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ぴーかる

小川西ノ城跡 (2023/12/23 訪問)

【小川西ノ城跡】
<駐車場他>清光寺駐車場?県道138号線脇の駐車スペース<34.847132, 136.033274>に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>横堀・土塁・曲輪
<感想>小川西ノ城の築城は小川城の投稿の通り戦国期に多羅尾氏が改修したと考えられています。南の小川城から街道の谷を挟んで北側に位置する比高のあまりない丘城です。
 小川城から続けての登城、上記駐車ポイントから城跡への矢印版がありますし、山に入った所からすぐに城跡遺構があるのですぐ分かります。城跡は主郭の東側に堀切を挟んで副郭、その東に曲輪群があります。副郭は土塁と横堀で囲んでいます。主郭はひと際高く位置して横堀があります。小川城の説明板に東斜面に畝状竪堀があるそうですが添付写真のように現在は薄くなって表面観察では分かりません。主郭内部もたいぶ笹薮化していますが、北側に2か所切り込みがあり虎口だったかもしれません。西隅に盛土があり何らかの遺構にも見えました。主郭の西は谷・大堀切になっていて、小さい尾根が続いていました。

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シャンシャン

中世の城跡 (2024/02/03 訪問)

道後温泉の目の前にある城跡。
中世の城跡なので、櫓や石垣はないけど土塁や水堀が残っていて武家屋敷も再現されている。
土塁は断面が見られる場所もあり興味深い。
資料館では猫の足跡のあるお皿が展示されていて面白かった。
展望台に登ると眺めが良く、現存天守の松山城も見える。
車で数分の距離なので、たぶん一番近い100名城同士ではないだろうか?

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イオ

まっすぐのびる馬場跡 (2023/12/16 訪問)

詳細は不明ながら、室町前期に御馬廻衆として幕府に仕えた藤井三位の城で、室町中期には廃城となったようです。

茨木市立文化財資料館から徒歩で登城。茨木川と坊領川の間の美沢公園周辺が城跡ですが、住宅地となっていて遺構は見当たらず、公園内に石碑と説明板があるくらいです。公園の外側に沢良宜城説明板の案内表示が掲示されているのがありがたいですね。

美沢公園の東には佐和良義神社の鳥居があり、その東側に一段高く南北にまっすぐのびる参道は沢良宜城の馬場跡と云われています。かつては馬場の東側には茨木川が流れていたことから考えるに、馬場は川沿いの土塁を兼ねていたようにも思えます。馬場の北端には佐和良義神社の社殿が建っています。沢良宜城の北東隅にあたるため、鬼門除けの意味もあったのかもしれません。そして、美沢公園まで戻って西辺を画する坊領川を渡り、次の目的地の三宅城に向かいました。

石碑と説明板のほかは馬場くらいしか見るところはありませんが、まっすぐのびた馬場跡は見るからに馬場! という感じでした。
 

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todo94

平戸島にわたる前の朝駆け (2023/12/26 訪問)

平戸城を海峡越しに臨むホテルに泊をとり、平戸島にわたる前に朝駆けにて攻城してまいりました。セブンイレブンのある交差点から登城してみました。なかなかの空堀が巡っていましたが、竹藪と化してしまっています。主郭と思しき場所も竹藪でした。

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赤い城

雪景色 (2024/02/06 訪問)

東京出張を南岸低気圧が直撃、都心でも積雪となりました。
湿った雪で足元は大変でしたが仕事前に江戸城周辺を散歩しました。

宿を茅場町に取っていたので徒歩でまずは常盤橋門ヘ。
立派な石垣の前に型崩れした雪だるまがポツンとおいてありました。
その後大手門、巽櫓、桔梗門、坂下門を経て伏見櫓から桜田門ヘと定番コースを進みます。
流石にこの日はランナーの姿もありません。

さらに堀沿いを歩き日比谷見附ヘ。
伊達政宗終焉の地でもあります。
日比谷公園もいつもは多くの人がいるのにこの日はまばら。
石垣の写真も人を入れずに取り放題でした。
仕事の時間も近づいてきたので和田倉門を見学して地下鉄ヘ。

まだ少し余裕があったので飯田橋で途中下車して牛込見附も見学できました。
江戸城見学はここまで。
この後仕事もちゃんとやって讃岐へ大返し。
久しぶりの江戸城、足元は悪かったもののふだんは見られない雪景色。
これはこれで貴重な経験なのかもしれませんね。

関東を離れ半年、久しぶりに東京ヘ来ましたがやっぱりキラキラしていて良いな、と。
たまに来るから感じるのかな?

