佐世保、平戸に続いて諫早に泊をとり、この日は島原半島の城めぐり。島原城の城カードゲットが目的ですが、行きがけの駄賃でもちろん城もめぐります。肥前の山田城は公園として整備されていました。武蔵の山田城も森林公園の中ですが、こちらは料金はかからないので安心して楽しめます。駐車場もトイレも完備しています。展望台からは諫早湾(有明海)を望むことができました。
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2024/02/13 06:53
島原半島の城 (2023/12/27 訪問)
佐世保、平戸に続いて諫早に泊をとり、この日は島原半島の城めぐり。島原城の城カードゲットが目的ですが、行きがけの駄賃でもちろん城もめぐります。肥前の山田城は公園として整備されていました。武蔵の山田城も森林公園の中ですが、こちらは料金はかからないので安心して楽しめます。駐車場もトイレも完備しています。展望台からは諫早湾(有明海)を望むことができました。
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2024/02/13 01:40
2024/02/13 01:30
大分遠征② (2024/02/12 訪問)
2日目は、豊後森の角牟礼城へ。大分駅(6時13分発)ー豊後森駅(8時6分着)、循環バス(西回り8時22分発)でわらべの館(8時35分着)へ。
まずは挨拶がてらの登城。三の丸経由で登り、本丸へ。本丸では石垣修繕工事のため一部見学は出来なかった。下山後、資料館で名城スタンプと御城印をもらい、13時03分発で大分へ戻る。
電車を待つ間、駅近くのSL公園で暇を潰す
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2024/02/12 23:44
新・松本市立博物館へ。 (2023/12/02 訪問)
5か月ぶり、通算5度目の松本入り。
今回のいちばんの目的は、2023/10/7に移転・オープンした松本市立博物館です。
場所は松本駅と松本城の中間あたり。スタイリッシュな外観が目を惹きます。博物館特有の閉塞感はなく開放的で、美しく飾られた手毬のモビールが出迎えてくれました。
1・2階ともオープンスペースが広くとられています。特に目的がなくても市民のみなさんがふらりと立ち寄って思い思いに過ごせる、そんな雰囲気があり、博物館とは思えないほど(!)たくさんの人が出入りされていました。
3階の常設展示室(大人¥500)に行くと巨大なジオラマが目に飛び込んできました。
江戸時代後期の松本城と城下町が再現されているそうです。歴史や縄張りを学習しながらこれまでの登城を振り返ったり、精巧なつくりに魅入ったりと大好きな世界に浸ってきました。階級による屋敷のかたちの違いなど勉強になることもたくさんありました。
旧博物館にあった模型も展示してありました。こちらも制作された方々の思いが伝わってくる作品で、松本城は長い間、たくさんの人たちに愛されてきたのだなとしみじみ思いました。
ほかにも自然や文化など松本の魅力がいっぱいの展示室でした。松本に行く機会があればきっとまた行くと思います。
博物館を満喫したあと、松本城に向かいました。
真冬の天守の寒さと帰りの特急あずさの都合もあり堀沿いに天守まわりを見るにとどめましたが、定番といわれるこの眺めがなによりすばらしく心惹かれます。
いつも変わらずすてきな姿を見せてくれることはあたりまえなのではなく、奇跡であり守ってこられた方々のご尽力の賜物であるということを忘れないでいたいと思います。
この日はわりと“食べ続け”の日でした。
ラストは松本駅で買った山賊焼き弁当。おみやげはくるみ餅にしました。
前回訪問時に雨でよく見えなかった篠ノ井線の景色をしなの号から見たり、お城と電車と博物館でたくさん遊んで楽しかったです。
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2024/02/12 23:19
水に浮かぶ城だった城 (2023/12/31 訪問)
川手城から車数分で到着。本丸南側の加納公園臨時駐車場に駐車し登城開始。
本丸は石垣で囲われた広々とした空間。北側入口の案内板には、当時は5つの曲輪が堀と川に囲まれた「水に浮かぶ城」という景観だったと記されている。その面影は本丸北面の堀ぐらいか。本丸と二の丸の当時の出入口にあたる東側の桝形を見るとその大きさを感じる。現状出入口はない。
