ザビエルが島津氏から布教許可を得たお城であり、まさにここがキリスト教伝来の地である。鹿児島を藩庁とした際、藩主の父・島津義弘は「一宇治城こそ藩庁に相応しい」と推奨したほど、島津氏にとって重要な場所だった。
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2022/12/26 18:27
まさにここがキリスト教伝来の地だ (2022/07/04 訪問)
ザビエルが島津氏から布教許可を得たお城であり、まさにここがキリスト教伝来の地である。鹿児島を藩庁とした際、藩主の父・島津義弘は「一宇治城こそ藩庁に相応しい」と推奨したほど、島津氏にとって重要な場所だった。
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2022/12/26 17:58
往路は,京王多摩センター駅から歩いてみました。 (2022/11/28 訪問)
往路は,京王多摩センター駅から歩いてみましたが,すでに登攀が始まっています。もう少し,楽しめる景色を期待していたのですが,あまりの殺風景で足取りは捗りません。復路は下りでしたが,路線バスを利用。最寄りは「南野2丁目」バス停ですが,本数少。「落合6丁目」まで下ると循環路線に入るため,ここまで歩いて路線バスを利用しました。
相模と武蔵の両国府に小野という地があり,それを結ぶ道が小野路の由来ともいうらしいです。
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2022/12/26 16:26
「柏の城」 (2020/04/06 訪問)
<オススメ>★☆☆☆☆
柏の城は、武蔵の有力豪族であった大石氏が築いたとされる。戦国時代には後北条氏に服属し、小田原征伐の際に豊臣勢に攻められ落城したとされる。現在、遺構は消滅している。
<アクセス>
東武鉄道東上本線 柳瀬川駅 徒歩15分
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2022/12/26 16:22
「板橋城」 (2020/04/06 訪問)
<オススメ>★☆☆☆☆
板橋城は豊島氏の一族である板橋氏が築いたとされる。戦国時代には後北条氏に従い、小田原征伐の際に廃城となる。現在、遺構は消滅している。
<アクセス>
東武鉄道東上本線 ときわ台駅 徒歩10分
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2022/12/26 16:15
「旧二条城」 (2020/04/06 訪問)
<オススメ>★★☆☆☆
旧二条城は1569年頃に織田信長が第15代将軍・足利義昭の居城として築いたとされる。その後、織田信長と対立した足利義昭は追放され、室町幕府の終焉とともに廃城となる。安土城の築城に伴い、旧二条城は解体され建築資材として再利用された。現在、遺構は消滅している。
<アクセス>
京都市営地下鉄烏丸線 丸太町駅 徒歩10分
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2022/12/26 08:28
田んぼ道の先にあるお城 (2021/11/05 訪問)
車で登城しました。道路に案内板は設置されてありますが、周辺は道が狭いので注意が必要です。
駐車場には、新築の案内所とトイレが設置されており、訪問時には、案内所でボランティアの方が城の解説をしていました。
案内所の入口にて続100名城のスタンプを押印。
パンフレットも充実しています。
木などが程よく伐採されていて、城の遺構はとても見やすいです。
特に虎口の遺構は、とても立派です!!
