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赤い城

駅近物件ではあるが (2024/06/16 訪問)

JR蔵本駅から徒歩数分、マンションの片隅に城主を祀った祠と説明板があります。
駅北西部一帯が城跡とのことですが遺構は残りません。
西側を流れる田宮川が外堀として利用されていました。

線路南側の八坂神社、地福寺も「城ノ内」と呼ばれていることからこの辺りも城域だったようです。

それにしてもここのマンション、住んだら城主気分を味わえるのかな?

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シェル

新幹線を途中下車し、いざ駿府城へ!! (2024/02/26 訪問)

 福井遠征からの帰り道。旅の締めくくりとして、静岡で新幹線を途中下車し、初登城!!
 JR静岡駅から徒歩15分。
 訪問日は月曜日で巽櫓・坤櫓は休館していたため、100名城のスタンプは、静岡市役所16階の歴史文化課で押印。エレベーターで16階まで行くと、目の前に貼り紙で設置場所の案内があり、それにしたがって歴史文化課の方に行くと、窓口向かいの棚のところにスタンプが設置されていました。
 スタンプ押印後、静岡市役所側から攻城。大手御門→東御門・巽櫓→本丸堀跡→徳川家康像(家康手植のミカン)→天守台発掘現場→坤櫓→二ノ丸橋→二ノ丸御門跡の順で見学。
 まず静岡県庁前に大手御門跡(桝形)があり、巨大な水堀と石垣が県庁前にも広がっています。駿府公園東側の東御門・巽櫓側から公園内へ入りました。 
 写真では何度も拝見していましたが、巽櫓を実際に見ると想像以上に巨大で驚きました!!
東御門は内桝形構造で規模も大きく見ごたえがありました。東御門から入るとすぐに本丸堀(内堀)の一部があります。本丸堀は明治に埋められてしまったようですが、平成の発掘調査で姿をあらわしたとのことです。本丸堀から北西寄りに進むと、徳川家康の銅像とそのそばには家康公御手植えのミカンの木があります。
 そして今話題の天守台の発掘現場へ
 家康像の裏手から、天守台に発掘現場への入り口があり、そこから入場。天正期の石垣、慶長期の石垣などが発掘されており、加えて今川氏時代の遺構も発見されているようで、とても驚きました!!
 それぞれの発掘地点にはカラーコーンが設置されていて、とても分かりやすかったです。 
 つづいて、天守台の発掘現場から南に進み、坤櫓へ。坤櫓も規模が大きく、見ごたえたっぷりです。坤櫓からは東に進み二ノ丸橋を渡り、堀沿いを西に進み、二ノ丸御門跡の対岸へ。
 二ノ丸御門跡は、かつての門の部分が埋められており、対岸からみると石垣の積み方が明らかに異なっているので、とても興味深かったです。

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イタさん

中大塚城・群馬県藤岡市中大塚 (2024/06/27 訪問)

案内板のように東西の郭があったようだが、西の郭に遺構が見られる。高山御厨を治めていた高山氏の分家、小林氏の城館であったと考えられる、と載っている。南・西・北に土塁・堀が見られる。東側の遺構は消滅してるが、千手寺境辺りに土塁・堀があったようだ。内部は民家が建つ私有地で遠慮をする。なお案内板に所有者が小林さんと記されており、御子孫が住んで居られるのだろうか。

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T-Shionoya

岩略寺城探検 (2024/03/03 訪問)

昨年の安城歴史博物館の企画展で興味を持ち、今年3月に訪れた愛知県豊川市の岩略寺城。

東三河と西三河の境界となる山地の東側。
東海道沿いの比高約100mの通称"城山"に、山頂から5筋の尾根の中腹に掛けて堀切や曲輪を配置した城。

築城時期や城主は定かでないが、今川氏や松平氏が戦略拠点としてきたというエリア。
現在残る遺構は県内最大級の広さで、桶狭間以降に家康が改修したものとも考えられています。

南曲輪の裏まで車道が通じており、麓の動物避けの柵を開け進入すると、道路の状況は意外と良好。
しかし山の斜面は急峻で、曲輪1段1段の高低差が大きい点は、西三河側の三河山中城と似た印象。
三河山中城と比べると堀切や竪堀が少ないが、三日月堀と武者隠しは特徴的。

西から順に各尾根をじっくり巡り、最後に土塁が残る本曲輪へ上がると2時間半。
更に、石碑が建つ麓の長沢城跡も含めると滞在時間は3時間越え。
先週投稿した大給城に続き探検気分を味わえた、私の城郭巡りの177城目でした。

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朝田 辰兵衛

中原支援学校と3つの古墳と… (2024/04/28 訪問)

東急東横線の元住吉駅から徒歩で攻城しました。団地内に入ったらとても急峻な登り坂となり,高齢になったらこの団地では生活しづらいだろうな…と思いました。
坂を登り切ったところに中原支援学校が鎮座。裏のグランド奥に神庭緑地があり,3つの古墳と立入禁止のいかにも怪しい竹林がありました。御殿エリアか馬溜りか…。発掘調査をして,その出土品で特定できるのではないかと思います。この竹林は,赤い城さんも怪しく思われていたようでした…。

余談ですが,チャキチャキの江戸っ子や越後人は「い」と「え」の発音が逆転します。道案内でそんな人に遭遇してしまうと,横浜の「荏田城」を紹介される可能性があります。また,その逆もあり得るでしょう。予備知識として頭の片隅にでも入れておいて損はないかと思います。

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コウマくん

混んでいても絶景 (2024/04/28 訪問)

GWに行きました。
混んでいても90分待ちだったので天守閣には登りませんでした。でも本丸庭園からの黒い優雅な天守閣が見れて混んでいても行く価値ある名城ですね

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しんちゃん

淵辺義博 (2024/01/27 訪問)

淵野辺城は南北朝時代に淵野辺村の地頭だった淵辺義博の館とされ、高台の住宅地に石碑が立っています。頂部は第2導水ずい道淵野辺接合井とされフェンスに囲まれており、そのあたりが城址だったのではないでしょうか。
淵辺義博は足利義直配下で義直の命で護良親王(大塔宮)を殺害した人物とされており、駿河の手越河原で新田軍と戦い戦死したとされています。

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しんちゃん

さざえ堂 会津若松市 (2015/05/02 訪問)

栄螺堂(さざえ堂)は白虎隊自刃の悲劇で有名な飯盛山の中腹に建っています。「旧正宗寺三匝堂」が正式名称ですが、たいがい「さざえ堂」の方で通ってます。六角形の特殊な構造の中に二重螺旋構造の斜路が続いています。斜路には和歌山城の御橋廊下のような滑りどめが付いています。
飯盛山の山頂には白虎隊の少年隊士の像があり、鶴ヶ城(会津若松城)の方を覗いています。麓にある戸ノ口堰洞穴は猪苗代湖北西岸の戸ノ口から会津盆地に水を引くための用水で全長31kmに及びます。慶応4年(1868)の戊辰戦争の時、戸ノ口で敗れた白虎隊中二番隊20名が潜った洞穴とされています。

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ひろ

七尾城 (2024/06/30 訪問)

七尾城

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零汰

トンネル貫通している岬上 (2024/05/23 訪問)

こちらもトンネル上の岬が目的地です。トンネル周囲には登る場所は見当たらず根元の旧道へ向かいましたが住民の方々がいて気まずくて通り抜けました。カムイチャシの様に階段などあると良かったですがそういう設備が無いと訪問は厳しい場所でした。

数日後、男鹿半島の双六館に訪れた際にもトンネル上の岬でしたが旧道には軒並み住宅が建っており登り口など見つかりません、九州でもトンネル付岬城郭は1か所見る事が出来ませんでした。たまたまかもしれませんがこのタイプの城跡訪問とは相性が悪いようです。

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カズサン

北に伸びる半島状丘陵に四連郭式城郭 (2024/06/07 訪問)

