洞雲寺から徒歩15分くらいで、桂公園入口(34.356721、132.341814)に着きました。
築城年代は定かではないですが、鎌倉時代に吉見氏によって築かれたと云われています。
その後、1221年(承久3年)承久の乱の結果、中原親能の一族である藤原親実が新たな厳島神主となり桜尾城を居城とし安芸国守護も兼ねました。
しかし藤原親実は幕府の要人でもあり、厳島に下向して神職を務めることはなく、代官による支配でした。
その後は代々厳島神主家の居城となっていましたが、大内義興の助力によって京へ帰った足利義稙に随行して上洛した14代藤原興親は、同年末に京で客死。これによって厳島神主家が断絶となりました。
厳島神主家の相続を願った友田興藤は銀山城主武田光和等、安芸の諸豪族の協力を得て桜尾城を占拠します。
これに怒った大内義興は陶興房、弘中下野守を門山城へ送り、その後自身も門山城へと入った。
その後、大内軍は桜尾城を取り巻き陶衆が二重まで切り入った。しかし籠城方も笛太鼓にてはやしたて手強く守ったため、興藤の兄の子藤太郎が神主職を相続する条件で和睦が成立しました。
しかし、1528年(享禄元年)大内義興が亡くなると興藤が再び神領を思うままにし、1541年(天文10年)には大内氏と断交します。
大内義隆はすぐさま門山城へと進み、桜尾城を取り囲むと、籠城していた羽仁、野坂、熊野らは興藤に二心あって城内から逃亡。興藤は城に火をかけて自刃しました。
1553年(天文22年)毛利元就は桜尾城等の厳島神領の諸城を落とし、桜尾城には重臣桂元澄を置いて要とし、大内義隆を討った陶晴賢と対立。
翌年厳島合戦で陶晴賢を撃破。戦いの後に自害した陶晴賢の首実検もこの城で行われました。
その後も桜尾城は桂元澄の居城として続きますが、元澄の死後、毛利元就の四男の穂井田元清に与えられ、その居城になります。
1586年(天正14年)豊臣秀吉が九州征伐を開始。翌年、豊臣秀吉が九州に向かう途中、桜尾城に立ち寄り、厳島神社を参詣しています。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、安芸国は福島正則の支配地となり、この時に桜尾城も存在価値を失い、廃城となりました。
現在、桂公園となっている丘陵に桜尾城がありました。
「桜尾城址 桂公園」の石碑と説明碑があるだけで、遺構はありません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=草津城へ向かう為、広電廿日市駅から広島電鉄宮島線を利用して草津駅に向かいました。
広電廿日市駅で洞雲寺で転んで汚れたズボンをはきかえました。
+ 続きを読む