それにしても寒かった。

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にのまる

三八城=さんぱちじょう……と読むのではなかった(;'∀') (2023/12/01 訪問)

人生初の八戸線2駅乗車で本八戸駅に降りたち、現在は南部会館表門となっている角御殿表門へ向かいました。
凡そ棟門のイメージとかけ離れた存在感のある門はその大きさゆえに独特なつくりをしています。唯一の建物遺構だと思うとしっかり見ておかなくてはという気持ちにもなり、近づいたり離れたり、歩道橋に上がったりしながら目に焼きつけてきました。(※東門の移築と伝わる門が根城に現存)
風雪のため倒壊した冠木の中央から小さな毘沙門天が発見されたという話に遺構浪漫を駆りたてられます。

道路を渡った三八城(みやぎ)公園が本丸跡。絵図を見ると駅から歩いてきたあたり一帯が城域のようです。八戸藩初代南部直房公像、城址碑などを見ながら城思いに耽ってきました。公園内の築山も土塁も発掘調査により江戸時代のものと判明したそうです。少し高台で、展望デッキは工事のため行けませんでしたが、城下を一望できました。

公園散策のあと八戸市の中心街の方に向かっていると少し変わった形のロータリーに出ました。
何だかすごく……お城の匂いがします。大きな石碑には「明治天皇行在所舊阯」。八戸城の文字はありません。でもなんか気になる……。

でもまぁおなかもすいたことだしと、八戸城のことは一旦おいといてお昼ごはんのお店をさがしに出かけました。しかしあいにくお目当てのせんべい汁のお店は見つけられず、八食センター(八戸市民の台所)まで行くのも時間的に厳しかったので、次の目的地の根城へバスで向かいました。

根城では、散策前に前回訪問時に寄らなかった八戸市博物館に入館しました。
てっきり根城のガイダンス施設だと思いこんでいたので、新御殿の模型や城絵図など、見てきたばかりの八戸城の資料が充実していてびっくりでした。角御殿表門のあった場所も理解できましたし、冠木から発見された小さな毘沙門天の実物が目の前に現れた時には大感激そして大興奮でした。
また、城絵図をじっくり見て、先ほど城の匂いを感じたロータリー周辺が二の丸へ至る枡形のあたりと重なることを確認しました。水堀は埋められ当時の面影は失われていますが重要な虎口のあった場所は時代がかわってもその雰囲気を残しているものだと実感しました。
歴史を感じながらの町歩き、楽しかったです。

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朝田 辰兵衛

川田館(山梨県甲府市) (2024/01/07 訪問)

にのまるさんから紹介していただいた“勝頼グランパ館”。八田家御朱印屋敷から徒歩圏内です。たったパネル1枚ということで,有能な子供から全くリスペクトされなかった親の抜け殻を見た気がしました…。
この日の晩,大月駅前で,その有能な子供「信玄」の名を冠した郷土料理店で「ほうとう」を食しました。みそ味。
川田館だけでは写真がショボいので,「ほうとう」と「信玄」の門構えをアップします(←スタッフに了解済です)。

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小城小次郎

根城は案外要害なのだ (2023/05/03 訪問)

北から郭群を見上げてみたら意外と切岸が高く要害の地であることを認識した。南端の沢里郭も南側の堀までよく残っている。それにしても中世以来の武家制度を明治まで維持した八戸(遠野南部)氏はやっぱりすごいと思う。

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しんちゃん

三島神社のお参りコースが登城道となる。 (2023/04/29 訪問)

