見ることができます。(当然なかには入れません)無料ガイドさんもいらっしゃいます。毛利家墓所は山口移鎮後の13代敬親からの毛利家一族の墓所となっています。石墓ではなく、土の墳丘墓なので珍しかった。大内氏の現存建物を見ていなかったので、少し感じ取れたので満足できました。

<グルメ>夕ご飯に「長州屋湯田店」に行きました。瓦そばとふく刺しをいただきました。お店のある県道204号線の通りには他にも洒落た居酒屋が多数あったのでご当地食は豊富そうでした。

【古城ヶ岳城】
<駐車場他>駐車場はなし。<34.203080, 131.468480>または<34.203765, 131.466372>に1台分のスペースあり。
<感想>瑠璃光寺のあと城びと投稿者0の古城ヶ岳城を攻めてみたが、情報が少ないのと、現地案内板は勿論無く、城方向の林道を2ルート進んでみたがどちらも途中で途切れ、先に進めなくなり、ならば直登を少し試みたが斜面に負けて攻略ならずとなってしまった。後述の駐車スペースから林道があるが、もしかしたら登城口はほかにあるかも。どなたかの攻略投稿を待ちます。9・10枚目の写真が残念記録です。

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カズサン

名張藤堂家邸跡 (2014/05/02 訪問)

 7年前の5月連休、柳生の里柳生陣屋を終えて月ヶ瀬の名張川沿い細い道をナビを頼りに名張市名張陣屋を目指す、丁度名張陣屋の北東下に観光駐車場が在りそこを利用。
 駐車場から南西に陣屋跡名張藤堂家邸跡が高台に構えてる、東隣の名張小学校も元名張陣屋の跡地、高台に歩いて直ぐに石垣基礎に白壁土塁に囲まれた屋敷、名張藤堂家邸跡が有り(資料館200円)内部邸内と資料展示を見学、残念なのは陣屋正門太鼓門を見学失念した事(近くの寿栄神社に移築門として残ってる)です。現存屋敷は往時の1/10位か?

 初代の藤堂高吉は織田信長重臣丹羽長秀の三男、豊臣秀長の養子と成り後、藤堂高虎に子が無く養子に望まれ藤堂家へ高虎に実子が出来高虎死後は実子高次が藤堂家の家督を継ぐ、高吉は養父高虎と朝鮮の役、関ヶ原の戦い、大坂の陣などで戦功をあげてるほどの武功もの、藤堂藩内に2万石を領し名張に名張藤堂家を構え名張の基礎を築き寛文10年(1670年)92歳で生涯を名張で終えた。(パンフレット抜粋)

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カズサン

柳生の里、石舟斎、十兵衛を偲んで? (2014/05/02 訪問)

 7年前の5月連休、奈良の未踏の城廻りで宇陀松山城、織田信雄松山陣屋、宇陀の町並み、又兵衛桜の葉桜を探訪散策の後国道369号線を北上、名阪道を越えた北側は離合も厳しい狭い所ま有る国道ですが、柳生陣屋東側麓に在る柳生観光駐車場へ到着、同駐車場を利用、1回600円(登城当時)
 徒歩で探訪、柳生藩陣屋、分家小山田家屋敷(未公開表の屋敷、石垣を見るだけ)、柳生藩家老屋敷(有料350円、小山田家)、十兵衛杉遠望(枯れてましたが今はどうでしょうか?)、
 柳生藩陣屋跡は台地先端に築かれ周囲は崖で囲まれ要害の地、内部は建物跡の礎石が残り往時の屋敷を思い起こされる、写真撮影用顔抜きの十兵衛が立ってる、柳生藩家老屋敷は切込接ぎ石垣が立派です、屋敷前には長屋門が構え主屋は資料館と成ってます、南側に在る分家小山田家も切込接ぎ石垣で長屋門構え立派です(未公開)、正木道場は駐車場から眺めるだけ、柳生城跡は登らず。
 柳生家は常府大名でしたので城下町は長閑な山村と言った感じで、石舟斎、十兵衛、は何処かな?物語、TVドラマの中だけですか?

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戦国期の石垣が見事 (2020/11/01 訪問)

広島県の指定史跡となります。
主郭と西郭(郭8,9)に組まれている、反りの無い打ち込み接ぎの高石垣で印象的な相方城です。
新市駅から南にそびえる城山一帯がこの相方城にあたります。
城域は非常に大きく、今の工業団地辺りも遺構が見つかっています。
城南方は比較的軽斜面が多く、馬場と呼ばれる規模の大きい郭や畝上竪堀などの防御施設などが残って見ごたえがあり、西郭と主郭との間は、堀切で区切られ土橋で結ばれて、当年を忍ばせてくれます。
どのルートで主郭へ上がろうとしても、虎口を経ての進入となり、城としての機能も見て取れます。
石垣は、一部以外の多くのヵ所で算木積が使われており混在しています。
このことからも、桃山時代の早い時期に石垣が組まれたものと推測できます。
一部に自然石を取り入れた石垣のあり、石垣だけでも一見の価値があります。
また、廃城の際に取り崩された石垣や城門は素盞嗚神社にあります。
現在は屋根瓦が変わっていますが、昭和の時代までコビキAの瓦が現存していました。
他に相方城から移築とされていた櫓もありましたが、これも昭和に火災で焼失しました。
せっかくの現存ですので城門の屋根もコビキAで再現して欲しいです。

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スバル

春の愛媛遠征 (2021/03/13 訪問)

地元の皆様に大事にされてる。
海に繋がっている

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todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー36城目 (2021/03/25 訪問)

護国神社にてスタンプを捺印。浜田城資料館にもスタンプが設置されたようですが、護国神社のスタンプの状態は良いです。桜が咲く城内を一通り散策した後、9時を待って浜田城資料館にも初めて入館いたしました。

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昌官忠

リハビリ15城巡り⑫:大平砦 (2021/03/24 訪問)

足腰リハビリ15城巡り12城目は大平砦です。
奥沢駅より徒歩7~8分くらいで奥沢小学校校門前(35.599722、139.674383)に着きましたが、門前に守衛さんが立たれていたので写真は撮らず、非常口用?の校門(35.599341、139.674659)に向かい写真を撮りました。

奥沢小学校は「出張」と呼ばれ、世田谷城の吉良氏家臣であった大平氏の砦があったと言われますが、現在は何も往時の物を偲ばせてくれるものは見当たりません。
奥沢小学校近くには案内板等も何も設置されておらず、どこにでも見られる普通の小学校でした。
奥沢小学校から緑が丘駅に向かう途中の住宅街で道祖神を見つけました。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

リハビリ15城巡り⑪:荏原氏館 (2021/03/24 訪問)

足腰リハビリ15城巡り11城目は荏原氏館です。
法蓮寺は荏原町駅前です。法蓮寺境内を見学した後、徒歩2~3分くらいで旗岡八幡神社鳥居前(35.604618、139.708585)に着きました。

荏原氏館は、鎌倉時代に荏原氏によって、荏原町駅の直ぐ北側にある法華寺と旗岡八幡神社の境内となっている辺りに築かれました。

現在、居館の遺構などは何も残っていませんが、八幡神社一帯は小高い台地となっています。
攻城時間は10分くらいでした。

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にのまる

五つ紋 (2021/03/16 訪問)

 戸吹城からの帰り、八王子駅(JR/京王)から路線バスですぐ近く(由木中央小学校前)まで行けました。
 永林寺の立派な総門(赤門)が迎えてくれます。総門、三門、中雀門をとおって本堂へ行く間に、三つ葉葵、菊紋、三つ鱗、五三の桐が目に入り、このお寺は一体…?と思って由緒書きを読むと、<写真⑤>とのことでした。肝心の大石家の丸に三つ星はどこだ?と探したのですが、大石定久公の墓石にしか見つけられなかったです。でもきっとどこかにあるはずです。誰か探して。。。
 由木城址は墓地の上。定久公の像の奥のそれっぽい場所はお手入れされたばかりのようでしたので歩いてみました。パーツとしての遺構を見ることはできなくても、城跡を踏みしめているというだけで充分満足です。
 永林寺は午後五時に閉門されます。たとえばのんびりと沼のカエルなどを見ていると境内に閉じ込められて遠隔操作で開けてもらわないと外に出られなくなってしまいますのでお気をつけください^^;

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にっぽん城まつり feat.出張!お城EXPO in 愛知に城びとブース出展! (2021/03/20 訪問)

3月20日・21日に愛知県で開催された「にっぽん城まつり feat.出張!お城EXPO in 愛知」に城びとブースで出展しました。

当日は、城びとの取材で集めた御城印や御城印帳や名古屋おもてなし武将隊の前田慶次様の人気連載「前田慶次の自腹でお城めぐり」の内容を城びとスタッフがまとめた手作り「自腹でお城めぐり帳」(ポップアップ慶次様つき!)を展示したほか、お城ガイドマップの小田原城と竹田城の先行販売も! 

twitterフォローで前田慶次様新ステッカープレゼント企画や前田慶次様と一緒にミニステージでミニクイズ大会も開催しました!

