福岡城の天守論争で新たな動きがありました。福岡商工会議所から、有識者と経済界で意見をまとめた、今後の福岡市のとるべき方向性を示す「提言書」が出され福岡市長に手渡されました。内容をまとめると
① 天守は江戸初期(慶長期)に建てられそして(元和期)に壊された。
② 構造は五重六階・地下一階で姫路城と同程度の大きさであった。
③ 外観は黒を基調にした下見板張りと白漆喰であった
④ 市民へのアンケート結果で59.1%が復元に賛成である。
よって完全な復元ではなく、資料などを多面的に検証した、実物に近い形の「復元的整備」で今後迅速に進めるよう市長へ提言する。といった内容でした。
これに対し、文化庁の見解は今までと変わらず慎重で、
① 城の設計図や写真などの直接的資料がない。
② 福岡城は国の史跡なので復元には国の許可が必要。
③ 今ある石垣の上に建てても地盤が耐えられない。
という事で、現時点では「復元的整備でも不可能」というスタンスを崩していません。
この提言を受けて福岡市長は、ならば文化庁と本格的に学術的な発掘調査を、まだ手付かずの天守台を中心に一緒に行いましょうと提案し、国の発掘許可も下りそうなので、その費用を来年度予算案に計上するという発表がありました(写真①②)。
提言の内容を見る限りでは、私には目新しいものは感じられず、復元ありきで観光の目玉にしたいという経済界の意向が強いような気もしますが、ならば市としてはまず天守が確かにあったという痕跡を探すため、掘ればまだ地中に壊した時の柱や瓦の一部がもしかして眠っているのではないか? そのような決定的な証拠を見つける事で、天守が建っていたかいなかったかの論争の部分からまず決着を図りたい考えのようです。また並行して文献資料の再調査も福岡市博物館で行なわれるとの事です。
関ケ原後の1602~1607年頃にかけて福岡城は黒田長政により築城されますが、1644年の正保の絵図には天守台には何も描かれておらず、この時期には間違えなく天守は無かったようです。1620年頃に、徳川秀忠に細川との騒動の弁明をするため江戸に行った黒田長政は、徳川に忠誠を誓うための証として福岡城の天守を自ら壊した旨を報告しています。同じ頃の細川忠興の手紙などからも、長政は自ら天守を壊してその部材を徳川大坂城の築城に差し出した旨が記録されています。家臣の手紙には、天守を御建てになったとか天守の欄干が腐ったので修理せよなどと欄干付き天守があった事を示す手紙も発見されています。しかし有識者の間では、それは小天守の事で大天守は最初から家康をはばかって築かれてはいなかったので復元する事自体がおかしいという意見と、いや大天守は最初から築かれていたので復元するべきであるという意見に分かれて今日まで論争が続いてきました。
さあ掘って本当に何か出てくるのでしょうか? もし万一大天守の存在を示すような決定的な証拠が出てくれば、市長と経済界の逆転ホームランになり復元への機運が一気に高まるかもしれませんね!(逆に出なければどうなるのだろう🤔?)。 長く続いているこの論争、1年後にはどのような進展が待っているのか? それを楽しみに見て行きたいと思います。
今年のさくらまつり期間中も、また幻の天守ライトアップが行われるようです。ただし終了後に発掘調査を始めるので、幻の天守期間中も天守台へは登れませんが、終了後も発掘調査のため天守台とその周辺は一部立ち入りが規制されそうなので、その際は御協力をお願いしますとの事でした。
これまでの提言内容に至った経緯の詳細を知りたい方は、以下にまとめられたHPがありますので、よければ御覧下さい。また地元テレビ局のニュース映像からわかりやすいよう要点を抜粋してみました。御参考まで(③~⑩)。
https://www.data-max.co.jp/article/71404
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