名生城からの転戦です。光岳寺に駐車させていただきました。案内板の位置は、グーグルマップにて確認できますが、ちょっと離れています。案内板の絵図では八幡神社が本丸となっていますが、現状の地図では、土塁が残る鹿島神社が本丸とされています。八幡神社は鹿島神社から1.5kmも離れていたので脚を伸ばしていませんが、案内板の地図からは明らかに外れています。
+ 続きを読む
✕
人が「いいね」しています。
2025/05/08 07:17
2025/01/12 22:34
ウシとの遭遇 (2025/01/03 訪問)
宮沢城は大崎氏の家臣・岩崎讃岐美久の城とされています。本丸跡地には鹿島神社があり、土塁が残っています。道中に酪農場があり、近くを通りがかると牛が三頭、こっち側に集まって来ます。めっちゃこっち見てますね・・三頭の牛にガン見されています。
いくらおとなしい牛といえ、三頭にこれだけガン見されると少しビビりますね(汗)。俺、なんかしました? 人間がよっぽど珍しいのかな? 少し焦りましたが、城址やその周辺で動物の写真を写すのが好きな私としては少しウシシです。
今年はウシ年・・ではなくヘビ年です。良い意味でヘビーな年にしたいですな!
+ 続きを読む
♥ いいね
12人が「いいね」しています。
2023/09/22 11:15
宮沢遺跡に西隣接する藩政時宮沢要害 (2023/09/17 訪問)
宮沢遺跡探訪を何年振りかの願いを叶え、西に隣接する(直線で300m程)宮沢城(鵜ヶ城・宮沢要害)を初登城しました。
駐車場:曹洞宗上郡山光岳寺の参拝者駐車場を利用させて頂きました。(田圃畦道を通って近そうでしたから)
参考資料:城郭放浪記さん、古城盛衰記さん、余湖図コレクションさん、グーグルマップに依ります。
宮沢遺跡から新庚壇集落入口(県道165号線沿い)在る宮沢城の解説板を確認撮影して、駐車場と狙った光岳寺を目指す、光岳寺の南に砂利舗装とアスファルト舗装の参拝者駐車場が有ります、参拝後駐車場から黄金色に実った田圃の畦道を杉が林立した宮沢城跡へ100m程の近さ、近くで良く分かります、南から東へ北へと田圃道を歩き北東に微高地丘に登り畦道を東へ、杉林の中に小高く鹿嶋・八幡神社が鎮座、その東に本丸土塁が残って居ます、特に案内板は有りません、東が本丸堀跡と思われる低地、すぐ住宅街へ、住民の方がいらっしゃたので、本丸土塁以外の遺構は有りませんか?と尋ねたら「特に在りません」との返事。
宮沢城の解説板を見ると本丸二の丸は輪郭式三の丸に当たる南屋敷東の下中屋敷群は梯郭式で水堀で囲まれて更に湿田、沼?さいかち川に周囲を囲まれて厳重な護り。伊達軍の攻撃を阻止したと言われる要害の地です。
歴史は平安の頃藤原秀郷が拠った所、戦国の頃は大崎氏が拠り、江戸期は伊達氏の宮沢要害として長沼氏が入り明治を迎える。詳細はぎりょうさんの投稿(2020/11/01)、宮沢城解説板写真をご覧ください。
駐車利用した光岳寺と上郡山氏のつながりが由緒に書かれて居ましたが墨がかすれて良く分かりませんが伊達氏山形米沢に居た頃、山形長井の出身と何となく分かりました、山号を上郡山としたのが分かりました。
+ 続きを読む
♥ いいね
20人が「いいね」しています。
2020/11/01 17:49
伊達政宗の攻撃に耐え、和議により開城 (2020/11/01 訪問)
この城の築城年や築城者は不明だが、平安時代に藤原秀郷や長岡郡司の平資幹が拠ったとの説がある。奥州探題大崎氏の時代は城主としてその家臣、葛岡太郎左衛門・宮沢遠江・岩崎讃岐の名が見える。秀吉の奥羽仕置き後の葛西・大崎一揆に際して大崎旧臣がこの城にたてこもり、伊達政宗勢に攻められるも和議によって開城したと云う。
城は県北大崎市の北西に位置する低丘陵に築かれ、本丸を二ノ丸、外曲輪が囲み、西館、南西側に出曲輪(現在は上郡山光岳寺が建つ)を配して、北を流れるサイカチ川の水利により三重の堀を巡らせた堅城であった。往時、毎年立春の頃には川鵜が飛来したことから「鵜ヶ城」の別名を持つが、落城の年には鵜が来なかったとの言伝えがある。
江戸時代を通じて仙台藩の「要害」として後藤氏、上郡山氏につづき延享4年(1747)に長沼氏(着座二番坐1500石)が配され明治を迎える。
現況は鹿島神社・八幡神社を祀る本丸跡に土塁の一部を残すのみ。各曲輪を囲んだ堀も田畑や宅地に変わり、「浮き城のごとし」と評された堅城の面影は失われてしまった。
+ 続きを読む
♥ いいね
23人が「いいね」しています。
分類・構造 | 平城 |
---|---|
築城主 | 不明 |
築城年 | 不明 |
主な城主 | 岩崎氏(大崎氏家臣)、長沼氏(伊達氏家臣) |
遺構 | 曲輪、土塁、横堀(空堀) |
再建造物 | 碑、説明板 |
住所 | 宮城県大崎市古川宮沢字舘ノ内 |