モトさんの道がわからず石垣を見逃したとの投稿(4月20日付)を拝見しました。登山口のある南畑ダムは私の自宅から車で40分くらいの所なのに、まだ行った事がないので、この機会にちょっと行ってみる事にしました。
「一ノ岳城」は、室町期に九州探題であった千葉氏により築城され、戦国期には筑紫氏の城となりました。その後九州北上を狙う島津氏に対抗するため、勝尾城主の筑紫広門が支城として整備したようです。しかし広門は島津氏に敗れ、この一ノ岳城に逃げ込むも捕まり、大善寺に幽閉され、城は秋月種実に奪われてしまいます。その後、秀吉の九州征伐を機に島津氏は撤退したため、広門は秋月氏より奪還! よって今残る石垣や石積や畝状竪堀は、筑紫広門が対島津氏との決戦のために造られたものだと推測されます。広門はこの後、立花宗茂とともに関ケ原へ向かうも、大津城で京極高次の抵抗にあい、あと1日で本戦に間に合にあいませんでした。そして家康から改易され、剃髪し黒田・加藤・細川を頼って転々と流浪し亡くなったようです。
では本題に入ります。私の登城したルートをこれから(地図⑩)をもとに説明します。「一ノ岳城」は、左(西方)の山(標高695m:一ノ岳山)ではなく、右(東方)の山(標高648m:陣ノ尾山)にあったようです。まずは南畑ダムから遠望し位置を確認します。結構高そうです(写真①)。私は健脚ではないので、結局登り2時間、休憩と探索で1時間、下り1時間の合計4時間もかかってしまいました(笑)。
モトさんと同じ南畑ダム沿いにある林道入口に車を止め、そこから登ります。20分程歩くと、途中で林道から右に入る細い道があります(赤いリボンが目印です)(写真②)。
その道を入るとすぐに分岐があり、そこを左に行きます(写真③)。ここから先は、山頂まで急な心臓破りの山道が続きます。赤いリボンを頼りに迷わないように進みます。倒木も多々あり、滑りやすいので注意して登ります。途中で大きな岩に曲輪らしき空間がありました。おそらくここは番所の跡ではないでしょうか。石落とし用の巨大石も要所にありました。攻手側とすれば、こんなのを上から落とされたらたまりませんね(笑)。
一ノ岳山と陣ノ尾山との分岐点に出会いました(写真④)。ここを右に登ります。このあたりが二の丸と思います。左の崖沿いには、多くの石積が見られました。現在は風化してかなり崩れ落ちていますが、私が推測するに、元々は石垣状の連続する巨大な石積ではなかったかと思います(写真⑤)。石垣の隅部と思われるものもありました(写真⑥)。石垣の残りの部分は土砂と枯葉に覆われ見えませんでした。その下は畝状竪堀と思われます。予想外にかなりの大規模な防御を備えた山城だったようです。さらにもう少し登ると山頂の本丸に到着しました(写真⑦⑧)。木々に囲まれ眺望がないのがちょっと残念です。
でもここまでなかなか石垣を見つける事はできません。足が疲れて動かなくなったのでとりあえず山頂の本丸でお弁当😊。30分位して足が回復した所で、山頂本丸の回りの崖を這いつくばって覗き込むようにぐるりと1周し探索しました(写真⑦⑧)。すると・・・ありました! 西側手前5m下に! たぶん本丸の上から見渡しただけでは見えません。それでモトさんは見落としたのかもしれません 木につかまりながら少し本丸から下に降りて見ました(写真⑨)。440年もの間、人目につかず風雨にさらされながらも、よく残っていたなと感心します。時間をかけて探せばまだあるのかもしれません。私もこの一ノ岳城の全貌が知りたくなりました。でも石垣の下は畝状竪堀と思われる急斜面で枯葉も多く、私は何度も滑り落ちそうになったので、今回はこの辺までとしました。モトさんも再度登られる時は、十分注意して下さい。私もいつかまた続きをリベンジしたいと思います。
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