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稲毛三郎重成 (2023/06/29 訪問)

 南武線津田山駅より徒歩約10分で城址碑と説明板に行くことができます。途中に案内標識があり迷うことはありませんでした。緑ヶ丘霊園の中にあるので、周囲は散策せずに撤退しました。

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沢谷戸自然公園のお隣 (2023/06/29 訪問)

 沢谷戸自然公園の隣が城址です。堀切や曲輪等が残っています。地主さんのご厚意で見学できるようになっているようです。私有地なのでさらりと散策しましたが、それなりに楽しめる城址でした。
 小田急線鶴川駅より徒歩にて約15分で登城口に行くことができました。

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天竺坂 (2023/06/29 訪問)

 大和駅からバスに乗り一の関バス停下車、徒歩約10分で城址に行くことができます。空堀、土塁等が残っていました。藪になっていて散策しにくい所もありましたが、概ね雰囲気はわかります。

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しんちゃん

鹿児島城③ 鶴丸城 島津の本城なのに西郷どんのイメージの方が強い (2023/01/06 訪問)

鹿児島城は別名 鶴丸城という島津氏の本城です。
慶長6年(1601)に島津義弘の子、忠恒によって築かれたと伝わります。
77万石の大名の居城にしてはいささか地味で、かつての本丸跡には黎明館
が設置され薩摩の歴史や明治維新、西南戦争の展示を見ることが出来ます。
背後の城山も明治維新まで聖域として立ち入りを禁止するなど
軍事的意味合いが薄く、西南戦争でこの地で激しい戦闘を行った西郷隆盛の
イメージのほうが強く感じます。
城内の石垣には弾痕や砲弾の跡が多く残り、かつての戦闘の激しさが伝わってきます。

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しんちゃん

鹿児島城② 西郷編 南洲神社 洞窟 (2014/01/10 訪問)

南洲神社は鹿児島城の北東約1kmの高台に築かれ、そこからは桜島が良く見えます。
明治10年(1877)9月24日、西郷隆盛以下 薩摩軍が全滅します。
明治12年(1879)有志らによって各地に仮埋葬された遺体をこの地に改装し南洲神社となります。
計2023名が葬られ今でも参拝者が絶えません。
私は2回ここを訪れていますが写真は2014年1月のものです。
この時は桜島が良く見えました。
城山の北側には西郷が最期に籠った洞窟があります。
このあと政府軍の銃弾を腹部に受け、最期を悟った西郷は別府晋介の解釈で自刃します。
享年49歳。
そういえば歴史上の武将でも49歳で亡くなった方は多いです。
織田信長、上杉謙信、真田信繁(46歳説もあり)。実際は戦国の武将たちは数え年なので
実年齢の西郷とは異なるとは思いますが、一つの目安として
50の誕生日を迎えた時は 西郷どんたちの年齢越えちゃったかと、
小さくため息が漏れたりしました。生きているうちに一つでも良い城に
巡り合いたいものです。


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しんちゃん

鹿児島城① 西郷編 私学校 (2023/01/06 訪問)

明治政府での政争に敗れた西郷隆盛は鹿児島に帰郷して一介の農夫として静かに
暮らそうとしていたのですが、周囲がそれを許さず彼は明治7年(1874)私学校を設立します。
鶴丸城の厩跡に篠原国幹が監督する銃隊学校、村田新八が監督する砲隊学校、これを本校として
城下に12、県下に136もの分校が作られたと言います。
私学校とはいえ、費用は県費でまかなわれていたようです。
かなりの規模ですね。薩摩のころからの風習とはいえ、まるで独立国の軍隊学校のようです。
これでは新政府との衝突はさけようもありません。
明治10年(1877)1月29日 私学校の過激派による弾薬略奪事件が起き、西郷も決戦を決意せざるを
得なくなります。このときに私学校側は弾薬84000発と多数の小銃を接収したといい、
備蓄の分を含め300発の弾薬を使用できたといいます。
私学校跡の石壁には多数の銃弾の跡が残り、この付近で起きた戦闘の激しさを物語ります。

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カズサン

再訪春日山城8/8 大手道と埋蔵文化財センター編 (2023/06/18 訪問)