 昨年11月に甲斐武田氏発祥の地武田館を初登城し、パンフレットに近くの多良埼城跡も紹介されていましたがその時点では他の探訪計画が有り、認知しただけで終わりました、今回の城探訪企画で多良埼城と水戸周辺未踏の城と合わせて実施し、飯沼城から北東約25km程の多良埼城初登城。

 駐車場:多良埼城跡登城口前に路駐(36°25'50"N 140°34'24"E h=20m)
 参考資料:城郭放浪記さんさん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 北関東道の終点に近いひたちなかICより北に勝田ゴルフクラブを目指し県道31号線を西進、勝田ゴルフクラブを少し過ぎて北に伸びる舗装された道を登ると約800mで登城口に着きます。道は樹木が茂りトンネル状態、余り交通量は無い。
 登城口に解説板、石碑、石垣の入口、登ったり降りたりし途中に赤い看板で一の木戸、二の木戸が有る、一番高い所が本郭、閉鎖されてる駐車場から登って切る道と交差した処を本郭に入る、虎口大手門に成っている、方形の大きな郭、南東、南西に隅櫓跡と案内図に有ったが良く分からないが太い土塁です、周囲は土塁が囲み西側には内側に堀?溝?が南北に通ってる、北の虎口を通て二の郭へ北側は高土塁と堀が有る、二の郭も周囲は土塁、本郭より狭い、北の虎口から三の郭へ、北側は高い土塁と堀が有る、三の郭は三角型で北が細く狭い平坦地、狭い道を北の先端へ四の郭で細長い郭、北西に塚の様な土盛り案内板によるのろし台?か良く分からない。四の郭にはツツジが植栽されて刈り込み生垣の様になっているが周囲の樹木が高く見晴らしは良く無い、先端に多良埼城跡付近の城館跡解説板が立っている。本郭が高く逓減されて二の郭、三の郭、四の郭、四の郭から郭の東側に登城口までの道が繋がっている。

 6月初めで樹木は茂り見通しは悪いですが冬の葉が落ちた時期には土塁、堀、各郭が良く分かり素晴らしい城探訪に成るでしょう、県道31号線からの林道のような道が樹木が茂り薄暗いので樹木伐採をして頂けたらありがたい。

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しんちゃん

松坂城 きたい丸と天守台 (2024/02/17 訪問)

きたい丸は本丸とほぼ同じ高さにあって、城の周囲を良く見渡すことができます。ここから本丸上段を経由して本丸に向かいました。「きたい丸」の名前の由来ですが、城主である古田重勝の子・重恒の幼名「稀代丸」に由来するそうです。かつては曲輪の各隅部に櫓が建っていたそうです。本丸上段には天守台が接合し、かつては三層の天守が建っていたとのことです。三重三階であってますかね?

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しんちゃん

いきなり石垣! そして‥ひたすら石垣! (2024/02/16 訪問)

松坂城は石垣で持つ城です。まあ実際に石垣しかないわけですが。おおよそ三段で構成されていて、本丸上段が最高所で天守台も残っています。その下に本丸やきたい丸のある段があり、その下に二の丸のある段があり、歴史民俗資料館や本居宣長記念館もそのあたりに居候しています。いずれの石垣も素晴らしく、普段山城で怪しい石垣に首をひねっている自分はなんだろう(今更ながら地元の山城を攻めています)と思いますが、それも城郭の奥深さというやつですか。中には石垣の積み方が異なる箇所もあるようですが、はて?

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ぴーかる

沓掛城 (2024/05/11 訪問)

【沓掛城】
<駐車場他>沓掛城址公園駐車場 北に8台、南に2台分あり。公園にトイレと自販機あり。
<交通手段>車

<見所>堀
<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅3城目。現地説明板によると沓掛城は14世紀頃、近藤宗光が初代城主としてこの地を治め、室町時代を通して近藤氏が城主としていました。9代目の近藤景春は今川方に属し桶狭間の戦い直前には今川義元はこの城に入城し軍評定を行い出立します。その後、桶狭間にて今川義元が討死すると城主の近藤景春は沓掛城に戻りますが織田勢の攻撃を受け落城、討死します。織田方の城となってからは簗田政綱に城を与えられ⇒織田信照⇒川口宗勝は関ケ原の戦いで西軍に付いたため、戦後城は接収され廃城となりました。
 現地は主郭部分が明瞭に残っており、主郭と主郭を囲む堀と北西部にある土塁と曲輪が見られます。現地説明板にある古城絵図には二の丸内部に馬出しが描かれていますが、現在はその遺構は見られません。堀が深くなかなか見応えありました。

<満足度>◆◆◇

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yoda 1253

天守も石垣もなし (2024/06/05 訪問)

25万点の遺跡の発掘は価値大
保存されていて良かった

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カズサン

方形主郭がよく残ってる (2024/06/07 訪問)

 宇都宮の孫の行事が終わった翌日に、昨年11月甲斐源氏発祥の地、武田館を訪ねた折りパンフレットに紹介されていた多良埼城を探訪したいと一日多良埼城から水戸北部の未踏の城探訪を企画し、高速道の都合上、北関東道茨城西町ICを降りて南に約3km程の飯沼城を初登城。

 駐車場:福性寺南東裏の参拝者駐車場(36°17'20"N 140°22'59"E h=20m)、トイレ不明。
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 駐車場から堀跡道へ進み福性寺側にも土塁が残っており、東側に飯沼城主郭土塁、と東側の虎口、主郭は約50m四方で周囲に土塁が廻り堀で囲まれていた、南郭は現在墓場、北側は北東側に墓場、北側は北郭の跡形が判らないが北郭主郭南郭に堀が廻った連郭式城郭。

 案内板によると
 南北朝時代は南朝方に属し、戦国時代の城主として桜園氏の名が知られてる、文明年間(1500年)頃には江戸氏の影響下に入り、天正18年(1590年)佐竹氏に滅ぼされた。
 
 主郭の土塁、切岸土塁、堀跡も残り駐車場も有り大変探訪しやすい、春の桜、秋の紅葉と季節ごとに美しい景観に染まる事でしょう、季節外れでも十分楽しませてくれます。
 

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たぬぬ

正蓮寺 (2024/06/28 訪問)

渋川駅から徒歩で20分で城跡の正蓮寺に至ります。目立った遺構はありませんが、堀跡が一部残るなど城郭の雰囲気はあります。
境内に古い城址がありました。

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しんちゃん

山城国一揆最後の戦場 (2024/04/19 訪問)

稲八妻城は南稲八妻跨道橋を越えた先の竹林の丘が城址のようです。バーが有るので跨いで入って登っていくと曲輪らしき扁平地がありました。頂部あたりに主郭があり土塁が比較的良く残ります。ここまでの比高はそれほど高くないです。丘城になりますが、山城のように南と西の尾根に曲輪が配されています。
山城国一揆で蜂起した一揆勢が最後に寄った城とされています。守護代として入ってきた古市澄胤の軍との戦いは激しく双方の戦死者は200にも及んだそうです。抵抗むなしく稲八妻城は陥落、山城国一揆は終焉となりました。

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しんちゃん

謎の城主・白井織部是房 (2024/01/27 訪問)

白井織部是房館跡と書かれた石碑があります。是房は座間七村の地頭を務めていた人物のようですが在城していた時期などはっきりしません。戦国時代の人物ではあるようです。とりあえず周囲の高台などもぶらぶらしてみました。城も城主も謎が多いです。

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しんちゃん

扇谷上杉家 (2024/01/27 訪問)

七沢城は七沢リハビリテーション病院脳血管センターのあたりに築かれていたようです。扇谷上杉家の城で、山内上杉顕定が攻めてきた際に、扇谷上杉定正が少数の兵で川越より一昼夜で駆けつけ、敵を破ったそうです。
ここ以外にも見城山なる遺構が存在する? マジっすか。

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