(21人目)は「徳川家康」です。
これから、家康が関ケ原の最中に敷いた三つの陣跡を訪れます。まずは美濃赤坂にある最初の陣跡です。
JR大垣駅から2駅、終点の美濃赤坂駅で降ります(注:無人駅です)。そこから南へ徒歩20分程行くと安楽寺があります(写真①②)。その寺の階段を上り、本堂の横から不気味な墓地の中を進んで丘の頂上まで登って行くと、そこが最初の家康陣跡(岡山)です(写真③④⑤)。
実は、ここから三成の籠る大垣城や島左近が一矢を報いた杭瀬川が、家康にはいったいどのように見えたのか? それを確かめたくてやって来たのですが・・・、事前に得た情報(2016年当時)では展望台があり見渡せるという事だったので・・・ しかし実際に行ってみると今はそんなものは無く、回りは木や草が生い茂り荒れ放題! 全く眺望する事はできませんでした(写真⑤)(ガ~ン😱!せっかくここまではるばる来たのに大ショック!!)。何とか木を伐採してくれないかな~。お寺の敷地なので無理でしょうか? 結局、安楽寺の門まで戻り階段横の柵(写真①のいちばん右の角)にしがみついて見ると少しだけ大垣方向が見えました(たぶん写真⑥の方向)。しかし説明板もなく住宅が多かったので、どこが杭瀬川でどこが大垣城だろうか? 20分くらい意地で地図とにらめっこして眺めたのですが、土地勘もないので結局よくわからず・・・
1600年9月13日夜、家康は突然清州城を出立し、岐阜城を迂回して美濃赤坂のここ岡山に陣を敷きます(説明⑦)。14日朝方、大垣城に籠る三成率いる西軍は、清州城にいたはずの東軍が赤坂に陣を敷いている事に驚き、またそこに家康の馬印がある事にさらに驚きます(家康本人が来た~!)。家康としては大垣城の強固な守りを見て、(清州城VS大垣城)で攻めるは不利と判断、得意の野戦に持ち込もうとしたものと思われます。(説明⑧)
そんな動揺する西軍の中で、島左近が動揺を鎮めるべく、500の兵をもって杭瀬川にいる中村一栄隊に一矢を報います。そして逃げるふりをして誘い出した所を明石全登の鉄砲隊が一斉射撃! 見事初戦に勝利を収めました。(説明⑨)(詳細は私の「(5人目)島左近」も再度参照していただけたらうれしいです)。
家康はこの時、この陣から弁当を食べて眺めていたそうです。「おやー?何事じゃろか?」(写真⑤の場所から⑥の方を見ていた)。しかし島左近の隊が一矢を報い、自軍が負けたと知ると激怒! そしてここでも戦をするは不利と判断。今から三成の居城(佐和山城)を攻めるとうわさを流し、夜の内にここから関ケ原へ移動する事を決意し、全軍に命令を出します。(説明⑩)
次は、家康二番目の陣(桃配山)へ続きます。
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