海音寺潮五郎の「天と地と」を読了してから間もない2009年4月以来、14年ぶりの再訪になります。前回確認した柏崎総合高校にある城址碑に加え、国道353号と国道8号の交差点付近にある城東公園の石の説明板も確認することができました。ピクミンブルームのキノコが生えていたおかげです。一人でキノコチャレンジをクリアしてポストカードもゲットしました。間違って削除してしまわないよう、お気に入りにしてあります。
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2023/05/30 06:53
柏崎の城④ (2023/04/16 訪問)
海音寺潮五郎の「天と地と」を読了してから間もない2009年4月以来、14年ぶりの再訪になります。前回確認した柏崎総合高校にある城址碑に加え、国道353号と国道8号の交差点付近にある城東公園の石の説明板も確認することができました。ピクミンブルームのキノコが生えていたおかげです。一人でキノコチャレンジをクリアしてポストカードもゲットしました。間違って削除してしまわないよう、お気に入りにしてあります。
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2023/05/30 06:49
2023/05/30 06:43
【かるた】松山城の読み札
・お堀端 伊予鉄行き交う 松山城
・静寂の 登り石垣 松山城
・連立天守 ぐるっと一周 松山城
・隠し門 奇襲作戦 松山城
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2023/05/30 05:11
(長野県&岐阜県方面城巡り)9日目:黒野城 (2023/04/26 訪問)
鷺山城からの転戦です。城の南西の二の丸資料館私設駐車場(35.45904、136.72209)に駐車しました。
黒野城まで徒歩2~3分くらいです。黒野公民館横に黒野城址の石碑と案内板があります。
築城年代は定かではないようですが、1594年(文禄3年)以降に加藤貞泰によって築かれたようです。
加藤景泰(貞泰の祖父)は土岐氏に仕え、美濃国橋詰庄で70貫の地を領していましたが、加藤光泰(加藤貞泰の父)は斎藤龍興、豊臣秀吉に仕え、甲斐国24万石を与えられています。
加藤光泰は文禄の役に出陣しましたが、朝鮮の役からの帰国途中に1593年(文禄2年)に病死します。
家督は嫡子貞泰が継ぐこととなりましたが、幼少であるという理由で、美濃国厚見郡・方県郡40,000石に削封されてしまい、黒野城を築いて居城とした。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦では東軍に属して戦功を挙げ、家康より黒野城と40,000石は安堵され、加藤家の働きに対して弟平内は美濃国内で3,641石を賜り加増されました。
1610年(慶長15年)加藤貞泰は伯耆米子藩60,000石へ加増移封され、40,000石の領地は加納奥平氏領となり黒野城は廃城となりました。
黒野城は現在、本丸がそのまま公園として残り、現在も方形の土塁と濠が残っています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=北方城に向かいます。
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2023/05/30 05:05
(長野県&岐阜県方面城巡り)9日目:鷺山城 (2023/04/26 訪問)
高富陣屋からの転戦です。鷺山公民館駐車場入口(35.450668、136.752134)から進入して駐車し、登り口(35.450912、136.751719)に向かいました。
築上年代は定かではないようです。文治年間(1185年~1190年)に山田郷地頭職であった佐竹常陸介秀義によって築かれたとも云われています。
美濃守護職土岐頼芸が一時居城としており、その後、嫡子義龍に家督を譲った斎藤道三が隠居城として鷺山に移ったそうです。
1555年(弘治元年)義龍は道三を鷺山城から追放し、翌1556年(弘治2年)義龍は道三を攻め滅ぼし、これを討ち取ります(長良川の戦い)。この戦いの後、鷺山城は廃城となったようです。
山上は公園として整備されているようです。
鷺山城の攻城は強雨の為、登城口を確認して撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=黒野城に向かいます。
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2023/05/30 05:01
(長野県&岐阜県方面城巡り)9日目:高富陣屋 (2023/04/26 訪問)
篠脇城からの転戦です。美里会館入口(35.496117、136.788942)から進入して駐車しました。
1806年(文化3年)本庄道昌によって築かれました。
本庄氏は1648年(慶安元年)本庄道芳が五代将軍徳川綱吉に仕えて旗本となったことに始まります。
道芳は綱吉の生母桂昌院の異母兄にあたる人物であったことから大身の旗本となったようです。
道芳の孫の本庄道章は1705年(宝永2年)美濃国山県郡と方県郡などに6,000石の加増を受け、10,000石となって諸候に列しました。
道章は当初、岩瀧陣屋を構えていたましが、1709年(宝永6年)には高冨村石畑に陣屋を移し、1806年(文化3年)道昌の時に高冨村天王の高冨陣屋に移ったそうです。
高富陣屋は高冨小学校の北にある美里会館付近に築かれていたそうです。
現在、遺構はなく美里会館に「陣屋の跡」の石碑が建っているのみです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=鷺山城に向かいます。
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2023/05/30 04:57
(長野県&岐阜県方面城巡り)9日目:篠脇城&東氏館庭園(城びと未登録 岐阜県郡上市) (2023/04/26 訪問)
二日町城からの転戦です。古今伝授の里フィールドミュージアム駐車場入口(35.811258、136.924262)から進入して駐車しました。
『大和村史』によれば初代・東胤行の晩年に築城が始まり、14世紀前半の四代・東氏村のとき本格的に城が完成して移住したとされます。
1468年(応仁2年)には斎藤妙椿に攻められて落城したが、関東に在陣していた東常縁がこれを伝え聞いて詠んだ歌が妙椿に伝わり、贈歌10首と引換えに城を返還した、と『鎌倉大草紙』にはあるそうです。
1471年(文明3年)から1477年(文明9年)にかけて、宗祇が篠脇城に常縁を訪ねて古今伝授を受けています。
1540年(天文9年)に越前国から朝倉氏が来攻したが、城主・東常慶の指揮の下、放射状竪堀から巨石を投下し、撃退したといわれています。
しかし、これによって[要出典]城自体の破損が著しく、翌1541年に朝倉氏の再来攻の際は、油坂峠で迎撃しています。
常慶は篠脇城を修復せず、同年に八幡(現・八幡町)の赤谷山に築城して移転し、篠脇城は廃城となりました。
後に遠藤氏が東氏の後を継ぎ、郡上八幡城を本拠としています。
篠脇城は栗巣川南岸の標高480m程の山に築かれています。北麓に東氏の館跡があり、そこから遊歩道が主郭まで通じているようです。
東氏館庭園は栗栖川の南岸、篠脇城の北麓にあり、発掘調査によって庭園が確認され、東氏館跡庭園として名勝になっています。
東氏館庭園は駐車場から篠脇城登り口(35.810443、136.925684)へ向かう通り道になります。
篠脇城の攻城は強雨と霧の為、登城口を確認して撤退しました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=高富陣屋に向かいます。
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2023/05/30 04:50
(長野県&岐阜県方面城巡り)9日目:二日町城 (2023/04/26 訪問)
宿泊先のホテルより、城碑と説明板前(35.894581、136.846564)に駐車しました。
本来はホテルを朝早く出発して、鷲見氏居館(城びと未登録 岐阜県郡上市)や鷲見城(城びと未登録 岐阜県郡上市)を攻城する予定でしたが、昨日、雨に濡れた影響で風邪をひいたようで、予定を変更して最初に二日町城を攻城しました。
熱があるようなので、本日の攻城は途中でリタイアするかもです。
康永年間(1342年〜1344年)に東益之によって、北の鷲見氏を警戒し築かれたと云われています。 東益之は篠脇城主で、二日町城を築いて次男の安藤氏世を置いて守らせました。
鷲見氏は平安時代末頃に大鷲退治の功により芥見荘鷲見郷を与えられました。
鎌倉時代には所領を安堵され、室町時代には美濃守護・土岐氏の片腕として活躍しました。境を接する南の東氏とはあまり仲がよくなかったそうです。
その北の脅威・鷲見氏は、1541年(天文10年)に東常慶が滅ぼし、本城を篠脇城から赤谷山(東殿山)城に移しました。
しかし、東氏は1559年(永禄2年)に一族の遠藤氏(盛数)によって滅ぼされました。滅亡と共に城主を失ったと思われ、そのまま廃城になったと考えられています。
二日町城は越前美濃国境から東へ伸びた尾根の一つに築かれており、現在は公園となって石碑が建っています。
雨が強く降り、霧もかかっている為、城碑と説明板を確認して撤退しました。
林道は舗装されていますが、狭いです。雨、霧を気にしながら車をゆっくり進めました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=篠脇城&東氏館庭園(城びと未登録 岐阜県郡上市)に向かいます。
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2023/05/29 23:32
2023/05/29 23:22
【かるた】大野城の読み札
朝鮮式 古代の山城 大野城
どこまでも 百間石垣 大野城
四王寺山 朝廷造る 大野城
大野城 城下太宰府 護る城
読み札のみの投稿です
大和朝廷が太宰府を守る為に築いた古代朝鮮式山城
全周8km程の大規模な山城で
太宰府を見下ろす事が出来ますので
城下町ならぬ城下太宰府と読みたくなりました
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2023/05/29 21:43
