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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)8日目:洞城 (2023/04/25 訪問)

高原諏訪城からの転戦です。登り口標柱前(36.311660、137.326669)に路駐しました。

大永年間(1521年〜1528年)に麻生野右衛門大夫直盛によって築かれたと云われています。 直盛は江馬氏14代江馬時経の二男で、洞城を築いて麻生野を名乗ったそうです。
1559年(永禄2年)武田信玄は山県昌景に命じて飛騨に侵攻すると、江馬時経とともに麻生野氏も降り、所領を安堵されました。
直盛没後に家督を継いだ麻生野慶盛は、1578年(天正6年)宗家の江馬輝盛と不和となって攻められ落城、麻生野氏は滅亡したそうです。

登り口から登りはじめましたが、歩けど歩けど辿り着けません。どこかで道をまちがえたのかな?
30分くらい山の中を彷徨いましたが、雨も強くなり断念しました。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=石神城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)8日目:高原諏訪城 (2023/04/25 訪問)

江馬下館からの転戦です。県道484号(36.324937、137.314067)の標柱付近に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、江馬氏によって築かれたと云われています。
1582年(天正10年)八日町の戦いで江馬輝盛が三木自綱に敗れ戦死すると、小島城主・小島時光によって攻められ、大雪で防御柵なども破損していたことなどもあり、防御体制が万全でなかったために落城し、廃城となりました。これにより、高原郷の領主としての江馬氏は滅亡することになりました。

遺構として土塁や竪堀、堀切、曲輪が確認できます。特に堀切は大規模なものです。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=洞城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)8日目:江馬下館 (2023/04/25 訪問)

東町城からの転戦です。城跡公園駐車場(36.327274、137.309207)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、江馬氏によって築かれたと云われています。 江馬氏下館は南東にある高原諏訪城を詰城とした館です。
江馬氏は高原諏訪城を本城として北飛騨一円に城を築き、北飛騨の雄として勢力を誇っていましたが、戦国時代には越後国上杉氏、甲斐国武田氏に翻弄されます。
江馬時盛ははじめ甲斐の武田氏に通じ、南下して姉小路氏を攻め勢力を延ばしたが、越後の上杉氏が飛騨に侵攻して降伏しました。
しかし、1564年(永禄7年)武田信玄が飛騨に侵攻すると、再び時盛は武田氏に通じ、翌年には武田氏とともに越中へ侵攻しました。
武田氏よりの時盛に対して、嫡子輝盛は上杉氏に好意を寄せ父子の関係は悪化します。
時盛は三男信盛に家督を譲ろうとするが信盛は輝盛にはばかってそれを受けず、時盛は従弟の洞城主麻生野直盛の子慶盛を養子にしようとします。
1573年(天正元年)ついに輝盛は父時盛を暗殺し、洞城を攻めて麻生野慶盛を自害させ、弟信盛・貞盛を追放して江馬氏の家督を継ぐ事となりました。
1582年(天正10年)三木氏の後ろ盾であった織田信長が本能寺の変で死んだことを機に、輝盛は南飛騨の三木氏を攻めるべく出陣します。
しかし吉城郡荒城川において大将江馬輝盛は三木氏の将牛丸又太郎によって討ち取られ、江馬軍は総崩れとなり、本城である高原諏訪城も落城しました。
その後、江馬時政という人物が再興し、1585年(天正13年)飛騨に侵攻した金森長近に協力して姉小路氏(三木氏)を滅ぼすが、同年金森氏に反抗して一揆を起こし、金森氏に滅ぼされました。

庭園、会所、主門、土塀、空堀などが復元されています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=高原諏訪城に向かいます。

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美夢

【かるた】大洲城の読み札

大洲城 借景にする 予讃線

祝砲も キャッスルステイ 大洲城

梁の上 隠れたネズミ 大洲城

 
読み札のみの投稿です
予讃線とのツーショットも素敵な大洲城
キャッスルステイで話題です
木造の復元天守の梁の上には木
彫りのネズミさんがこっそりと
可愛いですね♪

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ろっし

お城探訪 (2023/05/28 訪問)

河野氏が築城したとされる出城

池の横の駐車場に車を停めれてすぐ登れます。

神社の奥に曲輪らしきものがありました

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ろっし

お城探訪 (2023/05/28 訪問)

松山城から車なら近いです。

外堀、内堀に土塁で囲まれた中世の平山城です

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ろっし

お城探訪 (2023/05/28 訪問)

さすが現存天守ですね。
これからも頑張って残していってほしいお城です

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ぴーかる

小倉山城 (2023/04/09 訪問)

【小倉山城】
<駐車場他>小倉山城跡駐車場は大駐車場です。100台くらい駐車できます。
<交通手段>車

<見所>堀切・切岸・曲輪
<感想>第2弾安芸高田・北広島の山城攻めの旅2日目7城目。小倉山城はそれまで駿河丸城を拠点としていた吉川氏が南北朝時代末期に時の当主の吉川経見が小倉山城を築いて移転しました。1550年に吉川元春が日野山城に拠点を移すまでの約160年間くらい吉川氏の拠点となります。
 比高はそんなに高くないので登城口から城跡になります。城跡は大きく二の丸と半方円状に付属する段曲輪群と谷を広く削平した御座所跡(居館曲輪かと思う)、四方に腰曲輪が付く比較的狭い主郭、主郭北東方向に伸びる段曲輪が三の丸となります。城跡は草刈りが施されて非常に綺麗に整備され遺構がくっきり広くダイナミックに見えて見応えがあります。夏場でも十分見学できると思います。こっちに整備力を入れすぎず、大規模城郭の同じ国史跡日野山城をもっと整備して欲しいかと。

<満足度>◆◆◇

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ゆいと

たくさんの人が死んでいった上月城 (2023/05/28 訪問)

上月城は本丸跡にたくさんのかけらが落ちています。それは、昔のたくさんの人が使っていたものでした。毛利の上月城攻めなどでたくさんの人が死んでいきました。本丸跡に落ちている備前焼のかけらを持って帰ったら霊がでるそうです。

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美夢

【かるた】鹿児島城の読み札

質素倹約 鹿児島城の 心意気

鬼門避け 鹿児島城の 縁起良さ


読み札のみの投稿です
あえて天守を造らなかった鹿児島城の
派手ではない魅力を詠みたいと思いました

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イオ

とことん飯盛城(御体塚郭周辺) (2023/02/11 訪問)

(続き)

倉屋敷郭から三本松丸を抜けて御体塚郭へ。御体塚郭手前(南東下)の谷部にも状態の良い石垣が見られます。御体塚郭は三好長慶の死を秘して遺体を仮埋葬した地で、中央に塚状の石組みがあり石碑も建てられているので、てっきり長慶の墓碑だろうと思って碑文を読んでみると……登山三百回記念?? 気を取り直して御体塚郭の東斜面に回り込むと、一部崩落してはいるものの見事な石垣が遺っていました。

御体塚郭と北郭の間には巨大な堀切があり、岩盤を削り込んで尾根筋を遮断しています。北郭は飯盛城北端の曲輪で、生駒山地の北西突端にあたるため、北東から南まで素晴らしい眺望が開けていました。北郭の先は四条畷神社に下りる道なので、ここで引き返して今度は支尾根の曲輪群をめぐります(続く)。
 

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ヒロケン

金沢城 石垣巡りパート2 (2023/05/05 訪問)

金沢城は重要文化財の石川門・三十間長屋・鶴丸倉庫、再建されている菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓・河北門・鼠多聞など見所が沢山ありますが、金沢城は「石垣の博物館」と言われており、石垣をめぐるコースがあります。城内ルート1.5km(10地点) 城内外連絡ルート0.4km(1地点) 城外周ルート2.1km(3地点)と様々な技法を使った石垣が楽しめます。前回の投稿で城内ルートの7か所を紹介させていただいたので、今回は、城内ルート残り3か所・城内外連絡ルートの1か所・城外周ルートの3か所を紹介させていただきます。
ただ、重要文化財の三十間長屋及び石垣は、瓦の葺き替え工事のため、来年の3月までは全形を見ることが出来ません。今回は、2019年10月20日に撮ったものを使用させていただきます。

早朝から約4kmの全コースを写真におさめながら巡ると、行き慣れた金沢城も変わった景色が見え楽しめました。次回は、唯一有料の菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓の内部にお邪魔してみたいと思っています。(実はまだ、一回しか入ったことがありません。)

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心を強くもって進む (2023/05/27 訪問)

「城びと初投稿いただきます」(ぴーかるさん投稿からのぱくり)。
湯村温泉の背後に聳え、国道9号線を見下ろす要衝でもあります。凝灰岩の山体を春来川と稲負谷川が浸食し、急斜面ながら、頂上は平らな、山城に向いた地形です。山頂の城域は、400mX200mと広いです。
南北朝時代に作られた城ですが、戦国期に増強されて、30本以上の竪堀、堀切があると。特に尾根先は二重、三重の堀切や畝状竪堀で防衛しています。
但馬アルペンロード脇に「温泉城」の表示が立ってます(写真8)がそれ以降は道標はありません。とにかく道なりに進みます。私は行きつ戻りつして、地元の人に道を教えてもらいました。写真9の標柱からコンクリート打ちの林道を進みます。Googleマップは違うところに導くので要注意です。林道は城域の近くまで通じているのですが、倒木多数で、最後の数百mは徒歩で行きました。城域は、下草はなく、また、やや朽ちかけてますが、階段や散策道が整備され、遺構が良くわかります。

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三浦の晃ちゃん

北条早雲 (2023/05/27 訪問)

続100名城の一つです。北条早雲が、初代の城主です。堀が、大きくて、立派でした。

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三浦の晃ちゃん

石垣 (2023/05/27 訪問)

最後の藩主は、西尾氏で、三万五千石です。
全国でも珍しい、玉石の石垣があります。あんな形の石をよく積み上げたと、感心しました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)8日目:東町城 (2023/04/25 訪問)

土城からの転戦です。神岡城駐車場(36.329095、137.302859)に駐車しました。

1564年(永禄7年)江馬時盛によって築かれました。
1564年(永禄7年)武田信玄の命令で江馬時盛が築城し、高原諏訪城の支城となりました。
1585年(天正13年)金森長近による飛騨攻略の結果、その家臣・山田小十郎が城代となりました。
1615年(元和元年)に江戸幕府の命令で破却され、金森旅館として維持されていましたが、金森氏が出羽国上山へ転封となると破却されました。

現在は神岡城公園となり模擬天守が建てられ、鉱山資料館や郷土資料館が併設されています。
天守の建つ地が本丸で周囲に石垣を伴う空堀が巡らされています。
かなり雨が強くなり、服も濡れているので、天守の中には入りませんでした。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=江馬下館に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)8日目:土城 (2023/04/25 訪問)

金森宗貞邸からの転戦です。市道通行止め空スペース(36.408674、137.296017)に路駐し、鉄階段コンクリート登り口(36.407360、137.297025)に向かいました。

詳細は不明のようです。城主は江馬氏の家臣川上(河上)氏の家臣一の瀬四郎守之と伝えられています。

雨が降り出したので階段を登るのを諦めて撤退しました。
付近に標柱があるとのことで捜しましたが、見つけられませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=東町城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)8日目:金森宗貞邸 (2023/04/25 訪問)

傘松城からの転戦です。金龍寺駐車場(36.434995、137.276447)に駐車しました。

金森宗貞の屋敷跡と伝えられています。
茂住宗貞は飛騨に入部した金森長近が登用した人物で、鉱山資源の開発に尽力し金森姓を賜り、金森宗貞と名乗ったそうです。
1608年(慶長13年)長近が京都で没したため、自ら家居に火をかけ、越中に移り、さらに能登に赴いたそうです。
金森宗貞の邸宅跡には、現在宗貞の菩提を弔うため、金竜寺が建てられています。

金森宗貞邸は現在の金龍寺の境内で、隅櫓台を持つ石塁が残っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=土城に向かいます。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)8日目:傘松城 (2023/04/25 訪問)

寺林城からの転戦です。標柱と案内板前(36.325356、137.299689)に路駐しました。

築城年代は定かではないようです。 江馬氏が重要拠点として築いたと考えられています。

比高370m。とても攻城する時間がないので、標柱と案内板の写真撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=金森宗貞邸に向かいます。

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美夢

【かるた】中城城の読み札

護佐丸号 カートも楽し 中城城

ハイネの絵 見比べ探る 中城城

武者走り 登り海見る 中城城
 

読み札のみの投稿です
広々として、見渡しも良い中城城
武者走りに上がれば奇麗な海を見ることが出来ます
入口から護佐丸号というカートに乗せてもらい
正門側まで送っていただけば期待が膨らみます
昔ハイネが描いたという絵は
西の郭を描いたものだそうですね

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