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にのまる

夏の特別公開 (2023/09/19 訪問)

「るの門」制覇を果たしすっきりしたところで「夏の特別公開」開催中の天守群に向かいました。非公開エリア6棟の同時公開は本日(9/24)が最終日です。

【イの渡櫓】
コロナ渦籠城中につくったペーパークラフトで気になっていた台所櫓が中庭の真正面に見えました。実物を見ることができて感激です。

【東小天守】
窓越しに迫る大天守、迫力がありました。との一門や北側の入れないエリアもよく見えました。

【ロの渡櫓】
足裏に伝わる手斧はつりの感覚が時代を超えさせてくれます。ホの櫓もばっちり見えました。折り重なってぎゅうぎゅう詰めの屋根も眼福です。

【乾小天守】
ロの渡櫓の長い屋根や大天守が至近で見られました。
格子のない窓枠が素敵なフォトフレームに早変わり。西の丸もよく見えました。

【ハの渡櫓】
短い渡櫓ですが、乾小天守と西小天守を結び、外から見ても存在感があります。
閉ざされた扉の向こうの西小天守は来年2月に初公開されるそうです。

【折廻り櫓】
 天守見学を終えて備前丸に出ると石垣の上に聳える大天守。その威容に圧倒されながらも気になるのが石垣から突き出ているように見える折廻り櫓です。昨年改修を終えたばかりで漆喰の白が眩しかったです。往時の姿とは少し異なるようですが、備前丸に御殿があった時代の面影を残す居室内にある狭間が特徴のひとつで、重要な防御施設だったと知ることができました。退出してから全体を眺めるとガチで狙われているように思えたのがおもしろかったです。

「ふだん見ることのできないところ」の公開でしたが、「ふだん見ることのできるところ」すら理解があやしいので、せっかく行っても何も感じなかったらどうしようと不安で、行く前は“楽しみ”というところまで気持ちが達していませんでした。しかし、懐の大きな姫路城は知識の多寡など関係なく受け入れてくれました。
たくさん撮った写真を見返しながら『この写真はどの櫓から見たどの櫓のどの部分でしょう?』クイズを自分に出題するのが楽しいです……( *´艸`)


<城内散策へつづく>

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チェブ

贅沢な幕末ドライブ。 (2023/09/10 訪問)

前回、投稿した「馬込城」の後、「池上氏館」へ転戦しました。
大田区にある『本行寺』が「池上氏館」跡です。
館の遺構は分かりませんが、『日蓮上人入滅の旧跡』の説明板の中に『池上 右衛門大夫 宗仲の館』と記載されてました。
宗仲さんは鎌倉幕府の作事奉行です。

日蓮上人が常陸に向かう途中、こちらで亡くなったそうです。
宗仲さんは『池上本門寺』を創建しました。
ムムム。『池上本門寺』と言って思い出すのが幕末の江戸城無血開城。
勝海舟さんと西郷隆盛さんの話し合いの場だったと思い出しました。
大田区には『勝海舟記念館』があります。
幕末は詳しくないのですが、江戸を救ったヒーローの足跡は見てみたいと「池上氏館」を後にしました。

『勝海舟記念館』は洗足池公園の近くにあります。
中は撮影OKの展示物や、勝海舟さんのお人柄がわかる文書、緊迫した書状等がありました。
勝海舟さんの言葉があり、『私の上司に言って下さいよ~(T-T)』と願いつつ、自分の在り方を考えさせられました。

その後、羽田空港の第3ターミナルへ。
こちらは江戸時代をイメージした通りがあり和が表現されてます。
たくさんの方々が、飛行機の発着を待ち、思うように写真が写せません。
唯一、写真⑨が写せた「江戸城」です。
ありがとう、勝海舟さん。江戸を守ってくれて。

蒲田駅のギョーザから始まり、「馬込城」→「池上氏館」→『勝海舟記念館』→『羽田空港』と、贅沢な1日を過ごしました。

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カズサン

【陸奥岩崎館】宮城県栗原市 津久毛橋城の東隣接 (2023/09/17 訪問)

 津久毛橋城の東約200~300mの隣接の山稜出鼻地に岩崎館跡が在り現在は村社猿田彦神社が鎮座しています。
 住所:宮城県栗原市金成津久毛岩崎山根6
 駐車場:岩崎集会所:宮城県栗原市金成津久毛岩崎沢・・猿田彦神社の東約100m程の県道186号線沿い数台可能。
 参考資料:古城盛衰記さんグーグルマップ。

 津久毛橋城跡をグーグルマップで調べて居ましたら東隣接地に岩崎館の史跡マークが有り今回、津久毛橋城探訪の後に初探訪しました。
 車を駐車利用した岩崎集会所から西に直ぐ神社鳥居が目に入り、そこが岩崎館跡です、神社鳥居を潜り、一の石段を登り長屋門を潜り二の石段を登ると社殿と社務所、奥の土塁、更に奥の曲輪と続き、細竹の藪ですが土塁が垣間見えます、左手脇に堀切?がありますが細竹の藪で奥に進めません。
 古城盛衰記さんの岩崎舘の資料には北西奥に2重堀切が見応え有りと記載されて居ましたので、近くで農作業されてる方に岩崎舘の堀切の事を聞きましたが、よく分からない様でした、自身も民家への導入道を入って二ヶ所ほど覗いてみましたが良く分かりませんでした。
 農作業の方には津久毛橋城の方を紹介されました。また岩崎集会場に車を駐車した事を話しましたら問題ないよと言って頂きました。
 
 話を聞いたところは集会所から西に200程の所、道沿いに岩崎館跡の標柱が立っており側面に若干の解説文が記載されています。
 それに依る解説文は、風土記書上によれば、高さ7丈(21m)、東西17間(31m)、南北60間(109m)で、館主は岩崎縫殿と伝えられる。また近藤氏の系図には、葛西氏の旧縁・近藤伊賀守忠清が近江国より下向し、岩崎近藤氏の祖になったと伝えられる。
 また、猿田彦神社の由緒には、平安末期の平治元年(1159年)鎮守府将軍藤原秀衡の家臣岩崎館主長崎主殿長徳が伊勢猿田彦神社の分霊を鎮祭したと伝えられている。・・とあります。
 

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別所長治 (2023/09/23 訪問)

 別所長冶の居城として知られています。羽柴秀吉による兵糧攻め、「三木合戦(三木の干殺し)」の舞台となりました。遺構はほとんど残っていませんが、地形や規模は何となくわかります。
しんちゃんさんが投稿されていた鷹尾山城等も行きたかったのですが、今回は時間がなく周囲を散策する余裕もなく断念しました。

 神戸電鉄粟生線三木上の丸駅より徒歩3分くらいで行くことができます。

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シャンシャン

日本一の巨大な城郭 (2023/09/23 訪問)

天守閣の高さも城の範囲も凄い規模。蛸石の巨大さも目を見張る。
機械もない時代によくこれだけの石垣を築けたものだと驚く。
櫓も特別公開していてラッキーだった。

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堀井城 (2023/09/23 訪問)

 赤松氏の支城で堀井城跡ふれあい公園として整備されています。土塁などが整備されています。城びとには未登録の城址です。
城内はグランドゴルフコースになっていて、この日もプレーされている方がいました。

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赤松満祐 (2023/09/23 訪問)

 城域は東播磨でも屈指の規模を持った城で赤松氏が東播磨の拠点として築いた城です。遺構はほぼないと思われますが、水路脇に説明板があります。嘉吉の乱の時に、赤松満祐が殺害した将軍足利義教の首をもって立ち寄ったと伝わっています。周辺には堀井城や小堀城、金鑵城がありますが、それらの城の中で河合城が中核的な役割を果たしたとされています。堀井城、小堀城とは水路で繋がっていたようです。どのような状態であったのか、その時の風景を見てみたいですね。 

 河合城、堀井城、小堀城、金鑵城はどの城址もJR河合西駅から徒歩10~20分くらいで行くことができます。

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光枝(三枝)氏の城 (2023/09/23 訪問)

 土塁が残っていますが、皆さんが投稿で指摘されていうように草が茂っていてわかりにくくなっています。

JR河合西駅から徒歩にて15分くらいで行くことができます。

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92

小川城 (2023/09/23 訪問)

小川城
旅の途中に立ち寄り

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夢の森公園 (2023/09/23 訪問)

 夢の森公園として整備されています。堀切が見どころだと思います。城柵、櫓等が整備されていて、いい雰囲気を醸し出しています。
グーグルマップで土塁、塹壕跡や北曲輪跡の表示があり目指したつもりでしたが、どこで間違ったのか下に降りてしまいました。舗装された道でも、かなり蜘蛛の巣に悩まされたので戻る気にもなれず、そのまま撤退しました。

