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にのまる

西総堀土塁公園に初めて行きました。 (2023/06/28 訪問)

4度目の松本城は犬甘城から徒歩で向かいました。
これまでは松本駅から高層建物群を縫いながら歩いていたので到着するまで天守は見えなかったと記憶しているのですが、低層の住宅地を歩きながらだと家と家の間や小さな路地から顔を出す天守に何度も遭遇し、そのたびに感動を味わえました。

今回の目的は①西総堀土塁公園②金蔵③城カードです。

【西総堀土塁公園】
町なかに僅かに残された土塁の保存と活用方法は自治体の腕の見せ所でもあるかと思いますが、充分なゆとりを持たせて保存されており、説明図もとても分かりやすかったです。意外と高さがありました。
【金蔵】
二の丸の西北隅に残る金蔵。お色直し直後でしょうか、漆喰が真っ白で美しいです。
御殿跡の奥まったところ、水堀の際に建っているので無防備な印象も持ちましたが、そのおかげで二の丸の火災の際にも延焼を免れたのかもしれません。
【城カード】
現存天守シリーズの城カードのリニューアル版です。金文字で写真もいい感じに変わっていました。旧ver.は12種揃っているので、新しいのも揃えたい(´艸`*)


このあと上田城に向かいました。
これまでは、
・松本城=新宿から中央本線特急あずさ
・上田城=東京(東京駅の混雑を避けたいときは大宮)から北陸新幹線
でしか行ったことがなく、それゆえ松本城と上田城を同日に訪れることもなかったのですが、今回は篠ノ井線としなの鉄道を使って上田へ行ってみました。
篠ノ井線は車窓からの風景がとても素晴らしいところ。あいにくのお天気でしたが雰囲気を感じられただけでも良き時間でした。(特急しなの9号利用)
篠ノ井駅で地元の高校生に混ざっておろおろしながらの乗り換えも旅の醍醐味のひとつ。新しい経験ができるのは楽しいです。

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イオ

外堀めぐり (2023/07/22 訪問)

(続き)

埋門で中堀は船場川を離れて東に折れ、船場川に沿って南に続く堀は外堀となります。外堀沿いに設けられていた5箇所の門は全て現存せず、外堀も東部に外堀川として痕跡を感じられる程度で土塁や石垣は遺っていませんが、午前中に訪れた外堀跡の発掘調査現地説明会では、地中には石垣がしっかりと存在することを確認できました。

埋門から発掘調査地を横目に船場川を南下すると、船場川西岸から備前門へと架けられていた備前門橋跡に説明板と発掘された橋の礎石や延石のレプリカが展示されていました。また、備前門跡の南側、大蔵前公園の西側には外堀が水をたたえています。発掘調査地の様子と照らし合わせて考えても、往時の様子とそう違わないんじゃないでしょうか。

外堀は大蔵前公園から何度か折れながら南東に続きますが、埋め立てられて市街地になっていて痕跡もわかりません。山陽姫路駅北側のボンマルシェ姫路店の南西隅に飾磨津門跡の説明板があったり、山陽百貨店の東側歩道に姫路城の外濠跡の説明板があることから、この辺なんだろうな、と推測できるくらいです。

JR姫路駅の東側から外堀川がアクリエひめじの前をよぎって北に続いています。外堀はもう少し北側だったようで、兵庫信用金庫本店前の交差点が北条門跡とされますが、説明板も痕跡も何も見当たりません。外堀川はこのあたりでは外堀跡と一致しないものの、おおむね外堀跡を流れているようで、外堀川沿いにある外濠公園での発掘調査では、外堀の遺構が確認されています。

外濠公園から外堀川沿いに北に進んだ先には外京口門があり、川から少し西に入った中学校前に外京口門跡の説明板が2種類立てられています。さらに北に進むと国道372号を過ぎたところで外堀川は西に折れ、このあたりが竹門跡で、説明板などはありませんが、交差点名はそのまんま「竹之門」です。外堀川はしばらく西に続き、姫路城外濠跡の石碑があるあたりでまた北に折れて、野里堀留町の姫路城外濠跡の石碑と説明板から先は暗渠になって続いていますが、外堀としてはここまでです。「堀留」ですもんね。

…ということで、八頭門から野里堀留町まで姫路城の周りをぐるぐると約3周、4時間弱をかけて堀めぐりしましたが、外堀は外堀川を除きほぼ痕跡すら見られないものの、内堀はほとんどが現存し、中堀も南辺の国道2号線部分以外は遺っていて、その国道沿いも中堀の土塁や門はしっかり遺されているなど、見どころ盛りだくさんでした。内曲輪に足を踏み入れなくてもこれほど楽しめるんですから、やっぱり姫路城はすごいなぁ…と改めて。
 

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トク

69【関ケ原の26人】(23)石田三成 (京都六条河原と大徳寺三玄院) (2023/07/01 訪問)

(23人目)「石田三成」の続きです。
最後に、京都六条河原と大徳寺三玄院を訪れてきました。

1600年11月6日、六条河原の正面橋の下、このあたりで石田三成は、小西行長・安国寺恵瓊とともに斬首の刑に処せられました(写真⑤⑦)。橋のたもとには南無阿弥陀仏と彫られた供養の釣鐘がありました(写真⑥)。また処刑された河原に下りると、鶴や鴨がいました(写真⑧⑨)。鶴は三成の生まれ変わりでしょうか?

刑の直前に警護の兵とこんな会話があったそうです。
(三成)喉が渇いた、水をくれないか
(警護)あいにく水はないが干し柿ならある
(三成)干し柿は痰の毒になるからいらぬ
(警護)もうすぐ死ぬ者が何を言うか、ハハハ(笑)
(三成)そなたには分らぬかも知れぬが、大志を抱く者は最後まで命は粗末にはしないものだ・・・

そして三成の遺体は、大徳寺の三玄院に葬られました。今でも三成はここに眠っています。そして当時から現在までも、この三玄院の中へ立ち入る事はできません(写真①②③④)。

私は六条河原から大徳寺を訪れ、そして三玄院の門の前に立ち考えてみました。三成は、吉継などが止めたにもかかわらず、なぜ兵を上げたのでしょうか? 本当に勝ち目はあると信じていたのでしょうか? 太閤の遺言に従い豊臣秀頼を徳川家康から守るため、理由は本当にそれだけだったのでしょうか? 三成が最後まで抱いていた大志とは一体何だったのでしょうか?・・・

 筑摩江や
 芦間に灯す かがり火と
 ともに消えゆく
 我が身なりけり

石田三成(享年41才)
惜しい男だったと思います・・・


【余談】辞世の句
筑摩江とは琵琶湖の入り江の一つで、ちょうど長浜城や佐和山城からも見える所です。私が長浜城の天守から撮った写真です(写真⑩)。米原の湖岸付近が筑摩江だと思われます。芦の草が生える湖でかがり火をたいて漁ををしている人々の様子をここから見た事をふと思い出したのでしょうか? 夜が明ければこれらのかがり火は消えてしまいます。自分の命も夜明けとともに刑が執行され、はかなく消えてしまうのであろう・・・という気持ちを最後にこの景色を思い出し詠んだのではないかと思われます。

私は、最後まで大志を貫いたこの石田三成に「敢闘賞」をあげたいと思います。

残るはあと3人です。
次は(24人目)に続きます。
 

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しんちゃん

鬼玄蕃・佐久間盛政と二曲姫の伝説 (2021/11/20 訪問)

二曲城は白山麓一向一揆の山内衆のリーダー、鈴木氏の居城で国の史跡に指定されています。
麓から尾根沿いに登城道が続いていて、三の郭、二の郭を経て本丸にたどり着きます。各郭に
土塁が残り、本丸と二の郭には掘立柱建物跡の標示があり、本丸には井戸跡や炉の跡が残っています。
南の山頂にも五の郭が残りますが、道が整備されていないので、そこには至らず谷間の四の郭を
経て下山しました。四の郭には石垣が残っています。
二曲城には佐久間盛政と二曲姫の伝説があり、諸説あるようですが、父の死後盛政の求婚を
断り出家していた二曲城はこの城に住んでいたのですが、再び一揆勢の拠点となり、盛政の
攻撃を受け姫は自ら命を絶ったとのことです。城は落ち、残った一揆勢は全員磔になるのですが
かつて想いを寄せた姫の命を奪ったことだけは盛政の悔やむこととなったでしょう。
あくまで伝説ですので本当の所はわかりませんが、こういった話は、城めぐりをする際に
趣を深くします。

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しんちゃん

富樫氏、最期の城。 (2021/11/20 訪問)

高尾城跡の本丸は当時は立ち入り禁止で訪問できるのは見晴らし台までになります。
見晴らし台から近場のいしかわ師範塾を見下ろすと、いかにも居館の雰囲気が漂っています。
せっかくなので訪れてみたのですが誰もいないようです。案の定、土塁があるのでここが
富樫氏の居館跡の可能性は有りそうです。人がいないので断りの入れようがなく、
写真だけ取ってそそくさ退散しました。
長享2年、加賀国守護富樫政親と一揆方の緊張は最高に達し、一揆勢が高尾城を取り囲みます。
6月8日、一揆方の了承のもと婦女子を逃がし、9日には総出で打って出て奮闘しますが、
敵わぬと見て城内に引き返し、自刃したとのことです。
このあと加賀国の支配は三山の大坊主・本泉寺蓮悟、松岡寺蓮綱、光教寺蓮誓と一揆勢力によって
行われ、百年にわたる「百姓の持たる国」となり全国でも類を見ない体制となったとのことです。

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真田丸 (2023/09/14 訪問)

 大阪城の出丸ということで、ここで投稿させていただきます。大阪明星学園付近にあったとされているようです。大坂明星学園グランドの横に真田丸顕彰碑がありました。道を挟んだ心眼寺にも石碑と真田信繁の墓があります。
真田の抜穴跡が近くの三光神社にあるのですが、失念していました。昔に一度行ったことがあり知っていたはずですが、帰って来てから思い出しました。痛恨の極みです。

 鶴橋駅から徒歩15分くらいです。

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七松八幡神社 (2023/09/14 訪問)

七松八幡神社付近が城址です。「七松城落城 なくなられた武士及び家族 故六百二十余人之碑」が境内にありました。

 JR立花駅から徒歩約10分で行くことができます。

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石堡塔 (2023/09/14 訪問)

 幕末に幕府が大坂湾防備のために築造した砲台です。石堡塔と土塁が残っています。

阪神西宮駅よりバスに乗り西波止町バス停から徒歩約2分で行くことができます。帰りは阪神西宮駅まで歩きましたが20分弱でした。

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天保山公園 (2023/09/14 訪問)

 幕末に幕府によって築造された台場ですが遺構はないと思われます。昔、海遊館に来たことはありましたが、天保山は初めてでした。

 大阪メトロ中央線大阪港駅より徒歩約5分です。駅でお客さんは多く降りますが、皆さんは海遊館に向かっているようでした。天保山方面へ歩いていたのは自分ひとりでした。

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御勝山古墳 (2023/09/14 訪問)

 大坂の陣のときに徳川秀忠が陣を置いた古墳を利用した砦です。柵で囲われて中には入れませんが、近くの歩道橋の上から少し見えます。ただ砦の遺構らしきものはわかりません。真田丸が思ったより近いですね。
 なんば駅からバスに乗り生野区役所バス停で下車。バス停から徒歩約1分です。

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ホテル (2023/09/14 訪問)

 奈良時代に行基が創建した寺ですが、戦国時代は石山本願寺の支城となっていたようです。なんば駅から近いのですが、遺構もなくホテルを建設中なので行くのを躊躇していました。近くまで来たので行って来ました。ホテルの1階に御寺の本堂があるという作りでしょうか。
 なんば駅から徒歩5分くらいで行けます。

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そうだったのか。モヤモヤも残る。 (2023/08/28 訪問)

9/1投稿の続きです。正面登山口から、屏風岩の上の台地に至りました。
船上山は、大山から流れ出た溶岩からなる、溶岩台地です。際はそそりたっていますが、台地上は、平坦で広かったです。後醍醐天皇の御座所跡(推定)へ向かいました。鎌倉時代、この台地には、山岳仏教が栄え、寺、僧坊が立ち並んでいたとのことで、土塁跡も見られます。推定御座所には、高い土塁が。
一地方豪族の名和氏が、船上山城のような大きな城を持っていたのが、不思議でしたが、山岳仏教の寺を借用したとわかり、納得。
幕府軍との戦いの有り様は、どうだったのでしょう。一ノ木戸まで攻め込まれたともありますが、今、一ノ木戸と言われている石垣、石段は、平坦な場所にあり、御座所まで近いです。ここまで攻められたらもうヤバイんとちゃう。また、石垣、石段は江戸時代のものと。
山上の説明板の地図(写真⑦)を見ると、船上山麓に、「船上山古戦場」と書かれています。また、東坂入り口の説明板には、「三日間の戦い」とあり、山上休憩所にあった琴浦町パンフには、「一日の戦いで」とあり、私本太平記には、「四日間の戦い」と。籠城・攻め込まれ&出撃と一筋縄でない戦いであったと思われますが、もやもやが残ります。

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イオ

中堀めぐり(鳥居先門~清水門) (2023/07/22 訪問)

(続き)

惣社門の東には鳥居先門がある…はずですが、遺構はもとより説明板もありません。ただ、その名からも播磨国総社・射楯兵主神社の鳥居前にあったのは間違いなさそうなので、鳥居の写真を撮って良しとしておきます。

鳥居先門の東で中堀は北に折れ、城南線を渡ったところからまた中堀が復活します。そして中堀沿いに北に少し行くと内京口門です。中堀に架かる土橋の先は学校になっていて門内の様子は窺えませんが、枡形門だったようです。内京口門から久長門へ内堀沿いの道を走っていると、路面に何かの表示がされていることに気付きました。姫ちゃりを停めて説明書のタイルを読んでみると「東部中濠石積跡」とあり、かつての中堀の石積みの想定位置が表示されているようです。現在よりもっと堀幅が広かったんですね。久長門は真ん中を広い道路が通っていて枡形は失われていますが、道路の両脇に石垣が遺っています。

中堀は久長門からさらに北に続き、やがて西に折れて野里門に至ります。野里門は県道が通っていて枡形の石垣は見られませんが、中堀沿いの土塁はしっかりと遺っていました。中堀は野里門から西に続き、中曲輪の北西隅で南に折れて清水門で中堀一周です。清水門には枡形内門の石垣が遺り、門の名のもとになった鷺の清水と呼ばれる石組井戸も見られます。

さて、中堀は清水門までだとしても、その先は船場川を外堀と考えるのかどうかわからないので、とりあえず船場川沿いに南下して、埋門に向かいました(続く)。
 

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イオ

中堀めぐり(市橋門~惣社門) (2023/07/22 訪問)

(続き)

中堀沿いには11箇所の門が設けられています。北勢隠門の西側には船場川に平行して中堀が設けられ、その間に築かれた堤は千姫の小径として整備されています。千姫の小径を南西にたどると市橋門に至ります。門の中を大手門前から続く広い道路(城南線)が通っていますが、道路脇に門の石垣が遺されています。市之橋で船場川を渡ったところには千姫の小径にちなんでか千姫の銅像も建てられていました。

千姫の小径をさらに南下し、中堀が途切れたところに車門があります。二重枡形で厳重に守られた門で、外門、中門、内門に加えて船場川に通じた車道門からなり、石垣が状態良く遺っています。門の内側を覗いてみると、門の石垣には合坂が設けられていました。車門の南側にも中堀は続いていますが、現在は水は張られておらず、空堀状になっています。

車門の南にある埋門は中曲輪の南西隅にあたることから、枡形の内門に続いて二重の隅櫓が設けられていたようです。埋門で中堀は東に折れて続いていましたが、国道2号線建設のため埋め立てられてしまいました。それでも国道の北側には中堀の土塁が惣社門付近まで遺っており、中堀の存在を後世に伝えるため国道二号線建設之碑が建てられています。

埋門から国道沿いに東に進むと鵰(くまたか)門があります。枡形の石垣が完存する見事な遺構であるばかりでなく、信号機が設けられて車が次々と行き交う現役の門でもあります。先が見通せない枡形なんて車道としてはどう考えても不便であり危険なはずですが、その上で遺されているというのは有難いことだなぁ、と。

鵰門の東にはかつての大手道筋にあたる中ノ門。中堀の埋め立ての際に門の石垣の大部分は取り壊され一部が遺るのみですが、国道沿いの歩道には発掘調査で確認された石垣の位置が黒い鉄平石で示されています。中ノ門から大手前通りを渡って惣社門へ。枡形の石垣が一部遺るほか、発掘調査で検出した石垣の断面構造や暗渠についての説明がされています(続く)。
 

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todo94

世界遺産登録30周年記念 (2023/08/20 訪問)

小天守と渡櫓の特別公開に行ってきました。2022年にも公開されていたようですが、私にとっては乾小天守の中に入るのは初めてです。あけ放たれた窓から間近に見る天守や眺望は素晴らしいものでした。特別公開のチケットのデザインは世界遺産登録25周年記念の時と同じ復刻品でしたが、紙が薄手ながらもレザックになっていて、ちょっと高級感が増していました。折廻り櫓の中に入るのも初めてでした。朝田辰兵衛さんとにのまるさんがやりとりされていたるの門も門扉の礎石も含めてしっかりチェックしておきました。デジタル一眼レフを買って初めて訪れた2003年にも通り抜けていますが、その頃は今のようにこの先は進んではいけない的な表示はありませんでした。

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能登守利信

呟き (2023/09/10 訪問)

静岡駅からバスで大沢公園バス停にて下車、MilkyWay Squareにて自転車をレンタル、約5分。牧之原市史料館の城址碑や仙台河岸の石垣、二の丸土塁を眺めながら荒神曲輪跡(小学校裏手)に三重櫓模型がありました。小学校敷地外から見ることが出来ます。地元に愛された城址なんですね。

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能登守利信

呟き (2023/07/16 訪問)

二戸駅下車、二戸市観光協会より自転車をレンタル、約12分。 発掘品や展示を埋蔵文化センターで見学し、二の丸より登城。本丸の石垣や空堀、整備状況に感心しつつ散策しました。

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しんちゃん

佐々流築城術の傑作。ブラボー!(野太い声で) (2021/11/19 訪問)

松根城は佐々成政の築いた山城の中でも、かなりの傑作と言って良い城だと思います。
小原道が大手まで続いていて、そこから先は枡形のような虎口(喰い違い虎口)が
本丸に向かって幾つも続き、途中に馬出しも備えているようです。大軍の侵入を頑なに拒む
佐々流築城術は健在で、城域の左右に深い堀が南北にめぐり、堀切や竪堀も郭ごとに
配されているようです。一乗寺城や和田山城、源氏ケ峰城も素晴らしかったですが、
松根城はさらに輪をかけて素晴らしいですね。あえて言うならブラボー!です。(野太い声で)
古くは寿永2年(1183)木曽義仲がここに布陣したと伝わります。倶利伽羅峠古戦場はここから
北に6km弱の距離になります。15世紀後半~16世紀中ごろまでは一揆方の城とされ、
天正12年には佐々成政が松根城・朝日山城を手中に収めており、前田利家との戦いでは両城が
緒戦の舞台になったが利家重臣・村井長頼に落とされたとのことです。

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しんちゃん

本丸は二段構造で土塁を残す。松岡寺とセットで訪問するべき。 (2021/11/21 訪問)

波佐谷城は前身である松岡寺とセットで訪問したほうが良いでしょう。松岡寺跡も城の
郭として機能していたようで一部、土塁を残しているようです。
まずは北東の出丸から松岡寺に向かいます。遺構を確認した後は道標に従い本丸を目指します。
本丸は二段の構造になっていて、上段の郭の周囲にはわずかですが土塁が残ります。
松岡寺は蓮如の三子蓮綱兼祐の創建とされ、「三山の大坊主」の一つとされますが享禄4年(1531)
の錯乱で焼失。そのあと宇津呂丹波が城郭として築いたとあります。丹波は一揆方の武将の一人ですが
天正8年(1580)柴田勝家によって城は落とされ、丹波とその子、藤六の首は織田信長の下に運ばれました。
その後、波佐谷城には信長家臣、村上勝頼の一族の村上勝左衛門が入ったとされています。

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じゅんじん

禅林街 (2023/09/08 訪問)

曹洞宗のお寺を集めた守りの要です。

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