火ヶ峰砦は規模の大きい砦跡ですが、城址として整備されていないので、明確な登城道は有りませんでした。三箇所から攻めましたが、場所にとっては藪がひどくて、すぐに退散しています。他の二か所からは堀切、土塁、郭などの遺構を確認しています。
全体の確認まで及ばず、城址の一部は消滅しているようです。「武蔵の五遁」さんの記事を読むと、その凄さが解ります。南から攻めた際は、櫓台の先の大堀切に危険なものを感じて、迂回して北側の遺構を攻めています。あまりよく覚えていませんが東側の緩い傾斜から攻めているはずです。
第二次高天神城の戦いは敵兵に降伏を許さず、兵糧攻めを行うという、極めて鬼畜な城攻めであったと思います(鳥取城より酷い)。飢え死ぬか、討って出て死ぬかの二択しか許されず、じわじわ衰弱していくことになります。
若き井伊直政(21)が水の手を断ったことで、高天神城の将兵が討死の覚悟を決めることができたのは、結果として彼らにとっては幸いだったのかもしれません。高天神城の水の手に関しては私なりに幾度か訪れ推察をしています。それもどこかで投稿させていただきたいと思います。
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