ブースにいらしてくださった皆さま、ありがとうございました!

写真は、城びとブースにいらしていただいたスペシャリストの皆さま(クリス・グレンさんも遊びに来ていただいたのに、写真を撮影するのを忘れてしまいました・・・!!)

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ぴーかる

築山館 (2021/03/13 訪問)

【築山館】
<駐車場他>大内氏館跡龍福寺駐車場から徒歩がベスト
<交通手段>車

<見所>土塁
<感想>1泊2日中国地方西部の旅4城目。大内氏館から徒歩で来城した。居館跡と築山神社は改修工事中で中には入れなかった。説明板の通りここも大内氏の居館だったようです。北西隅部に土塁が残っています。内部の八坂神社と築山神社は重要文化財になっており、築山神社は改修中で幕が張られ入れませんでした。八坂神社の方は室町時代に京都の八坂神社から勧請したようで、本殿は檜皮葺屋根で13箇所ある蟇股に時代の特徴が出ています。

<満足度>◆◇◇

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肉球

千葉県ですが石垣あります (2021/03/25 訪問)

戦国時代に真理谷武田氏によって築城されたようですが
江戸時代は徳川譜代の居城として幕末まで使用されていたようです。
この辺りには珍しく石垣があります。
あまり大きくはないですが三の丸櫓の石垣のようです。
その先に進むと中世のお城感が色濃くなります。
二の丸、本丸ともに雑木林となっていてあまり整備されているとは言えません。
しかし二の丸虎口や本丸へ続く土橋など見所はあります。
本丸の先に東京湾が見渡せる展望台があります。
駐車場完備されてます。 

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橋吉

1時間の登山 (2021/03/19 訪問)

引田城は、室町時代末期 寒川氏に属する四宮右近の居城としたのがはじまりのようです。
その後、阿波三好家家臣矢野駿河守、仙石秀久,生駒親正と主を換えてきましたが、一国一城令が発令されると廃城されたようです。

続日本100名城は讃州井筒屋敷で押すことができます。

登山口は2か所ありますが、より城跡に近い山口水産裏を選びました。
5台くらいとめられ、さらに向かいにも整備された駐車場があります。

まずは山頂めざして登ります。
はじめは林の中を上がっていきます。
途中、目の前が開け港が一望できます。
そこからは、岩山をひたすら登ります。

本丸石垣がみえたら、南の郭→天守台跡→西の郭→化粧池→引田鼻燈台→東の丸→北二ノ丸→本丸と山頂を囲む形で一周しました。

1時間8分かかりました。

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中世から戦国にかけての土居城 (2021/03/22 訪問)

櫻山茲俊築城の国指定史跡です。
吉備津神社に車を停め、北郭からの登城です。
低い丘陵地を切岸で切り立たせ、2重の堀切を随所に配しています。
規模的には、そこまで大きくないですが、谷一つの場所にある亀寿山城、切通で繋がる鳶尾城、さらに北の木曾丸城などと一体的に運用されていた山城です。
主郭を中心に、北郭、南郭、西郭からなり、それぞれに堀切で仕切られたうえ、曲輪が儲けられ防備が固い造りになっています。
現在の北郭櫓台は、薬師堂が建立されており、石垣が組まれ当時の土居城の面影はなくなっています。
雑木の中、観て回ると墓所となっている曲輪が多く、手入れしてあるせいか比較的切岸は良く残っており、いく段かに構える曲輪群を整備を行えば素晴らしい城郭として蘇るのではないかと思います。

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城好きのメガネ

「茶臼山陣城」 (2020/03/29 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
茶臼山陣城は、大塚城とも呼ばれ1546年に細川晴元の家臣・山中又三郎が茶臼山古墳の後円部に城を築いたとされる。細川氏綱・畠山政国らに攻められ落城し、廃城となった。1614年、大坂冬の陣では徳川家康が本陣を構えた。1615年、大坂夏の陣では、豊臣方の真田信繁が本陣を構えた。大坂の陣後に、廃城となる。現在、土塁等が遺されている。