30分弱攻城後撤収し長良川温泉で宿営。近くのお寺で除夜の鐘をつかせてもらったのち、金華山頂上に浮かぶ岐阜城を見上げ年を越す。
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2024/02/12 22:00
本丸の四角に櫓が聳えていた (2024/02/10 訪問)
「千貫櫓台・南御多門東脇櫓台修復なる」のつづきです。
吉田城の本丸には四角の北西に三重鉄櫓、その東に武具所台、北東に二重入道櫓、南東に三重辰巳櫓、南西に三重千貫櫓が池田輝政入封後土造りから総石垣大改修されて四ヶ所に櫓が建っていました。
現在は復興鉄櫓が建ち吉田城のシンボルと成っています、辰巳櫓跡は本丸内側石垣、本丸堀側は土塁、入道櫓跡は本丸側石垣、続きの雁木は現在崩落気味、鉄櫓台の北西角下は輝政時代の石垣が残って居り高石垣は圧巻です。
先投稿の千貫櫓台・南御多門東脇櫓台を除き写真投稿致します。
続きます。
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2024/02/12 20:47
遺構なき城 (2023/12/31 訪問)
岐阜市内の蕎麦屋さんで少し早い年越しそばを食べてから城址へ。
守護土岐氏の居城。学校に隣接する一画に石碑、案内板があるのみで、遺構らしきものは確認できなかった。5分で撤収。
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2024/02/12 20:39
石垣山城の写真の余り (2024/01/26 訪問)
石垣山城の写真が余っていたので、このへんに投稿しちゃいます。本丸からは小田原城の天守が良く見えます。秀吉さんはよく一夜城と呼ばれる城を築くのですが、この石垣山城も有名ですよね。小田原側の山の木を伐採せずに築城し完成に近づいたところで一気に気を切り倒して小田原勢の度肝を抜いたという逸話が残っております。
その際に大量の鉄砲を撃ちかけて小田原勢の動揺を誘ったとか‥ものすごい音だったのでしょうね。それを横目で見ていた家康が後に大阪城攻めで大砲を使用したのだと考えると皮肉な話ではあります。
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2024/02/12 19:52
「山陰の覇者」尼子氏全盛期の城。 (2019/05/03 訪問)
月山富田城には2回行ってます。この日は二回目の登城で本丸まで行きました。以前無かった立派な登城道が出来ていて非常に登りやすくなっているのですが国の史跡でこれはどうなんだろう?ちょっとやり過ぎな気もしました。登りやすいのは良いのだけど登城道も国の史跡の一部なんじゃないかなあ。
ルートは山中御殿平を介して整備された七曲を登って三の丸に到達します。そこから二の丸を通過して本丸に到達しました。標高190mの本丸には勝日高守神社が祭られています。眺望は非常に良く飯梨川や周囲の街並みが良く見渡せます。尼子氏全盛期の頃の城で「山陰の覇者」と呼ばれた尼子氏に相応しい巨城だと思います。
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2024/02/12 19:16
巨石がごろごろ (2018/03/31 訪問)
笠置城は後醍醐天皇の行在所が本丸とされていて、後醍醐天皇の仮皇居があった場所が二の丸と呼ばれています。笠置山には様々な巨岩が有り、貝吹き岩は勤王の武士の指揮を高めるために岩上より盛んに、ほら貝が吹かれたとされています。笠置寺の本尊は巨岩に掘られた巨大な弥勒磨崖仏でしたが創建より三度も火災に見舞われ焼け崩れてしまったようです。
他にも笠置町の名の由来とされる聖武天皇ゆかりの笠置石もあったりします。
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2024/02/12 19:06
竹中城 (2024/12/23 訪問)
【竹中城】
<駐車場他>駐車場はなし。新治運動場前の道路脇<34.924742, 136.161676>に停めました。
<交通手段>車
<見所>土塁・横堀
<感想>現地説明板によると竹中城は文献資料に登場せず、築城者や築城時期がわかっていません。国史跡である甲賀郡中惣遺跡群の1つです。2019年に新宮城・新宮支城を訪城する際にプランに入れようかと調べましたが当時は竹藪で入れる状態にないとの先達の方の投稿で断念し、近年整備がなされている事なので訪れました。
城跡へは十字路<34.925772, 136.159968>に案内があります。十字路の西に民家に入る道を進んで行くと南側から入る通路と城跡説明板があります。城跡は典型的な甲賀郡中惣城郭群の特徴である単郭方形の四方高土塁の城で南側に虎口を設けています。北側と西側に横堀を設けています。主郭内部の竹林は綺麗に整備され伐採した竹で竹細工が所々に置いてあり可愛いかったですが、伐採した竹を大量に横堀に落としてあって少し惜しかったです。
<満足度>◆◆◇
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2024/02/12 18:58
朝霧が出て幻想的な光景が広がっている。 (2013/09/21 訪問)
ちょっぴり写真が古いですが竹田城の投稿です。‥すみません10年以上前です。このころから竹田城はかなりの人気でした。なにせ朝5時から登り始めて到着が6時くらいなのにこの人だかりです。今はもっと人が多いのでしょうね。
まだ比較的おおらかな時代で高石垣のへりに人がいっぱい立っています。もちろんロープなんか無いし、通行の規制も全くないです。
今では考えられないですね。この日は曇りでしたが朝霧がいい感じに出てくれて、実に幻想的な気分でした。本当に素晴らしい城です。
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2024/02/12 17:33
スカーレットのロケ地のようです… (2024/02/10 訪問)
三雲城紹介の前に、坂本城すごいことになってますね!僕も今朝WEBニュースで見ました。愛知県に住んでるので遠くてなかなか行けないのですがマジで早く行きたいです!特に本丸石垣が水に沈む前に行きたいのですが…。大津に行く目処も立っていないのでたぶん見れませんな😭いつまで出ていてくれるのでしょうか?
ってかそれより三の丸の現地説明会マジで行きたかったです!明智光秀大ファンなのでほんとに行きたかった😱しんちゃんさん、キンヤさんの投稿を見てるとやっぱり明智光秀の築城技術の素晴らしさに心打たれますね〜。坂本城も国指定史跡になれんじゃね?って思っちゃいました。三の丸遺構はこれからも見れるのでしょうか?おそらく大津にはしばらく行けないので、これからの三の丸遺構の公開について最新情報を寄せていただけるとありがたいです。マジで坂本城行きたい!
まあということで三雲城の続きです。主郭の探訪後さらに上へと進み、城郭IIを目指します。でも思うのが主郭が山頂ではなく山中にあって、なんで山頂に郭があるのかちょっと不思議です。
郭Ⅱに着くと比較的狭い広場となっており、眺めが最高です♪(写真②)2019年の朝ドラ「スカーレット」で戸田恵梨香さんがここにロケしに来たそうです。山城がロケ地って珍しい気がする🤔
郭Ⅱの東隅に石垣が残っています。(写真①②)これも結構大きいです。
郭Ⅱを終えて、郭Ⅲにいく途中土橋らしきものがありましたが、パンフレットにないので多分違うと思って普通に通り過ぎました。郭Ⅲも小さい曲輪になっていて南側の景色を見ることができます。(写真⑤)
郭Ⅲを終えて最後郭Ⅳに向かいますが、郭Ⅱと郭Ⅳ間に堀切があります。(写真⑥)横から撮ったのですが、堀切とはわかりづらかったので城郭IIから真上から撮りました。でもこっちもわかりづらかったです。
堀切に沿って歩くと郭Ⅳに到達します。(写真⑦)曲輪が広がっているだけで目立った遺構はなかったです。
その後は元来た道を下って、大手道を通っていくと、近代の石積みがたくさんありましたが、近世前期のものではないので今回は投稿しません。大手道を通ると郭Ⅴが見えます。(写真⑧)もともと兵站地だったそうです。兵站地は馬の背道にもあり、合計で 2ヶ所存在します。大手道はおそらく当時敵が通る道だったと考えられるので戦の際は馬の背道の兵站地に兵糧を貯蓄していたっぽいですね。
城址の説明は終了ですが、猿飛佐助の修行場である巨石群の紹介もさせてください! 続く
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2024/02/12 17:30
江戸城行きました。 (2024/02/12 訪問)
晴天で2月なのに暑いくらいでした。
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2024/02/12 14:33
三ノ丸の石垣や堀が発見された発掘調査現地説明会 (2024/02/11 訪問)
明智光秀が築いた「幻の城」とも呼ばれる坂本城で、三ノ丸の堀と推定される石垣などが発見され、発掘調査現地説明会2日目に行って来ました。
予想以上の多くの方が来られており整理券配布所は凄い行列でしたが、何とか整理券を獲得できました。
全長約30m・高さ約1mの石垣などが検出されており、近くで見ることができ興奮しました。
思っていたより綺麗な状態で、地中に埋まっていたとは驚きました。
その他、井戸、礎石、オール状木製品、瓦、土器類など見ることもできました。
坂本城の姿形の記録はほぼなく、市街化され、これまで遺構としては琵琶湖中に本丸石垣が僅かに残るだけですし、今回の発掘調査結果は凄い発見で大変貴重な遺構だと思います。
今回は宅地造成工事に伴う調査のため埋め戻される予定のようですが、発掘調査された方々の希望としては保存して残したいようですし、私も埋め戻さず何とか残して頂きたいと思います。
ご参考までに以下、大津市文化財保護課の岡田さんの説明の覚え書きに配布資料から補い私なりに纏めたものです。
「宅地造成の道路部分を発掘調査したら奇跡的に一直線の石垣と堀が見つかった。
石材は花崗岩が使われていて比叡山の産出と考えられ、殆ど加工していない野面積みで、一部は五輪塔などの転用石も使われている。石垣の下に地盤沈下を防ぐ胴木はない。裏込石の幅は狭いため、それ程高い石垣ではなかったと思われる。今の石垣の高さは約1mだが堀の中に石が落ちており、本来はあと数段の石が積んであった可能性がある。
堀の中は泥の土であったため、当時は水堀であったと考えられる。堀は幅8mが出土しているが、発掘調査をしていない西側の水路まで堀があった可能性があり幅12m位あったのではないか。
北側の石積み遺構は、東西方向に石積みがあり入りくんだ船入だった可能性がある。こちらには一部に胴木がある。
北側には礎石を持つ建物跡が見つかった。
土器などの遺物は16世紀後半のものであり、織豊期の城の特長の石垣・礎石建物・瓦が出土しているため、今回の遺構は坂本城と考えている。
今回の調査地西側の過去の調査では、城跡ではなく職人の町屋跡が見つかっており、今回の調査地が城の西の外側であるため、三ノ丸と考えている。」
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2024/02/12 09:11
正法寺町と大仏町。 (2024/01/03 訪問)
「長森城」を後にし、「川手城」へ転戦しました。
美濃国守護の土岐氏も、「長森城」が手狭になった為に「川手城」を築城し移りました。
『正法寺町33』と「川手城」の所在地を入力した時は、御寺さんが城跡だと思いましたが、済美高校の敷地内に到着しました。
道路がアスファルトと違っていて石畳(?)。躊躇しましたが、他の車も通行していたので「川手城」の石碑がある小さな公園の前に路駐して写真をパチッ。退陣です。
近くに「加納城」があります。
徳川さんの世になると「川手城」の土塁を「加納城」に使ったんだとか。
遺構はありません。
住所の『正法寺』が気になり、どこにあるか調べてみたら、「岐阜城」のお膝元、大仏町にありました。
『正法寺』には大仏様がいらっしゃいます。で、大仏町かー。
土岐氏の足取りと同じように、大仏様の足取りも気になる「川手城」攻めでした。
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2024/02/12 08:02
堀の森 (2023/12/16 訪問)
築城時期は諸説ありますが戦国期に細川氏が築いた城で、江口の戦いの前哨戦では細川晴賢が籠る堀城を三好長慶方が攻め落として榎並城攻略の拠点としています。三好長慶の没後には細川藤賢が入って改修し、野田城・福島城の戦いでは織田信長方の拠点として足利義昭が布陣しました。信長と義昭が対立すると義昭方につき、義昭が追放されるとやがて開城して廃城となったと考えられます。
阪急・十三駅から登城開始。市街化と河川改修により遺構が消滅しているばかりか推定地も明らかではありませんが、武田薬品工業大阪工場から十三公園にかけてにあったものとされ、武田薬品大阪体育館脇の門に堀城跡伝承地の説明パネルが掲示されています。廃城後も城周辺の樹木は「堀の森」と呼ばれ、十三公園の巨木はその名残だそうですが、どれがその巨木なのかはよくわかりませんでした。また、堀の森にあったという鏡ヶ池ゆかりの平和地蔵尊が東横INN大阪阪急十三駅西口1の前に祀られています。城とは直接関係ありませんが、堀城の名が窺える数少ない史跡なので、ついでに訪れてみました。
