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57century

大和豊田城 (2023/02/05 訪問)

初めて知った山城。

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todo94

献血前の攻城 (2023/01/04 訪問)

今回、青春18きっぷの残りでの行き先を三重にしたのは、四日市の献血ルームサンセリテでの献血のため。リニューアル情報を得ていこうと思っていたら、新型コロナウイルス感染症の所為でここまで延び延びになってしまいました。その献血前の攻城です。浜田城は都市公園として整備されていましたが、土塁などは残っていました。

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にのまる

広かった。 (2022/01/04 訪問)

午前中に岡豊城に行ってからの移動でした。
スタンプはいざとなったら武田石油さんにおすがりできるとは言え展示室にも行きたいし、何より明るいうちに城館跡や見性寺を見たかったので、①13:00高知駅で忘れずにキャリーバッグを出す②13:13南風16号に乗る③14:30阿波池田で剣山8号に乗り換える④15:37石井で徳島線に乗り換える⑤16:03佐古で高徳線に乗り換えるをクリアして16:15に勝瑞駅に降り立った時にはミッションだらけの一日が予定通りこなせたことにただただ感謝の気持ちでいっぱいでした。(翌日も続くのだが。)
勝瑞城は想像力が試されるのではないかとドキドキでしたが、立体復元された濠や枯山水庭園、礎石建物立体表示、発掘写真付きの説明板などで広場を歩きながらイメージしたり遺物の発見場所を知ったりすることができ、また、展示室の解説も詳しくて、国史跡として大切に守られていることを感じました。
三好氏4代の墓のある見性寺へも何とか明るいうちに行けました。土塁が少し残っていましたが、この場所の発掘調査結果にびっくりでした。

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赤い城

バンブーパラダイス (2023/02/12 訪問)

この日は海城サミットで金谷城の特別公開。
その前に立ち寄って見ました。
国道297号線沿いに光福禅寺への案内板があります。
駐車場に車を停めて歩きました。
駐車場からすぐに土塁があり、お寺周辺は内曲輪とされます。
道路沿いに主郭方面に進むと道路脇に空堀があります。
結構深い、降りてみると藪は許せるけど不法投棄のゴミが。
残念です。
めげずに主郭方面に進むと碑が立っていました。
入口が分からずとりあえず直登して主郭に。
見事な竹藪です。
土塁も付いていました。
主郭は堀が囲んでいます。
後で調べると四の堀とのこと。
ここも見事な竹藪でした。
再び主郭に戻ると説明板が立っていました。
この側が虎口のようです
城域はもっと広いので次はじっくりと攻めて見たい城でした。

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にのまる

Re:お城クイズ

立木斤ウ呂土成

でよいでしょうか(*'▽'*)

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POYO58

お城クイズ

さあ、ではまいりましょう。
今回はこれです。これはどこでしょう? これは比較的簡単です。これは櫓台ですね。たぶんにのまるさんだったらすぐわかってしまうと思います。

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ぴーかる

英賀城 (2023/01/25 訪問)

【英賀城】
<駐車場他>駐車場はなし。津田公園駐車場に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>英賀城の築城は永享年間(1429~1441年)に赤松祐尚(嘉吉の乱当事者の赤松満祐の弟)によって築城されました。私の覚書には主な城主にその弟の赤松則友が英賀城主となっているので嘉吉の乱の後、ごたごた城主が変わったのでしょうか。戦国時代後半には三木氏の支配することとなります。三木氏は毛利氏に同盟して毛利の軍勢を上陸させます。これを小寺孝隆がたたくわけです(英賀合戦)。別所氏が離反して毛利氏に付いたことで支援したが三木城落城後に織田軍の猛攻を受けて落城しました。
 上記公園に駐車し徒歩で広辻口跡石碑⇒本丸跡石碑⇒井ノ上口跡石碑⇒河下口跡石碑⇒岡芝口跡石碑⇒英賀城跡公園模擬石垣・野中口跡石碑⇒山科口跡石碑⇒英賀神社土塁の順で巡った。全ての虎口跡を巡ってはいないが、行った内を巡るだけでもかなり時間を要したので相当な規模の城だったことを思わせた実体験。

<満足度>◆◇◇

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侍ホリタン

信濃・駿河・遠江・三河の名城を訪ねて、掛川城 (2022/07/18 訪問)

