みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

トク

53【関ケ原の26人】(21)徳川家康 (美濃赤坂岡山陣跡) (2022/11/29 訪問)

(21人目)は「徳川家康」です。
これから、家康が関ケ原の最中に敷いた三つの陣跡を訪れます。まずは美濃赤坂にある最初の陣跡です。

JR大垣駅から2駅、終点の美濃赤坂駅で降ります(注:無人駅です)。そこから南へ徒歩20分程行くと安楽寺があります(写真①②)。その寺の階段を上り、本堂の横から不気味な墓地の中を進んで丘の頂上まで登って行くと、そこが最初の家康陣跡(岡山)です(写真③④⑤)。

実は、ここから三成の籠る大垣城や島左近が一矢を報いた杭瀬川が、家康にはいったいどのように見えたのか? それを確かめたくてやって来たのですが・・・、事前に得た情報(2016年当時)では展望台があり見渡せるという事だったので・・・ しかし実際に行ってみると今はそんなものは無く、回りは木や草が生い茂り荒れ放題! 全く眺望する事はできませんでした(写真⑤)(ガ~ン😱!せっかくここまではるばる来たのに大ショック!!)。何とか木を伐採してくれないかな~。お寺の敷地なので無理でしょうか? 結局、安楽寺の門まで戻り階段横の柵(写真①のいちばん右の角)にしがみついて見ると少しだけ大垣方向が見えました(たぶん写真⑥の方向)。しかし説明板もなく住宅が多かったので、どこが杭瀬川でどこが大垣城だろうか? 20分くらい意地で地図とにらめっこして眺めたのですが、土地勘もないので結局よくわからず・・・

1600年9月13日夜、家康は突然清州城を出立し、岐阜城を迂回して美濃赤坂のここ岡山に陣を敷きます(説明⑦)。14日朝方、大垣城に籠る三成率いる西軍は、清州城にいたはずの東軍が赤坂に陣を敷いている事に驚き、またそこに家康の馬印がある事にさらに驚きます(家康本人が来た~!)。家康としては大垣城の強固な守りを見て、(清州城VS大垣城)で攻めるは不利と判断、得意の野戦に持ち込もうとしたものと思われます。(説明⑧)

そんな動揺する西軍の中で、島左近が動揺を鎮めるべく、500の兵をもって杭瀬川にいる中村一栄隊に一矢を報います。そして逃げるふりをして誘い出した所を明石全登の鉄砲隊が一斉射撃! 見事初戦に勝利を収めました。(説明⑨)(詳細は私の「(5人目)島左近」も再度参照していただけたらうれしいです)。

家康はこの時、この陣から弁当を食べて眺めていたそうです。「おやー?何事じゃろか?」(写真⑤の場所から⑥の方を見ていた)。しかし島左近の隊が一矢を報い、自軍が負けたと知ると激怒! そしてここでも戦をするは不利と判断。今から三成の居城(佐和山城)を攻めるとうわさを流し、夜の内にここから関ケ原へ移動する事を決意し、全軍に命令を出します。(説明⑩)

次は、家康二番目の陣(桃配山)へ続きます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イタさん

小島氏館・埼玉県本庄市 (2023/07/07 訪問)

館跡は長松寺境内になっている。武蔵七党の丹党一族、小島(おじま)氏の居館跡と伝わる。本堂の北側、境内の西側には土塁と堀が良好に残っている。

長松寺の北、台地の縁に唐鈴神社が祀られており、伝承では遣唐使だった大伴宿禰古麿(おおとも
のすくねこまろ)が後に武蔵国に移り住み、子孫・良麿(よしまろ)が天平勝宝(749年〜757年)に創建とある。この時、館を構えた場所が長松寺の境内と伝わる。伝承を信じれば、小島氏以前から何らかの館があっただろうし、一帯は古墳が多く暮らしやすい地だったのかも知れない。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イタさん

岡部城・埼玉県深谷市岡 (2023/07/05 訪問)

 ボートレースの場外発売場であるボートピアの南に位置する。台地の北端で上は平らで墓地・畑が多くを占めている。東側にやや高くなった古墳があり、最高部に浅間神社が建ち、物見には適している。遺構は見当たらない。ボートピア側の崖状から台地上に上れる所が如何にも土橋を思わせるが、単に自然地形かも知れない。
 北西1キロメートルに五十子陣があり、小山川を挟んで対峙する。何方かのHPに山内上杉氏に対する古河公方がたの陣城だった可能性がある、と記されている。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イタさん

碑・説明板が位置を示すのみ (2023/07/05 訪問)

