みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

しんちゃん

板東武士の鑑なれば (2024/05/05 訪問)

畠山館は「板東武士の鑑」とうたわれた畠山重忠公の居館跡で、現在は史跡公園として整備されています。社のような建物の中には重忠公と家臣のものと伝わる五輪塔があり、重忠公が郷土の人にどれだけ大切に思われているかが伝わってきます。
馬を担いでいるインパクトのある銅像は、一ノ谷の合戦で、崖を降って敵を急襲する際に愛馬・三日月が怪我をしないように背負って降ったという逸話をもとに製作したものです。ちなみに日本在来馬の重さは350kg~420kgとされています。
重忠公は元久2年(1205)二俣川で北条義時の大軍を相手に130騎ほどの少数で戦い、愛甲三郎季隆に射られて討死したとのことです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

愛甲城  愛甲三郎季隆 (2024/01/27 訪問)

愛甲城‥神奈川県厚木市愛甲西
愛甲城は鎌倉時代の御家人・愛甲三郎季隆の居館跡とされています。現在は公民館の敷地となり、神明社や城址稲荷が建っており、北側には玉川が流れ、間には畑地が広がっています。
愛甲三郎季隆は弓矢に優れ、将軍随兵や正月の御的始の射手を務めたとのことです。元久2年(1205)の畠山重忠の乱では幕府方として参陣し、二俣川の戦いで得意の弓で重忠に矢を命中させ首級を挙げたとされています。しかし、建暦3年(1213)の和田合戦では和田義盛に味方し、兄の小太郎義久ら一族とともに討死したとのことです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

零汰

閑話:タイムアタック京都・滋賀 (2024/05/07 訪問)

岬上の城郭はめぼしい遺構が堀切しか無く、毎回似たコメントになるので苦しかったです。北の城郭岬編で一区切りついたので休憩を兼ねてタイムアタック後編、伏見寺田屋からです。

・寺田屋①→14.美豆城→15.神足城②→16.開田城③→17.今里城④→18.上植野城⑤→19.菱川城⑥→20.横大路城→21.下三栖城→22.瀬田城⑦→23.山田城⑧→24.金森城  降雨により中止 (22~24は滋賀県・〇は写真番号)

10時スタート黒丸城より終了金森城は16時30分でした。6時間半で24か所は時間的コスパが非常に良いでした。一部土塁が残っていたり空堀が残っていたりと遺構が少々残っている城郭もありましたが大半は石碑・案内板と神社でした。割り切って城訪問もいいものですね。遺構が少ないのは都心部なので仕方がないと思います。楽に城郭と絡む事が出来るのでお勧めです

今後、北の城郭投稿は暫くの間封印して城訪問中断以前の投稿に入りたいと思います

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

瀬田の唐橋 (2024/02/10 訪問)

瀬田城は琵琶湖から流れる瀬田川の東岸に築かれた城で、瀬田橋とともに重要な軍事的な意味合いを持つ拠点でありました。近江が織田信長の支配下にあった時代の城主・山岡景隆は織田信長の信頼も厚く、信長は上洛のたびに瀬田城を宿所としていたそうです。
唐橋には藤原秀郷の大ムカデ退治の伝説が残っており、宇治川の合戦の舞台となるなど歴史的に大きな意味を持っています。かつて信長は足利義昭より副将軍や管領の地位に就くよう提案を受けますが、かわりに「堺」「大津」「草津」の支配権を要求しました。名前ばかりの官職より、よほどこれらの土地が魅力的だったのだと思います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

海老ヶ島城探訪未消化でした (2024/06/07 訪問)

