江上館は三浦和田氏の総領家・中条家の居館と考えられていて、主郭は堀まで含めて
一辺約110mの方形で、北と南に門が設けられています。北側には土塁を備えた北廓が配され
北廓の西端には鷹麻神社が建てられています。小ぶりですが主郭の南に南郭があり、各郭の間を
木橋で繋いでいます。南北の門は木橋からすこしずらした配置になっており、15世紀ごろに
喰い違い虎口の形状に作り直されたと見られています。当時としては先駆的な構造として
注目されているようです。
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2023/09/24 20:05
堀と土塁(おそらく復元)を良く残す国の史跡。 (2021/05/09 訪問)
江上館は三浦和田氏の総領家・中条家の居館と考えられていて、主郭は堀まで含めて
一辺約110mの方形で、北と南に門が設けられています。北側には土塁を備えた北廓が配され
北廓の西端には鷹麻神社が建てられています。小ぶりですが主郭の南に南郭があり、各郭の間を
木橋で繋いでいます。南北の門は木橋からすこしずらした配置になっており、15世紀ごろに
喰い違い虎口の形状に作り直されたと見られています。当時としては先駆的な構造として
注目されているようです。
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2023/09/24 19:21
周囲を大規模な土塁で囲っている。 (2021/05/09 訪問)
古館館は現在は曹洞宗・常光寺の境内で周囲を土塁で囲まれ、東側に壕跡が残ります。
土塁内の西の大部分が主郭で東に東郭が付随します。南側が大手のようで常光寺の入り口
として機能しています。案内板には奥山荘の北条内の高野条(郷)を治める高野氏の居館
とされています。高野氏は黒川氏の庶家とされており、黒川氏は中世に越後国奥山荘を領した
三浦和田氏の有力一族とされています。常光寺の過去帳には「堀近江守一万石の館跡也」と
記載があるようで、この人物が江戸時代の越後椎谷藩9代・堀直起と同一の人物であるかは
わかりませんが鎌倉時代の遺構をそのまま残しているわけではなさそうです。
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2023/09/24 19:10
長島一向一揆450回忌法要 (2023/09/24 訪問)
今日は桑名市長島町にある、願証寺で長島一向一揆450回忌法要があったので、行って来ました。
あわせて信長に徹底的に滅ぼされた長島城跡と願証寺がもともとあった場所(今は川底に沈んでいる)も訪ねて来ました👍️
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2023/09/24 18:43
夏の特別公開 (2023/08/18 訪問)
姫路城の夏の特別公開に行って来ました。
大天守、イの渡櫓、東小天守、ロの渡櫓、乾小天守、ハの渡櫓、折廻り櫓を見て来ました。
姫路城は、連立型の天守で大天守と3つの櫓を4つの渡櫓で繋いでいます。
各々に特徴があり、鉄壁の守りの天守ですね。
るの門は、埋門で石垣をくりぬいた穴門です。
菱の門の塀をよじ登ったり、屋根づたいに侵入してきた敵兵がいの門に向かって突き進んだ場合後詰で敵兵を攻撃と
また、敵兵がるの門を発見してきた場合石垣を崩して敵兵を中に入れないようにする防御を兼ね備えて有ります。
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2023/09/24 18:04
2023/09/24 17:57
堀江館 (2023/08/19 訪問)
【堀江館】
<駐車場他>駐車場はなし。館跡そばの道路脇に停車できます。
<交通手段>車
<感想>越前ちょこ城巡りの旅2城目。現地説明板によると堀江館は長禄年間(1457~1460年)に築いたとされます。 堀江氏は鎮守府将軍藤原利仁の末裔で利仁より九世の孫實嗣のときに堀江郷を以って姓としました。一乗谷城主朝倉敏景に仕え郡内2500貫を領し勢力をはります。加賀一向一揆とも対峙しました。現地に遺構は残されておらず、跡地の石碑が残るのみです。
<満足度>◆◇◇
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2023/09/24 17:57
2023/09/24 17:48
2023/09/24 16:47
夏の特別公開 (2023/09/19 訪問)
「るの門」制覇を果たしすっきりしたところで「夏の特別公開」開催中の天守群に向かいました。非公開エリア6棟の同時公開は本日(9/24)が最終日です。
【イの渡櫓】
コロナ渦籠城中につくったペーパークラフトで気になっていた台所櫓が中庭の真正面に見えました。実物を見ることができて感激です。
【東小天守】
窓越しに迫る大天守、迫力がありました。との一門や北側の入れないエリアもよく見えました。
【ロの渡櫓】
足裏に伝わる手斧はつりの感覚が時代を超えさせてくれます。ホの櫓もばっちり見えました。折り重なってぎゅうぎゅう詰めの屋根も眼福です。
【乾小天守】
ロの渡櫓の長い屋根や大天守が至近で見られました。
格子のない窓枠が素敵なフォトフレームに早変わり。西の丸もよく見えました。
【ハの渡櫓】
短い渡櫓ですが、乾小天守と西小天守を結び、外から見ても存在感があります。
閉ざされた扉の向こうの西小天守は来年2月に初公開されるそうです。
【折廻り櫓】
天守見学を終えて備前丸に出ると石垣の上に聳える大天守。その威容に圧倒されながらも気になるのが石垣から突き出ているように見える折廻り櫓です。昨年改修を終えたばかりで漆喰の白が眩しかったです。往時の姿とは少し異なるようですが、備前丸に御殿があった時代の面影を残す居室内にある狭間が特徴のひとつで、重要な防御施設だったと知ることができました。退出してから全体を眺めるとガチで狙われているように思えたのがおもしろかったです。
「ふだん見ることのできないところ」の公開でしたが、「ふだん見ることのできるところ」すら理解があやしいので、せっかく行っても何も感じなかったらどうしようと不安で、行く前は“楽しみ”というところまで気持ちが達していませんでした。しかし、懐の大きな姫路城は知識の多寡など関係なく受け入れてくれました。
たくさん撮った写真を見返しながら『この写真はどの櫓から見たどの櫓のどの部分でしょう?』クイズを自分に出題するのが楽しいです……( *´艸`)
<城内散策へつづく>
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2023/09/24 11:39
贅沢な幕末ドライブ。 (2023/09/10 訪問)
前回、投稿した「馬込城」の後、「池上氏館」へ転戦しました。
大田区にある『本行寺』が「池上氏館」跡です。
館の遺構は分かりませんが、『日蓮上人入滅の旧跡』の説明板の中に『池上 右衛門大夫 宗仲の館』と記載されてました。
宗仲さんは鎌倉幕府の作事奉行です。
日蓮上人が常陸に向かう途中、こちらで亡くなったそうです。
宗仲さんは『池上本門寺』を創建しました。
ムムム。『池上本門寺』と言って思い出すのが幕末の江戸城無血開城。
勝海舟さんと西郷隆盛さんの話し合いの場だったと思い出しました。
大田区には『勝海舟記念館』があります。
幕末は詳しくないのですが、江戸を救ったヒーローの足跡は見てみたいと「池上氏館」を後にしました。
『勝海舟記念館』は洗足池公園の近くにあります。
中は撮影OKの展示物や、勝海舟さんのお人柄がわかる文書、緊迫した書状等がありました。
勝海舟さんの言葉があり、『私の上司に言って下さいよ~(T-T)』と願いつつ、自分の在り方を考えさせられました。
その後、羽田空港の第3ターミナルへ。
こちらは江戸時代をイメージした通りがあり和が表現されてます。
たくさんの方々が、飛行機の発着を待ち、思うように写真が写せません。
唯一、写真⑨が写せた「江戸城」です。
ありがとう、勝海舟さん。江戸を守ってくれて。
蒲田駅のギョーザから始まり、「馬込城」→「池上氏館」→『勝海舟記念館』→『羽田空港』と、贅沢な1日を過ごしました。
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2023/09/24 11:16
【陸奥岩崎館】宮城県栗原市 津久毛橋城の東隣接 (2023/09/17 訪問)
津久毛橋城の東約200~300mの隣接の山稜出鼻地に岩崎館跡が在り現在は村社猿田彦神社が鎮座しています。
住所:宮城県栗原市金成津久毛岩崎山根6
駐車場:岩崎集会所:宮城県栗原市金成津久毛岩崎沢・・猿田彦神社の東約100m程の県道186号線沿い数台可能。
参考資料:古城盛衰記さんグーグルマップ。
津久毛橋城跡をグーグルマップで調べて居ましたら東隣接地に岩崎館の史跡マークが有り今回、津久毛橋城探訪の後に初探訪しました。
車を駐車利用した岩崎集会所から西に直ぐ神社鳥居が目に入り、そこが岩崎館跡です、神社鳥居を潜り、一の石段を登り長屋門を潜り二の石段を登ると社殿と社務所、奥の土塁、更に奥の曲輪と続き、細竹の藪ですが土塁が垣間見えます、左手脇に堀切?がありますが細竹の藪で奥に進めません。
古城盛衰記さんの岩崎舘の資料には北西奥に2重堀切が見応え有りと記載されて居ましたので、近くで農作業されてる方に岩崎舘の堀切の事を聞きましたが、よく分からない様でした、自身も民家への導入道を入って二ヶ所ほど覗いてみましたが良く分かりませんでした。