岩尾城は去年のGWに訪問したのですが時間が遅く写真も暗めだったんですね。お蔵フォルダをあけて中をのぞいてみたら案外いけるんじゃない?と思って勢いで投稿させていただきます。千曲川と湯川の合流する丘陵上に築かれている平山城で文明10年(1478)に佐久郡大井荘の地頭大井氏の氏族・大井行俊によって築かれたとされています。
大手は東側にあり三日月掘が三の丸の東側にあり、三の丸、二の丸と続いて本丸に至ります。伊豆箱根三島神社の裏側がわずかに高地になっていて、そこが本丸跡になります。写真を見ると暗い写真を調整したりしていろいろ苦心したあとが見受けられます。
考えた末にお蔵入りしていたのですが、結局ひっぱり出してきています。セコセコ投稿ですね。

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しんちゃん

小松館 岩手県奥州市衣川 (2017/05/02 訪問)

小松館(こまつだて)は安倍貞任の叔父僧良照の居館であったとされています。東は衣川の作った断崖になっていて、西及び南側は小成沢の崖に囲まれた北館から続く台地の先端部に築かれていたようです。門跡は北にあったようですが自動車道の工事で消滅したようです。
安倍氏が滅亡した後は貞治5年(1366)葛西氏の家臣・破石氏が天正18年に葛西氏とともに滅亡するまで居住したと案内板には書かれています。

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しんちゃん

蒲郡シリーズ・竹島 日本のモンサンミッシェル (2024/02/03 訪問)

愛知県蒲郡市の竹島は陸地と387mの橋でつながっています。干潮時には歩いても行けるんじゃないかと思えるほどで(やったことないけど)それだけ陸地に近いのに独自の植物体系を持っていて八百富神社の社叢は国の天然記念物に登録されています。
島の頂部には日本七弁天の一つ「八百富神社」など5つの神社があり信仰の島でもあります。どこかで見たことが有ると思ったら、かの有名なモンサンミッシェルにそっくりじゃないですか(雑賀崎か!)
いまのは冗談ですが竹島の鳥居の扁額は東郷平八郎の書を写したもので、大戦中に金属として供出されましたが戦後新たに復活しています。帰りに橋の上にカモメがいっぱい留まっていました。両脇にとまっていて、なんとなく神様の気分になります。と思ったらどこかのオジイがエサをあげてます。そうか‥悪いけど君らのゴハンは持っていないんだよ。
※竹島にはまだ秘密があります。

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しんちゃん

いにしえの城のいにしえな口コミ (2014/01/07 訪問)

肉球さん。坂本城の石垣の写真「いいね」です。琵琶湖がますます干上がって、もう少しで遺構全部が陸上に出てきそうですね。関西は大丈夫でしょうか?ますますもって琵琶湖県‥もとい滋賀県の有り難さが身に沁みますね。
私と言えば性懲りも無く古い写真を持ってきてしまいました。正月に九州に行く予定が急きょ予定が入って中国遠征にとどまり、しばらく九州に行く予定は無さそうです。ちょっち悔しいので大野城の写真を登録してしまいます。大野城は天智2年(663)白村江の戦いの後に西日本各地に築かれた朝鮮式山城の一つで、政庁の北にそびえる標高409mの四王寺山に築かれ、周囲6.5kmを土塁で囲み谷は石塁で塞いでいます。城域の東北部、二重土塁の内側に小石垣や百閒石垣などの石垣遺構が残っています。
写真もいいかんじにボヤけて、いにしえ感満載ですね。(悪い意味で)

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ぴーかる

小川城 (2023/12/23 訪問)