 説明板には、岡部藩は天正18年家康の関東入国後、家臣の阿部信勝が榛沢郡岡部などを拝領した5,250石を基に発展した。嫡男・信盛は上杉討伐や大坂の陣で功を挙げ、大番役などの役職を務めた。江戸幕府初期の寛永13年(1636)、三河国内に4,000石加増、慶安4年(1649)に摂津国内に10,000石を加増され大名になる。その後20,250石となった岡部藩は、岡部を本拠地にしながら摂津・三河の領地を分割統治し、移封・転封もなく幕末まで続く・・・。
 高橋秋帆幽囚の地との案内もある。蘭学者で高島流砲術の創始者。天保13年(1842)に中傷により獄に投ぜられ、弘化3年(1846)から嘉永6年(1853)まで岡部藩の預かりとなった。碑がある場所辺りに幽囚されていた・・・。と説明板に載る。
周囲は民家・畑地になり陣屋を想像させる遺構が見当たらない。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

手賀城 茨城県行方市 (2023/07/02 訪問)

大掾氏一族手賀氏の居城です。
手賀氏も佐竹氏により太田城で誅殺、滅亡しました。
事前に激ヤブであることは承知していましたが夏は特に厳しい。
ところどころ入れそうな部分はあるのですが自重しました。
かなりの深さの堀が見られるそうなのですが。
いつかチャレンジしたい城です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

高槻城公園芸術文化劇場 (2023/05/21 訪問)

不完全燃焼ながら一応は芥川山城に登城したので、しろあと歴史館で続100名城スタンプを押印。高槻城は1月にひとめぐりしていますが、せっかくここまで来たのだからと前回は工事中だった二の丸跡に行ってみました。

にのまるさんの投稿で完成は承知していましたが、二の丸跡には高槻城公園の一角として芸術文化劇場が建てられています。劇場の周囲には水堀に石垣、築地塀をめぐらせ、いかにも城跡という雰囲気です。さらに築地塀には狭間、石垣石には矢穴や刻印まで施されています。芸が細かいなぁ…と感心しながら、水堀に架かる橋の手前の説明板に載っている高槻城復元図を眺めていて、ふと思い至りました。

…これって、かつての水堀や石垣の位置に対応しているのでは?

復元図と現状を見比べてみると、東辺の石垣の突出部は枡形門跡、北辺の突出部は不明門跡に対応しているようです。水堀や石垣があるのは北辺と東辺の一部だけであり、復元とまでは言えないにせよ、可能な限りかつての姿に近づけようという心意気が感じられます。わくわくしながら不明門跡に向かうと、跡地に説明板が立てられており、後ろを振り返ってみると……おお! 説明板の注記のとおり、歩道に発掘調査で発見された橋脚の位置が表示され、北側には木橋を支える石垣が再現されているではありませんか。劇場への動線の都合からか北辺の水堀の橋は不明門の東側に移して架けられていますが、せめてかつての橋の存在を体感してもらおうという取り組み、素晴らしいですよね。また、高槻城公園の地下には局地的大雨に備えて雨水貯留施設が設けられているそうで、高槻城は今なお高槻の町と人々を守る存在なんだなぁ、とも。

城跡なのでお城っぽく水堀や石垣を造ってみました程度のなんちゃって建造物かと思いきや、模擬は模擬でも発掘調査に基づいた本気の再現建造物でした。おみそれしました。でも、こういうの大好きです。せっかくだから…程度のつもりが、思いがけない本気ぶりに芥川山城でのもやもや感もどこへやら、意気揚々としろあと歴史館に戻りました(続く)。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

12年ぶりの攻城 (2023/05/05 訪問)

12年ぶりの攻城です。八代城から徒歩にてアプローチしました。八代市麦島コミュニティセンターの説明板を初めてチェックできました。平日限定でハードルの高いシルバーワークプラザ八代古城館の石垣展示もいつか拝見したいものです。このあと、トヨタレンタカー八代営業所までの遠路も歩きとおしてしまいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

高台に土塁を残す館跡。 (2023/01/09 訪問)

上原館は大友氏の居館跡で国の史跡になっています。
かつては大規模な空堀や土塁で囲まれていたそうです。
今でも幅約17m、鷹さ4mを越える土塁と堀跡の一部が残されているそうですが
ひょっとしてこの史跡公園のことなのでしょうか。
調べてみると石碑のある個所がそうらしいです。
かつての館の敷地は東西130m、南北156mあったらしいです。
守護の館だけあってスケールもでかいですね。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

戦国期のクリークと郭がほぼそのまま残ってる (2023/01/01 訪問)

直鳥城は戦国期に犬塚氏の支配下に置かれ、城塞的な環濠集落として発展
したとあります。
かつてはクリーク内を小舟で行き来し各郭には土塁を設けていたと言います。
今でも戦国期の形状を良く残していて竹藪にはかつての土塁が残っているそうです。
城域は東西330m、南北330mあり、北側に駐車場があり道路からアクセスが可能です。
各郭には橋がかかっていて、郭間を移動できますが
駐車場から直接、本丸に到達できます。
遊歩道もあるので、ひとしきり周囲を回ってみて欲しいです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

まにまに

大河ドラマ効果は一休みかな (2023/07/09 訪問)

七年ぶりの登城。
天守内はエアコンがないので、真夏の登城は厳しい(苦笑)
でも、最上階の外側の廻縁で風に吹かれて気持ち良かった〜。
あと、展示内容も七年前とは変わってた所も。これはやっぱり大河ドラマのおかげかな。

ちょうど大河ドラマが浜松城在城の頃なんで、もう少し人居るかなと思ったけど思った程じゃなかった。
中だるみの頃なのかも。

もちろん大河ドラマ館にも。
松潤の映像がお出迎え、お見送りしてくれてファンにはかなり嬉しいのでは。
浜松まつりで訪れた時に書き入れたメッセージもあったり。

ドラマ館の隣には一昨年見つかったという本丸の石垣が屋根付き冷房付きの建物内で露出展示。
天守の石垣と似てるけど、間詰め石が多めだったりとちょっと違いもある。
石垣保護のためか冷房ガンガン(除湿かな?)なんで、この時期はちょうどいい。

今後、大河ドラマ館跡には徳川宗家のお宝を展示収蔵する施設が出来るらしく、そちらも楽しみ♪

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

勝尾城の麓にある筑紫氏の居館跡 (2023/01/01 訪問)

筑紫氏館は勝尾城の南麓に築かれており国の史跡に登録されています。
居館とはいえ平山城のような造りで、それなりの防御力を備えているようです。
東西80m、南北100m程度の大きさで、虎口に郭、庭園まで備えてあります。
といっても郭や主郭らしきものはわかりますが、どれが庭園の石やら
そのへんはちょっと、わからなかったです。
ともかくここからは結構な登山になります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

支城だけど見ごたえ十分。どこまでも続いていく空堀。 (2023/01/01 訪問)

葛籠城は勝尾城の南東に築かれた支城の一つです。
城の南側を堀切が東西にわたって続いています。
案内板によると幅約5m、深さ5mのV字型(薬研掘りですね)で
総延長は500mとのことです。
全部は見切れないのである程度確認したのち主郭へ向かいます。
主郭の大きさは東西約30m、南北約50mの楕円形状で(ドロップ型)
北東と南西に虎口があるようです。
周囲を土塁がめぐり、その外側も堀で囲ってありました。
さらに石垣で土塁を強化しているようです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イタさん

世良田館 群馬県太田市世良田 (2023/07/06 訪問)

長楽寺・世良田東照宮の裏・西側が歴史公園になり、館跡とされる。時間の都合で長楽寺と南の新田荘歴史資料館は行かず、東照宮境内を通り公園に向かう。新田氏の一族、世良田氏の居館跡。昭和9年の「世良田村誌編纂会編」に世良田義政館址と記載されている。

公園には堀などの発掘調査の説明板がある。南北に堀跡が2ヶ所復元されているが、説明によれば東片部(北辺部を一部含む)の堀跡らしい。他の遺構らしきものは分からなかった。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イタさん

館跡としては良好に保存されている (2023/07/06 訪問)

説明板の概略は、江田行義の館跡と伝えられている。行義は新田義重の子、義季の四世の孫で新田義重の鎌倉討伐に従い・・・。地元では堀之内と呼ばれる本丸跡は、東西の両面に折れをもち、東西約80メートル・南北約100メートルの土塁と堀を巡らせている。虎口は土橋を伴い、南西と東にある。外郭には本丸の南と西をL字に囲んだ二の丸がある。北東には黒沢屋敷跡・茂呂屋敷跡・柿沼屋敷跡があり、土塁と堀の一部が残る。

東北角に黒沢屋敷との境に土塁が残るが、他の屋敷跡は行けず確認しなかった。主郭周囲の堀は水が溜まり水堀となっている。西の外郭の南西には土塁跡らしき高まりを感じる。元は続いていたのだろうか。西側は切岸状の急斜面になり、下にはほぼ埋まっているが堀跡を思わせる凹みが南北に続く。さらに西は一段下がり水田だが、元は湿地だったのかも。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イタさん

周囲を水堀が廻る (2023/07/06 訪問)

説明板に、築城は鎌倉時代から南北朝時代と推定される。戦国時代になり三重の堀を廻らす城郭に拡張されたと考えられる。新田義貞が移り住み、その後、大館氏明・新田義興・矢内時英が住んだとの伝承がある。天正18年、小田原攻めで廃城となる。

館跡は照明寺(反町薬師)境内になっている。照明寺は館の西にあったが、江戸中期に現在地に移ったとも載る。館は凸字形をしており、東西に折れがあり、虎口は南東と西にあったらしい。周囲の堀はよく残っているが、説明板では東の堀は道路改修で拡張されたと記載がある。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

地理的条件と周辺環境、東大寺との近さを感じる (2023/06/17 訪問)

【多聞山城】
<駐車場他>タイムズ東大寺転害門西24時間550円に駐車しそこから徒歩
<交通手段>車

<感想>日帰り奈良ちょこ城150㎞の旅3城目。聖武天皇陵墓⇒西方院山城⇒東大寺転害門を経て登城しました。
 多聞山城は当時まだ三好長慶の家臣時代だった松永久秀が1559年大和支配の強化を図るため筒井順慶の勢力を圧倒し築城されました。1573年、松永久秀が1回目の謀反を起こした時の降服条件として信長に多聞山城を明け渡します。その後信長は塙直政を城主にしますが、石山本願寺との戦いで討死したのでその後筒井順慶を大和守護にして1576年に多聞山城の破却を命じます。多聞山城は結局16年間ほどしか使用されなかった城でした。石垣は筒井城や郡山城に転用されたそうです。
 本丸を含む主要部は現在若草中学校になっているため周辺散策だけにしました。南の佐保川が天然の堀としていたことがよく分かります。校門前に説明板、上方に五輪塔が集められた場所が敷地内にあるのが見えます。東側に回り東堀切跡を見ました。東堀切跡の南側から東大寺大仏殿が見えます。東大寺に布陣した三好三人衆との戦い、東大寺大仏殿の戦いの距離感がよく伝わります。残る遺構は少ないですが奈良の中心部、全盛期には大和国全域を寺領とした興福寺のすぐ北に築城した松永久秀の下剋上の力が感じられる想像で楽しめる場所でもありました。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

あみりん

雨の中の引田城跡 (2023/07/10 訪問)

今治、能島城跡から車で東香川、引田城跡へ。
雨でぬかるみ、登るのは止めました。
海辺のロケーションは良いところですが、廃城感は満載でした。流石、断崖絶壁の海城とのネーミングです。

+ 続きを読む

あみりん

雨の村上水軍能島 (2023/07/10 訪問)

月曜の為、ミュージアムも、上陸も叶いませんでした。雨の切れ間に島はくっきり見えました。
カレイ山展望台へ車で悪路の中登りましたが、雑然として
行かない方が良かったです…。

+ 続きを読む

モト

ライトアップされた白い模擬天守 (2023/07/06 訪問)

尼崎の駅から3分で城址公園に天守があります。
駅のホームからもその姿を眺める事ができ、電車を降りる頃には足が早歩になっておりました。
ライトアップされた白い天守は綺麗に見えました。
実際の建物に再現度がどの程度かは置いておいて、公園の入り口にある城跡の碑や城壁風の壁などとのマッチングはそれなりに雰囲気がありました。
とは言うものの今度は昼間に来てみたいと思ったのは言うまでもありません。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イタさん

本堂裏に僅かな土塁と堀 (2023/07/04 訪問)

 説明板に拠ると、平安時代の公卿藤原家の警護をしていた片品基親の子、基員が武蔵国野本に移り野本氏を名乗ったが始まりと言われる。館跡は現在、無量寿寺の境内になっており、本堂北裏に土塁と堀が僅かに認められる。実際には二重の土塁・堀が廻っていたが、これは後世の増築と考えられる。
 館の造られた時期は、貞永元年(1232)に基員が亡くなったこと、無量寿寺に残る建長6年(1254)銘の銅鐘の拓本より、当時無量寿寺が野本寺と呼ばれていたとあり、遅くとも十三世紀初頭には造られたと考えられる。
 案内板の通り遺構は本堂裏に短い土塁、堀と思われる僅かな凹みが竹藪内にある。西側一帯は墓地になる。道を挟んで南には前方後円墳の将軍塚古墳があり、後円頂部に利仁神社が祀られている。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ464