もーしわけないけど、八王子城の投稿、まだ終わっていません。これだけのボリュームのある城郭だと、なかなか一回の枠では収まりきらないんですわ。ゆるしてニャ。
八王子城の何が凄いって、中世から近世にいたる城郭の構造の変化を感じ取れる稀有な城だと思うんですね。本丸周辺には小宮曲輪、八王子神社のある曲輪、松木曲輪があり、この辺りは道が通じているので訪問には苦労しないと思います。作業道と標柱の立っている細い道があって、ここから詰の城に行けるのかなと思ったら本丸の西の曲輪に付きました。うん、道理で道が良くないと思った。ほとんど獣道みたいだったし。でも西の曲輪は見れたぞ! 分岐まで戻って詰の城を目指します。
八王子城の合戦の際には、本来の城主北条氏照は小田原城に参じており城代の横地監物吉信ら3000人(非戦闘員含む)が籠って戦ったとされています。豊臣方の攻撃は深夜より始まり、一日中に落城し、城内は凄惨な有様だったようです。
北条氏政・氏照の兄弟も北条氏の降伏と共に切腹を申し付けられますが、結果として五代目当主・北条氏直と小田原城兵の命は救われたと言えます。氏直は徳川家康の娘婿であったため家康からの助命嘆願もあったとされます。しかし、秀吉が小田原と会津の間の街道を整備し、家康を関東に移封すると状況は異なってきます。関東に強い影響力を持つ北条氏当主である氏直は家康にとって徐々に危険な存在になって来たと思うのです。
天正19年(1591)1月から氏直は家康に依頼するなどして赦免活動を開始し、8月には河内と関東に1万石の領地を得て、豊臣家臣の大名として復活をします。これが良くなかったのだと思います。家康からすれば氏直が秀吉に懐柔されて国人一揆を起こすことを警戒していたであろうし、秀吉の命で東北諸将が一致して関東を攻めることも恐れていたと思います。
氏直は大名に復帰して三月とたたずに死んでしまいます。死因は当時流行していた疱瘡(天然痘)とされますが、氏直は自らの立位置をよく理解しないまま家康に赦免の協力を依頼したことで自らの寿命を縮めてしまった可能性があると思うのです。
天然痘は感染力が強く、患者より薄着等に天然痘ウイルスを移し取ることで容易に罹患させることが可能です。氏直の最期は家康と秀吉という二つの巨魁の間で翻弄された結果のように思えるのです。奥方の督姫が下手人とは思いたくはありませんが、督姫(良正院)本人も慶長20年(1615)2月4日 家康と会うために滞在していた二条城で疱瘡にかかり死去したとのことです。督姫の息子の忠継も同年2月23日に岡山城で疱瘡で死去したとされているので、疱瘡に因果の有る系譜なのかもしれません。
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