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ぎりょう

伊達氏発祥の地を巡る②福島県桑折町 (2022/04/29 訪問)

この日の2城目は桑折西山城。伊達氏初代の朝宗が「高館城」として築城したとの伝承があるが、中世山城として大規模な改修がなされるのは、14代稙宗の時代となる。稙宗は大永2年(1522)陸奥国守護に任じられ名実ともに奥羽の覇者となり、その権威にふさわしい城が必要となり、梁川城から桑折西山城に移った。
桑折西山城は稙宗時代に活用された本丸・二ノ丸の部分と、戦国末期に改修された中館・西館部分がある。現在、本丸中心部には当時伊達氏が政治・儀式・接待を行った中心建物の柱跡をかたどった展示がなされている。
この日は午後から雨となり中館・西館はパス。写真も写りがいまいちですね(笑)6月の再訪問後に再度投稿いたします。
攻城に当たっての駐車場は「観音寺」または「うぶかの郷」の駐車場を利用でき、いずれからも本丸まで徒歩20分ほど。なお、攻城前に老人福祉センター「大かや園」に併設されている「桑折西山城ガイダンス施設」で情報収集をされることをおすすめしたい。
搦手口に近い温泉施設「うぶかの郷」は登城後の入浴に最適。地元名産の献上桃を餌に飼育したロイヤルピーチポークを使ったかつ定食など食事も楽しめる。
桑折町は伊達氏関連史跡、寺社、旧伊達郡役所、奥州・羽州街道分岐点「追分」など見どころも多く楽しめます。

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昌官忠

のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り⑦:梶原景時城 (2022/04/30 訪問)

6月の九州遠征前の、なまった足腰(コロナ過で10か月攻城していません)のリハビリを兼ねた攻城(PART3)です。
のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り7城目は梶原景時城です。
寒川駅より徒歩10分ちょっとで鳥居前(35.364538、139.381832)に着きました。

梶原景時城は平安時代末から鎌倉時代にかけて活躍した武将梶原景時の館があったと伝承されています。

梶原景時(かじわら-かげとき)は鎌倉幕府の御家人で、平安時代後期の1140年頃に生まれました。
父は梶原景清で、母は横山党・横山孝兼の娘です。
1180年8月、源頼朝が挙兵し、石橋山の戦いとなった際には、反対勢力である平家側の武将として戦っています。
この時、敗れた源頼朝は山の中に隠れたのですが、大庭景親らと探索するなか、梶原景時は土肥の椙山にある「しとどの窟」に隠れている源頼朝を発見します。
しかし、梶原景時は情をもって、この山には誰もいないと大庭景親に報告し、源頼朝の命を救いました。
源頼朝が鎌倉幕府を開くと、この時の事が縁で、梶原景時は重用されるようになります。
1189年7月の奥州合戦にも、梶原景時と嫡男・梶原景季も参戦し、藤原泰衡を討伐します。
1192年には、和田義盛と交代する形で侍所別当に就任します。
1199年に源頼朝が死去したあとも、梶原景時は宿老として2代将軍・源頼家に重用されました。
この頃の梶原景時に与えられていた所領が、寒川の梶原景時屋敷跡の場所と言う事になります
しかし、文武に優れていた梶原景時も、侍所別当として御家人らを取り締まる立場であったことから、恨みを買い和田義盛ら66名が連判状を大江広元に提出させ、将軍・源頼家に言上します。
そのため、鎌倉追放を言い渡された梶原景時は、京に逃れる為、1200年1月20日に、この相模国一ノ宮(寒川)より一族を率いて出発しました。
その途中、駿河国清見関(静岡市清水区)近くで飯田家義らに発見され、狐崎の戦いとなりますが、一族33名と共に梶原景時や梶原景季も討たれました。
その3年後には、将軍・源頼家も北条時政によって将軍職を追放・暗殺され、代わって源実朝が将軍になりますが、北条時政が幕府の実権を握る事になりました。

NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で中村獅童さんが演じられている梶原景時。冷徹な感じがしますが教養があって知識人なんですね。
現在、館跡地には一之宮天満宮が建っています。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り⑥:海老名城 (2022/04/30 訪問)

6月の九州遠征前の、なまった足腰(コロナ過で10か月攻城していません)のリハビリを兼ねた攻城(PART3)です。
のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り6城目は海老名城です。
厚木駅より徒歩15分弱くらいで海老名市霊堂入口(35.451484、139.375113)に着きました。

海老名氏館(えびなし-やかた)は、神奈川県海老名市にある平城(館跡)です。
海老名市を本拠とする海老名氏は、横山党の一族とされますが、一般的には横山党の横山盛兼の子である横山季兼を、源有兼が養子に迎えたとされます。
その後、海老名氏は、荻野氏・小野氏・本間氏・国府氏などの庶家(分家)が誕生し、そのうち、海老名家季は1104年に播磨国那波に移住し、播州海老名氏の祖となっています。
石橋山の戦いにて、海老名季久は源頼朝と敵対しますが、源頼朝が鎌倉に入ると従い、源平合戦でも活躍し、鎌倉御家人に取り立てられています。
1333年、北関東より攻めてきた新田義貞勢に敗れると衰退し、1438年、永享の乱では鎌倉公方・足利持氏が宝樹寺に本陣を置いたため、海老名上野介も加わって戦いとなります。
しかし、足利持氏は降伏したため、海老名氏は滅亡し、有鹿神社と総持院は兵火で焼かれ衰退しました。
海老名尾張守と弟・海老名上野介は、永享の乱にて敗れた際に捕縛されて、自刃したともあります
なお、一族の海老名広治(海老名兵衛尉広治)が、安房里見家の家臣で娘婿の大島正時とともに海老名郷を回復し、海老名広治の病没後には、大島正時が海老名家を継いで、中新田に大島屋敷を構えたとの伝承があります。

海老名氏霊堂があります。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り⑤:座間城 (2022/04/30 訪問)

6月の九州遠征前の、なまった足腰(コロナ過で10か月攻城していません)のリハビリを兼ねた攻城(PART3)です。
のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り5城目は座間城です。
入谷駅より徒歩10分位で心岩寺(35.482749、139.396370)に着きました。

白井織部是房なる者の屋敷跡と伝わっています。
座間城の喜寿がどこかないか捜しましたが、見つけられたのは座間山の標記だけです。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り④:磯部城 (2022/04/30 訪問)

6月の九州遠征前の、なまった足腰(コロナ過で10か月攻城していません)のリハビリを兼ねた攻城(PART3)です。
のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り4城目は磯部城です。
下溝駅より徒歩10分ちょっとで上磯部の土塁説明板(35.512983、139.380154)に着いて説明板確認後、下磯部御嶽神社(35.505372、139.382695)に向かいました。

磯部城の詳細は不明ですが、1477年(文明9年)に起きた「長尾景春の乱」において、景春方の金子掃部助の拠点である小沢城の支城として急遽築かれた城だと考えられていますが、誰が磯部城の城主だったのかわかっていないようです。
翌1478年頃に太田道灌を大将とする関東管領の上杉勢が奥三保を攻めた際に、豊島泰経の小机城とともに落城したと伝えられています。
現在城址は御嶽神社、能徳寺の境内になっていますが、既に江戸時代には遺構は消滅していたようです。
ただし相模川に近い場所に土塁の遺構が確認され、「上磯部の土塁」とし説明板が設置されています。

下溝駅から3段の滝の歩道や橋を通過して、相模川沿いの駐車スペースより一段高くなっている遊歩道の途中に土塁説明板がありました。
さらに進み、遊歩道が終わったら川から離れる方向に進むと下磯部御嶽神社です。(土塁説明板から徒歩15分くらいかかります)
攻城時間は30分(土塁説明板から下磯部御嶽神社までの移動時間含む)くらいでした。

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昌官忠

のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り③:勝沼城 (2022/04/30 訪問)

6月の九州遠征前の、なまった足腰(コロナ過で10か月攻城していません)のリハビリを兼ねた攻城(PART3)です。
のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り3城目は勝沼城です。
藤橋城より徒歩35~36分くらいで光明寺入口(35.794323、139.273902)に着きました。

勝沼城は関東管領・山内上杉氏の重臣、三田氏の居城です。
山内上杉氏の勢力が衰退し、北条氏の勢力が関東に伸びてくると三田政定は北条氏康に従属します。
しかし1561年(永禄4年)に上杉政虎(謙信)が上杉憲政を奉じて関東へ侵攻してくると、三田綱秀は諸豪族とともに上杉氏に付き従いました。
謙信が越後へ引き上げると、ほかの豪族は再び北条氏に臣従しましたが、三田氏は辛垣城へ居城を移しながらも北条氏に抵抗しつづけ、1561年(永禄4年)から1563年(永禄6年)頃に、北条氏によって攻め滅ぼされました。
その後は北条氏照の属城となり、三田氏の旧臣で三田氏一族と伝える師岡将影が城主となり、城名も「師岡城」に改められたと伝えられています。
現在残る城跡は北条氏によって手が加えられたものと考えられています。
廃城となった時期や経緯は不明ですが、言い伝えによれば、1590(天正18年)に豊臣秀吉が北条氏を滅ぼした際、師岡城も落城し、廃城になったと伝えられています。
現在城址には土塁や空掘などの遺構を確認でき、また山麓の光明寺の入口付近に案内板が設置されています。

光明寺の墓地が山腹に広がっています。
住宅地を見下ろせる台地の上に、土塁で固められた広々とした一郭が広がっています。
二郭との間は横堀で区切られ、その下の通路も土塁があり雰囲気はありました。
攻城時間は25分くらいでした。

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昌官忠

のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り②:藤橋城 (2022/04/30 訪問)

6月の九州遠征前の、なまった足腰(コロナ過で10か月攻城していません)のリハビリを兼ねた攻城(PART3)です。
のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り2城目は藤橋城です。
今井城より徒歩20分くらいで公園入口(35.803743、139.300622)に着きました。

戦国時代に北条氏の傘下にあった平山越前守虎吉の居城とされます。
平山氏は西党出身で源平合戦で名を馳せた平山武者所季重の後裔で戦国時代には北条氏に仕えていたようです。
平山氏の居城としては峻険な檜原城(まだ、行ってません!)が知られていますが、一族は青梅の丘陵地帯を本拠としているようです。
藤橋城が最初から平山氏の居城だったのかは不明だが、城主については藤橋小三郎の名も伝わっているので藤橋氏の居城を平山氏が再利用したとの説もあります。
現在、城址は藤橋城址公園として整備されており、土塁を確認することができます。

城址公園としてきれいに整備されていて、見学はしやすいです。公園まわりは、土塁で囲まれていて、空堀も各所にありました。
水田が広がる地域の中心にあったようです。小さな公園だが説明板が設置されていました。
攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り①:今井城 (2022/04/30 訪問)

6月の九州遠征前の、なまった足腰(コロナ過で10か月攻城していません)のリハビリを兼ねた攻城(PART3)です。
のんびりホリデーSUICAパス八高線&相模線8城巡り1城目は今井城です。
金子駅より徒歩20分ちょっとで城址入口(35.810523、139.313591)に着きました。

児玉党の今井氏が城主であったと言われています。
1416年(応永23年)の上杉禅秀の乱に際して今井氏は反乱側についたものと見られ、乱の後は附近に三田氏が台頭する中、今井氏は所領を没収されながらも細々と続いたようです。
1482年(文明14年)以降のいずれかの時点で城の墳墓が埋められ、その上に新しい城が築かれた痕跡があり、第三の勢力の進出を示唆しているそうです。
この第三の勢力とは北条氏であり、新城築城は1524年(大永4年)の北条氏綱による江戸城攻略以降のことと考えられているようです。
その後北条氏が上杉氏と対峙する中、今井城は北条氏が攻略線上に等間隔で配置した支城の一つとして機能していたが、1551年(天文20年)の平井城落城でその機能も無用となったようです。
今井氏は天正年間までは続いていたとされるが、その後は城の存在は忘れられ、江戸時代に編まれた『新編武蔵風土記稿』にも「堀ノ内」の地名があること以外は何の言及もないようです。
現在城址は周辺は宅地化されているものの、本丸跡には土塁や二重の空堀などの遺構が良好に保存されています。

住宅街の高台に空堀で区切られたいくつかの郭があり、明確に残っている空堀が良かった。
攻城時間は20分くらいでした。

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高須台第一公園より (2022/04/29 訪問)

 道は整備され歩きやすい城址ですが、削平地の他は明瞭な遺構はないように思われました。主郭の展望台は立入禁止になっていました。もっとも周囲の木が高く展望台に上ってもいい景観は望めないと思います。
旭山神社からと高須台第一公園から登城路があります。旭山神社からはそれなりの坂を上がりますが、高須台第一公園からはすぐに城域に入ることができます。ただ自分は己斐城(平原城)から高須第一公園まで徒歩で来たのでそれなりのアップダウンがありました。

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小茶臼山 (2022/04/29 訪問)

 永正12年(1515年)武田元繁が数か月にわたり攻城したが落ちなかったと伝わる城です。「武田数ヶ月攻むるといえども、銘城なるが故に、遂に落ちず」(『房顕覚書』)と記載されています。城址は本丸と二の丸を中心に東西南北に郭を配置している縄張りで、東郭や北郭を下った尾根には堀切も見られます。本丸の二の丸の間の堀切も含め堀切は浅くなっていました。整備された散策しやすい城址です。
己斐東小学校へ上がる階段と並行して「小茶臼山登山口」と書かれた看板のある階段が登城口です。整備された登城路ですが、最初は意外と階段が続いて閉口しました。
この日は朝から雨でしたが、この城を散策する少し前には上がってくれました。雨に濡れた堆積した落ち葉に注意して散策しました。

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赤い城

住宅地の中に土塁が残る (2022/04/24 訪問)

東葉高速の飯山満駅から徒歩で20分ちょっと。
城跡を示す場所には民家があり、周囲も住宅地となっています。
民家の裏手に高い土塁がある他、周辺を歩くと他にも土塁が見られます。
説明板や標柱はありませんが少しでも遺構があると嬉しいものです。
県道を挟んだ反対側に秋葉神社がありますがここにも土塁。
出丸であったのではないかと言われています。
小金城主の高城氏の城のようです。
家の前に土塁が残っているなんて羨ましいですね。

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桂公園 (2022/04/29 訪問)

厳島合戦のときに桂元澄が守っていた城ですが、現在は桂公園となっています。遺構はありません。雨が激しく降ってきたので早々に退散しました。

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熊谷氏の館 (2022/04/29 訪問)

熊谷氏の平時の居館跡と推定されています。石碑と案内板があり、石垣が残っています。

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雨中の散策 (2022/04/29 訪問)

熊谷氏が安芸に入部して最初に築いた城です。
この日の午前中は気合の入った雨が降っていたため足早に散策しました。雨の中でも整備された城址で歩きやすかった。広島県教育委員会HPには「最高所の郭には井戸跡もある」と記載されていますが、よくわかりませんでした。

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宗春

桶狭間の戦い三城③ 鷲津砦 (2022/04/30 訪問)

大高城、丸根砦、鷲津砦の3城の御城印を購入したので、イッキに訪問しました。

周囲には駐車場がないので、車で訪問する際は、大高緑地公園の南駐車場を利用するのがオススメです。駐車場からは少し距離がありますが、違法駐車するより確実です。

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ぎりょう

伊達氏発祥の地を巡る①福島県伊達市梁川 (2022/04/29 訪問)

自身が所属する「古文書を読む会」研修旅行の候補地下見で、福島県伊達市梁川と桑折町を訪問した。今回の研修テーマは「伊達氏発祥の地をめぐる旅」。担当者4名で東北自動車道国見IC経由で先ずは梁川城に。仙台藩祖伊達政宗はあまりにも有名だが、伊達氏も文治5年(1189)の奥州合戦に従軍した関東武者でした。常陸入道念西朝宗は阿津賀志山合戦に際し、石那坂で奥州藤原氏の臣佐藤庄司軍を破り鎌倉軍勝利を決定づける手柄をあげる。伊達郡の地頭に任じられて入部し伊達氏を名乗ったと伝わっている。梁川は伊達氏館(梁川城本丸跡)が築かれた時代から多くの寺社が造営された中世都市であったようだ。
本丸跡は現在梁川小学校跡地で、東西100m、南北150m程の規模で、かつての伊達氏館の規模をイメージできる広さ。また心の字池の庭園跡が復元されており、発掘調査の結果で中世伊達氏による造営が明らかになっているらしい。外郭は梁川高等学校の敷地、住宅街となり原状は確認できない。秀吉の奥州仕置きにより、伊達政宗は自力で獲得した会津地方を、大崎・葛西一揆後は本貫地の伊達郡や置賜郡も取り上げられる。かつて伊達氏の本拠地梁川城は、皮肉なことにその後この地を領した蒲生・上杉氏により、北に所領を構える政宗に対する境目の城として改修されることになる。

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宗春

桶狭間の戦い三城② 丸根砦 (2022/04/30 訪問)

大高城、丸根砦、鷲津砦の3城の御城印を購入したので、イッキに訪問しました。

周囲には駐車場がないので、車で訪問する際は、大高緑地公園の駐車場を利用するのがオススメです。

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higekam

浦上氏の主城、三石城の西を守る支城 (2022/04/28 訪問)

本丸と唯一のなだらかな尾根でつながる東出丸を断ち切る堀切とこの地区の特徴的な石垣(石積)をめあてに、今回はJR 備前片上駅から攻城した。

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日野山城の支城 (2022/04/28 訪問)

 主郭と周囲の堀が残っています。いい空堀があると思うのですが藪になっていて見にくくなっています。空堀の中を散策したかったのですが、断念しました。主郭には案内板が設置されていました。ただ主郭に上がる道が崩れていて歩きにくかった。主郭以外の曲輪はよくわかりません。
道路に標識があり城址には迷うことなく行くことができます。

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森脇氏の城 (2022/04/28 訪問)

吉川氏の家臣森脇氏の城と伝わっています。城址は小さな丘陵で案内板があります。

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