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トク

68【関ケ原の26人】(23)石田三成 (関ケ原 石田三成 陣跡) (2022/11/01 訪問)

(23人目)「石田三成」の続きです。
関ケ原の(石田三成陣跡)を訪れてきました。

いや~😯すごい馬防柵です!(写真③④⑤⑥)。二重三重四重に立てられていて迫力を感じます。この笹尾山の下には島左近の陣があり、山の上に石田三成の陣がありました(写真①②)。

最初は島左近を先頭に互角に渡り合います。この状況を打開すべく、三成は再三に渡り松尾山の小早川秀秋に出陣するよう使者を出します。しかし秀秋は動きません。私はこの三成陣から松尾山を眺めて見ました。三成はどんな思いで、ここから動かぬ松尾山の秀秋の陣を見ていたのでしょうか?(写真⑧)

この膠着状態を破ろうと、黒田長政の鉄砲隊が左側の山を迂回して密かに近づき、左近を狙撃します。それを機に石田軍は劣勢となり、左近が討ち取られると黒田・細川軍が怒涛のように攻め寄せ、ついに石田軍は壊滅しました。

私は石田三成の陣から、今度は決戦地(最大激戦地)を眺めてみました(写真②)。そしてこのすぐ目の前に、黒田長政と細川忠興の軍勢1万2千がこちらに向かって迫ってくる様子を想像してみました。この地に隙間もないくらいの大軍勢が、じわりじわりと迫ってきたと思います。この時三成は、どんな思いでここに立ちこの光景を見ていたのでしょうか? 私は想像しただけでぞっとし、足が震えてしまいました(写真②😱)。

最後にその下の決戦地にも立ってみました。多くの血がここで流され、ここは死体の山になっていたと思います。咲いていたコスモスの花が何かを語りかけているようで、とても物悲しく感じました(写真⑨⑩)。

敗れた三成は、この後ここから背後の伊吹山へと敗走します。いったいどんな思いで敗走して行ったのでしょうか?・・・(大原観音寺や長浜城にその時の思いを想像し投稿しています)。

最後に(京都六条河原と大徳寺)を訪れます。
 

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イオ

外堀跡発掘調査現地説明会 (2023/07/22 訪問)

姫路城の外堀跡発掘調査現地説明会に行ってきました。城びとのツイッターで現地説明会のことを知ったのが開催2日前。急ぎ下調べをして、当日は朝一番で姫路に向かいました。

調査地は外曲輪西部の外堀跡で、備前門跡の北側にあたります。姫路駅から歩いて15分程度なので城下町の説明板をたどりながらぶらぶら歩いて行き、説明会開始の20分ほど前に着きましたが、すでに多くの人が集まっていました。現地説明会資料を受け取り、調査地を覗いてみてびっくり! 現地を見るまでは石垣が発掘されたといっても外堀だからなぁ…とどこか舐めた気持ちもありましたが、まさかこれほど大規模かつ明瞭に遺っていようとは!

調査地のあたりでは外堀は西側を南流する船場川に平行して設けられており、堀幅約10m、深さ約1.7~2.6m、東面石垣は7段、西面石垣は9段の石積みが確認され、石垣上部では積み方に乱れが見られることから、洪水からの復旧で急ぎ積み直されたものと考えられるようです。外堀と船場川の間には堤が築かれ、増水時には船場川と外堀で水位を調整して氾濫を防ぐ治水機能も有していたんだとか。

調査地は埋め戻されてビルが建てられるとのことで、この見事な石垣をもう目にすることができなくなるのは大変残念ですが、ビルの下にこの石垣が眠っていると考えると、そして調査地周辺の外堀跡沿いではどこを掘っても同じような石垣が見つかるんだろうな、と考えると、何ともロマンのある話ですよね。改めて姫路城は素晴らしいなぁ…と実感させられました。

現地説明会資料のPDFデータは奈良文化財研究所からダウンロードできますので、興味のある方はぜひ。
姫路城城下町跡(480次)現地説明会資料( https://sitereports.nabunken.go.jp/131947 )
また、発掘調査の成果は「特別版 お城EXPO in 姫路」の「姫路城世界遺産登録30周年記念展示」でも紹介されるそうなので、お城EXPOに行かれる方は、そちらでもどうぞ。

さて、現地説明会の後は えきそば大手前店で早めの昼食を摂り、この日のもうひとつのお目当て、姫路城の堀めぐりに向かいます(続く)。

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todo94

【城びと未登録】但馬井上城(兵庫県美方郡香美町) (2023/08/19 訪問)

青春18きっぷ3日分での行き先を決めかねていたのですが、「兵庫テロワール旅」というパンフレットを手に入れその中の大乗寺をターゲットに定めました。朝一番の列車で出発しても香住駅への到着は午後6時を回っていました。大乗寺は応挙寺とも呼ばれており見事な襖絵を拝むことができます。NHKのドラマ「ライジング若冲」では2022年の大河ドラマで畠山重忠を演じた中川大志さんが、ちょっぴり情けなく丸山応挙を演じていて今でも記憶に残っています。孔雀の襖絵など、伊藤若冲に通じる精密さで見事でした。その大乗寺の裏手に井上(いがみ)城という山城があったので、山城オフシーズンと定めているにもかかわらず登城してきてしまいました。吉野神社の石段脇に土塁と竪堀らしきものがありましたが、これも城の遺構なのでしょうか。蔵王大権現が鎮座する山頂からの香住港の眺望は素晴らしいものがありました。このあと、小学4年の時、学研の図鑑「地球」に載っていた写真を見ていつか行きたいと思い続けていた玄武洞にも脚を伸ばすことができました。初めて写真を見てから50年もかかってしまいましたが。

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しんちゃん

兼六園 (2021/11/20 訪問)

特別名勝 兼六園です。
日本三名園の一つに数えられています。個人的には栗林公園と兼六園がツートップですね。
始まりは延宝4年(1676)加賀藩5代前田綱紀が御作事務所を城内に移し、跡地に
自らの別荘の蓮池御殿を建て庭園化したことによります。その後歴代の藩主が
改築や移築を繰り返したとのことで、この庭園が特別なものであったことを
うかがわせます。12代前田斉広の時代に霞ケ池を広げたり、栄螺山を築くなどし
今の形に近づいたとのことです。噴水も斉広公によるもので、日本で最も古い
噴水だとされています。
徽軫灯籠「ことじとうろう」は兼六園のシンボル的存在ですが今の燈籠は2代目で、
よく池の中に倒され破損したため、初代の燈籠は公園事務所の中に保管されて
いるとのことです。

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能登守利信

呟き (2018/07/21 訪問)

秋葉原から夜行バスで遠野駅に早朝到着。 このまま徒歩で登城します。 駅から基本的にまっすぐ歩けば麓の博物館前に到着します。 後は道なりに歩けば、二の丸、三の丸です。 櫓風展望台は三の丸に。 さて、そこまで到着したのはいいがスマホの扱いに苦慮して撮影は困難を極めました。 オマケに展望台の音声解説が始まっているのに、肝心の入り口が施鍵されていました。 一通り遺構もまわりましたし、ここは断念して下山しました。

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しんちゃん

城跡の中心は松任城址公園 (2021/11/21 訪問)

松任城は松任城址公園が本丸跡で、かつてはその周囲にも郭が築かれていたようです。
本丸にはかつての内堀の位置を示す石垣の一部が復元されているようです。
本丸南側はかつての二の丸で松任文化会館のあるあたりです。三の丸はその南の
願念寺周辺とされています。北は巨大な商業ビルが建つあたりからJR松任駅周辺まで
郭が存在したようで、以上を以て南北の城域を示し、東西にも郭が配され方形の城域を
形成し、その周囲を外堀が囲んでいたようで、その範囲は南北305m、東西301m余だったと
されています。
松任城は平安時代末期に当地を支配していた松任氏の館として築かれ、戦国期には一向一揆
松任組の拠点となったとされています。手取川の戦いの際には上杉謙信は松任城から、水島へ
兵を進めたと現地案内板には記されています。天正8年(1580)柴田勝家によって落城し、
鳥越城主・鈴木出羽守がこの城で謀殺されたとあります。後に加賀藩2代前田利長が2年、
丹羽長秀が11年在城し、その間に平城として整備されたようです。

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キンヤ

見事な石垣の近世平山城 (2023/08/27 訪問)

1601年、和歌山城主の浅野幸長の家臣 浅野忠吉が新宮に入り築城を開始しました。
1615年の一国一城令で一旦は廃城となりましたが再建を許可され、1618年に忠吉は再び築城に着手しました。
1619年、忠吉が安芸へ移り、代わって紀州藩付家老の水野重仲が新宮城に入り、水野氏が10代続き明治に至りました。

新宮城は熊野川の河口付近に築かれた総石垣の平山城で、11年ぶりに行きました。

山麓のニノ丸(南曲輪)、山上の松ノ丸・鐘ノ丸・本丸の各曲輪への枡形虎口、本丸周辺の綺麗に積み上げた算木積み・切込み接ぎ石垣が見事です。

特に本丸の石垣は高く見応えがあります。
天守台は南西側の真ん中が崩落し改変されていますが、南東側から見ると立派です。
前回、出丸は本丸から見下ろしただけでしたが、今回は出丸に入りました。本丸と出丸の間は堀切状となっていますが、橋が架けられていた時代があったともされ、出丸から本丸北側を見ると改修し埋めた石垣の痕跡が分かりました。

前回は松ノ丸から水ノ手へは通行止めで降りれませんでしたが、今回は水ノ手に行く事ができ、城跡では珍しい船着場・炭納屋跡があり、打込み接ぎの石垣が見事です。

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しんちゃん

白亜の模擬天守がそびえたつ。 (2021/11/18 訪問)

富山城は北は神通川に接し、かつては本丸を中心に、西に西之丸、東に東出丸、南に二の丸
そして北側を除く三方を取り囲むように三之丸が配されていましたが、今では本丸と二の丸が
城址公園と整備され、それ以外の郭は市街地となっています。本丸には模擬天守である
郷土博物館が置かれ、南側には堀が配されています。
千歳御門の両側には石垣が建ちますが、南側は平成の時代に築かれたもののようです。
富山城は天文12年(1543)この地方で勢力を持っていた神保長職が家臣の水越勝重に命じて築かせた
とされています。(さらに古いとする説もあり)永禄3年(1560)に椎名氏を支援する上杉謙信に
攻められ富山城に火をかけ逃亡、上杉氏に降伏するも長職は富山城を失います。
後に息子の長住が織田信長の支援で河田長親、椎名小四郎ら上杉氏の越中勢を退け、大勝城、富山城を
奪い返します。しかし長住は小島職鎮、唐人親広らに城を奪われ失脚したものと思われます。
その後、織田勢により富山城は奪還され、佐々成政が城主となり、大規模な改修が行われたそうです。
関ヶ原合戦後は前田利長の隠居城として大規模な工事が行われますが、慶長14年(1609)建物の主要部
をことごとく消失したため、高岡城を築いて移り、富山城には家臣の津田義忠が入ったとのことです。
その後は加賀藩3代前田利常が次男、利次に10万石を与えて分家とし、富山藩が成立。富山城を
居城としたということです。

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しんちゃん

宗守城(館) 富山県南砺市宗守 (2021/10/18 訪問)

宗守城の本丸跡には神明社が建ち、周囲を土塁が囲みます。
かつては北側にも郭が伸びていたそうで、周囲も堀で囲まれていたと考えられています。
永正年間(1504~1520)関東管領上杉顕貞の弟、越後国守護上杉房能の家臣、小林壱岐守(則行)が
この地に城を築き、山田荘を治めたと有ります。永正4年(1507)8月7日、房能が越後守護代
長尾為景に攻められ敗死し、宗守城主は越後国へ帰還し、宗守城は廃城になったとされます。

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しんちゃん

本丸背後の土塁は見ごたえ十分。(登れます) (2021/11/18 訪問)

井波城の前身は一向一揆の拠点であった瑞泉寺で、佐々成政に攻め落とされた後、
成政家臣前野小兵衛が入って城郭として整備されたそうです。
阿弥陀堂跡が本丸(現・井波八幡宮)となり、祖師堂跡が二の丸(現・井波町招魂社)、
太鼓堂跡が三の丸になったと記録にあるそうです。その後、前田利家に攻められ
廃城になったと有ります。本丸には社殿の背後に土塁が良く残ります。
旧瑞泉寺のころから残る松島大杉から下ったところに堀跡があり、今では畑になって
いるようです。城址の西側には瑞泉寺が今でも健在です。
明治12年、火災で山門をのこし消失しましたが、明治18年に本堂、大正7年に太子堂が
再建されました。

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ぴーかる

勝幡城 (2023/07/22 訪問)

【勝幡城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>車

<感想>2週連続日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第2弾15城目。勝幡城の築城は永正年間(1504~1521年)に織田信定(信長の祖父)によって築城されたとされます。織田信長はここで生誕し父織田信秀が今川氏の那古屋城を奪ったのちは父と共に那古屋城に移ったされるのが有力な説になっています。信秀はここに家臣の城代を置いていましたが拠点が清洲城に移った頃から城は次第に衰退していったようです。
 現在遺構は残っておらず城跡碑が「勝幡城址」と「勝幡城跡織田弾正忠平朝臣信定古城蹟」の2か所あります。御城印の販売している稲沢市観光協会に行ったら土日お休みで、もう1か所5月に行った小木江城跡近くの愛沢市観光協会に行って購入⇒2か所の城跡碑⇒名鉄勝幡駅前の勝幡城模型・銅像を撮影した。

<満足度>◆◇◇

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あみりん

大雨注意報の淡路島へ。 (2023/09/11 訪問)

明石海峡大橋を渡る時は大雨でしたが、洲本城に到着するや雨は止みました。
思いの他、立派な石垣、広々とした敷地内。月曜日の為続100名城スタンプは洲本市役所へ行きました。

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赤い城

桃陵公園 (2023/09/03 訪問)

桃陵公園が城趾ですが遺構はなさそうです。
公園に駐車場があり、多度津港を望む眺望はなかなか良いです。
公園はさらに登っていくことができます。
曲輪の跡言われるとそれっぽいですがそうとも言いきれません。
桜が植えられているのでその時季は多くの人で賑わうのでしょう。
出会いの広場からさらに登れそうなので進んでみました。
しばらく登ると最高地点となります。
この辺りが主郭部だったと思いますがここにもそれらしい痕跡はありませんでした。
香川氏の居館とされていますが城としての構造は不明。
地形的には城っぽい感じは受けますが。

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しんちゃん

源義仲の伝説と佐々成政の築城技術が残る城。 (2021/11/19 訪問)

源氏ヶ嶺城は倶利伽羅峠の戦いの際に平氏の軍勢が布陣していましたが、源義仲の軍に
攻め落とされ、平氏を攻撃するための陣所になりました。北側の麓には平氏の軍が
突き落とされたといわれる地獄谷が有ります。現在の縄張りは、天正12~13年ごろに
佐々成政によって改修されたものと思われます。登城道を登ってすぐに城址碑のある
郭に到着しますが東と南西に城域が伸びています。この時は、より多くの遺構が残る
南西側を散策しました。尾根伝いに進んでいくと本丸らしき広い郭にたどり着きます。
この郭には土塁が残っています。さらに進むと巨大な堀切が行く手を遮ります。
脇から道が伸びているのでそこから下り、対岸へ渡ります。その先にも城域は続きますが
本格的な遺構は無いので、適当なところで引き返します。
おそらく佐々成政にとっては支城の一つでしかないのでしょうが、豪勇のイメージが
強かった彼の築城した城を周っていると印象が少し変わってきます。
一乗寺城も松根城も、とても技巧的な城でした。やはり戦国武将にとって城づくりに
長けていることは必須スキルなのでしょう。

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しんちゃん

それほど広くないが縄張りの完成度は高いようだ。 (2021/11/19 訪問)

一乗寺城は近くまで林道が続いていてアクセスは企画的容易です。城跡は林道の北側に
位置していて、最高所の主郭を中心に周囲に郭が配されています。
主郭の東にも段階状に郭が続き屈曲した入口がついているようです。
主郭より西に二の郭、三の郭(二の郭)と続き四の郭(西郭)は周囲を土塁で囲まれています。
四の郭の北側には枡形の虎口があり、四の郭の西側にも大きな堀切があるようです。
いささか記憶も薄れかかっているので、城郭大系や他のサイトの縄張り図もいくつか
参考にさせていただきました。ありがとうございます。
一乗寺城の初見は南北朝期の応安2年(1369)に桃井直常の籠る一乗之城を幕府方が攻めて
落城させたことになります。戦国期には佐々成政の将、杉山小助がここを守ったとあります。
現在の高度な縄張りもその際に改修を受けたものだと思います。

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スティクラ

全てが圧巻だった松山城 (2023/09/08 訪問)

松山駅から路面電車で大街道に行き、リフトを使って松山城へ。
リフト乗り場から太鼓門を通ると目の前に天守群が現れる。

小天守と大天守など建造物が多いことに加えて、天守群を見渡せる広場が広くて高い位置にあるので、
天守群と街並みの景色を同時に楽しめる場所が広いところは今まで見たことがなかった。

天守の中も広く、十分堪能することができ、最上階は風がとても気持ちよかった。

写真を撮っていると、地元のおじいさんにいい写真スポットに案内してあげると言われ、
そのまま1時間弱連れまわされるといういい経験をした。

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じゅんじん

工藤氏 (2023/09/07 訪問)

頼朝公家臣の工藤氏が奥州征伐後に治めました。

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じゅんじん

朝駆け (2023/08/27 訪問)

日曜に久々の朝駆けとお城でした。その後、仕事しました😢

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じゅんじん

伐採中 (2023/01/12 訪問)

岡の城山のあとに訪れました。発掘調査のために樹木の伐採中でした。

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じゅんじん

立ち入り禁止 (2023/01/12 訪問)

倒木の恐れがありとかで立ち入り禁止となっていました。

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