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2024/02/12 04:49
大分遠征① (2024/02/11 訪問)
3連休だできたので、何処かに行きたい!ということで、3日前に大分に決定。新大阪始発だったので、春節ということもあって、小倉ー佐伯間(8時34分発、にちりんシーガイア5号)の特急(自由席)に座れるか心配だったが無事着席(就寝)。
佐伯到着後、白壁の道経由を散策しながら歴史資料館を目指す。荷物を資料館のロッカーに預け、登城。行きは比較的緩やかな独歩の道で、下山は登城の道。
日曜祝日ということもあって、昼食処の散策に困難。佐伯駅近くの番匠亭で海鮮丼を食べ、宿泊先の大分へ
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2024/02/12 04:44
92【関ケ原の26人】(25)島津豊久 (佐土原城②-天昌寺(家久豊久墓所)) (2023/11/04 訪問)
(25人目)島津豊久の続き⑤です。鶴松館・いろは館から南へ300m程行った佐土原中学校の横から奥に入った場所に、島津家久・豊久の墓所があるので先にちょっと見てきました。
ここには佐土原島津家の菩提寺である天昌寺がありました。しかし、明治政府に反旗を翻した島津家に関わりのある寺は、全て政府により破壊されたためここも例外ではなく、今では墓石のみがひっそりと残っている状態でした。
入口には説明板がありました(写真①)。その入口にはなぜか?山羊がいました(写真②)。そこから細い道を100m程行くと墓地があります(写真④⑤)。関ケ原で豊久とともに壮絶な討死をした家臣たちの墓もありました。豊久も家臣からずいぶんと慕われていたようです。でも全く人目につかないような、このような奥まった場所にひっそりとあったので、なぜか少し悲しい感じがしました。
次は、豊久の居城(佐土原城)に、鶴松館の横から登ります。
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2024/02/12 00:23
やべぇぜ (2024/02/10 訪問)
行ってきました。坂本城三の丸説明会‥大変でした。10日の説明会、地元の方は午前10時30分よりで一般の人は午後からでした。
11時から整理券を配布なのですが10時にはもうかなりの行列が。やばいもう300人くらいいるんじゃないか?と思ったら案内の人が今160人くらいですよと教えてくれたので、じゃあ二巡目かなと思ったらなんと一巡目に入りました。あと一時間、移動で30分として食事の時間が30分くらいあるかな‥と思ったのが間違いの元。地元定食屋の調理場が吹いて結局5分ほど遅刻しました。(ごめんなさい)
TVで見覚えのある人が説明をしてくれています。職員さんにあの人は「やべーさん」ですか?と聞いたら笑いながら「そうですよ」と言ってました。ちなみに「やべーさん」には大津市文化財保護課の岡田さんという名前がちゃんとあります。(あたりまえ)
実に解りやすい説明で非常に好感がもてます。皆さんの質問にもすごく的確に答えてくれてます。しかしどこを写しても入ってしまうんですね‥岡田さんが。岡田さんにSNSに写っても大丈夫ですか?と聞いたら「自分は公共ツールみたいなものなので大丈夫です」とお答えを頂きました。公共ツール‥人の顔でそれは初めて聞きました。では遠慮なく!
石材は花崗岩で全体的に色は白いですが延暦寺の花崗岩にも同じようなものがあるようです。産地の特性もあるのですね。井戸跡も発見されていて、見学者から見て向かって左手の端(北側)が船着き場のようです。石垣はそれほど高くありませんが本能寺の変の後、合戦に供えて石垣を改修した可能性もあるようですね。石垣のこちら側は外堀になりますが幅は約12m程度とみられ外部の畑地との境界線の側溝あたりまでが堀の幅に当たるようです。我々はかつての堀跡で説明を受けていたわけですね。
おそらく城びとの方も説明会に参加されていたのではないかと思います。皆様の投稿も楽しみにしております。
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