(23人目)「石田三成」の続きです。
関ケ原の(石田三成陣跡)を訪れてきました。
いや~😯すごい馬防柵です!(写真③④⑤⑥)。二重三重四重に立てられていて迫力を感じます。この笹尾山の下には島左近の陣があり、山の上に石田三成の陣がありました(写真①②)。
最初は島左近を先頭に互角に渡り合います。この状況を打開すべく、三成は再三に渡り松尾山の小早川秀秋に出陣するよう使者を出します。しかし秀秋は動きません。私はこの三成陣から松尾山を眺めて見ました。三成はどんな思いで、ここから動かぬ松尾山の秀秋の陣を見ていたのでしょうか?(写真⑧)
この膠着状態を破ろうと、黒田長政の鉄砲隊が左側の山を迂回して密かに近づき、左近を狙撃します。それを機に石田軍は劣勢となり、左近が討ち取られると黒田・細川軍が怒涛のように攻め寄せ、ついに石田軍は壊滅しました。
私は石田三成の陣から、今度は決戦地(最大激戦地)を眺めてみました(写真②)。そしてこのすぐ目の前に、黒田長政と細川忠興の軍勢1万2千がこちらに向かって迫ってくる様子を想像してみました。この地に隙間もないくらいの大軍勢が、じわりじわりと迫ってきたと思います。この時三成は、どんな思いでここに立ちこの光景を見ていたのでしょうか? 私は想像しただけでぞっとし、足が震えてしまいました(写真②😱)。
最後にその下の決戦地にも立ってみました。多くの血がここで流され、ここは死体の山になっていたと思います。咲いていたコスモスの花が何かを語りかけているようで、とても物悲しく感じました(写真⑨⑩)。
敗れた三成は、この後ここから背後の伊吹山へと敗走します。いったいどんな思いで敗走して行ったのでしょうか?・・・(大原観音寺や長浜城にその時の思いを想像し投稿しています)。
最後に(京都六条河原と大徳寺)を訪れます。
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