みやざわじょう

宮沢城

宮城県大崎市

別名 : 鵜ヶ城、宮沢要害
旧国名 : 陸奥

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宮沢城解説板、新庚壇集落入り口に在る
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カズサン

宮沢遺跡に西隣接する藩政時宮沢要害 (2023/09/17 訪問)

 宮沢遺跡探訪を何年振りかの願いを叶え、西に隣接する(直線で300m程)宮沢城(鵜ヶ城・宮沢要害)を初登城しました。

 駐車場:曹洞宗上郡山光岳寺の参拝者駐車場を利用させて頂きました。(田圃畦道を通って近そうでしたから)
 参考資料:城郭放浪記さん、古城盛衰記さん、余湖図コレクションさん、グーグルマップに依ります。

 宮沢遺跡から新庚壇集落入口(県道165号線沿い)在る宮沢城の解説板を確認撮影して、駐車場と狙った光岳寺を目指す、光岳寺の南に砂利舗装とアスファルト舗装の参拝者駐車場が有ります、参拝後駐車場から黄金色に実った田圃の畦道を杉が林立した宮沢城跡へ100m程の近さ、近くで良く分かります、南から東へ北へと田圃道を歩き北東に微高地丘に登り畦道を東へ、杉林の中に小高く鹿嶋・八幡神社が鎮座、その東に本丸土塁が残って居ます、特に案内板は有りません、東が本丸堀跡と思われる低地、すぐ住宅街へ、住民の方がいらっしゃたので、本丸土塁以外の遺構は有りませんか?と尋ねたら「特に在りません」との返事。
 宮沢城の解説板を見ると本丸二の丸は輪郭式三の丸に当たる南屋敷東の下中屋敷群は梯郭式で水堀で囲まれて更に湿田、沼?さいかち川に周囲を囲まれて厳重な護り。伊達軍の攻撃を阻止したと言われる要害の地です。

 歴史は平安の頃藤原秀郷が拠った所、戦国の頃は大崎氏が拠り、江戸期は伊達氏の宮沢要害として長沼氏が入り明治を迎える。詳細はぎりょうさんの投稿(2020/11/01)、宮沢城解説板写真をご覧ください。

 駐車利用した光岳寺と上郡山氏のつながりが由緒に書かれて居ましたが墨がかすれて良く分かりませんが伊達氏山形米沢に居た頃、山形長井の出身と何となく分かりました、山号を上郡山としたのが分かりました。

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ぎりょう

伊達政宗の攻撃に耐え、和議により開城 (2020/11/01 訪問)

この城の築城年や築城者は不明だが、平安時代に藤原秀郷や長岡郡司の平資幹が拠ったとの説がある。奥州探題大崎氏の時代は城主としてその家臣、葛岡太郎左衛門・宮沢遠江・岩崎讃岐の名が見える。秀吉の奥羽仕置き後の葛西・大崎一揆に際して大崎旧臣がこの城にたてこもり、伊達政宗勢に攻められるも和議によって開城したと云う。
城は県北大崎市の北西に位置する低丘陵に築かれ、本丸を二ノ丸、外曲輪が囲み、西館、南西側に出曲輪(現在は上郡山光岳寺が建つ)を配して、北を流れるサイカチ川の水利により三重の堀を巡らせた堅城であった。往時、毎年立春の頃には川鵜が飛来したことから「鵜ヶ城」の別名を持つが、落城の年には鵜が来なかったとの言伝えがある。
江戸時代を通じて仙台藩の「要害」として後藤氏、上郡山氏につづき延享4年(1747)に長沼氏(着座二番坐1500石)が配され明治を迎える。
現況は鹿島神社・八幡神社を祀る本丸跡に土塁の一部を残すのみ。各曲輪を囲んだ堀も田畑や宅地に変わり、「浮き城のごとし」と評された堅城の面影は失われてしまった。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 不明
築城年 不明
主な城主 岩崎氏(大崎氏家臣)、長沼氏(伊達氏家臣)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
再建造物 碑、説明板
住所 宮城県大崎市古川宮沢字舘ノ内