駿府城からの転戦です。
今川氏の重臣朝比奈 泰煕公の築城が始まりです。豊臣政権時代には山内一豊公が城主となり、一豊公により天守が築かれました。堅固な造りで「東海の名城」と呼ばれ、江戸時代には譜代大名が城主を務め、将軍上洛時の宿泊所としても使用されました。1854年安政の東海大地震により天守が倒壊、再建される事なく明治維新を迎えました。現在の天守は平成6年に木造で再建されたものです。二の丸にある掛川城御殿は、全国に4つしかない現存する城郭御殿の一つで貴重な建物です。
私が訪問した時には天守閣の修復工事のため、天守閣周辺に立ち入ることができませんでした(令和5年1月31日終了予定)。掛川城御殿には入場できました。

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カズサン

【三河・岩津城】愛知県岡崎市 見応え有る松平3代信光築城山城 (2023/02/12 訪問)

 以前より気に成り登城予定に入れて居りました、城郭放浪記さんの令和5年1月登城履歴に載り岩津城が更新され、写真も追加更新されており拝見すると竹林、樹木の伐採整備が成され見学探訪し易く成ってる様に見受けましたので早速初登城しました。

 住所:愛知県岡崎市岩津町字東山
 駐車場:岩津天満宮乗用車駐車場利用(岡崎市岩津町東山52-4)(35°0'17"N 137°10'36"E)
 案内、情報、縄張図は城郭放浪さんとグーグルマップに依ります。

 駐車場が岩津天満宮の南真下でしたので、先ずは参拝させて頂きました、時期的に合格祈願参拝の家族お子さん連れが多く参拝されて居ました。岩津天満宮からは岩津城が下に低く見えます。
 
 登城口は天満宮下の鳥居から東名高速に架かる橋を西に渡り、北から登って来る道と交差して直ぐの山手に登城口があります、案内看板、縄張俯瞰図、ストックも準備されて居ます。比高は50mと出て居ましたが20m位、丁度降りてこられた方に伺うと比高50mは下の集落からの高さですと、岩津城を整備管理推進されている方の様でした、若干会話して情報を頂く。
 城郭放浪記さんの縄張図を見ながら探訪開始、横堀2を観ながら曲輪Ⅱへここは馬出の様、曲輪Ⅲを見渡して、主郭曲輪Ⅰの土橋へ結構長い、左右の空堀は深くて広い、主郭曲輪Ⅰの虎口と左右に土塁、左の西側土塁は高く城名石碑が建っている、主郭中央に岩津城の解説文がケースに入って掲示されている、また大きめ透明プラボトルに岩津城案内解説の1枚チラシが丸まって入ってる、1枚頂く。
 主郭北西側に曲輪Ⅳ、曲輪Ⅳ西から横堀1を見下ろす、曲輪Ⅳの西下に曲輪Ⅴ、南西下に集落が有りチラシの解説によると他集宅地に成って居るが元は岩津城の南西部城域だったそうです。横堀下辺りから別の登城口が有り集落に降りる。
 東面は東名高速と成り岩津天満宮に成ります。
 南東角の登城口からは比高も低く、竹林、樹木伐採整備されて大変見やすく歩き易く成って居ります、整備は3月末まで続くようです。

 歴史的には1400年代初頭、松平泰親(2代)、信光(3代)によって築城し三河の田園地帯進出を狙ったのでしょうか?信光は18松平の祖と成って居り松平繫栄の基を築いたようです。岩津城から安城城攻略進出、宗家安城松平氏へ。
 家康桶狭間合戦後の三河統一、本能寺の乱以後の秀吉との対立で岩津城は改修されて現在の城郭構造になったようです。(案内チラシによる)

 数年前より何時か登城へと思って居た願いが叶い、また素晴らしい山城を探訪出来、地元「岩津松平輝きの600年」推進懇話会さん、何時もの城郭放浪記さんに感謝申し上げます。
 写真は50枚くらい撮りましたが中々絞り切れませんが10枚投稿します。
 

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侍ホリタン

信濃・駿河・遠江・三河の名城を訪ねて、駿府城 (2022/07/18 訪問)