【小川城】
<駐車場他>主郭手前に5台程度の駐車場がありますが、登り口<34.848581, 136.040028>からの山林道路が狭いためお勧めではありません。運転経験がある5ナンバー以下の4駆車なら行けそうです。私は200m程手前の分岐にある空き地(1台分)に駐車しました。お勧めは小川中ノ城跡の登り口<34.845128, 136.032368>に1台分の駐車スペースがありますのでそこに停めて中ノ城を見て裏奥の登山道を登って城跡に入るルート(おそらくこの道が大手道かも)がよいでしょう。
<交通手段>車
<その他城跡説明>Googleマップに小川城跡(徳川家康の伊賀越え)と西にもう一つ小川城というのがありますが前者が城跡主郭位置で後者は城跡の大手口の基地(尾根曲輪と傾斜削平地)のような感じになっている遺構でした。

<見所>主郭・切岸・堀切

<感想>現地説明板によると小川城は1305年に鶴見氏によって築城されたとの伝承があるが定かではありません。戦国期には西之城・中之城とともに改修され多羅尾氏の支配下にあったと考えられています。多羅尾氏は豊臣秀次事件に連座して城は廃城となりました。その後本能寺の変の際、徳川家康の伊賀越えで家康は信楽で1泊したのがこの小川城と伝えられ、この時の功績で多羅尾氏は江戸時代に世襲代官となります。

 山頂部一帯はよく整備されていて草が綺麗に刈られています。主郭中心部は山を削り掘り下げて周囲を土塁にして内側下部に石積みが残っています。また礎石も残されています。主郭西端は土を盛上げて櫓台のようになっており、主郭南側は広い平坦地になっています。主郭の南西隣に東屋のある曲輪があり、その西側が堀切で城跡主要部の虎口だったようにも見えます。そこに中ノ城への下って行くルート(前述<駐車場他>のルートと繋がる)があり下ってすぐ舌状曲輪⇒前述の大手口基地⇒中ノ城との中間地点に小さい堀切とすごい深くて大きい堀切があり見応えあります。
 主郭の東側は小さな段曲輪があり一旦谷になっています。東にもう一回登ってピークに狼煙台のような小さい曲輪があります。その東がまた降りて尾根曲輪の削平地になりその先が整備が終わって笹薮になっていました。
 
 北西麓の中ノ城と西ノ城は東西をはしる街道を南北に挟んで築かれていることから街道を押さえる城で、山頂部は合戦があれば本城の役割をする連携している一連の城郭群だったと私は考えます。領主の多羅尾氏は平素どこに住んでいたかは分かりませんが、山頂部の規模や主郭に礎石建物があったとすると相当立派なものだったと思われます。時間を取って前記2城と合わせて3城見る事をお勧めし、満足度は3城跡合わせてのものとします。このあと西ノ城、中ノ城を訪城したので順次投稿します。

<満足度>◆◆◆

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びーこ

標高663m、寒いはずだわ・・ (2023/12/23 訪問)

上田からしなの鉄道に乗って、いざ小諸へ!
なんとも懐かしい電車が来たではないか!調べてみたら、湘南カラーというのね。いきなりテンションが上がった。

さて、この日の小諸は前日からの雪が少々積もり、吹き付ける冷たい風で顔もパキパキである。
午後から用事があるため、開園とともに登城しようと思い少々早く着いてしまった。

1分でも外で待つのは辛いという中、懐古園入口横にある歴史博物館「徴古館」の館長さんが、チケットは後で良いので、中に入って見学してても良いですよ、と言ってくださり、有難く中に入れてもらった。感謝〜

博物館は小さいが「どうする家康」にハマっている私と友人にとっては興味深いものばかり!盛り上がって喋りまくっていると、館長さんが展示物の説明をしてくださり、色々と勉強になりました。

館長さんとの楽しいお喋りの後は、いよいよ小諸城へ。しかし、雪のせいで足元がおぼつかなく、ざっと見るのがやっと。私は2度目だが初登城の友人は残念がっていた。併設されている動物園にも行ったが、寒すぎて動物たちの動きも鈍い。ということで、冬の小諸は寒すぎて登城には不向きであることが分かった。でも今回は博物館を見るだけでも十分楽しめたので良しとしよう(その1)。

登城後のお楽しみはもちろん小諸そば♪寒いけどビールも!ここで元気を取り戻し、最後は駅を越えて雪を被った大手門を見学。寒かったけど、美しい門が見れたので良しとしよう(その2)。