 小原城を終えて南西に約30km程、常陸未踏の城探訪6城目海老ヶ島城を初登城。

 駐車場:西松原コミュニティセンター(西松原自治会)駐車場利用(36°15'28"N 140°01'53"E h=30m)
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 駐車場から先ず史跡マークの新善光寺を目指す、城跡の案内板など無し指示看板も無し、史跡マークが示す山門前にも特にない、東の参道門柱前に新善光寺由緒が有り、その中に「1595年に宍戸氏14代安芸守義長公が海老ケ島の郷(現在地)に移城するのに伴い、道場を当地に移す」の記載が唯一「海老ケ島城」の名称。
 その後余湖図コレクションさんの俯瞰図を頼りに歩い見るが、東の大川が東外堀かな?龍泉寺辺りに遺構があるとの情報も有り訪ねるが案内板も無し、あまり深く踏み込んで居ませんので堀跡、土塁は良く分からず、グーグルマップの史跡マークで南県道14号線との合流点に「海老ヶ島城二郭土塁跡」が有り龍泉寺より集落中心の交差点に戻り、南へ約300m程歩くと14号線に接して塚の様な土盛りが有り史跡マークの二郭土塁跡か?案内板は無い、上に祠が有りっ祀られている南西面に鳥居。
 史跡マーク二郭土塁跡に来る前の途中に堀跡、土塁跡と思われる個所も有る。
 グーグルマップの航空写真を見ると西松原、東松原集落全体が昔の海老ケ島城域に当たる様に見受けられます、周囲の樹木の周りが土塁の囲み、東の大川が外堀りの代用?外は水田が取り囲んでいる、昔の沼と湿田なのでしょうか?
 それにしても集落内の住宅は入母屋大屋根でお寺の建物より立派な住宅が多く散見されます、龍泉寺を訪ねるのに迷うほどでした。
 
 案内図、解説板、指示板などの設置が有れば遺構の散策も楽しいのですが?
    

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

本丸水堀跡はグラウンドゴルフ場へ変身 (2024/06/07 訪問)

 加倉井館を終えて南西に約6km程、多良埼城主目的常陸未踏の城探訪5城目小原城を初探訪。

 駐車場:特に無し、小原城本丸跡沿い県道193号線の東側の側道が広く路駐(36°21'41"N 140°19'24"E h=40m)
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 小原城本丸跡は東側が県道に面して、御城稲荷神社鳥居、傍に小原城本丸跡の案内板、標柱、指示板が纏まって据えられてる、本丸の周囲は水堀が有った様ですが、平成3年環境整備上やむなく埋立られて、現在集落の方々のグラウンドゴルフ場に成っています、北角の土塁が高く聳えその他四方は低く曲輪高さの微高地。内部には御城稲荷神社の祠、社務所兼集会所?当日は会合されていました。
 余湖図コレクションさんの俯瞰図を見ると、北の小原神社口、北西の2郭土塁、3郭土塁の残存、水堀の残存など在るようですが本丸跡のみで探訪終了。
 
 案内板によると。
 小原城は、宍戸城の北東部にあってこれを抑える重要な拠点であった。築城年代は明らかでないが、里見氏が永享元年(1429年)小原に領地を得、里見七郎義俊が文亀2年(1502年)現在の館を中心に小原城(館)を形成し、周囲の坂場・和尚塚・橋場(木戸場)には、見張場を置いたと伝えられる。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

四方土塁が完存 (2024/05/04 訪問)

室町中期から戦国期にかけて築かれた三瀬氏の居城で、宮川と大谷川に三方を囲まれた断崖上に位置し、熊野街道と宮川の水運を掌握する要衝の地であることから、北畠具教が三瀬館に隠棲した際には三瀬館守護の拠点となりました。なお、具教謀殺の刺客の一人の長野左京進は、三瀬砦に在城していたとも城主の三瀬左京と同一人物とも云われるようです。

県道沿いの案内表示に従って南に入ったところの駐車場から登城開始。駐車場のすぐ先から西と南に土塁が続き、土塁東側の登城道は空堀跡と思われます。登城道の突き当りに三瀬砦跡の石碑があり、その脇が主郭東辺の虎口で、虎口の北側には三瀬砦跡の説明板が立てられています。方形の主郭は四方を高く分厚い土塁で囲み、井戸が遺っています。西辺の幅広い土塁上には八幡社が祀られていました。西辺の土塁の西側にも土塁囲みの小さな曲輪があり、南側は宮川まで落ち込む断崖、西側は堀切で遮断しています。また、三瀬砦から北東約150mには三瀬氏菩提寺の慶雲寺があり、慶雲寺との間の川上と呼ばれる一帯には侍屋敷があったそうで、それぞれ説明板が立てられています。

ほぼ単郭の小さな城砦ながら、伊賀や甲賀の城に見られるような分厚く高い四方土塁が完存しており、大いに見応えがありました。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

多摩ニュータウンN0.513遺跡 (2024/01/27 訪問)