農作業の方には津久毛橋城の方を紹介されました。また岩崎集会場に車を駐車した事を話しましたら問題ないよと言って頂きました。
話を聞いたところは集会所から西に200程の所、道沿いに岩崎館跡の標柱が立っており側面に若干の解説文が記載されています。
それに依る解説文は、風土記書上によれば、高さ7丈(21m)、東西17間(31m)、南北60間(109m)で、館主は岩崎縫殿と伝えられる。また近藤氏の系図には、葛西氏の旧縁・近藤伊賀守忠清が近江国より下向し、岩崎近藤氏の祖になったと伝えられる。
また、猿田彦神社の由緒には、平安末期の平治元年(1159年)鎮守府将軍藤原秀衡の家臣岩崎館主長崎主殿長徳が伊勢猿田彦神社の分霊を鎮祭したと伝えられている。・・とあります。
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2023/09/24 09:24
別所長治 (2023/09/23 訪問)
別所長冶の居城として知られています。羽柴秀吉による兵糧攻め、「三木合戦(三木の干殺し)」の舞台となりました。遺構はほとんど残っていませんが、地形や規模は何となくわかります。
しんちゃんさんが投稿されていた鷹尾山城等も行きたかったのですが、今回は時間がなく周囲を散策する余裕もなく断念しました。
神戸電鉄粟生線三木上の丸駅より徒歩3分くらいで行くことができます。
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2023/09/24 09:01
2023/09/24 08:58
2023/09/24 08:49
赤松満祐 (2023/09/23 訪問)
城域は東播磨でも屈指の規模を持った城で赤松氏が東播磨の拠点として築いた城です。遺構はほぼないと思われますが、水路脇に説明板があります。嘉吉の乱の時に、赤松満祐が殺害した将軍足利義教の首をもって立ち寄ったと伝わっています。周辺には堀井城や小堀城、金鑵城がありますが、それらの城の中で河合城が中核的な役割を果たしたとされています。堀井城、小堀城とは水路で繋がっていたようです。どのような状態であったのか、その時の風景を見てみたいですね。
河合城、堀井城、小堀城、金鑵城はどの城址もJR河合西駅から徒歩10~20分くらいで行くことができます。
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2023/09/24 08:33
光枝(三枝)氏の城 (2023/09/23 訪問)
土塁が残っていますが、皆さんが投稿で指摘されていうように草が茂っていてわかりにくくなっています。
JR河合西駅から徒歩にて15分くらいで行くことができます。
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2023/09/24 08:23
小川城 (2023/09/23 訪問)
小川城
旅の途中に立ち寄り
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2023/09/24 08:20
2023/09/24 08:06
2023/09/23 22:38
清水宗治の覚悟の切腹が歴史を大きく動かした。 (2019/12/29 訪問)
備中高松城は本丸から南東にかけて、二の丸、三の丸が続き城域の外側全体が沼や池で囲われていた
ようです。当然防御力も非常に高く、天正10年(1582)3月15日、羽柴秀吉が力攻めに及びますが
数百人が討死したと有ります。かくして有名な「備中高松城の水攻め」となるわけですが講和に際して
秀吉は城主清水宗治の切腹という厳しい条件を出します。毛利方は難渋しますが安国寺恵瓊が交渉の
状況を宗治に話した所、男気溢れる宗治は強い決意で切腹を了承したそうです。秀吉側も信長死去の報を
受けていて、ハッタリをかけて強い態度で望んだのでしょうが、結果として宗治の自害の覚悟の速さが
秀吉の中国大返しに繋がり、後の天下統一に繋がっていったのだと思います。秀吉にとっても小早川隆景
とのパイプが出来たのも大きな収穫だったと思います。かつての主、織田信長や官兵衛・半兵衛、
真田昌幸、小早川隆景など才能あふれる武将たちが秀吉を認めたのも「才ある物は才ある物を見抜く」
現象が起きたからだと思います。朝鮮・明を攻めたりキリシタンを弾圧したりして悪し様に扱われる
ことが多いのですが、決してただの「人たらし」に秀でた人物では無いと思います。最初に天下を統一し、
惣無事令を発することができた唯一の武将で正直、徳川家康がしたことは天下の簒奪に近いと思います。
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