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イタさん

残存土塁が思いの外大きい (2023/07/04 訪問)

 遺構は高済寺境内西に土塁・堀が僅かに残る。北と東は崖状の段差を要害としている。説明板の概要は、南北朝時代に高坂氏の居館として造られた。高済寺から南にある子育て支援センター周辺の発掘調査では、高坂氏の活躍した時代(14世紀前半)のかわらけ・輸入陶磁器が出土しており、館の中心地は南にあった可能性がある。
 伊勢宗瑞が明応3年(1494)、北条氏康が永禄5年(1562)にそれぞれ在陣。発掘調査では土塁・堀の改修が見られ、戦国期に整備されたと推定される・・・等々。土塁北上には加賀爪氏累代の墓があり、江戸時代初めに加賀爪氏が陣営を設けるが、天和元年(1681)に改易と説明がある。


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イオ

不完全燃焼… (2023/05/21 訪問)

戦国前期に細川高国が能勢氏を城主として築いた城で、細川高国が敗死すると細川晴元、次いで三好長慶が入って畿内の政庁として機能しました。三好長慶が居城を飯盛城に移した後も三好氏の摂津国の拠点でしたが、織田信長の上洛で三好氏が城を追われると和田惟政が城主となり、惟政が高槻城に移ると高山友照を城代としました。惟政の死後、高山友照が高槻城に移ったことにより廃城となっています。

北・西・南の三方を芥川に囲まれた断崖の三好山に位置し、主郭、出丸、東曲輪の三つの曲輪群で構成される巨大山城で、淀川筋と西国街道、摂丹街道に睨みを効かせる交通の要衝に位置します。

タイムズのB塚脇弓道場前駐車場(予約可・一日550円)に駐車して登城開始。住宅地の坂道を上ること10分あまりで大手道登城口に到着。登城口あたりには石垣も見られますが、後世のものと思われます。シカやイノシシが出るため一帯には防獣柵がめぐらされ、マダニの注意書きもありました。登城口から約10分で大手石垣に到達。途中、主郭と出丸から南下に展開する曲輪群にも寄り道するつもりでしたが、分岐を見落としてしまったか、あっさり大手石垣まで来てしまってちょっと拍子抜け。

大手石垣からまずは主郭部へ。主郭に上る前に南下の曲輪群に行ってみると二重堀切の先に南北二段の曲輪があり、その南下には巨大な堀切と土塁がある……はずですが、山道を少し下りて行っても分岐は見出せず、直降しようかとも思いましたが、時季的に藪が茂っている上に、マダニ注意の看板を思い出して自重しました。引き返して主郭に上って行くと、南方向に素晴らしい眺望が開けています! この日は遠くはやや霞んでいましたが、飯盛城まで見渡せるようです。主郭は南北二段で、南側下段には説明板が立てられ、上段には三好長慶と松永久秀が祀られた祠があります。上段からは発掘調査により礎石建物が確認されているようです。

続いて、主郭周辺の曲輪群を見て回ろうとしましたが、北西尾根への道には通行禁止の表示があり、南下の曲輪群も野外活動園として立ち入りが制限され、北東下へも登城道に柵が設けられていて進めません。やむなく来た道を戻って出丸の曲輪群に向かうも、これまた防獣柵に阻まれて出丸への道は見いだせず、結局、出丸の曲輪群はほとんど素通りして堀底道を東曲輪群へ向かいました。

出丸曲輪群と東曲輪群の間は堀切(と土橋)で隔てられ、東曲輪群の南斜面は竪土塁で出丸側への侵入を防いでいます。東曲輪群には土塁囲みの曲輪や中央部に土塁(?)と貯水池(?)のある曲輪があり、北斜面や南斜面には削平地が設けられていますが、南側は防獣柵がめぐらされ、出入口は整備用で立入禁止でした…。

飯盛城に先立つ三好長慶の居城であり、規模的にも飯盛城に引けを取らない続100名城ということで、存分に見て回れば4時間は必要かな、と考えていましたが、行けるところが限られていたため1時間あまりでひとめぐりしてしまいました。あまりにも不完全燃焼なので、長慶が芥川山城を攻めた際の帯仕山付城にも足をのばしてみましたが、灌木と藪が茂っていて折れのある土塁や堀切は確認できず、もやもやは募るばかり…。見落としもありますし、防獣柵内は仕方ないにしても、少なくとも主郭南下の曲輪群には行けるはず(たぶん)なので、冬枯れの頃にいずれ再挑戦したいと思っています。
 

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しんちゃん

この地方特有のクリークの城。雰囲気は良く出ている。 (2023/01/01 訪問)

姉川城は正平15年(1360年)に菊池武安が築城したとされ、国の史跡に指定されています。
訪問したさい、そこの城主の子孫と言われる方にお話を伺いました。
今でもかつての環濠に囲まれた城跡の状態を残しています。
東側の今では畑地となっている広い部分がかつての館跡です。
かつては周囲に土塁等があったと思うのですが未確認です。
西側の小さな郭が妙法寺跡らしく今でも小さなお堂が残っています。
小路など周囲の郭跡は民家になっているので、お堂にお参りし、
周囲を見渡してから立ち去りました。

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しんちゃん

城主不明の城館跡。 (2023/01/01 訪問)

江迎城は鎌倉時代の築城とされていますが、城主の名前や氏族は不明です。
戦国期の情報もありません。
現状は公園として整備されています。
特に遺構はありませんが、城址碑は立派で周囲をクリークで囲み
中には水車もあります。
一息つくのにはちょうど良いのではないでしょうか。

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しんちゃん

飫肥天に負けないくらい味わい深い城 (2023/01/07 訪問)

正月の九州遠征の写真をアップしていたら「かるた」をやっていたので
参加させていただきました。
飫肥天は日持ちがするので、お土産に最適です。
鹿児島でさつま揚げをお土産に買おうと思ったら、基本的に当日といわれ
断念していたので、飫肥天はありがたかったですね。
レンジでチンしてやると、なかなかジューシーな味わいでおいしかったです。

飫肥城は島津氏と伊東氏が激しい攻防戦を繰り広げた城です。
この城に対する伊東氏の執念はすさまじく、時の権力者の間を上手に渡って
ついにはこの城を手に入れます。
無敵と思われた島津にも、近くにこんな天敵がいたのですね。
飫肥城は高度な石垣の技術で築城されており、枡形と一体化した大手門。
敵を左右に散らせて伏兵でおそいかかる仕掛けなど、見ていて実に感心します。
三度目の訪城があったら飫肥天をいっぱい買って帰るとしましょう。

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T-Shionoya

北条の支城と聞いて勝沼城へ (2023/02/12 訪問)

小田原北条氏の手が加えられていると聞き、急遽2月に訪ねた東京都青梅市の勝沼城。

多摩川の山地部と平野部の境界エリア青梅。
その平地の北側、霞川を渡った先の比高20~30mの丘に、自然の谷を利用してつくられた城。堀は小規模だが、最近訪ねた城の中では小机城に似たタイプ。
江戸初期には石灰や材木の運搬および江戸と甲斐を結ぶ青梅街道青梅宿が整備されており、多摩川を含めてそれ以前から交通の拠点だったでしょうか。

築城時期や築城者は不明だが、この多摩川上流域(三田谷)を勢力としていた三田氏の居城。
1563年、北条氏照に滅ぼされると、その後は氏照家臣の師岡将景が修築したと伝わる別名師岡城。

現在は、三の丸が寺の墓地となっているものの、本丸と二の丸はスギやヒノキの林の中に遊歩道が通る土の城跡。

訪問時は光明寺から入城し、本丸を起点に二の丸と三の丸へ。
本丸には土塁が残り、その一部は櫓台のようにも見えるもの。
丘陵本体と尾根続きの二の丸北虎口は見どころの1つで、二の丸の突出部から土橋に横矢が掛かる構造。
三の丸内は立入禁止と書かれていたが、その南側の横堀と馬出は明瞭。

滞在時間は約2時間半。
もうすっかり暑くなりましたが、まだ少々の残雪が見られた勝沼城が私の城郭巡りの147城目でした。

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しんちゃん

【かるた】飫肥城の読み札 (2023/01/07 訪問)

飫肥天を 頬張り眺む 大手門

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しんちゃん

とんでもないスケールの日向の巨城 (2023/01/07 訪問)

志布志城は南北朝のころから使われ始めて拡張を続け、天正5年(1577)島津氏の
直轄となり家臣の鎌田 政近が地頭として入ったそうです。
鎌田氏は関ヶ原合戦後、徳川家家臣、本田正信との交渉で島津家存続の功績を
あげています。
現在、続日本百名城に登録されている志布志城は内城で、ほかにも新城、松尾城、高城が
ありますが、全部確認するのは困難でしょう。
新城は訪問しましたが、松尾城は社の背後の堀切の先に進めず断念。
登城しやすいよう整備が待たれるところです。
内城だけでもかなり広いですね。各郭が完全に分断されていて郭間が通路を兼ねた
堀切になっていますが、かなり見ごたえがあります。
登城道から矢倉場、本丸、中野久雄(二つある)、大野久雄と独特な名前の郭が続きます。
最も深い空堀の深さは17mあるそうですが、かつては最大24mあったとのこと
絶対登ることはできませんね。


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しんちゃん

シラス台地独特の構造。三城は訪問可能。 (2023/01/07 訪問)

鹿屋城は大隅の古豪、肝付氏の分家、鹿屋氏の城だったと伝わります。
戦国時代には鹿屋城は島津氏の勢力下に入っていたようです。
本郭は公園になっているようで、かつての城跡のイメージはありません。
高城跡は公園のようになっておりベンチがあります。
中城もなかなかの広さで道が通じています。
中央は草がぼうぼうなので端を歩いていくとフェンスに突き当たります。
ここから先は危険とのことでしょう。
実際途中でシラス台地の絶壁を見て、これは危ないなーと感じていた
所でしたのでここで終了とします。
鹿屋城はシラス台地の、この地域特有の構造で各郭が完全に独立し、
郭の端は絶壁になっています。
かなり急なので落ちたらつかまる所がありません。
足元には特に注意しなくてはと感じました。

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しんちゃん

未開の城‥ 突入ヤブレンジャー!! (2033/01/07 訪問)

櫛間城は鎌倉時代後期、地頭としてこの地に来た鎌倉御家人、野辺久盛によって
築かれたと伝わります。
室町時代には島津氏の勢力下に入りますが、豊臣秀吉の九州国分により秋月氏が
入り、慶長9年(1604)に廃城になります。
福島川流域のシラス台地の上に築かれており
最高部の主郭は工場になっているようですが、その北側の
台地に遺構が残っているようです。
国土地理院の地形図を見るだけで容易に構造が想像でき
主郭側から藪に突入します。
冬だというのに酷い藪で進むのにも苦労しますが突っ切ってしまえば
あとは堀切や郭を確認できます。
次は北側から確認。堀や高台が確認できました。
この日はこれで引き返しましたが、西林寺には秋月氏の墓があり、その周辺も
郭だったそうです。

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ぴーかる

古都奈良の中心部に見事な二重空堀がある城跡 (2023/06/17 訪問)

【西方院山城】
<駐車場他>タイムズ東大寺転害門西24時間550円に駐車しそこから徒歩
<交通手段>車

<見所>竪堀・2重空堀
<感想>日帰り奈良ちょこ城150㎞の旅2城目。西方院山城は1444年に古市氏が筒井氏に対抗するため鬼薗山城の代わりの城として築城を開始しましたが、一旦中断して鬼薗山城を完成させたために途中で放置されました。1478年に古市氏が西方院山城の築城を再開して完成させますが、城が完成して3日後に筒井勢に攻められた際に城兵が火を放ち焼失落城しました。
 2019年にすぐ隣にある奈良ホテルになっている鬼薗山城跡に行きこの西方院山城もチャレンジしようとしましたが、人の往来が激しくて市街地の中、山に入り込むを躊躇して断念しました。今回は先達方の投稿を参考に<34.679190, 135.835093>の土塁端からよじ登って登城しました。上記ポイントから登っていくと、主郭背後の土塁と池方向に落ちる竪堀があります。主郭は瑜伽神社とその裏にある広い削平地になります。主郭西側に大きい2重空堀が残り見応えがあります。空堀の最南上部に虎口跡があり数個石列が残ります。奈良公園のすぐ南、市街地の真ん中に土の遺構のある丘城跡があるのは珍しい。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

宇喜多秀家が築いた総石垣の城。 (2022/12/30 訪問)

下津井城は文禄年間(1592~1596)に宇喜多秀家が築城し、池田忠継が岡山藩主に
赴任した際に池田長政を普請奉行として改修させたと伝わります。
その後、城代が入りますが寛永16年(1639)の一国一城令により廃城になってしまいます。
アクセスは良く道路からすぐに城域に入れます。
まず西の丸から散策に入り、東方向に二の丸、天守、三の丸、東出丸と訪問していきます。
全体が石垣で覆われた総石垣の城で、今でも石垣が良く残り非常に見ごたえのある城です。
本丸には天守台も残り瀬戸内海と瀬戸大橋が一望できます。
天守と本丸の石垣が崩れているのは儀礼的に破城を行ったということでしょうか?
もうこの城は使わないよ‥という意志表示でしょうか。

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ろっし

お城探訪 (2023/06/24 訪問)

近いうちに壊されるかもと言う事で見に来ました。

維持していく事は大変ですが残念です。

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しんちゃん

国の史跡なのだがなんか地味。城跡は戦国期に改修されたものなのか。 (2022/12/30 訪問)

桜山城は南北朝の時代にゆかりがあるようで、後醍醐天皇に味方して
桜山 茲俊(これとし)が兵をあげたそうです。
その後、敗れた 茲俊は吉備津神社に放火し、自らの妻子を殺害、一族郎党ともに
自刃して果てたそうです。あまり知り合いになりたくないタイプですね。
この桜山城、国の史跡に指定されているらしいですが
あまり認知度が高くなさそうですね。
墓地から取りつくと大きな堀切があります。
南の端に郭があり東北のほうをざっと確認した後
主郭を目指します。南西側にも郭があるようなのですが
たどり着けそうもありません。ガラの悪いやからが連れている犬が
やたら吼えてきています。ストックを持っているのが良くないようですね。
やからが絡んできているのでさっさと退散します。
こんなめんどくさいやからの相手をしているほど暇ではないのです。

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しんちゃん

古城山 恨めしそうに 猿が見る (2022/12/30 訪問)

笠岡山城は弘治年間(1555年 - 1558年)に村上隆重(能島)が築いたと伝わります。
村上武吉の叔父さんらしいですよ。
元和5年(1619)廃城となり、今は公園となっています。
公園なので車で簡単にやって来ることが出来ます。
遺構らしい遺構はほぼ無く、広場の隅に招魂社と衣笠山という
謎の高台、展望台があるようです。
猿のオリがあるようですね、ほとんど人もいないのに。
なんか恨めしそうにこっち見てます。 一句できました‥
古城山 恨めしそうに 猿が見る。

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しんちゃん

城主以下壮絶に散る。女軍も全滅。ご冥福を祈ります。 (2022/12/30 訪問)

常山城は標高307mの常山の山頂一帯に築かれており
城址近くまで車で行くことが出来ます。
天正3年(1575)6月7日、城主上野肥前守隆徳の守る常山城を
毛利・小早川の大軍が攻め、城主と妻鶴姫は自害、34人の侍女衆も壮絶に
戦いを挑み討ち取られてしますいます。(常山合戦)
常山城は主郭から北とやや北寄りに東の二方向に郭が伸びています。
いわゆるレの字の形をしているのですが
駐車場は北の郭側、青木丸の北に位置していますので
すぐに城址を堪能することが出来ます。
北三の丸にはトイレがあって、二の丸には壮絶な最期を遂げた
女軍の碑と墓群があります。
本丸からの眺望は素晴らしく、遠く瀬戸内海を見渡すことができます。
東の郭群を確認した後、駐車場に戻る途中で侍女頭が身をなげたという
底無井戸を見たのですが、おどろおどろしいオーラが出ていて
呪われるといやなので写真は撮っていません。ぜひ訪問してご覧になってください。
この城郭は二方向に郭が伸びているのですが、両郭群の連携は難しそうだと感じました。
大軍相手だと持ちこたえるのは難しいでしょう。
城内の士気が高いだけにいささか残念な気持ちになります。




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しんちゃん

駐車場完備。お手軽に訪問できます。 (2022/12/30 訪問)

神辺城は嘉吉3年(1443)山名氏によってこの地に築かれたとされています。
江戸時代に福島氏のよって近世城郭として改修されたとありますが、水野勝成が入封した
際に福山城を築いて部材を転用してしまったとされ、本丸の南側にわずかな石垣を残す
のみとなっています。
史料館の駐車場が利用でき、四番櫓跡から東へ三番櫓跡、二番櫓跡、二の丸跡を経て
本丸にたどり着きます。
公園として整備されているようで土塁などの遺構は残っていませんが
比較的お手軽に散策できます。

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しんちゃん

灰白色の石垣がお出迎え。これを見たかった。 (2023/06/25 訪問)

鹿伏兎城は登山道がいまいちよくわからなかったので、これまで訪問を
控えてきたのですが線路の先に登り口があると知り
伊賀・甲賀の城攻めの際に登城しました。
このあたりは新所城や峯城のように魅力的な城が多いですが
鹿伏兎城はガチの山城ですので心して登城しました。
登城ポイントから城の方向に移動していくと線路の向こうに木橋とスロープが
見えてきます。ここから登るのですが足元が濡れていて危ない。
用心しながら登っていくとやがて道が見えてきます。
城址の南側の尾根の先端に両側が切り立った石の壁のようになった
箇所がありますが、ここは見張りにも使えそうです。
足元が危ないのであまり崖に近づかないようにしながら
北西に進んでいくと尾根上に石の祠が並んでいる箇所があり、ここを
北やや東寄りに移動します。尾根伝いにいくとそのまま城跡にたどり着くのですが
噂の白い石積みが見えてきます。これだけでここまで登ってきた甲斐が
ありますが、城めぐりはここからです。
ここの虎口はなかなか特徴的らしいのですが、スルーしてしまいました。
東西に郭があるようなのですが、どちらが主郭なのでしょうか?
とりあえず井戸がある東側を主郭として二の郭から虎口を抜けて主郭に向かいます。
いずれの郭も土塁が比較的良好に残っているようです。
そのまま南側の高い土塁を登って行って櫓台に到達。
あとは石垣に別れを告げて下山します。
登城のポイントはなんといっても登城口の確保ですね。あとは登城道に合流できれば
問題なく登城できると思います。線路を渡るときはいつでもドキドキしますが。



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しんちゃん

山城の雰囲気を強く持っている平山城。売りは枡形虎口と天守台の高土塁。 (2023/06/25 訪問)

峯城は関盛忠の五男・峯政実によって築かれたと伝わります。
信長亡き後、織田氏の勢力争いに巻き込まれたびたび戦火にさらされますが
羽柴秀吉は数日でこの堅城を落としています。
信長存命のときは兵糧攻めやら水攻めばかりやっていたのに実は結構
力攻めも得意なのですね。なかなか小憎い御仁です。
峰城は比高も40m程度で平山城に分類されています。
主郭にはおそらく当主の館があったと推測されます。
よく山城と平山城の違いを高さで区別しようという風潮がありますが
私はそんな単純なものではないと思います。
平山城にはやはりある程度の居住性が必要なのではと考えます。
用途(詰めの城など)や地形、居住性や城の構造など比高が50m程度でも山城と呼んで
差し支えない城はけっこうあります。
小牧山城のように平山城とよばれながら山城の機構を持っている城もあります。
麓に居館がありますからね。平山城と山城の間に明確な区分は無く、その中間に
当たる城も多いので、実際に自分の眼で見て判断するしかないというのが私の持論です。

話はそれましたが峯城は平山城でありながら山城の雰囲気を非常に強く持っている城です。
北の入り口からはいり、かんざし井戸を見てから枡形虎口を抜け南に向かいます。
途中、いくつか郭がありますが日当たりの良い場所は草ぼうぼうで
見学には適しません。主郭の北の郭と西の郭は土塁も残っているので見ておいたほうが良いと
思います。さらに南下していくと主郭の北と西側を守る土塁が見えてきますがかなりの高さです。
この高い土塁の上に櫓台と天守台が配置されている珍しい構造です。
南側から回り込めば虎口をぬけ主郭から土塁を伝って天守台までたどり着けますが
私は天守台に直登しました。登ってから主郭へ降りていきますが
主郭はかなり広いです。ただ東側の防備が手薄なのが気になります。
ここにも土塁が欲しいところですね。


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しんちゃん

鮎河城(詰めの城)いささか詰めの城としては心もとない。 (2023/06/26 訪問)

鮎河城(詰めの城)です。獣道より細い筋をたどって斜め上に登っていきます。
道と呼べるほどのシロモノでもないのですが
脚を引っかけるぐらいには役に立ちます。
なんとか城の南端近くに到達。そこから直接上がっていきます。
主郭の南側に兵を駐屯できるくらいの、いささか斜めった郭があります。
まあ守り手としてはそれを防御に転用できるから良いのでしょうが、
とにかく主郭下に到着。主郭部は周囲よりさらに高地にあります。
主郭の北には堀切Aがあり、なかなかの深さです。渡った先には石がまとっまている
箇所があり、ここが烽火台を兼ねていた可能性もありますが
予想の範囲です。尾根筋を北上して行くと堀切Bがあります。
その周囲にも見張りに適した高地があります。
その先にも兵のたまり場になりそうなスペースがあります。
当然その先にも防御設備があるはずです。進んでいくと
やはり横堀があります。その先にはあまり敵兵の駐屯できるスペースは
無いですね。これなら効率的に敵兵を射殺できます。(物騒な!)
この城はここまでで良いとして、いったん南下して元来た行程で下山します。
その途中で、いくつか規模の大きい竪堀に遭遇します。
やはりここは詰めの城としては規模が小さい。
本城の背後の守りを固めつつ、物見と烽火台の機能を持たせた砦ではないでしょうか。
詰めの城は今回、訪城しなかった高尾城か‥?
おそらくそれだけでは不十分なのでやはり居館の防御力を高めて平山城として
機能させていたのではないでしょうか。

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