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くらのり

亥鼻城 (2022/07/09 訪問)

千葉介常重が大椎城からこの地に移転して築城した。常重の子、常胤の代の1180年(治承4年)源頼朝が伊豆で挙兵し石橋山合戦で敗北、安房に脱出した際に頼朝を助け、鎌倉幕府樹立に大きく貢献した。
この活躍で千葉氏は下総のほか、奥州、九州等にも所領を増やし、最盛期となった。1455年(康正元年)、前年に勃発した古河公方と鎌倉公方(堀越公方)の対立による騒乱(享禄の大乱)で千葉氏も内紛が勃発、宗家・千葉介十四代胤直・胤宣父子を一族の馬加城主馬加康胤らに急襲され落城、千葉宗家を継いだ康胤の孫、輔胤により廃され本佐倉城に移った。

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本佐倉城 (2022/07/09 訪問)

将門山に築かれたお城で、千葉氏後期の本拠地となった本佐倉城は、文明時代に築城された。1615年(元和元年)に藩庁の佐倉城への移転と一国一城制度によって本佐倉城は廃城。
本佐倉の城下町は、酒々井宿に移設され、成田が移動の宿場になったと考えられています。城の構造は、内閣と外郭に分かれており、内郭は半島状の丘陵上に占地し、往時は湿地帯で囲まれた要害でした。
一方外郭は内閣からつながる丘陵上を自然地形と空堀で分断した広大な地積を持っています。現在でも本佐倉城の土塁や空堀などの遺構はほぼ完全な姿で残っている。

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佐倉市 (2022/07/09 訪問)

近世のお城で、現在、佐倉城跡は佐倉城址公園として整備されています。標高30mの鹿島山に築かれた城は、西側と南側を囲みこむように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れています。
戦国時代に千葉親胤によって築城が始まりますが、千葉親胤が暗殺されたため工事は中断し、その後、1610年に徳川家康の命を受けた土井利勝によって築城が再開され、佐倉城は完成しました。
城主は江戸幕府の要職に就くことが多く、入れ替わりが多いことでも知られ、城郭は石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀にして、三重櫓を天守の代用とした。

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新高山城 (2021/07/11 訪問)

小早川氏の居城は沼田川の対岸にあった高山城でしたが、沼田小早川家を継いだ小早川隆景は1552年(天文21年)に沼田川をはさんだ対岸に新高山城を築城しました。
1596年(慶長元年)に三原城へ移るまでの間、新高山城は小早川氏の本拠となったのです。三原城が築城される時に、新高山城の石垣を持ち去ったといわれています。
新高山城には本丸、中の丸、西の丸、北の丸、鐘の段などの櫓跡が残存し、小早川家の菩薩寺である匡真寺の跡もあります。

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三原城 (2021/07/11 訪問)

最盛期には天守台を北にいただいた本丸、東・西・南側に二の丸、それらの東側に三の丸と東築出、西側に西築出を設けていました。
海に向かって舟入りを開いており、郭を隔てる縦横の堀の重なるも加わると、満潮時には海に浮かんだように見えたことから「浮城」とも呼ばれたそうです。
1567年(永禄10年)頃に毛利元就の三男である小早川隆景によって、大島・小島をつないだ埋め立て地に建て始められたのが始まりと言われています。現在は天守台、舟入櫓の一部しか残っていないものの、当時は西は約900m、南北には約700mの長さがありました。

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福山城 (2021/04/18 訪問)

別名「久松城」「葦陽城」とも呼ばれており、日本における近世城郭円熟期の代表的な遺構です。
天守閣部分は景観重要建造物の指定に。慶長20年(1615年)の一国一城令発布後の元和8年(1622年)に竣工したお城で、大規模な新規築城による近世城郭では最後の例です。備後福山藩の藩庁かつ藩主の居城であり、形式は輪郭式の平山城。2重の堀、瀬戸内海へ抜ける運河を持つために海城としても知られ、五重の天守と7基の三重櫓を有していた。明治以降は福山町の請願によって本丸の天守等の5棟は残されたが福山大空襲により伏見櫓、筋鉄御門を残して焼失。

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青木城 (2020/11/27 訪問)

中世瀬戸内海中央に勢威をふるった因島村上氏の主要な城跡群の一つであり、島の北端にある青木城跡は向島の余崎城とともに布刈(めかり)瀬戸を見張る城として利用され、標高50mの本丸を中心に東の大手にむかって郭が連なる。
なお、城麓には的場・裏木戸の地名を伝える。因島村上新蔵人吉充が向島の余崎城り移り居城した。
因島のほぼ北端、城は現在の重井東港を望む小丘陵上に在り、比較的旧状をよく保った郭が5段重なり、武者走りも残っている。

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矢筈城 (2020/08/10 訪問)

石見銀山遺跡に登録された城館(山吹城・石見城・矢筈城・矢滝城)のうちの一つであり、城は石見銀山から温泉津へ抜ける銀山街道の北西側にある標高479.9mの山頂に築かれて、山頂の主郭部と北側の尾根の北曲輪群で構成されている。
主郭は山頂にある南北に長い曲輪と、南下の腰曲輪で構成されている。北尾根は細尾根で先端が岩場になっている。南尾根には東西に八の字状に竪堀があり、この辺りの切岸には天然の石が石垣状になっている。三段ほどの曲輪は主郭部一帯より広く、その間の谷間はやや傾斜があるものの概ね平坦になって、曲輪の北側には土塁が残っている。

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亀居城 (2020/03/14 訪問)

毛利氏の上方への侵攻を防ぐために安芸国西部に城を造ることとなった。1603年(慶長8年)に山陽道を押さえる要地に築城が開始され、5年もの歳月をかけて、非常に巨大な堅城として完成した。
城主になる予定だった福島正則の甥・福島正宣は前年に死去しており、山田小右衛門と森佐助の両名が城代として城に入った。豊臣氏と徳川氏の軍事的衝突の危機が高まると豊臣恩顧の福島氏への徳川氏の圧力が非常に強くなり、正則は徳川氏の意向に従うこととなった。結局、亀居城は完成よりわずか3年後の1611年(慶長16年)に破却され、その役目を終えた。天守や主要な建造物は撤去された。

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金沢城 (2020/01/25 訪問)

天文15年に本願寺が金沢御堂を創建したのが始まりと言われています。その後天正11年に前田利家が入城し、明治2年まで加賀藩前田家14代の居城となっていました。
前田利家は文禄元年(1592年)から改修工事を始めて、曲輪、堀の拡張、5重の天守や櫓を建て並べました。城址を含む一帯は金沢城公園として整備され、白い漆喰と石垣のコントラストが映える外観の石川門は国の重要文化財にも指定されています。
日本3大庭園の1つである金沢市の兼六園は、加賀藩5代藩主前田綱紀が金沢城に付属して作らせ、代々の藩主が改修した大名庭園です。

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福岡城 (2019/12/29 訪問)

別名「舞鶴城」「石城」と呼ばれ、現在、福岡城跡は舞鶴公園と大濠公園になっています。江戸時代初期に、関ヶ原の戦いで功績をあげた外様大名の黒田長政が、警固村福崎の丘陵地に築城しました。
築城期間は7年だったとされ、城の規模としては九州一の巨城です。それ以降、明治まで福岡藩黒田氏の居城となりました。本丸、二の丸、三の丸などの中心部は総石垣づくりなことから「石城」とも呼ばれています。現在も美しい石垣が四層に分かれて、広大な史跡となっています。また城跡には現存櫓、移築、復元された櫓・城門も点在しています。

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大野城 (2019/12/29 訪問)

古代山城で、標高410mの大城山(四王寺山)に所在し、山頂を中心に土塁と石垣の外周城壁は6.8㎞もあります。上位機は東西約1.5m×南北約3㎞で日本一の大規模な古代山城になり、城門は9か所が開かれていました。また谷部には浸透式で自然排水の百間石垣や、屯水石垣などが確認されています。
白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、大和朝廷が倭(日本)の防衛のために築いたと言われています。また城郭の建設を担当したのは亡命百済人であったそうです。

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米子城 (2019/09/22 訪問)