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小野小学校 (2023/09/23 訪問)

一柳氏の陣屋です。小野小学校付近が跡地で石碑と説明板があります。磐代神社は小野藩一柳氏の氏神で陣屋設立に伴い建社されました。台風により倒壊し昭和41年再建されています。

 神戸電鉄粟生線小野駅から徒歩3分くらいです。

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しんちゃん

清水宗治の覚悟の切腹が歴史を大きく動かした。 (2019/12/29 訪問)

備中高松城は本丸から南東にかけて、二の丸、三の丸が続き城域の外側全体が沼や池で囲われていた
ようです。当然防御力も非常に高く、天正10年(1582)3月15日、羽柴秀吉が力攻めに及びますが
数百人が討死したと有ります。かくして有名な「備中高松城の水攻め」となるわけですが講和に際して
秀吉は城主清水宗治の切腹という厳しい条件を出します。毛利方は難渋しますが安国寺恵瓊が交渉の
状況を宗治に話した所、男気溢れる宗治は強い決意で切腹を了承したそうです。秀吉側も信長死去の報を
受けていて、ハッタリをかけて強い態度で望んだのでしょうが、結果として宗治の自害の覚悟の速さが
秀吉の中国大返しに繋がり、後の天下統一に繋がっていったのだと思います。秀吉にとっても小早川隆景
とのパイプが出来たのも大きな収穫だったと思います。かつての主、織田信長や官兵衛・半兵衛、
真田昌幸、小早川隆景など才能あふれる武将たちが秀吉を認めたのも「才ある物は才ある物を見抜く」
現象が起きたからだと思います。朝鮮・明を攻めたりキリシタンを弾圧したりして悪し様に扱われる
ことが多いのですが、決してただの「人たらし」に秀でた人物では無いと思います。最初に天下を統一し、
惣無事令を発することができた唯一の武将で正直、徳川家康がしたことは天下の簒奪に近いと思います。

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しんちゃん

水堀と神社と石垣と (2019/12/29 訪問)

庭瀬城は庭瀬藩の中心をなす城で、宅地化がすすみ、今では寛政5年(1793)に
板倉勝喜が建立した青山神社と城址碑がかつての名残のようです。案内板によると
水堀に使用されている石垣はかつての庭瀬城のもののようです。藩祖の戸川達安は
元々は宇喜多家の家臣でしたが慶長4年の宇喜多家の家中騒動を機に宇喜多家から距離を
起き、関ヶ原では東軍につき当地に2万9200石を与えられました。達安の離反が
宇喜多家を弱体化させ、関ヶ原での戦闘にも少なからず影響があったのかもしれません。
こういった出来事の積み重ねが関ヶ原での勝利に繋がっていったのだと思われますが
徳川家康公のここ一番での勝負強さと引きの強さは尋常ではないと思います。もちろん
そこに至るまでの根回しの周到さがあってのことですが。

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しんちゃん

城の中の城。‥といっても (2019/12/29 訪問)

撫川城は別名「沼城」といい、泥沼の中に築かれていたようです。東西77m、南北57mの
長方形の主郭を幅15mほどの濠が周囲を囲み、西方に野面積の石垣、東方には土塁が残り
南口がかつての大手で撫川知行所総門が移築されています。現状神社ですが、かつての庭瀬城の
本丸・二の丸の部分に知行所が置かれていたので、一度に二つの城を訪問でき、ちょっと
お得な感じがします。

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織田晃司

和水(なごみ)町ですが… (2023/09/16 訪問)

佐々成政の肥後統治に反抗し、最大の激戦地となった田中城。

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せつ

夏の特別公開 (2023/09/22 訪問)

見ごたえあり。ハードスケジュールの中行けてよかった。JR遅延でヒヤヒヤしたけど見れて満足。

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カズサン

義経伝説が活きている (2023/09/17 訪問)

 宮沢遺跡の探訪前に若柳金成ICを降りて義経伝説の義経北行伝説なる義経身代わり杉目太郎行信公供養碑と同室の祠が主郭に祀られている津久毛橋城を初登城しました。

 駐車場:栗原市金成津久毛岩崎沢の岩崎集会所、県道186号線沿いで数台は可能、約500m手前
 参考資料:古城盛衰記さんグーグルマップに依ります。

 車を駐車利用した岩崎集会所から県道186号線を西行約500m、途中に猿田彦神社、岩崎舘跡、岩崎舘標柱、手作りの津久毛橋城跡案内指示板があり散策気分、指示板山手に登城口、脇に津久毛橋城跡案内板、草の刈られた登城坂を登って行くと切岸城塁、杉林、畑跡か?帯曲輪跡か?階段状に主郭まで連なっているが比高は20m程、途中には幟「義経北行伝説の影武者 杉目太郎行信公の供養碑」が数本、津久毛橋城跡標柱が立っている。
 主郭には杉目太郎行信公の供養碑(グーグルマップでは胴塚碑と成っていますが?)と同室の小祠が並んで祀られています、また脇に「源義経の身代り杉目太郎行信公の碑」解説板が有ります。
 高舘で自刃したのは影武者杉目太郎行信公で源義経北行伝説の立役者との伝聞が記されています、歴史読本で義経ジンギスカン伝説なるものを読んだ記憶が蘇って来ました。
 また南北朝時代には北畠顕信が南朝回天の拠点を津久毛橋城に築き北朝方の足利氏の武将石塔義房と大合戦を展開したと解説板にあります。
 

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刑部

どうする家康 岡崎巡り (2023/08/12 訪問)

ここは、36年ほど前に出張で半年くらい住んでいて何度か訪れました。久しぶりの岡崎城に胸躍ります!やはりまず大河ドラマ館へ盛り上がってました。城址をウロウロして天守へとにかく人が多くいつもの様にのんびり探索できないまま八丁味噌倉見学に行きました、そして岡崎と言えば鰻!鰻を食べに移動中・・・小島よしおに遭遇、なんと37度気温の中ジョギング!凄い!後で調べてたらこの日イベントで来てたらしく開催時間の合間でプライベートで走るそれも暑い中本当に凄い人だ!鰻は蒸さずに炭焼き最高に美味かった!

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しんちゃん

城主大熊朝秀はかなり武勇に優れた人物らしい。 (2021/05/01 訪問)

箕冠城は箕冠山の標高237mの山頂に築かれていて、東に堀切を経て二段の郭が
続いていて、その周囲を帯廓が囲みます。その下を土塁を備えた横堀が東西に続き
その南が二の丸とされ、その南に堀のごとき箕冠清水が存在します。山頂からは周囲の山々が
良く見え、遺構を良く残し、城域の近くまで車で行くことが出来ます。
大熊氏によって築かれた城で、上杉謙信に仕えた大熊朝秀の代に謙信が出家して上杉家に動揺が
走った際に武田信玄に内通し、謙信に反旗を翻しました。その後、謙信配下の上野家成に敗れ、永禄6年
(1563)武田信玄の配下になり、山県昌景の与力になり大いに活躍したと有ります。
武田勝頼にも最後まで従い、天目山の戦いで討ち死にしたとのことです。
一騎打ちに強く、長野業盛を攻めた際に上泉信綱との一騎打ちで無傷で引き分けたとされています。

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ぴーかる

蓮如が造った城郭寺院 (2023/08/19 訪問)

【吉崎御坊】
<駐車場他>山頂に数台駐車できます。
<交通手段>車

<見所>坊舎跡・曲輪
<感想>越前ちょこ城巡りの旅1城目。吉崎御坊は城郭寺院で現地説明板によると1471年に京から逃れた本願寺第八代法主蓮如が北潟湖畔の吉崎山の頂に坊を建立したのがはじまりとされます。1475年に戦国の動乱で坊舎が2度目の焼失にあい、蓮如はこの地を去ります。蓮如はこの8年後に山科本願寺を建立、完成させることとなります。1506年にはこの地は一向衆の拠点・寺内町となっていたようで、朝倉氏が侵攻して坊舎を破却します。以降吉崎は廃坊となります。
 今回は福井県の一番北の城びとフラッグから南下していくプランで朝7時過ぎに到着しました。吉崎山の山頂はかなり広い削平地になっています。蓮如の腰かけ石や礎石の残る坊跡があります。南側の下段は3段程の連段曲輪になっていて土塁が残ります。周囲は北潟湖に囲まれて堀の役割をしていて防御性を感じます。蓮如がこの地を退去して山科本願寺を造成する前段階の城郭寺院跡として見応えがありました。

<満足度>◆◆◇

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