徳川家康最初の陣は国の史跡に指定されています。陣跡とされる「桃配山」は「壬申の乱」の際に大友皇子に勝利した大海人皇子が陣を敷いたという伝説があります。その際に村人から献上された桃を兵士に配り士気を高めたとされています。
おそらくこの桃配山、尾根沿いに南宮山と繋がっています。日清戦争の前年、陸軍参謀本部が発行した関ヶ原合戦図が今の毛利秀元や吉川広家の陣の配置の元になっていますが、参謀本部が参考にしたとされる神谷道一翁の「関ヶ原合戦図志」には毛利勢の布陣が南宮山の尾根上に展開していて、吉川と福原の手勢がそれを封じ込めるように布陣しています。
私としては日清戦争前夜の南宮山の戦略的有用性から参謀本部が「関ヶ原合戦図志」を利用し、江戸時代の都合の良い布陣図を流用して南宮山の主要部を軍用地として温存したと推測します。当然行政もグルになっていたわけで、それが今でも引き継がれているようです。
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