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2022/12/26 08:26
玉造稲荷神社 (2022/12/07 訪問)
仕事で近くに来たついでに大坂城の三の丸跡をぶらぶらと。
大坂城三の丸跡に建つ玉造稲荷神社は、豊臣期、徳川期を通じて大坂城の鎮守社として崇敬され、境内には豊臣秀頼が社殿を再建した際に奉納した石鳥居(阪神淡路大震災で基礎が損壊したため上部と脚部に分けて移設)や、摂関家の当主らしく衣冠束帯姿をした豊臣秀頼公像、秀頼公胞衣塚大明神など秀頼ゆかりの史跡が見られます。
また、玉造周辺には前田利家・利長、宇喜多秀家、島津家久、鍋島勝茂、細川忠興、浅野長政・幸長・長晟、古田織部、増田長盛など名だたる諸将が屋敷を構えており、千利休の屋敷もあったようで境内には千利休居士顕彰碑が建てられています。
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2022/12/25 23:48
伝・並木屋敷跡。長者原廃寺跡も行きました。 (2022/11/27 訪問)
接待館から徒歩10分くらい。「並木屋敷(伝)」の説明板がありました。
抑えておきたかった場所なので、“伝”であっても、目に見える遺構がなくても満足度は高かったです。(写真①~③)
このあと長者原廃寺跡に行きました。(写真④~⑦)歩いて10分くらいです。
“遺構がなくても満足”の前言撤回するわけではないですが、目に見える遺構や復元された姿を目に出来るのはとてもありがたいし幸せです。
現地説明板に〈源頼朝も目にしたかった礎石群〉とありました。
「頼朝も城柵好きの礎石マニアだったか(゚д゚)!」
と急に親近感を感じ、帰宅後、吾妻鏡の現代語訳(吉川弘文館)を借りてみました。
文治5年(1189)9月27日の頁。
“草に覆われ礎石の場所もわからず……”
頼朝さんも藪漕ぎしたのかな( *´艸`)
ここまで歩いてきたので平泉駅まで戻るのがすごく面倒で、やっぱりレンタサイクル借りればよかったかなぁと思いつつ中尊寺から平泉駅までのバス便を検索してみたら一ノ関行きだったのでそのまま新幹線で帰れました。なんかよかったです。
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2022/12/25 22:35
2022/12/25 21:56
城行った‼️とは言えないな。 (2022/12/18 訪問)
お城エキスポを一日で切り上げ、日曜日は朝から房総の城廻りを計画。
前夜からの雨模様で怪しい雰囲気。
友人の父ちゃんから「今はキャンプ場になってるけど軽トラなら行けるよ」なんて情報をいただいていたが、道には軽く車止めが。あれ?一応車はやめとこうか。
仕方なく歩いて上がったが、アスファルトの道には本格的なゲートが‼️こ、拒まれている!
右に逸れて三の郭から山道を進み堀切を見た辺りからズリズリ滑りまくる。これ以上行軍不可能!そこに見えてるのに(;゜0゜)
武田氏の居城について詳しく見てみたかったが招かれざる客であることを理解し断念。
以前、友達が大多喜への道中に案内を申し出てくれていたのに、100名城スタンプ以外目もくれなかったあの夏の日の自分を悔いるのであった⤵️
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2022/12/25 21:25
幕末の要塞 五稜郭 (2022/10/13 訪問)
10月の函館旅行で寄った幕末の城を、築城順で振り返り。
3つ目は北海道函館市の五稜郭。
江戸期終盤の1803年、箱館港に面した箱館山の麓に築かれたのが箱館奉行所の始まり。
時は流れて幕末の箱館開港決定後、防衛の観点から奉行所を移転することに。
海からは当時の大砲の射程外となる3kmの位置。
東には赤川(現亀田川)が流れ、周囲は沼地だったとのこと。
箱館港からも遠すぎないその場所に、西洋式土塁の五稜郭は築かれました。
十字砲火を可能とする稜堡を5つ持ち、正面出入口には半月堡(馬出塁)を設置。
出入口の内側に見隠塁を置くのは日本の特徴でしょうか?
現在は五稜郭公園として函館のシンボルに。
建物では兵糧庫が現存し、2010年に奉行所庁舎の1/3を復元。
訪問時、その庁舎に入る時間はありませんでしたが、郭内・土塁上・水堀を回り、そして五稜郭タワーに上り滞在時間は2時間半。
幕末を代表する城郭が、私の城巡りの133城目となりました。
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2022/12/25 21:22
634 (2020/12/05 訪問)
熊本おまけ。城から少し離れますが、足を延ばせる方はどうぞ。
出生地はおろか、墓所すら定まらないのだそうです。宮本武蔵。
熊本県内だけで墓とされる場所が3つ。そのうちのひとつが「武蔵塚」(熊本市。2020年12月)。加えて福岡県北九州市の寺にも養子・伊織が建てたものがありますが、こちらも由緒定まらないとのこと。
かの巌流島決戦を含め、他流試合で負け知らずというのは本人談。一方で実戦経験はあまりないのだとか。10代半ばで関ヶ原。その後従軍したのは大坂戦役と島原でしょうか。
生まれたのが本能寺の2年後となると、多少の波乱要因に巻き込まれることはあっても、秀吉・家康の治世下で武士としての“野性”が買われる機会はほとんどなかったという見方も。
肩書きは兵法家。他方、木彫・金工など諸芸に優れ、特に水墨画の名手でもあったそうです。加えて著書を残すマルチぶり。領地・領民を有さず、上司からの命令や出世争いとも無縁。戦国武将と比べ、わりと怠惰な感性の持ち主だったかもしれません。もちろん良い意味で。
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2022/12/25 20:50
公園になっているものの見応えはあります (2022/12/10 訪問)
後閑城址公園になっていて駐車場もあります。
西側の駐車場に停めてまずは南側から。
南曲輪と西側の曲輪の間には深い堀切があり、通路になっています。
さらに進むと東側にも曲輪がありました。
主郭に登り.、北側に進んで行きました。
北側は三重の堀があり、かなりの防御性があります。
かなり整備された公園なので実感としては湧きませんがかなり良い城であることは間違いありません。
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2022/12/25 20:37
どこまでが金ヶ崎城なの? (2022/12/03 訪問)
評価★☆☆☆☆
主な遺構★☆☆☆☆堀切
国吉城を終えて金ヶ崎城に行きました。金ヶ崎城といえば明智光秀の金ヶ崎の退き口が有名ですよね。国吉城から出陣した織田信長は一乗谷城を出陣した朝倉義景と戦うのですが、浅井長政の裏切りに遭い、織田信長は撤退します。しかし、豊臣秀吉や徳川家康はここでかなり苦戦します。そこで明智光秀が殿を務めたことにより、死を免れることができたといいます。なおこの出来事は明智光秀が織田信長の四天王となった一因であり、この出来事が起点となって織田信長に気に入られるようになったそうです。明智光秀の重要地点とも言えるでしょう。
とはいうもののどこまでが金ヶ崎城なのかよくわからないです。最初金ヶ崎城の本丸に行きました。そこは武将たちが月見をしたことで有名ですが、遺構は残っていません。がっかりしながら戻って金ヶ崎神社まで行きましたが、そこにあった模型を見てみると、どうやら遺構は山の中にあるそうだったので手筒山城方面を歩いて行きました。城戸がいくつかあり、激戦の舞台だったことが窺えました。また、堀切が二ヶ所あり、行ってよかったなあと思いました。しかし、まだまだ道は続きもう永遠に続いていたので疲れてきて、道が分かれたところで下っていきましたがさらに長く、最終的にお墓の背後の山から出てきました。だいぶきつかったです。
神社などには案内板がたくさんあったのでよかったですが、山の方にも案内板を設けてほしかったです。
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2022/12/25 19:56
7本の堀切 (2022/02/12 訪問)
標高150m程度に主郭を置き、主郭を含め大きく3つの曲輪が存在している城です。鉄塔周囲は工事で変わっているようです。
参考訪問データー:45分:1.1km:累計高低差86m
マップ上の鹿児島市宮川野外活動センターに駐車して南下しましたが、こちらは駐車は厳禁だと帰りにお叱りを受けました。駐車は他を探した方が良いようです。
城域は南北に200m程の大きさで、3つの曲輪は堀切で仕切られています。堀切は堀切道を含めて7つ確認出来ました。西側は平坦になっており浅い横堀らしく思える場所もあります。一番大きい堀切は写りが悪く入れていません。駐車場所さえ解決出来たらコンパクトで見易い城跡です。
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2022/12/25 17:48
100名城お城カードと御城印を求めて (2022/12/25 訪問)
