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トク

京都御所(紫式部ゆかりの地を訪ねて③) (2024/11/10 訪問)

京都御所を訪れました。地下鉄烏丸線(今出川駅)で下車しそこから歩きました。

御所の中は清所門から入り無料で中を見学する事ができます(予約不要、ただし事前にネットで見学可能な日時や方法などの確認を)。また御所の中はとても広く結構歩きます。下も砂利なので歩きやすい靴で行かれた方がいいと思います。でも中に入ると、歩き疲れも忘れるほど感動がありました。

特に「御車寄」(写真①)から「建礼門」(写真②)、朱が映える「承明門」越しに見た「紫晨殿(ししんでん)」(写真③④⑤)、天皇の御座所「清涼殿」(写真⑥)、金色がまぶしい「春興殿」(写真⑦)、緑が映える「御庭池」(写真⑧)などはとてもきれいでした。「蛤御門」では禁門の変の弾痕跡も残っていました(写真⑨⑩)。

清涼殿では一条天皇と中宮の彰子(道長の娘)が暮らす姿や、紫晨殿で一条天皇が即位するドラマのシーンなどが、次々と思い浮かんでしまいました。藤式部(まひろ)の部屋はいったいどこだったのだろうか?🤔 思わずキョロキョロと覗き込んでしまいました(笑)。

宮中に上がったまひろ(当時32才)は、藤原の藤の字と父為時が式部省に所属していた事から、「籐式部」という名を与えられます。しかしだんだんと紫の君に似ているという事から、「紫式部」と呼ばれるようになったようです。

そして一条天皇が、亡き前妻「定子」の事をいつまでも忘れなかったため、中宮「彰子」(道長の長女)の方に気を引くような内容に源氏物語を書き変えるよう道長から密命が下り、籐式部は、源氏物語桐壺の巻(第一帖)を書き始めます。この物語に興味を引いた一条天皇と彰子の間には二人の男子(敦成親王・敦良親王)が生まれ、式部は無事密命を果たす事ができました。しかしその直後、一条天皇は何と病に倒れ崩御してしまいます(一条天皇32才、彰子24才)。

その後、ここから藤式部(まひろ)は自分の書きたかった物語(第二帖以降)を長々と書き綴るようになりました。その物語は、この時代に生きた貴族の女性たちの恋はハッピーエンドでは終わる事はない、だからと言って自立もできない、政事(まつりごと)の道具にされるだけの「恋するもののあはれ」を物語で表現したかったのではないかと思います。

しかしその執筆途中、道長が一条天皇の後に即位した弟の三条天皇との間でうまくいかず、ストレスからか病に倒れ宇治で療養していると聞き、藤式部(まひろ)は道長を見舞うため宇治を訪れます。

次は、宇治平等院へ続きます。
 

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ばばよ

県指定史跡になるだけの土塁・堀切 (2024/11/08 訪問)

神奈川県内の国指定史跡の城は100名城・続100名城の小田原城、石垣山城のみ。
県指定史跡になっている城郭はこの早川城と山北の河村城の2城のみ。
遺構がよく残っているんじゃないかと訪問。
海老名駅東口からバスに乗ると、閑静な住宅街の中に現れます。
土塁、堀切がよく残されています。
お城好きの人が見れば確かに単なる公園ではなく城郭跡だったことがわかり、確かに訪問の価値あり。
ただ良くも悪くも公園として歩道・柵が整備されているため、城としてなのか公園の整備の結果なのかは不明な箇所もあります。
渋谷氏って武蔵の城郭ではちょくちょく名前を見かけますが、鎌倉時代がメインで戦国時代のことはこの城の案内板では窺い知ることはできませんでした。
東京都の都指定史跡は教育委員会による共通の形式の案内板がありますが、神奈川県はそういったものはなさそうでした。

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カズサン

清明台と土塀-2/4 (2024/11/09 訪問)