別名「久米城」「湊山城」とも呼ばれ、江戸時代初期は米子藩の藩庁でもあった。米子藩(西伯耆)の拠点的なお城は、山陰地方で最初に築かれた近世初期の城郭。
天守のあった標高90mの湊山は、北に丸山、東に飯山、南西側に中海という天然の要衝を擁する地でした。
この城山を内堀で囲んで、外郭に武家屋敷を配置して、外堀を巡らせていた。四層五重の天守閣と四重櫓という大小2つの天守が華麗に連なっており、江戸時代の一国一城令でも存続を許された支城でしたが、明治時代に切り売りされ、現在は城の建物は残っていないが形態をよくとどめ、その構造を知ることができる。

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会津若松城 (2019/09/15 訪問)

別名「若松城」。地元では「鶴ヶ城」と呼ばれています。本丸を中心に西出丸、北出丸、二の丸、三の丸で構成。1384年(至徳元)に葦名直盛が東黒川館として築城。
改修ののち「黒川城」とその城下が成立し天下の名城となりました。1589年(天正17)葦名氏を滅ぼした伊達政宗が城主になります。伊達氏が豊臣秀吉に臣従すると、1592年(文禄元)蒲生氏郷が城主となり改修。
若松城と呼ばれる。戊辰戦争の一つ、会津戦争において新政府軍に襲撃され落城。石垣を残して取り壊され、昭和40年に寄付により再建。現在は「鶴ヶ城 城址公園」に。

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洲本城 (2019/08/25 訪問)

別名「三熊城」と呼ばれており、国の史跡にも指定されています。大永6年(1526年)三次氏の重臣、安宅治興が築城しました。1581年淡路討伐の際に、総大将羽柴秀吉に降り、城は仙石秀久に与えられました。
しかし秀久は九州征伐の際に違反を犯して高野山へ追放。その代わりとして脇坂安治が城主となって、天守を造営しました。また石垣の大改修もその際に行われ、登り石垣が築かれます。
現在ある模擬天守は、1928年に御大典を記念して作られた鉄筋コンクリート製。模擬天守としては日本最古のもので展望台に特化しています。

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くらのり

明石城 (2019/08/24 訪問)

旧明石藩の政庁と藩主の居所が置かれており、別名「喜春城」「錦江城」と呼ばれています。JR明石駅北側を降りると、駅ホームより間近に望むことができる平山城です。
本丸付近は柿本人麻呂を祀った人丸塚があったと言われ、この地は嘉吉の乱で激戦地でもあった。徳川幕府が西国の外様大名の抑えの城として姫路城に次いで着目したお城です。徳川秀忠より築城命令があり、本多忠政と小笠原忠真が築城から町割りも行ったとされています。
現在は明石公園として整備され、櫓や石垣は1995年の阪神・淡路大震災で被害を受けたものの全面修復されました。

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くらのり

丸亀城 (2019/08/15 訪問)

別名「亀山城」「蓬莱城」と呼ばれており、標高66mの亀山を利用し、縄張りはほぼ四角形で亀山の廻りを堀で囲む渦郭式の平山城です。最大の特徴は石垣の高さ。
緩やかであるが荒々しい野面積みと端整な算木積みの土台から、頂は垂直になるように独特の反りを持っています。この反りは「扇の勾配」と呼ばれています。
山麓から山頂まで4重に重ねられている石垣は、合わせると60mにもなり、総高としては日本一です。三の丸石垣だけでも一番高い部分は22mあります。ちなみに単体として日本一高い石垣は大坂城で、実測値は33mです。

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イオ

とことん江戸城(スペシャルサンクス)

とことん江戸城のきっかけとなったもの、参考にさせてもらったものを感謝を込めてご紹介。

ブラタモリ(江戸城、江戸城と東京)

タモリさんが2階建てバス(スカイバスっていうんですね)と船で江戸城の内堀・外堀をめぐる回を観て、場所によって堀沿いの石垣の高さが違ったり、地形に応じて石垣と土塁を使い分けていたりするところを確かめてみたいと思ったのがそもそものきっかけです。出張が決まり、内郭・外郭めぐりをしようと決めた後、下調べとして録画をもう一度観返しました。続編として大名屋敷の回もあり、いつかは大名屋敷跡もめぐってみたいものです。