信濃・駿河・遠江・三河の名城を訪ねる旅、2日目は駿府城からです。
徳川家康公により1589年(天正期)に天守、二ノ丸まで完成していました。1607年(慶長期)に天下普請工事による拡張工事が行われ、三重の堀を持ち5層7階の新たな天守を持つ城に生まれ変わりました。将軍職を息子の秀忠公に譲った家康公は、大御所として駿府にて晩年を過ごす事になります。
現在、天守台跡の発掘調査現場を見学できます。明治時代に陸軍によって天守台が壊され堀も埋められて更地になっていましたが、発掘調査によって出現した、石垣、堀、新たな天守台(徳川家康公が征夷大将軍となった慶長期の天守台)を確認出来ます。慶長期の天守台は天正期の天守台を凌ぐ大きさで東西約61mx南北約68m、日本一大きなものであることがわかっています。

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タック

国宝5城制覇 (2023/02/09 訪問)

高校生の時に松本城を訪れ、何年もたった今年、ついに松江城を訪れ国宝にしていされている5つの城すべてを訪れた記念すべき城。
天守の美しさと裏腹に内部は守るための仕掛けが豊富にあり非常に楽しめます。

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トク

㉑【関ケ原の26人】(12)田中吉政 (田中吉政と岡崎城 [二十七曲り]) (2023/02/10 訪問)

(12人目)は「田中吉政」です。
関ケ原当時の居城があった「岡崎」を訪れてきました。

しかし今の岡崎は家康ブームの真っただ中! このような状況の岡崎で吉政の痕跡を探している私は空気が読めない人間なのでしょうか? しかしそんな中で吉政の痕跡を見つけました! それは「二十七曲り」です(写真①-⑤)。

1590年に秀吉の命により岡崎5万石(後に加増10万石)の城主となった吉政は、岡崎の北にあった東海道を城下を通るように変更し、その道に二十七の曲がり角を設け東側に武家屋敷を配置し攻めにくい城郭都市に改造していました。吉政は総石垣にして天守を構築し、川の流れを変え、北には堀を配置し、街全体を総構えににしたようです(写真⑥⑦)。

またその一方で反対側の西側には商人や職人を住まわせ、矢作川に橋をかけ城下を通る東海道の人の往来を盛んにするなどし経済も発展させました。吉政は豊臣秀次の家老時代にも八幡山城の町割を行い、そこに安土の商人を招き入れ近江八幡を城郭都市にしています。そういう行政手腕にはどうやら長けた人物だったようです。

よって岡崎を有名にしたのは家康ですが、城下町発展の基礎を築いたのは吉政という事になるのでしょうか? 家康の時は三河統一(一向一揆)や今川との戦でそれどころではなかったのかもしれませんね。

次は(岡崎城)へ入り吉政の痕跡をもう少し探してみようかと思います。

【余談】八丁味噌
岡崎の街を歩くと、右も左も「八丁味噌」の看板だらけ。家康もこよなく愛したと聞いたので、途中でお腹もすいたし「八丁味噌ラーメン」の店に入り食べてみました。(なかなかこくと香りがあり美味でした😊)(写真⑧)
 

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小城小次郎

土の城の美の極致か (2022/09/25 訪問)

一迫川を臨む絶壁上に東西に長く曲輪を連ね、北西には二重の横堀を構えるその姿には土の城の美の極致との呼び声も。奥州藤原氏時代の伝承を持つが最終形は葛西・大崎一揆時代らしい。いずれにしてもここは激戦地だったのだろう。

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todo94

小さな城山 (2023/01/04 訪問)

近鉄富田駅から徒歩でアプローチしました。近鉄線沿いに土塁よりも小さな小丘があり、城址碑、説明板が整っています。城址碑は目立っていませんし、説明板も「城山の梛の木はご神木」の方が目立っている感じです。この場所は城の主郭の北西郭に当たるとのことです。

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赤い城

田間城 千葉県東金市 (2023/02/11 訪問)

東金駅から徒歩で15分くらい。
田間神社背後に位置します。
東金城と同じく酒井氏の城です。
神社左手から登って行きます。登城路も付いているので歩きやすくなっています。
登城路を進むと竪堀を見上げ、さらに行くと門の跡があり、その上が主郭のようです。
主郭と副郭の間に堀が切られ、奥に神社と標柱がありました。
見どころはこの先。
副郭に沿って進むと竪堀や横堀を見ることができます。
この時季でもやや藪かな。
西側の物見台にも竪堀が切られていました。
東金城が今のところ不完全燃焼なので訪れた際には立ち寄って頂きたい城です。

宗春さん、金谷城の海城サミットいらしてたのですね。
私も参加しました。
下の横堀や堀切が気になりました。
いつか歩ける日が来てほしい。
眺望もよくいい物見せていただきました。
レポートは後日。

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朝田 辰兵衛

越後はしんしんと雪が… (2022/12/18 訪問)

18きっぷの2日目。越後帰還日。キャリーバッグを引きずりながらスタート。駅のアナウンスで手鼻をくじかれました。某芸人が語っていた“関東最強の埼京線”が,上下線運転見合わせのハプニング。山手線方向に向かうのを断念しました。
結局,JR茅ヶ崎駅から相模線で西へ向かうことにしました。前日に見ておきたかった梶原景時館へと。
この時,越後はしんしんと雪が降り始めており,3日間降り続きました。長岡市や柏崎市では,国道で車両が立ち往生。
自宅着は日付が変わっていました…。

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チェブ

400年続いた小山氏の居城。 (2023/01/03 訪問)

1月3日、この日の最後のお城攻めが「中久喜城」でした。
お正月から1人で、こんなに遠くに来てしまって、日が傾きかけてきた頃に、急に帰りが心配になってきました。
と、言い訳。

「中久喜城」は小山氏の居城です。
いろいろあって、結城氏のお城になります。結城氏が越前に転封になり「中久喜城」は廃城しました。
この、いろいろが、本当にいろいろあって凝縮できません。小山氏は400年も続いたお家です。

Googleの示す「中久喜城」で石碑と説明板の前に到着しました。
石碑がある場所は堀のようです。
そして、土塁があります。
どこか車を停めようとキョロキョロすると、ビニールハウスで作業されている方が帰り支度してました。
手作りの『順路←』の看板があり、ちょっと時間がかかりそうと、またしても言い訳。

ここで退陣しました。
もう一つ、言い訳すると、『防犯パトロール』や『痴漢に注意』やらの幟が目につきました。
不審者に思われたら嫌だしな~。
帰ろっと、潔く退陣しました。

小山氏の歴史に触れると、「中久喜城」をじっくり歩きたくなる お城攻めでした。

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洸(あきら)

素敵な街並み (2022/03/07 訪問)

駅からタクシーで向かいました。
紅葉も桜もない時期だったので、タクシーの運転手さんから、見頃の季節に来るようにオススメされました。次こそは。
学校や博物館周りの石垣と堀、黒門など風情があって見応えありました。

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カズサン

8年振りの登城二の丸三の丸編 (2023/02/08 訪問)

 大空堀を東から西へ、北曲輪にも登って上から眺め充分探査探訪を堪能して本丸へ、雨が予想通り振り出して来ましたでも小降りです、傘を差しながら急ぎ足で二の丸と三の丸、三の丸の円形の南側の土塁の確認、外堀跡の池辺りまで確認。
 三の丸は県道22号線で南北分断されて居ますが、円形の土塁が残り、外堀跡の池が残って居り、此処が見所かと思います。
 雨も降って来ましたので、西側の外堀跡、東側の外堀跡、清水曲輪の探訪は省略しました。
 8年前にも県道22号線沿いにあった興国寺城の整備計画図は大分色褪せひびが入りきみ、整備計画の進行は如何なのでしょう?

 雨も降って来ましたので城廻りはここまで、国道1号線バイパスまで南に1km半ほど、夕刻まで時間も有り、お昼にチョット贅沢したので高速を控えて久しぶりに1号線を西行、久し振りのドライブでした、4車線、バイパス化で流れはスムーズでした。
 4編長々と投稿申し負けない。
 

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カズサン

8年振りの登城大空堀探査編 (2023/02/08 訪問)

 本丸北側の分厚く高い高土塁、天守台、石垣を探訪して、発掘調査中で北東角から大空堀に降ろられないので、一旦本丸内部に降りて東側の高土塁を回り込んで、深く広い大空堀探査を東から開始、探訪時私だけ家内は車でお休み、此処も草が刈られて大変ありがたいよく観察出来ます、東側の空堀は東側の外堀に落ち込み東端は竪堀の様、西に進み、一人の探査、時折新幹線と通過する音のみ、不気味なくらい閑、時折ガサガサとする音は鳥が動いた音の様、天守台下、西櫓下を通り、天守台と西櫓台との間には折れが有る、それにしても高い土塁、深い堀、西端も西外堀に落ち込む竪堀の様です。
 西端から戻り、北曲輪に登る階段が有り登ってみますが北曲輪へは入れません、階段上から大空堀を南に眺める、また違った眺めです。
 素晴らしい大空堀一品の見所です。

 二の丸三の丸編に続く。
 

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