<アクセス>
JR天王寺駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「天王寺城」 (2020/03/29 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
天王寺城は、石山本願寺攻めの際に織田信長の家臣であった原田直政が築城した。原田直政は信長からの信任も厚く柴田勝家と共に殿軍を務めていた。石山本願寺攻めでは細川藤孝・荒木村重・明智光秀・筒井順慶ら3万の兵を率いたが、三津寺で戦死する。その後、天王寺城には宿老・佐久間信盛が入る。石山本願寺との和議の際に廃城となった。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
大阪市高速電気軌道 (Osaka Metro) 谷町線 四天王寺前夕陽ヶ丘駅 徒歩10分

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pascal

羽柴秀吉との激戦地 (2015/03/14 訪問)

 秀吉の天下取りの過程で、激戦地となった伊勢の峯城です。


【アクセス(車)】
 R306の星田橋東詰交差点(点滅信号)から橋を渡って入ります。
城址の東麓にある柴崎集落の最初の建物が柴崎公民館で、城址見学者はここに車を停めて良いそうです。
公民館脇の道を西の城山に向けまっすぐ歩いて行くと、自然と搦手道から登城する形になります。
案内看板は充実しているので、迷う事もありません。


【城の歴史】
 峯城は関氏の分家:峯氏の居城として貞治6年(1367)に築城されました。
峯氏は近郷24ヶ村を支配し、兵力は600名とされています。
 永禄の織田信長の伊勢侵攻で神戸信孝の配下に組み込まれた峯氏は、長島一向一揆との戦いに駆り出され、当主の盛祐が討死にした事で断絶してしまいます。
跡には信孝の家臣:岡本宗憲が城主として入りました。

 本能寺~清須会議を経て、亀山城の関盛信が秀吉に寝返り、岡本宗憲もこれに倣うと、峯城は滝川一益の軍に攻められ、奪われてしまいます。
一益は甥の滝川益重を城主とし、3千の兵を与えて守らせますが、冬になると近江から羽柴秀吉が大軍を率いて攻め込んで来ます。
(滝川益重は前田利益(慶次郎)の実父です)
 周辺の諸城が早々に開城する中、羽柴秀長、秀次、筒井順慶が攻める峯城は4月まで抵抗を続けたので、秀吉方諸将は開城を見届けるとすぐさま、賤ケ岳に向かったと言います。

 峯城は秀吉に同盟した織田信雄の臣:佐久間正勝が城主になりましたが、翌天正12年(1584)に入ると信雄は徳川家康と組んで、秀吉と敵対する状況になります。
3月、秀吉は北勢に再び侵攻し、亀山城の関盛信を調略すると峯城を囲みます。
攻城側は蒲生氏郷、滝川一益、関盛信などで、勝手知ったる峯城をわずか数日の攻撃で落城させ、佐久間正勝らは尾張に逃げ去りました。

 大軍相手に三度の攻防戦と落城を経た峯城はその後再度岡本宗憲に与えられますが、天正18年(1590)に宗憲には亀山城(新城)の築城が命ぜられ、そのまま居城も移転したため峯城は廃城となりました。


【見どころ】

 県の史跡ですが、整備は進んでおらず、まだ大半が山に埋もれた城址です。
日本城郭体系の縄張り図にも主郭部分しか記されていませんが、近年に調査が進んで、思いの外規模の大きな城であった事が判って来ました。
 主郭の遺構は明瞭で、“伝天守台”とされる土壇には鉢巻石垣の名残りも有りますから、本当に天守が有ったかも。
3千の兵で4ヶ月籠城した城ですから、それなりの規模感と防備は有った筈ですが、藪の中でそれを見極めるにはかなりの知見が必要なので、現在のところ“上級者向けの城”かも知れませんね。
 

【感想】
 見学のための整備は、主に地元の有志の方がやられている様ですが、『地元の声』としては、訪城する人の数がやり甲斐に直結している様です。
秀吉方の付城の跡も特定されているので、併せて訪れると戦場の臨場感を感じられる城址です。

 

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城好きのメガネ

「有岡城」 (2020/03/29 訪問)

<オススメ>★★★☆☆
有岡城は南北朝時代に伊丹氏が築いたとされる。伊丹親興は細川晴元に属したが1568年、織田信長に応じて三好氏を攻め勝利を収めた。以後、信長の傘下に入り、山名氏や浦上氏とも戦う。1570年には大坂・天王寺で三好三人衆と戦う。1573年頃から織田信長と対立し、荒木村重に攻められ、落城、自害する。その後、伊丹城に荒木村重が入り改修を行う。城の名も伊丹城から有岡城にかわった。1579年、荒木村の謀反により織田軍に攻められ落城。その後、廃城となる。現在、石垣等が遺されている。

<アクセス>
JR伊丹駅 徒歩10分

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