 監物堀、ものがたり館を終えて、前日上越市埋蔵文化財センター経由春日山城へ走行中、大手門跡の標柱、同駐車場が気に成っており、大手道を訪ねる事に、ものがたり館からは春日山神社駐車場を経由しましたので神社前駐車場は待ちが出る程の混みよう満車でした、人気が有るのですね!そこから登り下りて大手道駐車場へ砂利舗装ですが広い駐車場です、ただし私だけ寂しい限りです。

 大手道駐車場から戻って標識の有る大手道へ、案内板と標識、砂利道を大手池堤防方向へ、砂利道を離れて復元整備された大手道へ静かでゆったりした幅広道が続きます、少し入っただけで此処は終了、この大手道は番小屋まで続き、更に南三の丸、柿崎屋敷、景勝屋敷へと続くように案内パンフレットに載っています。
 戻って上越市埋蔵文化財センターへ、謙信公の騎馬像見学撮影、丁度同センターで「謙信公と春日山城展」を2023.04.01→2024.03.31まで開催されています、資料、パンフレットを頂きたく入場し見学いたしました、春日山城のジオラマ模型、鎧兜、越後17将之肖像、謙信公の生涯年表、ビデオコーナーで映像休憩など楽しみました、結構賑わっていました。

 二度の登城ですがまだまだ見逃してる所が多くあります、景勝屋敷、柿崎屋敷、御屋敷、黒金門方向などなど、足腰が続き気力のある間に膝の痛みもトレーニングして三度目を目指したいものです、それにしても山城は大変です。
 長々とお読みいただきありがとうございました。
 
 高田城三重櫓編に続きます。
 

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カズサン

再訪春日山城7/8 監物堀と東城砦編 (2023/06/18 訪問)

 9年振りの春日山城再訪、実城を三の丸登城口から登り千貫門跡から降りるルートで初登城の逆ルートで廻り探訪しました、翌日、直峰城、虫川城、雁金城初登城を終えて遅い昼過ぎ、監物堀の在る「春日山城史跡広場」ものがたり館の駐車場へ到着、既に数台の車が駐てる。
 先に監物堀、楼門址、総構えの土塁、東城砦、復元番小屋を見学探訪、この場所は春日山城の北東裾野で北側の入口に当たります、平成の初め頃の発掘調査の成果を基に、総堀監物堀の復元整備、並びに堀に添うように土塁の復元整備、屋敷跡溝の土留板柵復元整備、東城砦跡の発掘調査の結果、建物跡に番小屋の復元、土塁上に柵列の復元など平成8年頃に復元整備されて「春日山城史跡広場」として公開されました。
 広場中央に春日山城の金属模型が野外展示されています、アルミの案内掲示板は太陽による劣化で文字などよく分かりません。

 終わって「ものがたり館」(入場無料)へ暑さも有りやっと休憩、涼む事が出来ました、休憩がてら紹介ビデオを視聴、展示物を一通り見学。

 続き8/8大手道と埋蔵文化財センター編へ
 

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イオ

園部城ツアー (2023/05/03 訪問)

江戸初期に但馬国出石から入封した小出吉親が築いた城(陣屋)で、吉親は幕府に櫓の築造を願い出るも叶わず、幕末にようやく徳川慶喜の内諾が得られたかと思うと大政奉還で反故になり、今度は明治新政府に願い出て認められ、櫓門と櫓、堀が築造されて日本で最後に築かれた近世城郭・園部城となりました。しかし、廃藩に伴ってわずか4年で廃城となっています。

小麦山東麓の台地に位置し、北側は園部川、西側は半田川、南側から東側は堀で囲んだ惣構の城(陣屋)で、明治初期の改修で櫓門3か所、櫓5基が築造されましたが、現在は城跡は園部高校と園部公園になっていて、高校敷地に櫓門(高校正門)と番所と巽櫓が現存し、太鼓櫓は八木町の安楽寺に移築されています。

ゴールデンウイーク中の城めぐりでは一昨年に渋滞に巻き込まれて大変な思いをしたので、道中渋滞しない人の来なさそうな山城に行くつもりでしたが、城びとの特集記事で5月3日に園部城で南丹お城サミットが開催され、園部城ツアーでは通常非公開の巽櫓内を見学できることを知り予定変更。ゴールデンウイーク中の京都には近づきたくないところながら、渋滞を避けるべく早朝から園部に入って近隣の埴生城や宍人城をめぐってから園部城に向かいました。

園部公園の駐車場に車を駐めて登城開始。園部城ツアー集合場所の園部高校正門に向かうと、門の手前に大きな城址碑が建てられています。高校正門は立派な櫓門で、格子窓の両脇に大砲用と思われる大きな狭間が設けられているあたり明治の築造を感じますが、二階の梁が低すぎて鉄砲や弓が扱いづらいなど、長く続いた平和の中で築城技術が失われていたことも伺えます。櫓門の隣には番所があり、土塀が巽櫓まで続いていました。

園部城ツアーは参加者が想定より多かったようで、3グループに分かれて散策することになり、まずは内堀跡の散策へ。園部公園では園部城まつりが開催されていて、ステージイベントや屋台が出て多くの人で賑わっています。公園内(本丸北西部)には、小出氏草創の小出秀政、吉政、吉親を祀った三崇社の跡地に石碑が建てられています。また、その近くには生身天満宮跡の石碑も建てられていました。園部は菅原道真の領地だったことから、太宰府に左遷される際に小麦山の別邸に道真の木像を安置して生祠としたことに由来し、太宰府や北野など天満宮(天神社)は数あれど、生前から祀られているのはここだけであり、そのため生身天満宮と呼ばれるんだとか。ただ、由緒ある天満宮も藩主には逆らえないようで、園部城(陣屋)の築城に伴って現在地に移転しています。

園部公園から南丹市役所を抜けて大手門跡に向かう途中、裃姿にちょんまげかつらの人物に遭遇。ガイドさんによれば南丹市の市長さんだそうで、歴史好きでありこの後の南丹お城サミットにも出席されるとのこと。ツアー参加者からは「殿!」という声が飛んでいました(笑) 大手門跡には特に何も遺っていませんが、細い道を北に入って行くと、道沿いに大手門北側の土塁が続いていました。櫓門や巽櫓など建物があるだけで、土塁や堀は遺っていないと思い込んでいたので、案内なしでは気付かなかったと思います。

大手門跡から釘貫門跡を経て蓮池跡(地形に痕跡を感じます)の裏手を通って園部高校に戻ります。公園駐車場の東向かいは藩主の居館跡で、石垣も往時のものと考えられるようです。そして最後に巽櫓内を見学。まず1階で園部高校の生徒さんによる紙芝居「園部城ものがたり」を観て、2階に収蔵された園部城の古図や鯱瓦・鬼瓦、小出氏ゆかりの品についてガイドさんの解説を受けました。締めくくりは、巽櫓東下のテニスコートに立ち入らせてもらっての写真撮影です。巽櫓~番所~櫓門の3つの現存建物を一枚に収めることができるベストポジションでした。

通常非公開の巽櫓に入れただけでなく、大手門の土塁にも案内してもらえましたし、園部城や小出氏について(紙芝居を含め)理解を深められましたし、テニス部の練習を中断してもらってのテニスコートからの撮影もツアーならでは、と非常に満足度の高いツアーでした。でもまだこれで終わりではありません。午後からの南丹お城サミットも覗いてみようと思います(続く)。
 

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todo94

上天草市の城 (2023/05/04 訪問)

天草上島がすべて上天草市になっているわけではなく、国史跡の棚底城は天草市になります。そして上天草市の中心市街地や市役所は天草五橋の中の大矢野島にあります。その市役所のほど近く、大矢野中学校の脇の小丘に説明板と五輪塔があります。麓の道路は街中の狭隘な道なので路駐は迷惑になるかと。学校の休日ならば坂を上った給食室の前あたりに十分なスペースがあるのでそこに車を停めさせていただくのが良いかと思います。国道266号は車は多かったものの大渋滞には至らず、無事宇土半島にわたれたので、世界遺産の三角西港を散策し、三角バーガーの昼食をいただきました。

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朝田 辰兵衛

葛尾城の磯部口登城口から徒歩で… (2023/05/04 訪問)

葛尾城の磯部口登城口へ下山してきた理由は,そのまま徒歩で荒砥城を目指すため。気温は30℃を軽く超えているというのに,イイ休憩場所が見当たらず。結局,荒砥城登城口すぐのホテルプラトン前の自販機ワキで休憩。ウィルキンソンレモンで生き返りました。
GWだというのに,この周辺の温泉街に,あまり活気は感じられませんでした…。

赤い城さん,「茶色い穴」に興味を持っていただいたようで,安堵しました。来島城では近づき放題&触り放題です。
能島城では,上陸のクルーズに便乗しないとダメだし,実際に近づいていいのかわかりません。
なお,来島城へマイカー移動なら,波止浜港に駐車場がありますので,利用されると宜しいかと思います。
たぶん,赤い城さんにとって,四国は狭く感じているのかな…って思ってます。
香川県は狭すぎ!
徳島県と合わせても,千葉県には及ばない気がします。
しばらくすると,コンプリートラッシュかな…と。

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ゆき

青葉城 (2023/06/14 訪問)

出張先で時間ができたので行ってきました。
博物館行きたかった( ;∀;)

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庄山城(城びと未登録) 東姫路最大の城&山桃食べ放題 (2023/06/25 訪問)

木内内則著「中世播磨250の山城」に東姫路最大の城と微妙な紹介があり、気になってました。山城探索の季節ではありませんが、行って参りました。
赤松則村(円心)の次男 貞範が姫山に城を築くも2年後に、4kmほど東の庄山城を築き移動。現在の姫路城は、人工的に守りをかためてますが、南〜西側の徹底ぶりに比べて、北〜東は急斜面を利用してわりとあっさりな造りです。貞範の時代は、自然地形主体の守りでしょうから、南〜西に不安があり、近くのそそりたった庄山城を築いたのでしょう。その後、庄山城には、嘉吉の乱で山名氏の家臣が入り、赤松政則が播磨を奪回すると家臣の小寺氏が入り、最後に三木城の別所一族の別所重棟が占領したと。この流れの中で城が拡充されていったのでしょう。
先人のレポートを参照して、城山中学校テニスコート奥にあると言う登城口を目指しました。近くの住人に登城口を尋ねることができ、ゴミステーションから狭い川の向こうに回り込んだところに登城口があると指差して教えてもらいました。尋ねてなければ、発見はまず無理。
城域は、南に開いたコの字型。東尾根の先端に本丸があり、西尾根の付け根に三の丸。コの真ん中の棒部分に二ノ丸。登城道は、本丸の北側の狼煙台に至ります。二ノ丸に石垣がありました。所々に、パウチされた縄張り図と現在位置をマークした表示があります。しかしながら、尾根に郭がたくさん続き、木も繁茂していて、しばしば、自分がどこにいるかわからなくなります。
三の丸や本丸からは、見晴らしが良く、姫路城も見えました。本丸には大きな山ももの木があり、食べ頃でした。誰もおらず食べ放題です。大手道は、南側の小学校裏にあるのですが、登れる状態ではありませんでした。

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カズサン

再訪春日山城6/8 千貫門と空堀編 (2023/06/17 訪問)

 9年振りの春日山城再訪、今回の下城方向、直江屋敷跡の立体褶曲階段虎口を十分堪能して、少し下っていくと搦手の空堀が見えてくる、横堀と竪堀二条が組み合って見所である、千貫門跡、控えの曲輪は上杉少弼入道宅址、通路側の階段横には土塁が控えて守りを固めてる、春日山神社側の土塁切岸も見事である。案内板には本丸と千貫門との外とを区画する重要な地点であったと記されています。
 
 当日は夕刻に成り千貫門跡を終えて、再度春日山神社参拝し、まだ少し陽も有るので高田城を再々登城。夏は陽が長くありがたい。

 続き7/8監物堀と東城砦編へ(翌日の探訪です)
 

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イオ

宍人城(小出館) (2023/05/03 訪問)

(続き)

見学ルートの分岐を北に進むと小出館跡の表示があり、東部の虎口から小出館に入ります。虎口の北には東への張出部があり、虎口に横矢が掛かるようになっています。張出部から北部の虎口まで土塁と横堀が続いていて、虎口には土橋が架かっているのはわかりますが、内側の構造は崩れていてよくわかりません。土塁と横堀は北辺から北西隅の櫓台を経て西辺を南西隅の櫓台へ、さらに南辺を南東隅まで続いています。途中、西辺と南辺に土塁の開口部が見られるのは平入の虎口かもしれません。

…と、東辺を除いて土塁と横堀で囲み、張出部や櫓台からは横矢も掛かるようになってはいますが、土塁は低く堀は浅く狭く、とりあえず形をなぞってみました程度の印象が拭えないのは、豊臣氏滅亡後の平和な時代の仮の居館という先入観によるものでしょうか。

さて、見学ルートは南西隅の櫓台から館外に出て、伝 越前守の墓を経由して登城口に戻ります。小畠氏は幾人かが越前守を称しているようなので小畠氏の墓所なんでしょうね。時間があれば詰の城にも行きたいところでしたが、この後の予定もあり、この日はここまで。見学ルートに沿ってのため思う存分とはいきませんが、両館ともに遺構は状態良く遺っていて、充分に見応えがありました。
 

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赤い城

東京の城振り返りとクイズの答え

朝田さん、来島城でしたか。残念!
茶色の穴に興味津々です。行ってみたい!

私のクイズはさすがに瞬殺でしたね。
にのまるさん、朝田さんの解答通り八王子城です。
朝田さん仰る通り金子曲輪を支える石垣でした。

さて、東京の城ですが例によって100と続100以外で振り返ります。
大都会東京ですが多摩エリアには良い山城が残っています。
檜原城の三重堀切や長い竪堀、浄福寺城の畝状竪堀など。
滝山三城の高月城や戸吹城も良いです。
ただし戸吹城は崩落の危険があり、主郭への細尾根は立入禁止。
青梅エリアにも勝沼城、今井城など素敵な城が。
辛垣城から尾根続きの桝形山城も未登録ですが堀切が残ります。
さすがに23区内はほぼ寺社廻りになりました。
それでも志村城、赤塚城、世田谷城、奥沢城とわずかですが遺構が残る城もあります。
石神井城は年1回の文化財ウィークで内部が公開されます。
あとは浜御殿ですかね。
浜離宮として公園になっていますが江戸城の出城の役割を担い、どう見ても城の装備が沢山施されています。

最後に伊豆大島にも行きましたがここも東京。
品川ナンバーの軽トラがイカした感じでした。

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小城小次郎

模擬建築に目を奪われるが (2023/01/08 訪問)

絵になる模擬建築群があるのでついついそちらに気を取られるが、模擬建築群の周囲は切り立っているしところどころに石積みも残る。堀で仕切られた多くの曲輪を持つ広大なお城であったことが現地に立つと推察できる。

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todo94

天草の城⑤ (2023/05/04 訪問)

今回の天草行きで最も期待していたのが、この城です。国史跡に指定されたばかりの時はどこに所在するのか、探すだけでも骨が折れたものでした。幸いにも、朝方に降っていた雨は上がっていました。数多くの郭が連なり、主郭の後背には三重横堀。2023年初攻城の城では文句なしの№1になりそうです。期待を大きく上回る素晴らしい城でした。

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チェブ

関城は、お城の関城なの? (2023/05/13 訪問)

こちらの「関城」も、前回 投稿した「駒城」と同じく、南北朝時代に活躍しました。
南朝方の北畠 親房さんの挙兵に呼応しましたが、北朝方の高 師冬さんに攻められ落城しました。
城主の、関 宗祐さん親子は討死します。

「関城」は田畑と住宅街。工場の駐車場でしょうか、トラックが停めてある橫に、「関城」用の駐車場がありました。
雨がザーザー降りなのと、人がいないので「関城」の説明板の前まで車で向かいました。普通に道路が通ってます。
「関城」は道路沿いにあります。
勇ましく散ったであろ、関 宗祐さん親子のお墓と伝わる塔がありました。
説明板の反対側の道路沿いは、堀のようにも見えます。

ちょっと脱線します。
私の親戚に、通称「関城」がいます。
『関城から梨が届いた』とか『関城から電話があった』等々、私は幼い頃から『関城』とは、その親戚の名前かと思ってました。
現在、合併し筑西市になりましたが、以前は『関城町』だったようです。
親戚は皆、姓ではなく町名で名乗ります。
多分、誰よりも「関城」という言葉を発していたに違いありません。
そうそう、「関城」近くは梨畑もありました。

実は、すごく身近だった「関城」でした。

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カズサン

再訪春日山城5/8 直江屋敷編 (2023/06/17 訪問)

 9年振りの再訪春日山城、護摩堂・毘沙門堂・御花畑の探訪を終えて、直江屋敷へ直江屋敷は曲輪が三段の構え、下段の虎口が見所です、立体的に階段が褶曲して大変守りの堅い虎口です。
 また直江屋敷の下、虎口階段横から帯曲輪が控えて守りを固めています。

 続き6/8千貫門と空堀編へ
 

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