 富士見櫓が修復中-1/4の続きです。

 本丸の西側高土塁からの眺めを楽しんで宇都宮城ものしり館を覗き、清明台側の登城路から清明台へ、清明台、続き土塀を副柱側を北から南へ南から北へ眺めて、屏風折れの土塀も観察、エレベーターの南側は富士見櫓修復工事中で立入禁止。
 本丸内部の芝が車の轍がはっきりするくらいに高土塁からも良く分かる、悪さする輩が居るのかな?と思ったのですが、ものしり館をの方に聞くと「先月の宇都宮城祭り・宇都宮城餃子祭りの催事で雨も降りぬかるみ荒れた状態に成った」との事でしたが芝生がぐちゃぐちゃ直るのには時間がかかりそう。
 今回初めて高土塁登城見学後エレベーター使用しました。ものしり館にまた寄り先の事情を聴きました。
 本丸北の清水門辺りを観察、地表表示されているが良く分からない、清水門跡の解説板を読んでも地表表示の跡がよく掴めない。
 この後、以前から本丸に建っていた清明館に寄り見学、無料です、宇都宮城歴史、縄文時代の遺物展示・歴史・文化財の展示説明がされて居ます。
 
 本丸清明館廻り模擬石垣と堀-3/4へ続く。
   

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カズサン

富士見櫓が修復中-1/4 (2024/11/09 訪問)

 孫の運動会が午前中の開催でしたので午後の空き時間に孫たちが在住する宇都宮市の宇都宮城を何度目に成ったか分かりませんが訪ねました。
 予定していた宇都宮市市役所の城址公園西側駐車場が満車駐車待ち渋滞でしたので穴場の南側駐車場へ2台の空きがありラッキー駐車出来ましたが、直ぐに1台入り即満車。

 本丸南の駐車場から西側の高土塁を南側、西側、北側へと移動、南西の在る富士見櫓に工事用の仮設シートが覆われている、何かな?後で高土塁中の宇都宮城ものしり館の方に聞くと「先月10月より壁の修復工事が始まり1月には終わる」との事でした。
 桜のもみじと清明台、高土塁、堀の景観を眺めて写真撮影、ものしり館を覗いて情報収集、資料ゲット。

 清明台と土塀-2/4へ続く。
 

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イオ

とことん津山城(駐車場~三の丸) (2024/09/16 訪問)

室町中期に山名忠政が築いた鶴山城を前身とし、江戸初期に入封した森忠政が鶴山を津山と改めて現在見られる津山城を築きました。四代続いた森氏が改易になると松平氏が入って明治まで続きましたが、廃城令により天守と全ての櫓は破却されました。

吉井川と宮川の合流点を見下ろす鶴山に築かれた総石垣の平山城で、頂部に本丸、本丸を囲むように二の丸、三の丸を階段状に配した「一二三段」が特徴として知られます。鶴山の東側は宮川の断崖、南西北側には堀をめぐらせて六つの門を設け、往時は城内に60基の櫓と30を超える城門がひしめく威容を誇り、日本三大平山城のひとつに数えられています。

取りこぼしの回収メインの今回の遠征にあって、全くの初登城は津山城と鬼ノ城だけ(小阪部陣屋もですが)。大いに楽しみにしながら前夜に津山に入って一泊し、朝イチで城下をめぐった後(別途投稿します)、鶴山公園駐車場から登城開始。どうせなら城内にあった櫓や城門を余すところなく見てみたい、ということで「おかやま、城さんぽ」と津山市公式サイトから拾ってきた図面を手にとことん津山城です。

鶴山の南西麓から表門に向かうと三の丸南西隅の石垣が見えてきます。少し先には「忘れ去られた石」と題した矢穴のある石が設置されていますが、説明板によれば、石切場近くの谷川に残置されていた石を築城400年記念の「歴史石曳き」として運び込んだもののようです。忘れ去られた石の背後には矢穴のある石垣石が数多く見られ、この石もこうなりたかったのかな…と、ちょっとしみじみとしてしまいました。入場券売場の手前には写真でよく目にしていた森忠政公の銅像。森蘭丸の弟なら外見もそう悪くはなかったろうに、どうしてこんなぱっとしない姿にしたんだろう…と思っていましたが、説明板を読むと菩提寺の木像を基にしたとのことで、根拠のある姿を伝えるという意味では正しい選択なんでしょうね。妙に納得させられました。城内に入る前に冠木門南側の石垣沿いに東に進み、津山城南東隅の二階門跡と長屋跡を確認。石垣が遺るくらいで特に痕跡は見られません。

表門(冠木門跡)から城内に入ると高石垣に囲まれた桝形が広がり、突き当りには番所があったようです。桝形の南東部には鶴山館へと続く石段がありますが、これは廃城後に設けられたもの。登城道は180度折れて西に石段を上ります。桝形なら石段の手前に櫓門がありそうなものだけど…と思っていたら、北側の石垣の上に櫓門の土台らしき痕跡が遺っていました(何故か松尾芭蕉の句碑が建てられています)。櫓門を設ける予定だったのが、武家諸法度の公布により断念したものと考えられるんだとか。それでなくても豪壮な城だけに、要らぬ嫌疑を受けないためにはやむを得なかったんでしょうね。

桝形から三の丸に上がり、まず西に向かうと、7月の大雨での長柄櫓跡の石垣崩落により十八番門跡付近から先は立入禁止になっていました。今度は三の丸を東へ。表中門を素通りし見付櫓跡の石垣を見上げつつ長屋門跡を抜けた先にはつるまる広場が広がっています。昭和から平成にかけては動物園だったようです。往時は東端に火縄蔵、半地下の煙硝蔵に隣接して煙硝拵所などが建てられていましたが、現在は津山藩学問所「修道館」が移築されて「鶴山館」として津山城の古写真や資料が展示されています。登城ルートから外れているため訪れる人は少なそうですが、鶴山館前からは備中櫓が綺麗に見えました。桜の頃はさぞや…。

さて、表中門まで戻って二の丸に向かいます(続く)。
 

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長沢城(愛知県豊川市) (2024/11/16 訪問)

 愛知県豊川市にある城址です。長沢松平氏の居城で、長禄2年(1458年)松平信光の子親則が築城したとされていますが、諸説あるようです。城びとには未登録の城址です。遺構はよくわかりませんが、離れた場所に城址碑や説明板がありました。
 長沢松平家は後に徳川家康の八男忠輝が養子に入る家です。

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岩略寺城 (2024/11/16 訪問)

 愛知県豊川市にある城です。城びとの「日本100名城、続日本100名城に負けない名城」という企画で加藤理文先生が解説されていた城で以前より行きたいと思っていました。城びとには未登録の城址ですが、城びとにも複数の方が投稿されていていましたね。
 東三河と西三河の接点に位置する重要拠点である城で、1444~1449年頃に関口氏によって築かれたと言われますが正確にはわかっていないようです。曲輪、土塁、井戸、堀切、虎口などがよく残っていました。山城ですが、井戸と伝わる場所が5カ所あります。ただ井戸としての疑問視する説もあるようです。三日月堀、武者隠しなどもありました。
 名鉄電車名電長沢駅より徒歩にて登城しました。獣除けのゲートを開けて(もちろん閉めて)舗装された道を歩いて行きます。車なら上の駐車場まで上がることができます。駐車場まで歩いて登城するつもりでしたが、ゲートを開けてすぐのところに「近道」の表示がありそちらを選択しました。道はあるのですが、一部は草に埋もれていて、しかも結構急勾配なところも多く少し後悔しました。北西部の尾根だと思いますが、やがて堀切があり城域に入ります。本曲輪、二の曲輪、腰曲輪、南曲輪、東曲輪などを散策しました。帰りは駐車場から歩いて来ました。駐車場も南西部から派生する尾根を断ち切る堀切です。
 城域はよく整備されていて比較的気持ちよく散策できる城址です。

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とばつびしゃもん

新高山城の沼田川対岸にある城 (2024/11/03 訪問)

新高山城から車15分で高坂登城口駐車場へ。搦手側の登城口にあたる。城内へ入らず撤退。

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とばつびしゃもん

高山城の沼田川対岸にある城 (2024/11/03 訪問)

本郷生涯学習センターで新高山城と高山城のパンフを入手し続日本100名城スタンプポン。そこから車で10分弱、大手道入口近くの駐車場に駐車し登城開始。
大手道を進むとやがて登りが始まり鐘の段への分岐点の右手に3段の曲輪が縦に並ぶ番所跡がある。その先には匡真寺跡。ここで当時、小早川隆景は父元就と母の法要を行ったらしい。さらに進んで中の丸の南側へ到達、右に進むと広い本丸と大きな岩が並ぶ詰めの丸がありそこから沼田川対岸の高山城全景が丸見え。
戻って本丸から右手に下りると釣井の段(井戸郭)がありいくつかの井戸を確認できる。中の丸北側へ上ると釣井の段とライゲンガ丸が見下ろせる。本丸北面と西面には本拠を三原城へ移した際に運び残したとされる石垣が見られる。
中の丸南側から西の丸まで進みUターンして下城し2時間15分の攻城。見どころ盛りだくさんの山城でした。

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ダイエティシャン

浮城 (2024/11/16 訪問)

研修会の後、攻城
鯉が美しい

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雪の華

備中松山城 (2024/11/16 訪問)

初めての山城、修行の道でした。
登城口にある杖をお借りして、大正解!

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朝田 辰兵衛

南側の小川は相模湾に通じてた… (2024/09/15 訪問)

鐙摺城の散策を終え,小坪バス停から「逗12」系統のバスで逗子駅に戻りました。逗子駅で「逗6」系統のバスに乗り換えて,芦名バス停下車。進入口目印となるセブンイレブンは閉店していました。
南側の小川は見るからに堀の役割を果たしていただろうと推察できます。さらに,比較的近距離で相模湾に通じていました。水運の役割も担っていたと思います。

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天守無しがアツい

ダークホース津城 (2024/11/02 訪問)

津新町駅から歩いて15分にあるのが…津城跡🏯 織田信長の弟である信包がこの地に城を築き…関ヶ原の戦いを経て、藤堂高虎により大改築された城…明治維新後は学校になったり図書館になったりして…現在の庭園を兼ねた姿になる

そういう概説はさておき…この日、最初は伊賀上野城に向かう予定でした。ところが…途中の亀山駅にて「大雨による伊賀上野に向かう電車の運転見合わせ☔️」のアナウンスが流れ、「ならば余裕があれば行こうと考えていた…津城へ🚃」「あそこは続100名城…スタンプをまた1つ押しに」と目標変更

最寄りの津新町駅に着いた時点で15:49…しかもモバイルSuicaに記録がついてないという事で精算が必要となり、その対応で5分ほどロス…それでも諦めずに向かい…16:05にそこ(津城)に着いたのですが…(日本100名城のスタンプ受付は16時までとガイドブックに書いてあったとおり)スタンプ台はどこにも無く…つまり終わってました😭

「ここまで来て諦められん…本来明日は別の場所に向かう予定だったが、時間をやりくりしてここに再び来る時間を作ろう」「スタンプ受付時間は終わっても…ここの見学自体は24時間OK」「ならば先に…ひと通り見学を済ませるという、明日のためのせめてもの下準備をしておこう」と考えて、雨のぬかるんだ地面の中…城内を散策

場内を門から反対側の門まで突き抜けるように歩き…水溜りで足元を濡らしながら…城の外周に出て…そこから1枚撮影(1枚目)。天守無く櫓は一基しか残っておらず、城の規模は小さめの割には水堀と石垣は(もっと大きな城をイメージさせるくらいに)立派な気がしました🏯

最初に入った門へと再び戻り…そこでまた1枚(2枚目) この門は入徳門と言い、江戸時代にこの辺りにあった藩校有造館の門でした。それからこの門は女学校や幼稚園の門に移されて…今の場所に移築保存という流れ

ちなみにこの門は…明治時代に師範学校としてこの辺りが使われていた頃は…(朱塗りであったから)赤門と呼ばれていたそうです。なんか東大みたいなネーミング

入徳門から先へ進むと…(3枚目の)和風庭園がそこにあります。灯篭があり、池があり…飛び石を渡って水辺を避けたりして中を散策しました。ただ…池こそはあったものの…水深が浅いようで、魚は見かけませんでした

城址の中央広場には…(4枚目の)藤堂高虎像がありました。1556年に生を受けて、最初は浅井長政に仕えて15歳の時に姉川の戦いにて初陣を飾り武功を挙げたそう。長政が滅びると羽柴秀長(秀吉の弟)→秀保(秀吉の甥)と仕える