多摩ニュータウンの造成工事に先立って行われた発掘調査で、縄文時代から江戸時代にかけての大規模な複合遺跡があったことが判明し、中世の城郭跡や、武蔵国分寺や国府とも関係の深い奈良時代の瓦窯跡が発見されたとのこと(案内板より)。
城の主は不明ですが、主郭には小型の建物跡と柵列の跡があり、周囲には2~3m規模の空堀と土塁状の腰郭(2郭)が配されていたようです。規模的に砦のようなもので、見張り台などに使われていたのではないかと推測されています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

夷山緑地 (2024/06/16 訪問)

国道439号線を少し入ったところ、円福寺裏手の緑地公園が城跡です。
駐車場は無さそうです。
緑地公園となっていて曲輪の跡には遊具も置いてあります。
この丘の頂上部が主郭とのことですが私有地につき断念。
遺構は無さそうですが丘のようになっていてここに城があったことは想像できます。

三好氏と長宗我部氏の間で争われた最前線の城でもありますが今は平和な公園となっていました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

海老名氏霊堂 (2024/01/17 訪問)

海老名城の主である海老名氏は保元の乱で活躍し、曾我物語にも名前が出てくるそうです。現在は霊堂が残るのみですが、海老名氏の菩提寺である宝珠寺や居館はこの周辺に築かれていたようです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

土塁のぞき (2024/01/27 訪問)

磯部城は長尾景春の反乱の際に景春方の拠点・小沢城の支城として築かれたとされています。能徳寺や御嶽神社のあたりが城の中心と考えられていますが遺構は残っていません。相模川沿いの歩道沿いに磯部城の土塁とされる土盛りが連なり、案内板が立っていますが私有地ゆえに立ち入ることはできません。そんなわけで通りすがりにじっくりのぞかせていただきました。ご容赦を。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

公園化されてることがこんなにありがたいとは… (2024/04/29 訪問)

2024年GW前半の攻城はクセ強なお城を巡りましたが,当たり前に公園化されてることがこんなにありがたいとは…と感謝しながらの散策でした。地元の方たちの散歩コースになっているようでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

小沢城と枡形城の間に存在 (2024/01/27 訪問)

寺尾城は周囲を住宅地に囲まれた高台に築かれていたようです。周囲には竪堀と見られる遺構や、曲輪らしき扁平地が見られます。
城主は寺尾若狭守とされ、小田原北条氏に仕えてからは、諏訪氏を名乗ったとされています。不明な点が多いですが、小沢城と枡形城の間を繋ぐ「伝の城」の役割を担っていたともされています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

眺望よし (2024/01/27 訪問)

枡形山の山頂に枡形城は築かれていました。建久年間(1190~1199)に稲毛三郎重成によって築かれたとされ、永正元年(1504)伊勢宗瑞と今川氏親が枡形城に入り、ここから立河原の戦いに向かったとされています。
現在は展望台が建てられ、周囲を良く見渡すことが出来ます。付近には川崎市岡本太郎美術館など複数の施設が有り、一日は楽しむことができそうです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

妙徳寺裏に空堀・土塁が残ってる (2024/06/07 訪問)

 長者山城を終えて西に約5.5km程、多良埼城主目的常陸未踏の城探訪4城目加倉井館を初探訪。

 駐車場:妙徳寺東裏の参拝者駐車場利用(36°23'28"N 140°22'39"E h=40m)、通り沿いに妙徳寺参拝者第一駐車場有り。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 妙徳寺東裏の駐車場に入る時には北側に横空堀が伸びて居り、間を切られて車道に成っている、余湖図コレクションさんの俯瞰図には北東から南に折れて横堀が繋がってるが民家、屋敷が有り踏み込めず。妙徳寺本堂に参拝し、南へ日蓮上人像、山門南前堀川北前石橋横に加倉井館石碑が立っている。

 余湖図コレクションさんの説明文によると。
 加倉井館は鎌倉御家人の波木井実氏によって築かれ、彼は後に加倉井氏を名乗る事に成る。後に加倉井氏は江戸氏5家老の一人となった、天正年間に佐竹氏の勢力が強まり、江戸氏はやがて滅ぼされ、加倉井氏も運命を共にする。
  

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

零汰

比石館:北海道檜山郡上ノ国町館野 (2024/05/23 訪問)

比石館はもともとアイヌのチャシだったものを館城として改修したものだそうです。遺構としては根元に薄っすらと堀切かと思える部分があります。端部に土塁と思えるところもありましたが確信はありません。こちらは遺構云々より断崖絶壁の景色を楽しむのに適しています。当日は風が強くくびれ部の歩行も恐ろしく先端に行くこともできませんでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

何度でも!短時間でも!! (2024/06/21 訪問)

今回はは只見線と磐越西線完乗旅の途中での訪問でした。
地元駅を始発で出発し、最大限の滞在時間を確保したものの、次に控える只見線が座席争奪戦必至のため会津若松城見学時間は駅との往復を含めて2時間程度。そのため鶴ヶ城城址公園内のみの見学となりましたが、天守内も空いていてじっくり展示を見られたし、公園内のお気に入りのポイントをまわることもできました。また新たな気づきもあり、短時間でも行けてよかったです。

昨年大雨の中でしたが、一日かけて甲賀町口門や阿弥陀寺の移築櫓、天寧寺口土塁の方まで足を伸ばしていたのも今回の気持ちの余裕に繋がったかと思います。やはり“行ける時に行っておく”。これすごく大事なことだなぁと思いました。

会津若松城はこれで7回目。
100名城の中では江戸城(数えていない)、八王子城(8回)に次いで多く訪れています。食べはぐれたソースカツ丼は新潟に持ち越しとなりました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

那珂川北東に突出た崖城 (2024/06/07 訪問)

 多良埼城跡を終えて西に地道を約14km程の長者山城へ初登城。

 駐車場:無し、一盛長者伝説地石碑の奥の民有地砂利道横に路駐(36°24'38"N 140°26'03"E h=40m)
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 私有地内と言うことで、主郭まで北に伸びてる砂利道範囲内で遺構を観察見学、手前の石碑「一盛長者伝説地」側文も読み撮影、3郭、2郭の南切岸、2郭の西側の土塁跡、主郭の空堀と土塁、此処がよく残って居る、私有地である事、持ち主が現れたら声掛けして見学を頼もうと思っていましたが人影も無く、空堀の奥、土塁の奥には踏み込みませんでした。
 砂利道から西は太陽光発電のパネルが並び金網フェンスで囲まていて入り込めず、西側の点在してる土塁の撮影は金網フェンス越し。

 立地は那珂川に北東突出た丘陵崖に曲輪と堀、土塁で3郭連郭式、西に側郭4の構造の様です。主郭の土塁、堀は良く残って居ます。

 歴史的には石碑側文によると
 長者山は源義家によって滅ぼされたと言う一盛長者伝説地である。後三年の役の前後の豪勢な歓待に富豪の実力を恐れて後日の災いを恐れて滅ばしたとの伝説ですが、実際はどうなのか?義家も奥州の前九年、後三年の役で奥州豪族の実力に恐れていたのでしょう、その直後でしたから関東の豪族に恐れたのかも?

 ただ城郭の土木作業は平安末期ではなく、戦国期江戸氏の頃の遺構だそうです。
 
 良い空堀に土塁を観察見学させて頂きました。
 

 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イタさん

背後の山を借景とする大名庭園 (2024/06/27 訪問)

織田氏により造られ、群馬県に唯一残るた大名庭園(楽山園)と載る。
中門横、武家屋敷跡近くに無料駐車場がある。高橋家の武家屋敷庭園、松平家大奥の庭園と見学可能だが、高橋家はお住まいされている。先で喰い違い郭の案内があり、開口部の先は石垣が折れている。中門内側は枡形になっている。先に空堀・土塁(復元)があり、左手が地泉回遊式庭園、土塁側に熊井戸があり、辺りは熊井戸氏の館跡があったと、標示されている。御殿跡などは平面表示されている。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

駅近物件ではあるが (2024/06/16 訪問)

JR蔵本駅から徒歩数分、マンションの片隅に城主を祀った祠と説明板があります。
駅北西部一帯が城跡とのことですが遺構は残りません。
西側を流れる田宮川が外堀として利用されていました。

線路南側の八坂神社、地福寺も「城ノ内」と呼ばれていることからこの辺りも城域だったようです。

それにしてもここのマンション、住んだら城主気分を味わえるのかな?

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ304