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しんちゃん

小藩の抱える黒歴史。陣屋跡の碑は黙して語らず。 (2021/12/26 訪問)

高富陣屋は高富藩の藩庁が置かれたところです。
徳川綱吉の母、桂昌院の異母兄、本庄道章が初代藩主を務めました。
一万石あれば、それなりに格式の高い生活ができるので
桂昌院様様と思いきや、
京の公家衆との付き合いも多く、小藩に見合わない出費が続いたため
8代・道昌のころから財政が行き詰まりはじめ、9代・道貫はあの手この手を使って
増収を図りましたがうまくいかず、10代・道美のころになると財政は完全に破綻
幕末の慶応4年(1868)には20万7400両の借金をかかえ、藩内で打ち壊し、百姓一揆が
おきるという惨状でしたが、取り潰しを受けることなく明治維新を迎え
高富県は岐阜県に編入されました。
そんな黒歴史をかかえる高富陣屋ですが、今では美里会館の駐車場に陣屋跡の碑を
残すのみです。

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カズサン

真夏の諏訪原城・大手馬出編 (2023/08/21 訪問)

 諏訪原城築城450年記念イベントの一つ中馬出に高所見学用の仮設展望スタンドが架設され眺望見学の跡、草の刈られてる順路を廻り1時間、中馬出編、北馬出・復元薬医門編、二の曲輪編、本曲輪編の続き大手馬出編です。
 二の曲輪南側から大手馬出土橋を渡り、外堀南北を観察眺め、南側の内堀奥には南馬出が良く見える、大手馬出は馬出の中では広く大きい、諏訪神社が鎮座、令和4年設置の諏訪原城イラスト解説板が大きく控えてる、鳥居の脇には重厚な城名石碑が控えてる、外堀、三日月堀、土塁法面の草は刈られてないが樹木が覆い茂り草の成長が遅いのか夫々確認する事は出来る。

 帰り際に一名の登城者に遭遇、駐車場には車が3台、ビジターセンターが月曜日で開いてない、開いてる時に訪れたい。野外のパンフレット置き場にはパンフレットが1枚だけでしたが、休館日では致し方無い。
 長々と投稿ご覧いただきありがとうございます。
 

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カズサン

真夏の諏訪原城・本曲輪編 (2023/08/21 訪問)

 諏訪原城築城450年記念イベントの一つで中馬出に仮設展望スタンドが架設され眺望の後、二の曲輪編に続き本曲輪編へ
 二の曲輪北側より本曲輪内堀土橋を渡って、南北の内堀を観察、本曲輪の虎口跡は、広い土塁上に在る、本曲輪の周囲には土塁が廻り樹木が覆っていて薄暗く、蝉しぐれは一層激しい、草の刈られて順路を散策、東側の眺望は大井川・島田を眺められて素晴らしい、しかし富士山は夏のこの時期雲の隠れて見えない。
 東崖下の内堀、土塁は夏草に覆われて確認しずらいが南東角からは草の茂りが少なく内堀、土塁を確認できる、内部は草に覆われている、相当以前は本曲輪中心の小高い所に天守台跡と小さな横看板が有ったがすでに無くなっている、天守台の跡は確認できなかったのかな? 土塁散策路を廻って西側の内堀底に在るカンカン井戸へ、樹木に覆われて薄暗いが蝉の声は激しい、より一層夏を感じる。
 
 大手馬出編に続く。
 

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カズサン

真夏の諏訪原城・二の曲輪編 (2023/08/21 訪問)

 諏訪原城築城450年イベントの一つで中馬出・三日月堀の景観を高所からの見晴らしとして仮設展望スタンドが架設されて、フライング眺望の後、中馬出、三日月堀を眺め観察し、イベント期間中なのか中馬出・三日月堀は奇麗に草刈されて居る。
 散策順路に従い北馬出、復元薬医門を観察見学し、二の曲輪へ中馬出の土橋を渡って、南北の外堀を俯瞰、夏草が覆い茂っている、二の曲輪虎口門跡に発掘調査と門跡の解説板がある、順路は草刈されて居るが二の丸内部は相当前の茶畑は整備されて居りますがシダ類、萱などが生い茂ってる、蝉しぐれと夏空の暑さが頭上に降りてくる感覚、本曲輪を一巡しカンカン井戸から二の曲輪への坂道を登って二の曲輪の南側、北側を眺めて二の曲輪の広い土塁上に虎口坂を上る、大手馬出土橋へ。

 本曲輪編、大手馬出編に別々投稿で続きます。
 

 

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刑部

御殿ができて初めて! (2023/08/10 訪問)

久しぶりに来たので暑い中城址をウロウロ、残念ながら天守は入れませんでも御殿が出来て初めて来たのでこちらで満喫。名古屋城はイベントで美味しいものが楽しめました!

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刑部

35年ぶり3度目の訪問 (2023/08/10 訪問)

最寄りの駅を降りてまずは歩いて5分程で行ける木ノ下城址へ寄ってから城下町を歩き犬山城、平日で比較的空いてました。後ろ堅固の城・天守からの眺めも最高!帰りながら城下町の食べ歩き、最近は城下町にハマってます。

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ヒロケン

伊東氏・島津氏攻防の城 (2023/08/13 訪問)

飫肥城は、標高約50m程のシラス台地上に築かれた群郭式平山城で、北東に流れる山川と西南に流れる酒谷川を天然の水堀とし、本丸の北側に松の丸・西の丸・北の城・中の城という曲輪群を配し、南側には松尾の丸、東側には中の丸を配しており、各曲輪は周囲を空堀で分断されていたため攻城戦に於いては、それぞれの曲輪が独立して戦うことが出来、一つの曲輪が奪われても城兵は別の曲輪に移動し戦うことが出来るようになっていました。この様な城の構成は、南九州の中世山城の特徴であり、伊東氏と島津氏が約25年に渡り争った、実戦的な縄張りとなっています。
1587年の豊臣秀吉公九州平定後は、伊東祐兵公が飫肥城主となり、旧本丸周辺の石垣や町割りなどを整備した以降、280年間飫肥藩5万1千石の居城となっています。

飫肥城には、日本100名城スタンプ目的で訪問し、城としての遺構は、あまり期待していませんでしたが、行ってびっくり(@_@)、想像していた「創り物」とは違い、復元された大手門・長壁・石垣が何とも良い雰囲気を醸し出しており、また、旧本丸の杉木立の中に立つと何とも心地よい(*^▽^*)100名城のスタンプも91個目が何年振りかでゲットでき、満足した時間を過ごせました。

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しんちゃん

石尾根は どこまで続く 引田城 (2023/08/13 訪問)

引田城は標高82mの城山一帯に築かれています。
かなりの広さがあり、特に夏場は水分の備えをしっかり
していかないと体がもちません。
登城道を登っていくと石(岩)の尾根道につきあたり
それをひたすら登っていくと伝・本丸の石垣に突き当たります。
石垣から北側一帯が本丸と伝えられ引田城の重要部のようです。
東に進むと天守台を経て、見晴らしの良い郭に突き当たります。
ここから北上して行くと化粧池と呼ばれる石垣を備えた池跡に
たどり着きます。そのまま灯台に行けますが一度
本丸に戻り、尾根伝いに北上、北二の丸の石垣を目指します。
北二の丸の上段の石垣は崩落の恐れがあるとしてシートで覆われていますが
本命の石垣はしっかり見ることが出来ました。
熱さも疲れもふっとぶ迫力ですが、喉の渇きだけはどうしようも無いです。
城址の広さを見誤り、水の手が切れかかってきました。
それでも東の丸を経由して、なんとか灯台まで到達。下山します。
東の丸の石垣がどこにあるか解らなかったのですが、
北二の丸の石垣でだいぶ満足できたので良しとしました。

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calcifer

夏のライトアップイベント中 (2023/08/25 訪問)

2022年11月に令和の大改修が完了して、2回目の訪問。
8月1日〜31日まで夜21時30分まで営業中で、通常のライトアップとは
別に天守前や隣の後楽園庭園が色鮮やかにライトアップされています。

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しんちゃん

勝瑞城 居館じゃないほう (2023/08/13 訪問)

徳島県板野郡藍住町勝瑞にある見性寺境内は勝瑞城跡と呼ばれ
かつては細川氏の守護所と推測され、今では
三好氏が築いた詰めの城という説も出ています。
細川氏の守護所の場所もはっきりとは断言できず
まさに歴史は生きていることを実感します。
天文22年(1553)6月、愛妾小少将との情事におぼれ、すっかり
腑抜けになった細川持隆を家臣の三好実休が見性寺で殺害したと伝わります。
しかし、この小少将の話、どこまで信じて良いのやら。
この小少将、のちに三好実休の継室となり実休の戦死後は篠原自遁の正室となり、
さらには長宗我部元親の側室になり、
細川真之、三好長治、十河存保、長宗我部右近大夫の生母と言われています。
‥ついていけません。九尾の狐か玉藻前ですか?
細川持隆が殺された見性寺も今ここにある見性寺で合っているのでしょうか?
私には勝瑞城も居館の跡のように見えます。戦国期の詰めの城にしてはいささか
心もとなく感じます。

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にのまる

②「戊辰戦争西軍の墓」「太鼓櫓」 (2023/06/24 訪問)

「街歩きマップ」を見ていると、駅の南側(城址の反対側)にも見どころが多くありそうです。
その中で目にとまったのが「戊辰戦争西軍の墓」。これは、長州人として行かずにはいられません。城址へ行く前にもう少し街歩きしてみることにしました。

白壁や瓦屋根など城下町の風情を感じる建物のある街道を歩いていると、奥州白河口公園、旧脇本陣柳屋旅館、萩原朔太郎妻・美津子の生家など、立ち止まってみたくなるところが次々と現れます。
西軍の墓は長寿院にあり、戊辰戦争白河口の戦いで新政府軍(西軍)として戦った長州・土佐・大垣・館林・佐土原藩の戦死者が祀られていました。両軍合わせて1,000名近い死傷者を出したという戦い。故郷を遠く離れた地でいのち尽きた兵士たちを不憫に思う気持ちと、落ち葉ひとつないほどきれいな墓所だったのがおこがましい言い方ですがありがたく、静かに手を合わせてきました。

そろそろ城址方面へと向かいます。
コースはいろいろ考えたのですが、最初に太鼓櫓を見に行くことにしました。したがって三重櫓が目の前ですが、藤門は横目で見つつスルーです。
そのものずばりな「郭内」町に建つ太鼓櫓。素朴な外観ながら設えに温かみを感じるのは昭和初期に茶室として利用されていたからでしょうか。『三度の移築を経て保存されている唯一の城郭遺構』は前日訪問した花巻城の円城寺門と同じ経歴。これから先もずっとこの地にありますように。
内部の公開(1階のみ)はひと月に2日ほどと限られているようで入ることは叶いませんでしたが、パンフレットを見ると200円/hで借りることもできるようです。畳に座布団1枚敷いて、何もせずに1時間ぼーっと過ごしてみたいです。

<つづく>

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しんちゃん

歴史は塗り変わっていく (2023/08/13 訪問)

勝瑞にはかつて阿波の国の守護所が置かれ
時の権力者、細川氏や三好氏が権勢をふるい
室町時代の末期には、ここ勝瑞を中心にして政局に大きな
影響を及ぼしていたといいます。
今では城跡と居館跡があり、見性寺の境内が城跡とされています。
城跡は東西約80m、南北約60mの方形で周囲は幅14mの水壕がめぐり
土塁が一部残っています。今では長宗我部氏と争った
中富川の戦いの際に築かれた詰めの城の可能性もあると
されています。そこから南西の方角に
広大な居館跡が発掘・整備されています。
1997~2000までに行われた発掘調査で壕幅約12mに囲まれた
東西約120m、南北約150mという長方形の館跡で、三好実休の居館跡と
推定されています。2004~2005年の発掘調査では居館から南方向に
東西40m以上、南北30mの池跡が発見されています。
それまでの発掘でも大規模な礎石建物跡、枯山水庭園が見つかり
広大で優雅な居館跡であったことをうかがわせます。


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朝田 辰兵衛

花隈公園にチョイ寄り。 (2023/06/13 訪問)

6月遠征最終日。往路は福岡空港に飛びましたが,復路は伊丹空港から。神戸三宮駅発のリムジンバスに乗る前に,チョイ寄りしました。天気は良かったのですが,暑かったです。キャリーバッグ持ちながらは,(こんなにアップダウンがあるとは予想してなかったので)エネルギーをかなり消耗しました。

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旭神社 (2023/08/26 訪問)

 旭神社に石碑があります。
古河藩陣屋跡の石碑より徒歩にて登城しました。15分くらいです。

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平野小学校 (2023/08/26 訪問)

 大阪メトロ谷町線平野駅から徒歩にて登城しました。大阪市立平野小学校の校門前に石碑があります。うっかり大念佛寺に移築されている陣屋門を見逃してしまいました。

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花塚山古墳 (2023/08/26 訪問)

 大阪メトロ谷町線出戸駅から登城しました。遺構はないということなので、多くの方が撮影している花塚山古墳の石碑を撮影し、城域だったとされる市営瓜破東住宅から瓜破東小学校周辺を散策して退却しました。

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津堂城山古墳 (2023/08/26 訪問)

 津堂城山古墳が跡地です。城址というより古墳の雰囲気を強く感じます。古墳をそのまま利用したのでしょうね。
もよりのバス停は大正橋南詰(津堂城山古墳前)です。

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厳嶋神社 (2023/08/26 訪問)

 古墳を利用した城で厳島神社が跡地とのことです。前方後円墳の後円にあたる部分が厳嶋神社のようです。堀が残っています。境内にある厳嶋神社縁起には一津屋城の記載がありますが、それによると松原第七中学校あたりの本城があり、その出城であったと書かれていました。

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来迎寺 (2023/08/26 訪問)

 来迎寺に石碑と説明板があります。
河内松原駅よりバスに乗り岡バス停下車、徒歩2~3分です。

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にのまる

① 外堀から攻める。 (2023/06/24 訪問)

白河小峰城へは震災後に二度訪れましたが、いずれの時も石垣修復中で見学できるところは限られていました。
今回は、知人にいただいた手描きマップを手に、11年ぶりに一般開放となったエリアのほか、蛇尾の石垣まで行ってみるのが目的です。

新白河で新幹線を降り、乗り換え時間5分のダッシュにも成功して白河駅に着いたのが10時少し前。白河駅は大正時代につくられたレトロな駅舎で駅カフェも併設。新しくて真っ白な「しらかわ観光ステーション」もとても素敵です。

まず向かったのは城址と反対側のイベント広場。
駅のホーム越しに三重櫓が見え、この眺めだけでも来てよかったなぁと気持ちが満たされます。
広場の奥には道場門遺構(外堀石垣)があります。小径や門の礎石も復元整備され見ごたえ充分。芝生の手入れをされていた方に「(機械の音が)うるさくてすみません」と言われたので「そんなことないです、遠くから来たのでめっちゃ感動しています!」と思わず熱く喋ってしまいました。(引かれてしまったかもしれない^^;)

一旦線路を渡り、「立教館」跡へ。説明板を読むとかなり規模の大きな藩校だったようです。石碑の後ろに炮術・弓術の的場跡の土塁がわずかに残されています。

このまま城址へ向かおうかと思ったのですが、旧奥州街道に鉤型が残っているというので、先に見に行くことにしました。何の変哲もない交差点のようでも、城下の町割りがそのまま現代に引き継がれて生活道路となっていると思うと、ただのカーブがものすごく貴重な遺産に見えてきて感動すら覚えます。

<つづく>

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