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トク

91【関ケ原の26人】(25)島津豊久 (佐土原城①-鶴松館・いろは館) (2023/11/04 訪問)

(25人目)島津豊久の続き④です。関ケ原当時の居城「佐土原城」を訪れてきました。

宮崎駅または宮交シティ(南宮崎駅前)から出ている橘通り経由「西都(さいと)」行のバスに乗り40分、「交流センター」で下車すると目の前が佐土原城「鶴松館(かくしょうかん)」と城の駅「いろは館」です(写真①②⑦)。

父の家久には1584年沖田畷の戦いで龍造寺氏を破った功績で、ここ佐土原の地が与えられます。そして1587年豊臣との根白坂の戦いに敗れるも、秀吉より佐土原の地を安堵されますが、翌年に突然の病で亡くなってしまいます。そこでまだ18才であった嫡男の豊久が後を継ぎ佐土原城主となりました。

当時は鶴松館の背後一帯の山が城で、山頂に天守があり、関ケ原で豊久が亡くなると豊久に嫡子がなかったため、家康から叔父の島津以久(これひさ)に与えられ、似久が初代佐土原藩主となりました。そしてその子(2代藩主)忠興が山頂は不便なため麓に館(鶴松館)を構え居を移し、その館が現在再建されています。

スタンプは(いろは館)(鶴松館)どちらでも押せますが、鶴松館は土日祝しか開館していないので注意です。私はまずいろは館に行き荷物を預ける所がないか聞くと、気さくな店員さんで「うちで預かりますよ、パンフレットもよければどうぞ!」と無料で預かってくれました(ありがとうございます)。おかげで身軽で登城する事ができました。おいしそうなお弁当が売られていてイートインコーナーもあったので、そこで食べてから登城しました(この手作り弁当おいしかったです😊写真⑩:登城後に食べたソフトクリームも)。

いろは館の前には記念撮影用のコーナーもありました。豊久は美男子だったとの説があり、それでコミックの主人公にもなったようですね(写真⑧)。訪れたのは秋で、ちょうどいろは館の前はコスモスが綺麗に咲いていました(写真⑨)。

まず登城前に鶴松館に入りました(写真③)。入口から入ると大広間があります(写真④)。ここは藩主の対面の場に使われていたようです。さらに庭園を眺めながら(写真⑤)その廊下を渡った奥の書院は歴史資料館になっていて、佐土原城の歴史(伊東氏の時代から島津氏の時代と西南戦争まで)が展示説明されています。また佐土原城登城路の様子がビデオなどで解説されてますので、登城する前に先に見学される事オススメです(写真⑥)。

次は、佐土原城に登城する前に、家久・豊久の墓が近くにあるのでちょっと先に見てきます(続く)。
 

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肉球

見れました (2024/01/11 訪問)

今回も仕事途中の立ち寄りです。
普段は湖水に沈んでいる石垣が姿を現していることを思い出し向ました。
相方はマクドナルドで昼食、私はコンビニのおにぎりを頬張りながら見学。
入り口は畦道にある小さな看板。
僅かな時間でしたが貴重な遺構を見ることができ満足しました。 
12月にしんちゃんさんが投稿されてましたが更に水位が低下しているようで
雪解けが始まる時期まで見ることができそうです。

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イオ

城下に遺る痕跡 (2023/12/16 訪問)

楠木正成が築いたとも安富氏とも福富氏とも云われ詳細は不明ですが、室町中期には茨木氏の居城となっていました。茨木氏が白井河原の戦いで荒木村重・中川清秀らに敗れると、茨木城には中川清秀が入って大規模に改修。中川氏が播磨国・三木城に移封されると豊臣秀吉の直轄地となり、関ケ原の戦いの後には片桐且元・貞隆兄弟が城主となっています。大坂夏の陣の後、片桐且元は大和国・龍田城に、貞隆は小泉城に移封になり、一国一城令により茨木城は廃城となりました。