関ヶ原の戦いの頃に家康に接近して東軍で参戦。秀長の頃に与えられていた伊予国の領地の石高を加増してもらう。そして1608年には伊賀・伊勢に転封。その時は22,3万石の所有者

それから7年後…大坂夏の陣で豊臣側の残存兵を壊滅させて…手柄を挙げた事が評価されて32万石に加増された。太平の世になってからは二条城や大阪城の改築にも携わり、1630年病没

1つだけ残ってる櫓(二重隅櫓)(5枚目)にも行ってみました。階段を上ってすぐ…でしたが、残念ながらその扉は閉まってました…どうやら一般公開はされてないようです

そしてその周囲が草むらになっており、そこから下を覗くと断崖絶壁…駐車場側は…下までの高さが10mはあると思われ…落ちたら助からなさそう…でした

もし落ちてしまっても…手摺も無い所に興味本位で上がってきてしまった自己責任として扱われるのが想像できた…何よりこれ以上ここから下を見るのが怖かったので、すぐに元来た場所に戻り…安全に城の外に出て、見学は終わりました

(藤堂高虎のWikipedia)
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%A0%82%E9%AB%98%E8%99%8E

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しんちゃん

左じゃないのよ登城路は フッフ~♪ (2024/11/09 訪問)

ざっくり先人の皆さんの投稿を読んで来たのですが、砂防ダムを正面に見て左‥じゃなくて右が正解だったのね。階段がヤブに占拠されていたので、城址南側から直登して、直下して戻ってきました。久々に鼻から牛乳です(チャラリ~)。
とにかく登ってくと、腰郭らしき場所を経て比較的広い郭に出ます。その先に主郭らしき高所がありますが、間を大きな堀切が仕切っています。階段が下に続いているので、降りて主郭を目指します。

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しんちゃん

高安山 (2024/11/10 訪問)

中世の高安城には近鉄西信貴ケーブルや信貴山門との間を往復しているバスで来ることが出来ます。古代の高安城から渡ってくる人もけっこういますね。気を付けてくださいよー。
駅の周辺からは大坂の街が良く見えます。古代の高安城は信貴山城の流れから追って投稿したいと思います。

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しんちゃん

中世の高安城 (2024/11/10 訪問)

中世の高安城は信貴山城の支城という位置づけになっています。東西に郭があり西側が主郭のようですが、遺構が比較的はっきり見えるのは東の郭の北側です。中世の高安城に来る方法は近鉄西信貴ケーブルの高安山駅で降りるか、信貴山門との間を往復するバスを利用するかです(。。。)。
西の郭は道が上まで続いていますが藪に覆われ遺構は見えません。東の郭は道が無いのでよじ登って行きます。南側は藪で見通しが悪いですが北側は土塁で囲まれ、周囲に堀が巡っています。

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ぴーかる

足利将軍が築造した山城 (2024/11/03 訪問)

【中尾城】
<駐車場他>銀閣寺周辺の駐車場は土日祝1500円くらいと高いので私は「タイムス北白川小倉町(終日660円)」に駐車しました。北白川周辺は「ブーブーパーク」というコインP(終日600円くらい)が沢山あります。公衆トイレ「銀閣寺橋西詰公衆トイレ」があります。
<交通手段>車

<見所>堀切・土塁
<感想>中尾城の築城は1549年に12代将軍の足利義晴が大御所となった後に築城を開始したとされます。1549年に江口の戦いで敗れた細川晴元は足利義晴・義藤(のちの義輝)親子を連れて近江坂本に逃れます。その後京都では三好長慶が台頭することになりますが、足利義晴は京都奪還を目指して中尾城を築城します。すぐ北に将軍山城があり、1546年に自身が改修して義晴・義藤親子が籠城していますが、1547年に細川晴元・六角定頼軍に包囲された時に城を焼いて出ていますので、その南にある慈照寺(銀閣寺)の裏山に新たに築城したと思います。1550年に足利義晴は病死(病を苦に自害とも)しその後将軍の足利義藤が入城し三好長慶軍と戦います。三好長慶軍は背後の近江大津周辺を焼き討ちしだしたので退路に窮した将軍義藤は中尾城を焼いて城を出て近江堅田⇒朽木に逃げます。

 登城ルートはいくつかあり、<35.027695, 135.802006>の左手の砂防ダムからか、そのまま道なりに一番奥へ行った砂防ダムから登っても行けます。私は前述のルートから登って、登ってきた場所をロストしてしまったので何となく降りてきたら後述の場所に降りれました。どちらのルートにも遺構の堀切がありますので上り下り変えた方がいいかもです。
 タイトルにあるように城びとフラッグとGoogleマップ中尾城址の位置はずれていて、城びとポイントが正しい位置に立てられています。Googleマップの位置は中尾城跡から大山出城跡に至る急斜面にあり間違いです。登城した時、案内が無くてGoogleマップの位置ばかり気にしつつ登ったので、一旦城跡に入ったのに「ここも城跡なんだけどなあ」と思いつつ、うろうろしている間に大山出城に至った訳です(結果オーライ)。
 城跡は南北に走る尾根を削平した連郭の城で主要部は中心に主郭、北下段と南下段に副郭があります。北下段の北と南下段の南に堀切があります。それぞれの堀切の先に尾根曲輪が続いて、南端は堀切と横矢の土塁、北端は崖になっています。主要部の西側尾根に登ってきた堀切があります。主要部北下段の西側に中尾城の出城といわれる大山出城へ至るルートがあります。
 足利将軍の城とはいえ、東山の尾根上をちょこちょこっと削平し城塞化した大山出城と合わせても現在見れる遺構の規模の小さい城ではあるが、当時は麓からみて京の人々には威容があり、鉄砲を防ぐ石や砂利を防壁に敷き詰めた最新の造りになっていたようです。おそらく築造の費用と人足は管領代にしてもらい後ろ盾となった六角定頼が出しているのかもしれませんが。鴨川を渡るとすぐ当時の今出川御所に入れるのに入れない、足利将軍が命をかけた京都奪還の意思を強く感じました。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

大桑城番外編 岐阜県山県市 (2024/10/20 訪問)

大桑城もなかなか見ごたえのある城で、投稿も長くなってきたので残った写真を番外編で投稿します。主郭近くにあるミニ天守は高さ2mほどで背面に小さな扉が付いています。猫ぐらいなら入れるかもしれませんが人間は無理です。何のためのドアなのかは不明です。
主郭を北上していって、謎の石を見た後は山肌を伝って主郭西の郭に戻りました。あとは最初の分岐に戻って、馬場とその先の堀切を見て訪問は終了です。長いこと行きたいと思っていた大桑城を訪問できて満足です。

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しんちゃん

この石なんの石 気になる石 (2024/10/20 訪問)

主郭部は比較的狭く南北に長く連なっています。北上していくと小さな庭園らしき遺構があり、その先に降って行くと土塁や堀らしきものが有りました。目的の物は‥ありました。さりげなくそこに鎮座しています。
グーグルマップにも載っている「この石なんの石 気になる石」です。城址に鎮座している不思議な石というと飛騨市の古川城で見た
「蛤石」を思い出します。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)18日目(最終日):永原城 (2024/10/09 訪問)

桜生城から徒歩35分くらいで、説明板付近(35.091569、136.036370)に着きました。

永原城の築城年代は定かではないようですが、佐々木氏の支族永原氏によって築かれたと云われています。
永原氏の出自は詳らかではないようですが、六角氏に従った国人領主であったそうです。
永原御殿は、江戸初期に将軍上洛の宿舎として造られましたが、将軍上洛が停止されると1686年(貞享3年)廃城となりました。

本丸には土塁や石垣が残っているようですが、土塁修復中の為かつ竹林で私有地という事もあり断念しました。
説明板付近から徒歩2分くらいの上田産業㈱前のこの位置(35.090413、136.035666)に永原御殿跡の看板があったはずですが、失くなっていました。
攻城時間は10分くらいでした。今回の公共交通のみで(東海&関西遠征)城巡りは、ここがラストです。
千葉の自宅に戻る為、家棟団地バス停から近江鉄道湖国バス➡JRを利用して、草津駅に向かいコインロッカーより荷物を取り出してから自宅に戻りました。
本日の攻城徒歩=31898歩、攻城距離=22.32Kmでした。
遠征の総攻城徒歩=602,651歩、総攻城距離=421.79Kmでした。

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