昨日から妻と子供が妻の実家に帰省してるので、1人のクリスマスを満喫?するために遠征しました。
まずは鎌倉に向かい、先日最終会を迎えた「鎌倉殿の13人」の大河ドラマ館を見学。その後、鶴岡八幡宮、和田塚、由比ヶ浜を散歩し、江ノ電で藤沢、東海道線で小田原に行きました。
何度か行っている小田原城ですが、今回の目的は、今まで見た事の無かった関東大震災で崩れた石垣の見学と、御城印とお城カードです。
正規の登城ルートを銅門を目の前に外れ、南曲輪の方に向かい崩れた石垣を見ました。横矢を掛けるためにコーナーになっている部分や排水口もそのまま残っていました。天守を見学し、御城印とお城カードを購入して帰りました。100名城お城カードという物を迂闊にも全く知らなくて、今回初めて購入しました。このカードのためにまた行ったお城に行く事が、ちょっとしんどいような、また楽しみが増えたと喜ぶべきか。城好きならもちろん後者ですね。
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2022/12/25 16:12
初代城主 明智光秀公 (2022/12/03 訪問)
福地山城は、由良川に伸びる丘陵を中心に築城された連郭式平山城で城郭及び城下町周辺を堀で囲み、それらを一体的に構築した総構えの城として築城されています。
1579年頃に明智光秀公がこの地に城を築いたのが始まりとされ、築城後は娘婿の明智秀満公を城代として、この地の統治を任せています。
明智氏滅亡後は、羽柴秀長公をはじめととした城主を迎え、改修と増築が進められ江戸時代の有馬豊氏公の時代にはほぼ完成していたと考えられます。1669年に朽木植昌公が入部して以降は明治維新に至るまで朽木氏が13代約200年間藩主を務めています。
現在の天守は1640年頃の絵図を参考にした3層4階の複合連結式望楼型天守が再建され、福知山市民のシンボルとなっています。
諸事情により、12月3日以降城巡りが出来ていません。この投稿が2022年最後の投稿となります。城びとフレンドの皆様、本年中は皆様方の投稿で楽しませて頂きありがとうございました。また来年も健康で城巡りが出来ますようお祈り申し上げます。
それでは皆様、良いお年をお迎え下さいませ(*^▽^*)
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2022/12/25 14:14
看板修復 (2022/12/25 訪問)
看板が修復されました。
ありがとうございます。
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2022/12/25 13:32
2022/12/25 13:07
燧ヶ城 (2022/11/27 訪問)
【燧城】
<駐車場他>新羅神社駐車場
<交通手段>車
<見所>堀切・枡形虎口・石垣櫓台・横堀
<感想>燧城は燧ヶ城ともいい、福井県の公式サイトと現地説明板よると「源平盛衰記」1183年に木曽義仲が仁科守弘に命じて平維盛軍10万を迎え撃つために築城しました。南北朝時代の1336年には今庄入道浄慶の居城となり北朝・足利方の将となり南朝方の杣山城~金ヶ崎城の連携を絶ちます。戦国時代の1573年には下間頼照と一向一揆勢が織田信長に対抗し立て籠もりますが敗れます。その後は柴田勝家の持城となったようです。
登山口は北麓の今庄観音堂の左脇にあります。登山道は整備され登り易く15分程度で南東の虎口に着きます。城跡は南東から北西にかけて尾根を切り開いた直線状の連郭で北西側の曲輪以外の曲輪は堀切で仕切っています。南東の虎口前に曲輪法面に石垣が残る馬出しの曲輪があります。堀切から回り込んで横堀になっています。その先が内枡形になっていて仕切り石垣が良好に残っています。その先が長い曲輪になっていて麓側に長い土塁があります。主郭虎口の石積み遺構も良好に残っています。主郭は比較的狭く櫓台かまたは一向衆の城でもあったので御堂跡かの方形の石垣台が2つ残っています。主郭横堀は大きく、巨石が多く転落しているので石垣か何らかの遺構であったろうと思われます。主郭北西側は大堀切で土橋のサイドが石積みになっています。大堀切はそのまま大竪堀になっていて見応えあります。主郭の北西側の曲輪は広く削平され、そのまま北西方向に尾根が狭くなっていきます。北西側にかなり薄くなっていますがL字状の土塁が2か所防御してそのまま何となく遺構がなくなっていて搦手側は防御が薄いです。道はそのまま数キロ先の藤倉山に繋がっているようです。
JR今庄駅から登城口まで徒歩5分の距離で利便もいいです。私好みの山城+石垣、良好に残るダイナミックな遺構にかなり興奮しました。お勧めの城跡です。
<満足度>◆◆◆
<グルメ>福井そばである今庄そばがお勧めです。国道沿いの「おばちゃんの店」に行き鰻丼のセットをいただきましたが、駅を中心にそば屋が数件あるのでどこに行っても美味しいでしょう。
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