みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

しんちゃん

囲まれたら和睦。 (2023/08/14 訪問)

枝吉城は吉田郷土館の背後、神本神社のある丘陵に
築かれています。本丸が城址公園になっていて、
城址碑があります。登り口は二つありました。
一つは神社の左手奥から続いている道があります。
もう一つは郷土館から左手に入り、玉津王塚古墳の
模型のあるあたりから城址に続く道があります。
かつては赤石氏の被官であった明石氏によって築かれたと
されています。
枝吉城は天文7年(1538)明石正風の時に赤松・細川連合軍に囲まれ
戦わずして和睦(降伏)しています。
天文23年(1554)明石某の時にも三好実休らに囲まれ、駆け付けた
三好長慶の大軍に怖れをなしてか、あっさりと和睦しています。
無理をしないポリシーのようですね。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

いいのかな。 (2023/07/16 訪問)

西方院山城は瑜伽神社のある丘に築かれた城で、かつては
神社側からアクセスできたと思われますが、危険とのことで
施錠され立ち入ることができません。
乗り越えるわけにもいかず‥
かつて隣の鬼蘭山城とつながっていたということは
あっわかりやすい登り口が、二分後にはもう城域にいました。
登ってすぐ郭に到達し、堀切と土塁に土橋がかかっているので
それを渡ると主郭です。なかなか良く遺構が残り
東に二重の堀切があり、周囲も土塁が残ります。
遺構を見たらそそくさ退散。
奈良ホテルへ向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

大乗院庭園 (2023/07/16 訪問)

鬼薗山城は古市氏が対立する筒井氏に備えて築いた城で
かつては西方院山城とつながっていたそうです。
現状、奈良ホテルの敷地内になっているそうで
警備員に止められないか心配でしたが、問題なく
見学できました。遺構は見当たりませんが
大乗院庭園がすぐ近くにあり、無料で見学することができます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

真夏の諏訪原城・北馬出と復元薬医門 (2023/08/21 訪問)

 諏訪原城築城450年イベントの一つで中馬出・三日月堀の景観を高所からの見晴らしとして仮設展望スタンドが架設されて素晴らしい俯瞰を見る事が出来ます。(期間中)
 素晴らしい景観を見た後、中馬出の北に続く北馬出に平成28年復元された薬医門・令和3年と4年に復元された板塀(現在は鉄骨剥き出し塀)を眺めながら、続く壕と北側の大井川と富士山の景観を眺める事を楽しみにしていますが、真夏の蒸し暑い蝉しぐれの中、富士山を遠望することは叶わない。
 北馬出、復元薬医門、復元板塀こと赤い鉄骨塀を真夏の酷暑の中、眺めて楽しみました。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

城カード第3弾再建天守シリーズ① (2023/08/09 訪問)

この夏の北海道はゴールデンカムイの聖地巡礼が目的でしたが、松前城の城カードを外すわけにはいきません。函館から往復すると半日がつぶれてしまいますが仕方ありません。天気予報はずっと芳しくなかったのですが、見事な晴天に恵まれました。北海道らしからぬ暑さを味わうことにもなってしまいましたが。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

トク

64【関ケ原の26人】(23)石田三成 (石田三成と名護屋城①) (2023/08/20 訪問)

(23人目)「石田三成」の続きです。
関ケ原の戦いの伏線となった「名護屋城」を訪れてきました。

ここに当時大坂に次ぐ日本第二の都市があり、20万以上の人口で賑わっていたとは、何度訪れても、やはり今のこののどかな風景からは想像がつきません。登城する前に登城口前にある県立名護屋城博物館をまず先に見学してきました(写真①)。ここでは、元寇から秀吉時代の名護屋城や朝鮮出兵の様子が詳しく展示解説されています。また黄金の茶室が昨年は期間限定でしたが、今では常時観覧できるようになっていました(写真②③)。この立派な博物館が何と無料で入れます。しかも複数人いればバーチャルVRを無料で借りる事ができ当時の名護屋城をVR体験する事ができます(身分証要)。名護屋城も入城無料です(気持ちだけ清掃協力金100円お願いしますとの事、代わりにパンフレットもらえます)。佐賀城本丸御殿も無料だったので、佐賀県は実に「がばい!」と改めて思いました。

城の大手門跡(写真④)から本丸まで大きな石垣が多々見えますが、その近くにごろごろところがっている無数の石があます。これは一国一城令で寺沢広高が破却した跡です。それが今でも残っています。あまりに石垣が立派すぎたからか、壊しきれず中途半端な破却で終わっているのがよくわかります。大手門を過ぎると太閤道(写真⑤)と東出丸(写真⑥)を通り、また破却できなかった石がゴロゴロ転がる三の丸を抜けると本丸に着きます(写真⑦)。ここには畳300畳分の大広間を持つ巨大な御殿がありました。そして天守台には五重六階の巨大な天守がそびえていました(写真⑧⑨)。