阪急・茨木市駅から徒歩で登城開始。市街化により遺構はほとんど見られませんが、茨木小学校周辺が本丸跡にあたり、小学校前には慈光院(奈良県大和郡山市小泉町)に移築された櫓門が復元されています(櫓門の説明板もあります)。櫓門の奥には城址碑もあるようですが、校内に勝手に立ち入るのはためらわれたので未確認です。また、門の脇には旧殿町の旧地名標柱が立てられており、城ノ町や東馬口引町、柴屋町などあちこちで標柱を見かけ、阪急本通商店街には旧地名の案内板もありました。廃城になった後も続く歴史ある城下町なんですね。

本丸の周辺もぶらぶらと。茨木城の西側を流れていた茨木川の跡地は緑地になっていますが、西辺を画する堀代わりだった様子が今も窺えます。緑地沿いの上泉児童遊園には旧佐助屋敷の標柱が立てられており、中川期には古田織部こと古田佐助(佐介、左介とも)の屋敷があったようです。中川清秀の妹婿ですもんね。緑地の少し上流には、茨木川から屋敷に水を引いていたと伝わる佐介樋の石碑が建てられている…はずですが、見落としてしまいました。見落としたといえば、小学校の南にある梅林寺には中川清秀の墓所があるようですが、墓所への行き方がわからず未確認です。

元茨木川緑地沿いの茨木神社には茨木城の搦手門が東門として移築されています(門の内側に説明板あり)。かつては小学校北東の妙徳寺にも脇門が移築されていたようですが、今や茨木市内に遺るのはこの門だけとあって貴重な遺構です。また、茨木神社には茨木城から移設された石垣があるそうですが、矢穴などわかりやすくこれだな、と思えるような石垣は見付けられませんでした。茨木神社から南へ進むと、茨木高校の門前が城下町の南口にあたる兵桝(武者だまり)で、常夜燈と兵枡地蔵が建てられています。城とは関係ありませんが、兵桝のすぐ東には茨木童子ゆかりの貌見橋の石碑が、高校の門脇には貌見橋の説明板がありました。

兵桝から元茨木川緑地をさらに南下して、茨木市立文化財資料館にも行きました(南茨木駅からのほうが遥かに近いですが)。資料館は入館無料で、旧石器時代から近世以降に至る茨木市の歴史と文化財が紹介されていて、茨木城についてもパネルや城下町からの出土品などが展示されています。なお、資料館裏手の東奈良史跡公園には、白井河原の戦いで討死した和田惟政の供養塔が移設されていました。

遺構はほとんどないものの、歩き回ると思いのほか痕跡があり、これはこれで楽しめました。
 

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todo94

黒島渡航前の攻城 (2023/12/25 訪問)

前日、天神西通り献血ルームにて献血を済ませ、青春18きっぷで佐世保にアプローチしました。この日の目的は世界遺産の島・黒島の散策。黒島渡航前の朝駆けです。大智庵城跡公園として整備されています。山頂の主郭には招魂碑と松浦政の墓が建っていました。

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higekam

久しぶりに再訪 (2024/01/29 訪問)

ずいぶん復元作業が進んでいて驚く!

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しんちゃん

ハッタリ要素も含むが、変な所に手が込んでいる城。 (2018/12/31 訪問)

先週、神奈川と東京の西側(八王子方面)に行ってきました。石垣山城にも行ってきたのですが、5年ほど前の写真が出てきたので先に登録させていただきます。この城は元々、小田原城を落城させるための心理戦の一環として築かれた城なので小田原城が落城した時点で、役目はすでに終えていると思います。小田原城が頑張った時のことも考えて、それなりの耐久性は有していたとは思いますが恒久的な使用は考えていなかったと思うんですね。訪れるたびに形状の変わっている城で最新の写真と5年前の写真を比較すると色々違いがありました。(ヒマ人) 特に本丸北側と西曲輪のベンチ周辺の石垣に変化が見られました。先週の日曜に東京中心部で震度4の地震があったみたいです。小田原には影響はそれほどないと思いますが、つくづく地震は恐いですね。

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