にのまるさんの「36見附めぐり」

ブラタモリを観た時点では「2階建てバスで行く! 江戸城ブラタモリツアー(現地解説付き)」とかやってくれないかなー、程度で、外郭を自分の足で踏破しようとまでは思っていませんでしたが、にのまるさんの「36見附めぐり」を拝見して、自分もこういうことがやりたい! と思ったのが決定打でした。とはいえ、首都圏在住ならともかく関西人には出張の度に1~2箇所ずつぼちぼち進めるしかないかな、と思っていたのが、まさかその半年後に一気にめぐることになろうとは…。

出張が決まり、自分なりに下調べした上で「36見附めぐり」を読み返してみると、チェックした見どころはほぼ全て網羅されており、現地でも見落としがないかその都度「36見附めぐり」で確認するなど、動機から下調べ、現地でもひたすらお世話になりました。ありがとうございました。


江戸城の全貌(萩原さちこ・さくら舎)

城びとでも江戸城の連載をしておられた萩原さちこさんの解説書です。江戸城の歴史、天守や御殿、石垣の解説に加えて、内郭・外郭の城歩き視点でのみどころ紹介もあり、四六判のため現地での持ち歩きにもかさばらないのもありがたかったです。下調べに往復の新幹線内の暇つぶし、現地でもその都度参照させていただきました。


大江戸今昔めぐり(スマホアプリ)

江戸末期の古地図とGoogleマップを重ねて表示できる地図アプリ(無料)です。以前にくろもりさんが投稿でお勧めされているのを拝見して、インストールしたまま東京に行く機会もなく半ば忘れていましたが、往時の様子や位置関係について、文章で読んでも具体的にイメージしづらい時でも「大江戸今昔めぐり」を開けば一目瞭然で、下調べでも現地でも活躍してくれました。くろもりさん、ご紹介ありがとうございました。

そして、こんなだらだらと長い投稿に最後までお付き合い下さった皆さまにも感謝を…。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:飯久保城 (2022/07/31 訪問)

守山城からの転戦です。飯久保八幡宮入口(36.805140、136.954456)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、狩野氏によって築かれたと云われています。
狩野氏については詳らかではないようですが、永禄年間(1558年〜1570年)には飯久保城に在城しており、神保長職に従っていたようです。
その後、越中を支配した上杉謙信、佐々成政に従いました。
1585年(天正13年)佐々成政が羽柴秀吉に降ると狩野氏もまた飯久保城を明け渡して退去したと考えられています。

路駐場所が狭く民家前だったので登城せず、飯久保八幡宮に参拝して引き返しました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=惣領砦に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:守山城 (2022/07/31 訪問)

古国府城からの転戦です。二上山中継局前駐車場(36.788171、137.010508)に駐車し、公園に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に桃井直常によって築かれたと云われています。
室町時代には守護畠山氏の守護代神保氏の居城放生津城の詰城としての役割があり、1519年(永正16年)越後の長尾為景が越中に侵攻した際に、神保慶宗はこの城に籠って対抗しました。
神保氏は天正年間(1573年〜1592年)に神保氏張が上杉謙信に降り、1578年(天正6年)謙信没後に織田氏が越中に侵攻すると佐々成政に従いました。
1585年(天正13年)富山の役で前田軍が攻め落とし、秀吉から賞賜されて前田利長の居城となりました。
1597年(慶長2年)前田利長が富山城に居城を移すまで在城しました。
以後、前田対馬守長種が守りましたが、城下の寺院や商工業者は富山に移り、城下町は急速に寂れていき、その後廃城となったと考えられます。

現在は万葉ラインや山頂の公園化、駐車場となり城址は破壊されているようです。
電波塔横に竪堀はあるようですが、わかりませんでした。
本丸には観音像が建てられ、説明板があります。
松倉城(魚津市)、増山城(砺波市)と並び越中三大山城と称されたそうです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=飯久保城に向かいます。

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