慶長の役では三成自ら軍目付として渡海、しかし各地で日本軍が敗戦しているのを真の当たりに見て、前線の小西行長に和睦の仲介を託し、戦を止めようと名護屋に戻り状況を秀吉に報告しますが、当然秀吉は納得せず、返って前線で戦っている諸将たち(武断派)の怒りを買う内容になってしまいます。そして秀吉死後、武断派の怒りは収まらず、三成襲撃事件へとつながり、三成は家康の仲介で佐和山に籠り蟄居の身へ・・・

私は天守台に立ち海を眺めて考えてみました。三成も名護屋城の天守からどんな思いでこの海を眺めていたのでしょうか? 家康は憎けれど、同じ秀吉の小姓として仕えた者同士と、この後に関ケ原で戦をする事になるとは、本望ではなかったのではないでしょうか? 結局ここが、今まで順風満帆だった三成の人生のターニングポイントの場所になってしまいました。

次は(名護屋城②)石田三成陣跡と、前回は呼子のイカを紹介しましたが、今回はこの名護屋での私のお気に入りの場所を御紹介します。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

詰めの城の奥丸 畝状竪堀。 (2023/08/14 訪問)

秋月城の詰めの城は奥丸と呼ばれ、秋月歴史公園になっており
車で行くことができます。
道は狭く、急坂ですが5ナンバーくらいのサイズであれば
問題なく到達でき、駐車場もあります。
入り口は獣害よけの針金でぐるぐる巻きにされていて、
さすがに面倒なのでよいしょとまたいで入りますが
あまり行儀はよくないです。
山頂部に郭があり、途中にも展望台の郭、東屋の郭がありますが
展望台の階段は傷んでいるかもしれないので、登らない方がよいかも
しれません。山頂部からの眺めもイマイチ。
でも東屋の郭の左右に竪堀があるようです。向かって右側の方が
良く見えますね。畝状竪堀のようです。
奥丸から下った先、駐車場の西側に池があるようです。この付近に
五輪塔があるようですが未確認です。

秋月歴史公園駐車場
徳島県阿波市土成町秋月明月82−2
34°06'12.6"N 134°18'52.7"E
34.103505, 134.314643

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

四国管領細川氏の居館跡 (2023/08/14 訪問)

秋月城は県道139号線によって南北に分断されており
その周囲を巨大な堀がめぐり南北も堀切によって
分断されていたようです。城址碑のある北側の郭が
主郭のようで現状墓地でヤブ化が進んでいます。
城郭大系に寄ればここが南北朝時代に四国大将・四国管領
として四国の守護に号令した細川氏の居館跡ということです。
阿波の吉野川流域の武士たちが足利尊氏に協力し湊川の戦いで
楠木正成を破る強力な兵力になっていたそうです。
戦国期には秋月五郎左衛門光秋が城主を務め、天正年間に落城。
本丸の一角に秋月城主及び戦没将士の墓 があるそうです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

西へ東へ (2023/08/14 訪問)

西条城は西条東城とも呼ばれ、かつての居館跡の丘の南に祠と
城址碑があります。遺構は有りません。
吉野町の「三木家系図」には貞和2年(1346)左近将監備前守春之が
秋月城の支城として築城したとあります。
天文年間、岡本美作守清宗の時代に長宗我部元親の攻撃を受け
落城。天正14年(1586)蜂須賀家政がこの城を阿波九城の一つとして
修復し、後の一国一城令により廃城になったと伝わります。

西条西城は阿波市吉野町字蛇池にあり、現状畑地でビニールハウスの
近くに城址碑が残っています。
かつては西条壱岐守の城で中富川の合戦で討ち死にし天正10年に
落城と伝わります。

西条東城 入り口付近
徳島県阿波市吉野町西条町口132
34°05'57.6"N 134°22'58.0"E
34.099322, 134.382787
狭い道を入っていきます。

西条西城跡石碑
徳島県阿波市吉野町西条蛇池139−7

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

仙石山 (2023/08/24 訪問)

 神谷駅からネットで多くの方が撮影している仙石山町會防護團石碑へ行きました。徒歩5分くらいです。ネットがかかっていましたが、遺構でもないし、まあいいかとそのまま撮影しました。

+ 続きを読む

北風の又三郎

久しぶりです! (2023/06/05 訪問)

お久しぶりです。(知ってる人いるかな?)
城びと久々に投稿します!

勝連城は沖縄ということもあり、異国の城な感じがしてすごく面白いです。城の周辺もかなり整備されていて今は再開発の最中のように感じられました。勝連城は景色も良く、おすすめです!勝連城の周辺にはあまわりパークという資料館のようなものもあります。

勝連城自体は、攻城時間も少なく簡単に攻略できます!暑い沖縄の気候にはぴったりです。


+ 続きを読む

谷戸運動公園 (2023/08/24 訪問)

 中野長者屋敷跡である成願寺より徒歩約15分くらいでしょうか。谷戸運動公園のフェンスの前に説明板がありました。遺構はないようです。

+ 続きを読む

成願寺 (2023/08/24 訪問)

都営大江戸線中野坂上駅より徒歩10分弱くらいで、跡地と伝わる成願寺へ行くことができます。遺構はないようです。

+ 続きを読む

しんちゃん

城址碑見えないじゃん。 (2023/08/14 訪問)

原田城は石碑と城址碑が残っていますが、遺構は有りません。
朝駆け一番槍で訪問したのがあだになりました。
お声掛けして中に入って見ることもできず‥城址碑は
ファームマシンの影です。
初代 原田右亮義実は奥州原田荘に生まれ、鎌倉幕府に仕えたが
幕府の追手を逃れ阿波に来たと言います。
数代に渡って守護の小笠原氏に仕えたのち、勝瑞城主の細川氏や三好氏らに
代々使えましたが、天正10年、原田久左衛門の代に中富川の合戦に
嫡男の原田小内膳と共に参戦し敗死。原田城も落城したといいます。

+ 続きを読む

練馬城址公園 (2023/08/24 訪問)

  練馬城址公園として整備中なのは知っていましたが、近くへ来たので立ち寄りました。
西武豊島駅の目の前にあります。平日ですが多くの人がいましたが、ほとんどの方は「ワーナー ブラザース スタジオツアー東京 - メイキング・オブ・ハリー・ポッター」へ向かっていました。今のところ公園に城址らしい雰囲気はありません。
駅近くの「この土地の歴史と思い出」の案内板に練馬城のことが少しだけ記載してありました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

石神井公園 (2023/08/24 訪問)

 北を三宝寺池、南から東を石神井川に挟まれた場所に築かれた城ですが、土塁、空堀が残っています。ただ土塁、空堀は養生中で普段は立入できません。フェンスの外からでもある程度わかりますが、やはり冬の方が見やすいと思います。諸先輩方の投稿を拝見すると文化財ウィークには入れるようですね。近くの三宝寺山門近くにもこの城のことに触れてある説明板がありました。愛宕山砦より徒歩約10分弱で行くことができました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

鑓場の義戦・久米の乱  ‥と謎のグルグル井戸 (2023/08/13 訪問)

芝原城は八幡神社と蔵珠院一帯に築かれていたとされますが
遺構は有りません。蔵珠院には全国でもここだけという
すり鉢状の珍しい井戸があります。
城主 久米安芸守義広の夫人は主君、細川持隆の妹であり
三好義隆は婿に当たると言います。
天文22(1553)6月 細川持隆は平島公方足利義冬の
将軍擁立問題から三好義隆と対立、龍音寺で襲われ、見性寺で
自害します。久米安芸守義広はこれを許せずとして挙兵
義隆の妹婿一宮成助を襲い、これに逃げられたので
義隆の妹を人質にします。怒った義隆の大軍3000が芝原城に
襲いかかり、久米は頼りとする豪勇野田内蔵助を失い、
激しい戦いの末、腹を十文字に掻き切り討ち死に。
全員悲壮な死を遂げたとあります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

早稲田高等学院 (2023/08/24 訪問)

太田道灌が石神井城を攻めるために築いたとされている城址です。西武新宿線上石神井駅より徒歩10分くらいで跡地と伝わる早稲田大学高等学院の門に着きました。遺構はないようです。石神井川近くからグーグルマップで愛宕山砦を示す場所付近を撮影しました。

+ 続きを読む

しんちゃん

昔は広かったのよ。 (2023/08/13 訪問)

案内板に寄れば平安時代末期、藤原師光の六男、近藤六親家が
築城したとあります。
戦国期は赤沢氏の城となり、勝瑞城の西の守りとして重要な
位地を占めるが、天正10年(1582)中富川の合戦で長宗我部元親の
兵火にかかり、勝瑞城とともに落城したと有ります。
城郭放浪記さん、余湖クンさんのサイトの情報も合わせて
見てみると、古城、城ノ内、城ノ西、南屋敷といった地名が残り
案内板の南側が古城(本城)で宅地と水田になり
北西の水田や宅地が北城、その南が城ノ西、古城から南側へ通り一つ
隔てたあたりが新城で南屋敷と呼ばれるエリアの東端に位置します。
かつては、この周辺の集落一帯を覆うだけの城域があったと推測します。

参考にさせていただいたサイトの方々に、お礼申し上げます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

正義感と団結力は強いが、悪い奴に勝てず。世の中不条理だ。 (2023/08/13 訪問)

城址は城郭大系によればかつては田であったそうですが
今では開拓が進みアパートが背後に迫っています。
祠と案内板を白いフェンスで囲ってあるのが、なんとも
不思議なかんじですが、
城主小倉美濃守重信は源氏の家系で、阿波守雄倉王の子孫
美濃守勝政を祖とし、一族に水野・西延寺・三浦・寺尾の四氏
がいたと伝わります。
天文22(1553)3月、国府町の鑓場合戦で主君、細川持隆を殺した
逆臣、三好義賢を討つため、芝原城主 久米安芸守義広を盟主として
仁木日向守高将、佐野丹後守平明、野田内蔵助ら800騎で義賢の3000余騎
と戦い枕を並べて討ち死にしたということです。

田宮川を天然の堀としているので城域は案外広いと想像しますが
一方通行が多く全部が見切れていません。
城域の北端に立てば雰囲気はつかみやすいと思います。
誰か‥

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ538