石造り 安土見下ろす 観音寺城
石垣は 安土に先立つ 観音寺城
安土城と山続きの繖山の観音寺城は、石垣において安土よりも早く、山頂も安土山より高いことを盛り込みたいが。
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2023/04/15 21:25
【かるた】観音寺城の読み札
石造り 安土見下ろす 観音寺城
石垣は 安土に先立つ 観音寺城
安土城と山続きの繖山の観音寺城は、石垣において安土よりも早く、山頂も安土山より高いことを盛り込みたいが。
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2023/04/15 20:14
【かるた】甲府城の読み札
1)中央本線 北も南も 甲府城
2)富士拝み 城下見下ろす 甲府城
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2023/04/15 20:13
【かるた】武田氏館の読み札
60余年 武田氏三代 躑躅ケ崎を駆け抜けり
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2023/04/15 20:11
【かるた】八王子城の読み札
1)百世経て 日本遺産なり 八王子城
2)哀しみの 滝忘るまじ 八王子城
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2023/04/15 20:09
【かるた】江戸城の読み札
無血開城 グッジョブ江戸城
韻を踏んでみた!?
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2023/04/15 19:58
穴城 (2023/04/01 訪問)
小諸城は城下町、三の丸・二の丸・本丸と順に低くなっていることで、「穴城」と呼ばれる独特の構造でしたが、本丸の背後は千曲川が侵食した谷を天然の堀とし、鉄壁の守りを誇りました。
第一次・第二次上田合戦の折には、今に残る縄張りではありませんでしたが、江戸幕府二代将軍徳川秀忠公が本陣にしたことで有名です。
現在に残る縄張りにしたのは、豊臣秀吉公天下統一後、5万3千石で仙石久秀公が入城し、仙石久秀公・忠政公父子により近代的な城郭へと改修されました。今に残る大手門・三の門はこの頃建てられたものです。
明治維新を迎えると小諸城は廃城となりましたが、旧小諸藩士達の手により公園として整備され、懐古園と名付けられています。
小諸城へは二度目の訪問ですが、自分の小諸城のイメージとしては、雪だるまでしかありません。にのまるさんの「雪だるまを探せ」で懸命に雪だるまを探したことで、小諸城=雪だるまとなってしまいました"(-""-)"。勿論、小諸城の見所・時代背景ともに日本100名城に相応しい城郭なのですが"(-""-)"
この日、懐古園第一駐車場へ駐車し(日/400円・トイレ完備)、入城しようとしたが、開城前だったので、大手門・三の門を堪能し、三の門料金所へ、時間が早かったこともあり、暫し待機"(-""-)"待機していると、散歩されている皆さん方は料金所をスルーしそのまま城内へ入っていました。(児童遊園地込みで500円だったかな?)自分も、多少後ろめたさを感じましたが入城(; ・`д・´) 桜の満開には、1週間ほど早めでしたが、それでも城跡と合わせ十分に堪能できました。
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2023/04/15 19:13
三木合戦の舞台となった名城を訪ねて (2023/04/09 訪問)
小寺氏の御着城、三木氏の英賀城と並んで播磨三大城の一つで、三木の干殺しと呼ばれる三木合戦の舞台として有名なお城です。当初織田方として毛利攻めを行う予定であった別所長治公は、突如反旗を翻し三木城に立て籠もり、周囲の支城もこれに同調します。これに対し織田氏の指揮官であった羽柴秀吉公は天正6年(1578年)3月29日より三木城の包囲開始、支城を攻略し補給路を断つ作戦を行いました。天正8年(1580年)1月、孤立した三木城内の食料がつき城主一族の切腹と引き換えに城兵の命を助ける条件で開城、1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終了しました。
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2023/04/15 18:55
幻のキリシタン城を訪ねて (2023/04/08 訪問)
JR学園都市線野崎駅から徒歩15分、当時の遺構は残っておらず、城跡と推定される菅原神社鳥居付近に「三箇城趾」の石碑があるのみです。城主である三好長慶公の家臣三箇頼照公は家臣と共に洗礼を受けてキリシタンとなりました。その様子は宣教師フロイスによってヨーロッパにまで伝わっているとされています。本能寺の変時に明智光秀公についていた頼照公でしたが、山城の戦いで光秀公が敗れると領地を捨てて逃亡したと言われています。
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2023/04/15 18:47
2023/04/15 18:31
天下人と呼ばれた三好長慶公の居城を訪ねて (2023/04/08 訪問)
大阪府四条畷市と大東市にまたがる標高314mの飯盛山に築かれた山城です。室町幕府第13代将軍足利義輝公を京都から追放して政治の実権を握った三好長慶公最後の居城です。城の構造としては防衛区間である北エリアと居住区画である南エリアに分かれています。さらに発掘調査によって「織豊系城郭」に先行して礎石建物・石垣・瓦を用いた城であることが分かっています。
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2023/04/15 18:12
明智光秀公の安土城進行を阻止した名城を訪ねて (2023/04/06 訪問)
当時の遺構としては何も残っていませんが、架け替えられた瀬田唐橋と瀬田城跡の石碑が当時を偲ばせてくれます。「瀬田橋を制するものは天下を制する」と言われた瀬田の唐橋の東南に位置しており、橋・東海道・東山道を監視する役目を担っていました。本能寺の変で織田信長公を討った明智光秀公の安土城進行を防ぐため、城主の山岡景隆公は瀬田の唐橋を焼き払ったと言われています。
その後の賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家公に内通した事から豊臣秀吉公によって瀬田城を追われています。
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2023/04/15 18:10
低い方の山のピークにも遺構があります (2023/03/10 訪問)
【芦屋城】
<駐車場他>城山園地駐車場10台分程あり
<交通手段>車
<見所>出丸?
<感想>香住に1泊かに温泉旅行のついでに登城しました。当日は城びと先駆けでしたが、投稿が溜まってて あさんに先越されちゃいました😭
芦屋城は室町時代に塩冶氏によって築城されました。戦国時代の主な城主に塩冶高清がいて、山名氏⇒武田氏⇒毛利氏と帰属を変えますが1580年に秀吉の但馬進攻により芦屋城は落城します。塩冶高清は吉川経家を頼り鳥取城の北西の雁金山に城(城びと未登録)を築いて鳥取城ー雁金山城ー丸山城(城びと登録)の防衛ラインを築きます。鳥取城落城時に丸山城に逃れていた塩冶高清は吉川経家より先だって切腹しました。
上記駐車場から車道幅のあるコンクリート道をつづら折りに登って行きます。山頂の何百mか手前に低い方の山のピークに行くコンクリート階段があります。低い方の山のピークは出丸か副郭かで広い削平地になっていて郭の端は1段低い虎口になっているようです。帯曲輪付で帯曲輪側の曲輪壁には石積みであったかもしれない転落石もわずかにありました。曲輪の奥には舌状の腰曲輪もありました。工事の際に出たと思われる残コンクリが所々曲輪に捨てられていたので悲しかったです。
山頂主郭の方は段状になっていたような感じは受けましたが電波塔が2基建てられているので改変されているようです。土塁がわずかに残されています。主郭跡からの眺望は良くて西側は江戸時代に北前船の港であった諸寄港、東側は浜坂港が見えます。あさんの投稿にもありました主郭から斜面に太いロープが降ろされているので私頑張って70m程降りてみましたが延々と下まで続いていそうで断念しました。途中までは何も無かったです。主郭曲輪壁にも特に遺構は見受けられませんでした。
<満足度>◆◆◇
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2023/04/15 17:57
浅井・朝倉軍の南進を阻止するために築城された名城を訪ねて (2023/04/02 訪問)
朝倉義景・浅井長政の南進を阻止するめに織田信長公が森可成公に命じて造らせた山城です。浅井・朝倉連合軍との宇佐山城の戦いでは三万の軍勢に対し千の軍勢で善戦しますが、延暦寺の僧兵も加えた大軍に森可成公、信長公の弟信治公は討死します。ただ城内に残った兵たちの抵抗で落城までには至っていません。森可成公の後には明智光秀公がここを拠点に延暦寺の焼き討ちを行ったと言われています。その後この地を治めることとなった明智光秀公が坂本城を築き移ったため廃城となっています。
三の丸跡からの琵琶湖の眺めが素晴らしく宇佐山テラスとも呼ばれています。
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2023/04/15 17:56
そう?ちがう?
にのまるさんへ😀
城びと登録のある大阪府の分類構造が山城になっているお城を平石城で攻めきりました。大阪府の城びとのお城はあと7城残っています。平城と平山城ばかりが残っています。一番最後にする城は決めて(ここまでくると意識しちゃうものなのですねえ😅)います。戦国時代終焉の地です。コンプリートにはまだ少し時がかかりそうです。
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2023/04/15 17:36
琵琶湖の西岸に築かれた名城を訪ねて (2023/04/01 訪問)
織田信秀公の三男織田信勝公の嫡子織田信澄(津田信澄とも言う)公が叔父にあたる信長公の命により築城しました。縄張りは明智光秀公によるもので琵琶湖の一部を堀として利用した水城でした。本能寺の変により明智光秀公の娘を妻としていた信澄公は自害に追い込まれます。その後城主は短期間で入れ替わり、京極高次を最後に大溝城は解体されて部材は水口岡山城で使用されました。
江戸時代になると大溝藩初代藩主分部光信公が旧城郭内に陣屋を設けて武家屋敷、町人屋敷を整備、分部氏が11代に渡り明治に至るまで大溝藩を治めて行く事になります。
大溝城の遺構は本丸と天守台の石垣を残すのみですが、非常に良好な状態で残っていて見応えがあります
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2023/04/15 12:13
信長公に反旗を翻した荒木村重公の居城を訪ねて (2023/03/25 訪問)
JR福知山線伊丹駅改札出てすぐの所、有岡城跡史跡公園内に主郭部の石垣、土塁などが復元されています。有岡城は元々伊丹城と呼ばれており南北朝時代から戦国時代にかけて伊丹氏の居城でした。荒木村重公が城主になると有岡城と改め、さらに城郭の大改修を行いました。お城の中心である主郭部と家臣団の暮らす住居、町人の暮らす住居を土塁と堀で囲んだ日本最古の惣構えの城と考えられています。城主となった数年後に村重公は織田信長公に反旗を翻したため信長方に攻められ10ヶ月の籠城の末に落城します。また謀反を説得するため入城した黒田官兵衛が幽閉された城としても有名です。荒木村重公が去った後は、池田恒興公の長男之助公(池田輝政公の兄)が城主となります。しかし数年後に美濃へ転封となると秀吉公の直轄領となりますが大名は配置されずに徐々に廃城の様になって行きました。
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2023/04/15 11:18
天守丸が雲を突く西播磨の山城 (2023/04/09 訪問)
西播磨山城11のひとつ「利神城」。
4月9日(日)のガイドツアーに参加しての登城です。
2月12日(日)のガイドツアーへ参加予定でしたが、1月の大雪の影響でツアーが中止。登城を延期していましたが、4月のガイドツアーでキャンセルが有ったとのお知らせをいただき、キャンセル待ちで加えていただきました。
これで西播磨山城11全て登城となり一区切りです。
利神城は、一部公園として利用されていた時期もあったそうで、その名残りも見られますが、地元の方々が尽力されて本丸までの道のりは安全で快適に整備されています。
但し、ガイド経路を外れると整備途上であって危険な場所もまだ多いとのことでした。全ての整備には今しばらくの時間と費用が必要とのことで関係者の方々が非常にお骨折りされていることを感じます。城マニアのひとりとして感謝申し上げます。
尾根道を歩き登り着くと三の丸となります。そこには出入口の石垣や見上げると見事な天守丸が目の前に現れ、右手には馬場やその先の曲輪まで良く見渡せます。
二ノ丸、本丸の石垣を見ながら天守丸へ登ると360度の景観は感動です。佐用平福の街並みから奥播磨の山々を眺めながら、ガイドツアーでご用意いただいた弁当を堪能して、ゆっくりと登城を楽しむことが出来ました。
ガイドツアーでは、詳しい解説パンフレット2冊が入った利神城クリアファイルと缶バッチ(選んだバッチで3名に特典あり)、お弁当がいただけてお得です。お世話いただいたガイドツアーのスタッフと地元関係者の皆様にお礼致します。
これで昨年9月から始めた西播磨山城11の全登城が達成。
次は丹波の山城巡りを目指したいと思っています。
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2023/04/15 09:26
2023/04/15 08:46
本丸東側崖切岸出現とカモシカ遭遇 (2023/04/10 訪問)
前回3月29日桜と久野城と言うことで探訪しましたが桜と遊水池の逆久野城に浮かれて久野城の北面東面周辺を眺める事を忘れていました。袋井市のHPを覘くと袋井市の二大城郭、久野城、馬伏塚城の見学案内パンフレットが公開されてPDSファイルで取り出せました。
ので、見過ごした久野城北側東側周辺俯瞰と久し振りの馬伏塚城見学案内パンフレットで廻ろうと出かけました。
駐車場から北側東側を俯瞰遠望、鷲巣上公会堂を過ぎて東へ、元外堀の名残か?農場用水路沿いの道を南へ、その周辺で久野城の北東から東を望む事が出来ます、新しく出来た久野城案内板の裏(久野城址周辺マップ)に久野城が袋井市史跡に制定した時期の写真が掲載されており北東からの俯瞰です、草木が刈られており曲輪、切岸、周辺の外堀跡(田圃)が良く分かる写真です、29日に訪ねた頃は本丸東側の崖切岸の樹木伐採が始まった頃でした、是非史跡制定頃の樹木伐採された城址に景観整備をお願いしたいと思いつつ、東の大手方向に進むと樹木伐採が進み、本丸東側の崖切岸の上部竹林、下部の樹木が無くなり、本丸北東尾根の堀切もハッキリ分かるようになっていました、今後何処まで進展するのか分かりませんが今後の景観整備が楽しみです。
その後伐採作業近くを見学し、東の丸横の竪堀、東の丸下段の櫓台の確認を終えて南の丸から西の丸、駐車場へ戻る途中に、おやっ!とし山羊かな?よく見るとニホンカモシカ!奇跡の遭遇です、西の丸外堀の西端を歩いてる急いで望遠で撮影、写真を拡大して投稿掲載します。
諏訪原城でも遭遇しましたが早すぎて撮影できませんでした、北遠の山岳地帯には生息していますが、尾根筋を通って出て来るのですね。
最近城びとの記事で久野城が取り扱われています、日本城郭協会理事の加藤さん記事の久野城のイラスト復元1、2で松下期の久野城復元図の復元過程と、お城トピックスで久野城址保存会が第二回日本城郭大賞を受賞した。(4月6日城に日に)
久野城が扱われて発掘調査の結果、日頃の保存活動が評価され、景観整備も進み見やすく訪ねやすい久野城をこれからも益々大切にしていきたいものです。
この後は約6~7km南下して馬伏塚城を目指しました。
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2023/04/15 08:36
徳川2代将軍秀忠公の命により築かれた名城を訪ねて (2023/03/18 訪問)
京阪淀駅より徒歩5分、駅のホームからでも石垣が見える近さにあります。
伏見城廃城の代わりとして徳川家康公の異母兄弟松平定勝公(徳川家康公の生母於大の方の再婚相手久松俊勝の四男)の三男松平定綱公により築城されました。築城には廃城となった伏見城の資材を転用、二条城の天守を移築したと伝えられています。松平定綱公以降は譜代の大名家が明治に至るまで城主を務めています。
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