さんじょうじょう

三城城

長崎県大村市

別名 : 留松の城、大村城
旧国名 : 肥前

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①	三城城石碑
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トク

【春の長崎天草を巡る②】(2)三城城 (2025/03/26 訪問)

春の長崎天草を巡る旅、(2城目)は「三城城」です。

三城城の築城者は、キリシタン大名で有名な「大村純忠」です。純忠は、平戸で松浦氏と不仲になり行き場を失ったポルトガル商人らを受け入れ、商人に影響力のあるイエズス会よりキリスト教の洗礼を受けて、日本で初めてのキリシタン大名となります。平戸の松浦氏や武雄の後藤氏や龍造寺配下で諫早の西郷氏などから攻められるも、わずかな兵でこの城を守り抜き、有馬晴信の甥にあたる事から、秀吉から九州平定後も存続を許されたようです。

純忠はかなり熱心な信者で、ポルトガルとの関係を深めたかったようです。寺社仏閣などを壊し、強制的に領民をキリスト教徒にしたため、大村の領民は大半が信者となり、当時の日本最大のキリスト教の街になりました。

JR大村駅からまず三城城を見上げました(写真⑤)。そして歩いて15分で本丸へ着きました。キリシタン大名の城だったにもかかわらず、なぜか現在は戦没者忠魂塔になっていました。

純忠の時代の大村は、教会があり城下には貿易や商人で繁栄している南蛮文化で栄えた街だったと思います。この丘から大村市街や大村湾を眺め、そんな事を想像してしまいました。

しかし純忠死後、子の大村喜前はいち早く棄教し、教会などは破壊して棄教しないキリシタンを五島へ追放します。そして玖島城を築城して豊臣や徳川に忠節を誓ったため、大村家は幕末まで存続できたようです。

キリシタン大名と言えば、私はこの大村純忠の他にも、有馬晴信、大友宗麟、小西行長、高山右近らの名前が思い浮かびます。彼らはキリスト教に、いったいどんな救いを求めていたのだろうか🤔? そんな事までもふと考えてしまいました。

次は(3城目)その喜前の玖島城に続きます。
 

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しんちゃん

三城城 (2020/01/02 訪問)

三城城は日本最初のキリシタン大名、大村純忠が富松大権現の傍らに築いた城で
慶長3年(1598)純忠の息子喜前が玖島城に居城を移すまで、34年の間、大村氏の
居城でした。本丸には独特の形状をした忠霊塔が建てられ、北東から南東にかけ
空堀が残っているようです。

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カズサン

玖島城移築前の大村氏本拠地 (2018/09/25 訪問)

 昨年9月24日の山城サミット安来大会を終えて高速道(山陰道、松江道、中国道、九州道、長崎道)を移動して大村ICから三城城へ近くの冨松神社の駐車場へ停め探訪。
 駐車場から周辺を回るように登り坂が通って居りⅠの曲輪へ忠霊神社、忠霊塔が鎮座、東にⅡの曲輪が有るが大堀で隔てられ樹木藪状態で通行不可、駐車場に降り南側町家を大きくぐるっと回るように南から北方向へ大きな通りへ案内板の有る所から入ると開かれた大きな広場がⅡの曲輪です、Ⅱの曲輪は上下二段の広場、Ⅱの曲輪北へ降り畑道を進むとⅢの曲輪との境、回り込みように北から西へ進み冨松神社、駐車場へと城域を一周北東から南西に大きな丘陵周辺端は崖に成ってる要害の地。

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todo94

長崎空港近く (2017/11/23 訪問)

一の郭には忠霊塔が建っています。二の郭との間に空堀がありますが、あまり整備はされていません。

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 大村純忠
築城年 永禄7年(1564)
主な城主 大村氏
廃城年 寛永14年(1637)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
再建造物 石碑、説明板
住所 長崎県大村市三城町
問い合わせ先 大村市文化振興課
問い合わせ先電話番号 0957-52-9700