天守閣内部30年経過木の香ばしさ (2023/05/24 訪問)
掛川城天守閣の漆喰壁の修復工事後4月1日公開されて、今まであまり天守閣には登って居なかったのですが、近くで土佐漆喰壁を見たいとの事で入場券を購入して天守閣に登りました。
平成5年に木造復元天守閣として話題を呼びましたが、30年経過し外壁は修復、内部はそのままですが、建設当時の木の香りがまだまだ天守閣内には充満していて折り真新しさをまだまだ残しております。
石落とし、狭間、急階段の上り下り、天守閣4階の展望は緑に囲まれた掛川市内素晴らしい景観で新幹線が通り抜けて居り、新幹線から見える掛川城としても有名です、西に遠く浜松市のアクトタワーも望めます。
廻縁高欄は黒漆塗ですが廻縁には出れません。4階には係りの方がいらっしゃったので情報収集を兼ねて暫し会話をさせて頂きました。
二の丸御殿も入館できますので久し振りの二の丸御殿観覧へ続きます。
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2023/05/29 21:06
リニューアル天守閣と天守曲輪 (2023/05/24 訪問)
今年の4月1日掛川城天守閣が漆喰壁リニューアルされて公開されました、公開後天守閣に登って居ませんでしたので、天守曲輪近くで土佐漆喰壁を観察したとの登城、真新しい漆喰壁、蜘蛛の巣も無く、雨で黒く成ってる所も無い真新しい土佐漆喰壁を十分に観察させて頂きました。
工事中は天守曲輪登城路も入れませんでしたので、今回登城路階段を通って、腰櫓跡、天守曲輪東下の帯曲輪土塀、天守登城階段の脇土塀、脇土塀は漆喰がはがれて痛々しい、天守閣のみの修復で周辺土塀漆喰は次回の工事で修復の様子、冠木門、天守曲輪を囲む漆喰土塀、霧噴き井戸、天守1階外には高知城天守と同じ様に鉄串の忍び返しが付いている、復元掛川城天守閣は山内一豊が築いた高知城天守閣をモデルにしているとの事です。
平櫓付複合望楼型天守閣3層4階建てです。
入館料は410円で天守閣と二の丸御殿が入館できます、JAF割引も有り320円でした。
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2023/05/29 20:46
【かるた】湯築城の読み札
・松山城 望む城山 湯築城
・よみがえる お武家の暮らし 湯築城
・吹く風に 栄華の香り 湯築城
・蓮花の 水面にきらり 湯築城
・攻めるより 守りたくなる 湯築城
・土塁展示 リアル伝える 湯築城
・雅なる 風のそよぎて 湯築城
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2023/05/29 08:12
とことん飯盛城(支尾根の曲輪群) (2023/02/11 訪問)
(続き)
飯盛城は南北にのびる主尾根だけでなく、主尾根から東西に派生する支尾根にも多数の曲輪群を連ねていますので、支尾根の曲輪群もいくつかめぐってみました。
倉屋敷郭から西にのびる支尾根の曲輪群は、北條神社へと続く遊歩道沿いのため散策しやすいのは良いんですが、階段状に続く曲輪に堀切と土塁があるくらいで、これというほどのものは見付けられませんでした。
一方、御体塚郭から北東にのびる支尾根の曲輪群は全くの未整備で、真冬でも灌木が生い茂りまっすぐ進むことも困難です。それでも灌木が比較的少ない土塁の上を歩いたりしながら進んで行くと、階段状の曲輪の切岸に石垣を発見! 手持ちの縄張図には石垣の表記はなかったので、思いがけない遭遇に失われつつあった気力も回復。その先にも四条の堀切が明瞭に遺っており、苦労しながらも行ってみた甲斐がありました。
続いて、御体塚郭から東にのびる支尾根へ。こちらは曲輪群といっても斜面に三段ほどの腰曲輪が設けられている程度ですが、急傾斜に数段にわたって築かれている石垣はかなりの規模で、状態も良く見応えがありました。ただ、灌木が茂ってないのは良いものの、逆に支えにできる樹木もない状態でストックだけを頼りに急斜面を上り下りするのはなかなか大変でした。
さらに、倉屋敷郭から北東にのびる支尾根の曲輪群にも行こうとしましたが、行く手が灌木と藪に覆われているのを見て気力が尽きました…。「とことん飯盛城」としては決して十分とはいえませんが、主要部を石垣で固めつつ土塁や堀切など土の城の要素も兼ね備えた飯盛城は天下人の居城に相応しい城であり、「見応えのある城に行きたい」という当初の目的からは大満足の結果でした。
駐車場に戻った時には登城開始から4時間あまりが経過しており、下山して大東市立歴史民俗資料館でスタンプ&飯盛城のコーナーを見学して、大東市役所前の三好長慶公像の写真を撮って、とことん飯盛城を締めくくりました。
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2023/05/29 07:36
【かるた】月山富田城の読み札
安来きて 月山富田城 美術館
急勾配 月山富田城 七曲り
読み札のみの投稿です
安来駅には、足立美術館行きのバスが出ていますが
もう少しだけ足を伸ばせば月山富田城
197mの月山は登るのは大変ですが
花ノ檀の復元屋敷や石垣が楽しめます
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2023/05/29 07:06
2023/05/29 06:35
(長野県&岐阜県方面城巡り)8日目:石神城 (2023/04/25 訪問)
洞城からの転戦です。白山神社入口(36.305380、137.342596)に路駐し、白山神社横登城口(36.305929、137.343466)に向かいました。
築城年代は定かではないようですが、江馬時経によって築かれたと云われています。 時経は江馬氏14代で江馬輝宗の祖父にあたるそうです。
汗と雨で衣服が濡れ、風邪を引きそうなので登城を諦め、登城口で引き返しました。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りはここがラストで宿泊先のホテルに向かいます。
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2023/05/29 06:31
(長野県&岐阜県方面城巡り)8日目:洞城 (2023/04/25 訪問)
高原諏訪城からの転戦です。登り口標柱前(36.311660、137.326669)に路駐しました。
大永年間(1521年〜1528年)に麻生野右衛門大夫直盛によって築かれたと云われています。 直盛は江馬氏14代江馬時経の二男で、洞城を築いて麻生野を名乗ったそうです。
1559年(永禄2年)武田信玄は山県昌景に命じて飛騨に侵攻すると、江馬時経とともに麻生野氏も降り、所領を安堵されました。
直盛没後に家督を継いだ麻生野慶盛は、1578年(天正6年)宗家の江馬輝盛と不和となって攻められ落城、麻生野氏は滅亡したそうです。
登り口から登りはじめましたが、歩けど歩けど辿り着けません。どこかで道をまちがえたのかな?
30分くらい山の中を彷徨いましたが、雨も強くなり断念しました。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=石神城に向かいます。
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2023/05/29 06:27
(長野県&岐阜県方面城巡り)8日目:高原諏訪城 (2023/04/25 訪問)
江馬下館からの転戦です。県道484号(36.324937、137.314067)の標柱付近に路駐しました。
築城年代は定かではないようですが、江馬氏によって築かれたと云われています。
1582年(天正10年)八日町の戦いで江馬輝盛が三木自綱に敗れ戦死すると、小島城主・小島時光によって攻められ、大雪で防御柵なども破損していたことなどもあり、防御体制が万全でなかったために落城し、廃城となりました。これにより、高原郷の領主としての江馬氏は滅亡することになりました。
遺構として土塁や竪堀、堀切、曲輪が確認できます。特に堀切は大規模なものです。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=洞城に向かいます。
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2023/05/29 06:09
(長野県&岐阜県方面城巡り)8日目:江馬下館 (2023/04/25 訪問)
東町城からの転戦です。城跡公園駐車場(36.327274、137.309207)に駐車しました。
築城年代は定かではないようですが、江馬氏によって築かれたと云われています。 江馬氏下館は南東にある高原諏訪城を詰城とした館です。
江馬氏は高原諏訪城を本城として北飛騨一円に城を築き、北飛騨の雄として勢力を誇っていましたが、戦国時代には越後国上杉氏、甲斐国武田氏に翻弄されます。
江馬時盛ははじめ甲斐の武田氏に通じ、南下して姉小路氏を攻め勢力を延ばしたが、越後の上杉氏が飛騨に侵攻して降伏しました。
しかし、1564年(永禄7年)武田信玄が飛騨に侵攻すると、再び時盛は武田氏に通じ、翌年には武田氏とともに越中へ侵攻しました。
武田氏よりの時盛に対して、嫡子輝盛は上杉氏に好意を寄せ父子の関係は悪化します。
時盛は三男信盛に家督を譲ろうとするが信盛は輝盛にはばかってそれを受けず、時盛は従弟の洞城主麻生野直盛の子慶盛を養子にしようとします。
1573年(天正元年)ついに輝盛は父時盛を暗殺し、洞城を攻めて麻生野慶盛を自害させ、弟信盛・貞盛を追放して江馬氏の家督を継ぐ事となりました。
1582年(天正10年)三木氏の後ろ盾であった織田信長が本能寺の変で死んだことを機に、輝盛は南飛騨の三木氏を攻めるべく出陣します。
しかし吉城郡荒城川において大将江馬輝盛は三木氏の将牛丸又太郎によって討ち取られ、江馬軍は総崩れとなり、本城である高原諏訪城も落城しました。
その後、江馬時政という人物が再興し、1585年(天正13年)飛騨に侵攻した金森長近に協力して姉小路氏(三木氏)を滅ぼすが、同年金森氏に反抗して一揆を起こし、金森氏に滅ぼされました。
庭園、会所、主門、土塀、空堀などが復元されています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=高原諏訪城に向かいます。
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