織田信秀公の三男織田信勝公の嫡子織田信澄(津田信澄とも言う)公が叔父にあたる信長公の命により築城しました。縄張りは明智光秀公によるもので琵琶湖の一部を堀として利用した水城でした。本能寺の変により明智光秀公の娘を妻としていた信澄公は自害に追い込まれます。その後城主は短期間で入れ替わり、京極高次を最後に大溝城は解体されて部材は水口岡山城で使用されました。
江戸時代になると大溝藩初代藩主分部光信公が旧城郭内に陣屋を設けて武家屋敷、町人屋敷を整備、分部氏が11代に渡り明治に至るまで大溝藩を治めて行く事になります。
大溝城の遺構は本丸と天守台の石垣を残すのみですが、非常に良好な状態で残っていて見応えがあります
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