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しんちゃん

本丸を守る「桃(モモ)」の刻印 (2024/02/25 訪問)

徳川御三家の一つ、和歌山城の投稿です。鉄筋コンクリートで復元された天守閣も有りますが、この城の見どころは何と言っても、異なる種類の石材を使って築かれた石垣だと思います。名古屋城も砂岩や花崗岩など様々な石材を用いて築かれていますが、あまりにも石材が多種多様で、しかも混在して積まれているので、予備知識が無ければ、どこに何の石を使っているかを見分けることは不可能です。
しかし和歌山城は違います。主要部に雑賀崎周辺で取れる緑泥片岩(紀州青石)を使用し、周囲の郭や大手門周辺に加太や友ヶ島などで採取される和泉砂岩を使用しています。和泉砂岩は経年と共に風化して崩れてくるので大手門より先の一中門周辺では隅部を花崗班岩で修復してあります。異なる材質の組み合わせになりますが、色合いや形状を可能な限り合わせて有ります。和泉砂岩は隅部が崩れ、表面は剥離しているので一目でわかってしまうのですが、それでも修復者のこだわりや誠実さは十分に伝わってくるので、見ていて心地よいものがあります。研究者から城好愛好者を含む一般の人に至るまで城郭に対して重要なのは、この誠実さだと思います。
近年、城郭の復興や存続に対しても政治や活動家の思惑や駆け引きに巻き込まれるケースが多く、そこにマスコミや専門家までからんで状況が複雑化している感は有ります。個人的意見ですが、城址は可能な限り、本来のあるべき姿に戻すのが理想だと思います。

大手門は城址の北東に位置し鬼門に当たります。本丸御殿の鬼門の位置に一中門跡があり、周辺の石垣に厄除けの「桃」の刻印が有ります。地元のボランティアの方に教えていただきましたが、時々 専門家より詳しい方がいらっしゃいます(特定の城址限定で)。

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しんちゃん

能ヶ坂砦 高天神城包囲六砦 静岡県掛川市 (2021/12/31 訪問)

能ヶ坂砦は第二次高天神城の戦いで徳川家康が高天神城を包囲するために築いた六つの砦の一つで、本多豊後守康重が主将を務めたとされています。この康重公は本多豊後守家の初代とされる人物です。この砦では能が舞われることがあり、それが砦の名前の元になっているようです。先に紹介した四砦のように明確な登城道が無いので南側の麓から直登しています。ただし笹薮もひどくお勧めはできません。
「武蔵の五遁」さんは西側の谷間から登城しているようです。記事を見てみると、主要部以外にも尾根沿いに複数の郭があるようです。
「古城盛衰記」さんの記事を見ると東側にも登城口があるようです。

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しんちゃん

獅子ヶ鼻砦 高天神攻城六砦・静岡県菊川市 (2021/02/07 訪問)

獅子ヶ鼻砦の投稿です。第二次高天神城の戦いで徳川家康が高天神城を包囲するために築いた六つの城の一つです。高天神城の東方3kmあたりの半島状にせり出した台地の先端部に築かれています。城址は公園になっていて、眺望は良く頂部の郭跡は幾段かに分かれていたようです。城郭大系を参考にすると主要部の他にも北西に出郭が築かれ、東側の尾根上にも郭が配されていたようです。
主要部は訪問しやすいですが、東側は特に険しい絶壁になっているので訪問は控えた方が良いと思います。
「三河物語」には「鹿ヶ鼻」と記載が有り、「横須賀根元歴代明鑑」には他にも安威砦、風吹砦についての記述があるようです(六砦ではない)。「風吹砦」の方は地形の改変が激しく、訪問はほぼ不可能だと思います。
中村・安威・獅子ヶ鼻砦は大須賀康高(五郎左衛門)の受持とされ、成瀬吉右衛門正一を主将、日下部兵右衛門定好を副将とし、昼夜一度づつ巡回が行われ敵にも味方にも厳しい警戒態勢が行われていたとされています。おそらく味方には「気を抜くなよ」という発破をかける意味合いもあったと思います。

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ヒロケン

42年振り (2024/08/14 訪問)

日本三名城の一つといわれる熊本城へは、修学旅行以来42年振りの訪問となります。当時は、思春期で女子の気を引くことばかりで熊本城の様子など目に入らず、ほぼほぼ記憶にないのが現状ですが、熊本城天守の大きさと恰好良さ、迷路に入り込んだような石垣群が少し記憶に残っている程度でした。
平成28年の熊本地震の前に訪れる計画はありましたが、熊本地震が発生し計画倒れになっておりました。今回、トクさんの投稿を拝見し、どうしても自身の目で熊本城が見たく再訪(再訪といえるかどうか?)を決めました。

熊本城の中で一番見たかったのは宇土櫓でしたが、トクさん情報で解体保存工事が始まっているとの事で諦めてはいました。宇土櫓は現存する櫓で、国指定重要文化財。現存天守・現存櫓の中では4番目の高さを誇り3層5階地下1階、地上約19mの櫓です。完成は8年後の令和14年の予定です。
本丸御殿にも「昭君之間」の床の沈下、各広間の壁が剥がれ落ちるなどの被害があり入ることはできません。飯田丸5階櫓も石垣が一部崩落し「奇跡の一本石垣」と呼ばれていましたが、櫓は解体、石垣は復旧されておりました。重要文化財の長塀も80m程倒壊する被害がありましたが、復旧が完了しています。その他、櫓門等も被害を受け解体されております。熊本地震から8年経った今でも、愕然とするほどの被害状況が目の当たりにすることができ、地震の怖さを実感できます。

現在は、見学する箇所がかなり制限されていますが、特別見学通路が設置され、安全に見学することができます。また、大天守内も見学ができます。
トクさんが、「元気をもらいに熊本城へ」とありますが、少しづつ復旧が進み熊本城のパワーが感じられます(*^▽^*) 私も何があっても頑張るぞ!!という元気をいただくことが出来ました。

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サリー

高速から見えるあの城へ (2022/04/30 訪問)

高速から見えるたびに、いつか行こうと思ってた城。
訪れることができて、嬉しかった。
ほんとうに美しい城。青空に映える。

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赤い城

瀬戸大橋を見下ろす (2024/08/04 訪問)

瀬戸大橋架橋記念公園駐車場に車を置き登城します。
登城路も整備されているので夏でも歩きやすいです。

少し登ると西の丸ヘ、石垣が出迎えてくれます。
西の丸から土橋を渡り二の丸、さらに本丸ヘ、と進む前に石垣に沿って下の方へ。
綺麗に石垣が残っています。
やや藪ですが下りてみてよかった。
もちろん安全を確かめながらですが。

引き返し本丸ヘ、天守台跡も残ります。
さらに三の丸、中の丸まで見学して下山しました。
両郭の間には堀切もあります。
倉敷市内の正福寺には下津井城の門が移築され現存しています。
こちらも貴重な遺構ですね。

元は瀬戸内海を押さえる海城で下津井港を掌握するための機能を持っていました。
今は公園の一部、瀬戸大橋を望む絶景が見られます。
この日は晴れてたけどやや霞んでました。
これも瀬戸内の特徴ですが。

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たか

初心者ではありますが… (2024/08/16 訪問)

言わせてください!
ここは絶対に行ってほしい城址です!

まず御城印。
着いたのが16時すぎで仁科神社社務所が開いてない。
これはここまで来たのにと落胆していたらなんと…自分で取って付属の袋にお金を入れて賽銭箱に入れてくださいとのこと。
なんてすばらしい!お城を愛する人間に悪い人はいないとの神の言葉(笑)
とても素敵な御城印をゲットして散策へ。

阿部神社や御神木を見ながら湖畔へ行くと阿部渡(あべっと)や機織り淵などの説明板でまた感激!
堀や土塁の形跡もありつつ水城?は初めて見たのでまたそれも感激!
塩の交易で豪族では珍しい力を持っていた仁科家、それを信玄が逃すわけもなくしっかりと掌握して手を加えてかなりの規模にまで発展したとのこと。

あと木崎湖の中から発見されたという「えぐり舟」という栗材をくり抜いて作られた舟もあり、普通とは違うお城巡りでした。
こんな発見があるとますます楽しくなってきます!
ぜひ皆さんも訪れてみてください。
裏の湖畔でキャンプもできるみたいですよ。

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しんちゃん

ラララ スギヤマ~♪ (2024/05/06 訪問)

杉本城の駐車場は城址の北側にあり、登城口まで少し距離があります。以前訪問した時は続百名城になる前だったので、お寺に車を留めさせてもらって、城址まですぐだったのですが‥「急がば回れ」というやつです。
駐車場の手前にも堀らしきものがありますが、ここも城域だったのでしょうか? タンポポの綿毛がふわふわ舞っています。
大手の前の出郭のくぼみにも、何か花らしきものが植わってます。地元の人のオシャーなセンスを感じます。先の投稿で到達した井戸郭からは本郭が良く望めます。直登しようと思えば簡単にいけますが、ここはルートにそって北側に迂回しながら本郭を目指します。これも急がば回れというやつですか。登城の過程でも、万遍なく楽しませてくれます。これから本郭 メインディッシュを楽しみに進みます。

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たか

信濃路を… (2024/08/16 訪問)

飯山城登城から南下し松代城へ。
着いたとたんさあ困った。
今回の予定は時間が限られているのに見るものが多すぎる…
とりあえずスタンプ押して松代城を堪能することに集中。

スタンプ押しながら真田邸を見ながら「絶対今度は時間をつくるぞ」と心を鬼にして車に案内所で買った御城印とセットで置いていざ登城。
いきなりの太鼓門に思わず感嘆が漏れる。
その渡る橋も説明板を読むと以前に架け替えた跡が4回残っているとのこと。
すでに時間との戦いということすら忘れてじっくりと確認。
太鼓門をくぐると枡形虎口でこれも石垣含めて素晴らしい。
本丸に入ると銀杏の木があろうともしっかりと得意の妄想で中心にあった説明板の通りのお屋敷が想像されます。

櫓跡に登るとこれまた土塁と石垣のコラボ&遠景も素敵!
最後に北不明門を通り駐車場へ。
いやーとてもいいお城でした。

余談ですが本日女学生の方々が来られていてなんだか嬉しかった。
おじさんだけが楽しむんじゃなく、いろんな視点で見学していて、とてもいいなと感じました。

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たか

台風から逃れて信州へ (2024/08/16 訪問)

いい関東直撃するとニュースで出てこれは休みを取ってすぐに西に向かうべきと判断しやってきました(笑)
まずは飯山城。

この日は台風の影響もあるように聞いていたのですが全然大丈夫。
むしろ晴れていて西の丸では子供たちが遊んでいてほのぼのとしています。
案内所で御城印を買おうと行ったら不在でした。
時間によっていない時があるんですね。

案内所の外には説明用のジオラマ&映像がありこれは非常にわかりやすくとてもいい。
そして本丸からの二の丸、三の丸という掟破りの登城(笑)
しかし整備の状況がとても素晴らしい。
このお城に対する気持ちがとても伝わってきます。
あとの予定も詰まっているのでさっと見ようなんてとんでもない。
隅々まで散策し、北門から駐車場へ。
買えなかった御城印は「高橋まゆみ人形館」で入手。
女性の店員さんにやさしく対応頂き感謝。
いや~最初から良い旅になりそうです。

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朝田 辰兵衛

城主の墓がある東林寺にも行きました🐾 (2024/06/08 訪問)

東林寺には,谷地城主白鳥十郎長久の墓があります。本堂の裏には,土塁と堀跡がくっきりと遺っていました。ピンの位置から南東へ約300mの場所です。
どちらかといえば,ピンの位置を探すほうが難しかったです。「こんな住宅地に…?」と,一瞬とまどいます。

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しんちゃん

浦上久松丸 (2024/04/20 訪問)

兵庫県には山下城が二つありますが、こちらは加西市の方になります。一説には赤松則祐の家臣であった浦上七郎兵衛行景の居城だとされ、観応2年(1351)光明寺合戦の際に、赤松則祐に従って赤松直義の軍と戦ったとされています。
本丸にある案内板によると、「播磨鑑」には浦上久松の居城であると記され、天文元年(1532)頃に築城され永禄9年(1566)ごろに別所氏の兵站拠点基地として改修され、天正6年(1578)まで機能していたと考えられているようです。
浦上久松は加西市史によると「別所家無二の与力」であったとされています。
本丸の西側下段に二の丸が配され、本丸の北西には大堀切があります。二の丸の西側には西本郭と見られる郭があり、他にも多数の郭が有ったようです。

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零汰

唐山東城:福岡県粕屋郡宇美町 (2020/10/01 訪問)

山城に行く際に頂上若しくは最高所での景色を見るのも楽しみの一つだと思います。
色んな山城で景色を見ましたが360°のパノラマが見る事が出来たのは今のところこちら唐山東城だけです。
グーグルマップには唐山城とありますが正式名称には東が入ります。
東があるので当然西もありますがそちらには行ってみた事は有りません。

写真1はグーグルの画像ですが6m程度x12m程度の小さな主郭が鮮明に映っています。
福岡調査報告書の筑前で真っ先に出てくるこの城跡は遺構は殆ど残っていないようです。
写真4は曲輪の様に見えますが改変らしく縄張り図には記載が有りません。

こちらは城跡よりも展望所との認識が大きいようで私が訪問した際も2組3名の女性が来ていました。
主郭では独りの女性はバズーカカメラ片手に佇んでいて50過ぎの年寄りは遠慮がちにそそくさと写真を撮りました。

築城者とかは現地の看板に記載が有りましたが聞いた事の無い人でどっかの支城らしい。
だが深く考えずともそこに城跡がある、そこでは素晴らしい景色が見れる、それでいいじゃないか。

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しんちゃん

天ヶ谷の城平 つづき (2021/02/13 訪問)

御前崎市の地味に良い城、「天ヶ谷の城平」続いちゃいます。
ほぼ謎の城ですが、武田軍の手が入っていると言われる遺構はなかなか見ごたえがあります。「地味に良い城」という言葉が良く似合う城で、二の郭の南側には虎口があり、そこから先にも遺構が残っています。南東側は行き止まりになっていて、南西は尾根沿いに堀切や郭が残っています。

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零汰

昌官忠式東北南下3日目:秋田城にて終了 (2024/05/26 訪問)

昌官忠式東北南下3日目は辛うじて秋田城を見る事が出来ました。
続いて久保田城に着きました。がバイクを停めるとこるが見当たらない。
昨日の弘前城もグルグル廻って停めるところが見つからないので歩道に停めて訪問しました。
其のうち駐輪場探すのが面倒になってきて意気消沈、東北南下を終了する事となりました。
体力的にもきつかったのも理由の一つです。
城訪問しているのに関わらず、城跡を目の前にして去っていく自分がそこにいた。
バイクで行くからだよと何処からか声が聞こえて来るようだ。

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あんしょー

和歌山城 (2024/07/14 訪問)

和歌山城を初探訪!
目の前にあるホテルに宿泊…
高層階の部屋から、お城がよく見えてよかった件( ´ ▽ ` )

日中から夕暮れ時、夜のライトアップまで。
大満足の1日になりました。

翌朝の、お城を見ながらの朝食も最高でした。

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POYO58

水の手曲輪を忘れるな! (2024/06/01 訪問)

ということでめっちゃくちゃ久しぶりの投稿となってしまいました💦
みなさんお久しぶりです。POYO58です。
ということで2ヶ月前に行った大給城を紹介したいと思います。
大給城は長坂新左衛門が1460年ごろに築いたのが始まりですが、その後は松平信光をはじめ、松平家が支配することとなりました。なのでかなり古いお城ではありますが、国指定史跡となっています。
古いお城といっても遺構はなかなか見応えがありました。
三郭に行く手前には大きな堀切があり、石垣が少しありました。三郭の入り口には虎口が設けられており、サイドに石垣と櫓台が残っています。なんとこの時代から石垣があり、さらにはサイドの櫓で敵を阻む防御が素晴らしい👍
三郭には土塁が残り、郭を囲んでいます。二郭に行くと高ーい石垣と低石垣があり、その横を通っていくと本丸に辿り着きます。石垣があるせいで道が少し狭くなってます。本丸にも石垣が残っておりなかなか見応えのあるお城でした。
ただものすごく残念なのが水の手曲輪を見忘れてしまったことです。このお城には今でいうダムの役割をする水の手曲輪があるのですが、それを見れませんでした。まあ理由は暑かったのと虫と蛇にビビってたことですね。その前に鳥羽城に行ったときや、宇陀松山城で大きな蛇に遭遇しているのですごく怖くなってしまい… 今は道けばよかったなと反省してます。行けたら冬に再攻城しようと思っていますが、受験が近づいてるので行けないかな…
まあこんな感じですね!ぜひ行ってみてください!
評価★★★☆☆

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しんちゃん

本丸に 着いたと思えば 井戸郭  (2024/05/06 訪問)

杉山城は「比企城館跡群」の一つとして国の史跡に指定されています。とはいえ築城主については謎が多いのですが(山内上杉氏とも)、異様に発達した高度な縄張りを持っています。
城域は比較的コンパクトですが主郭を中心に複数の二郭・三郭を持っており、馬出郭などを含め多数の郭を持っています。土の城の要素を多分に持っている上に、過剰なまでの防御に関する仕掛けを施しており、不用意に攻め込んで来た攻め手は間違いなく あの世行きになると思います。
大手から馬出郭を経て、南三の郭を通って南二の郭にたどり着くと、眼前に本郭がそびえます。次は本郭だと勇んでいくと、なんと井戸郭にたどり着きます。二の郭から本郭までが遠い‥。攻城戦でこれをやられると精神的なダメージは大きいと思います。
そこから延々と西側を迂回して北側から本郭を目指しますが、ここまでの行程で横矢がバンバン掛かってくると思います。郭の少ない西側の防御を補うための構造だと思いますが、実に手の込んだ縄張りになっています。

ここでお城川柳を一つ。  
本丸に 着いたと思えば 井戸郭 
百名城のアレが達成できたので、次は続百名城のアレを期待しちゃいます。だいぶ気が早いですが、二度目の奇跡を期待しています。

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ぴーかる

アイス氏の城 (2024/06/08 訪問)

【五ヶ所城】
<駐車場他>愛洲の館駐車場
<交通手段>車

<見所>2重横堀・井戸跡
<感想>日帰り伊勢志摩の平山城巡り旅8城目。主郭の説明板と愛洲の館の説明板によると城主の愛洲氏は清和源氏武田氏の流れをくみ、南北朝時代 康永年間(1342~1345年)以前には五ヶ所浦に土着し西方の一之瀬にも城を持っていた。南北朝時代には南朝方として活躍しました。室町時代には伊勢国司北畠氏のもと勢力を伸ばし、宝徳年間(1449~1452年)より前に本拠地を一之瀬城から五ヶ所城に移したようです。この頃一族で剣祖である愛洲移香斎久忠が生まれています。愛洲氏は天正4年(1576年)に織田信雄軍に攻められ滅ぼされ城もこの時廃城となったようです。
 まず愛洲の館にて御城印購入と入館しました。館内は愛洲移香斎の書状や五ヶ所城に関する物はジオラマ・出土品の青磁片・井戸の釣瓶桶底板等が展示されています。愛洲の館の裏から上がる急階段を登り主要部へ行きます。二郭と思われる曲輪は私有地のようで柵がしてあります。主郭手前に2重横堀が廻らされていて堀も深くなかなかの見応えがあります。主郭壁面に石垣跡があるようですが見落とし。次に南に下って居館跡、塔頭(愛洲氏墓地)、東に大きく回って井戸跡、八幡社(当時からあるという)と巡り愛洲の館に戻りました。

<満足度>◆◆◇

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トク

113【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政と岡崎城) (2024/02/16 訪問)

(26人目)井伊直政の続き⑮です。ここから直政後半戦に入ります。またよろしくお願いします。

岡崎城の訪問は二度目です。前回は(12人目)「田中吉政」を追って岡崎城を訪れました。今回は「井伊直政」を追ってです(またも家康様でなくごめんなさい😥:写真①②)。

1585年小牧長久手の戦いで家康に敗れた秀吉ですが、このままじっとしている理由がありません。翌1586年、大垣城に大量の兵糧を運び、次の決戦へ向け万全の準備をします。そして今度こそ打倒家康と一カ月後に出陣するよう天下に号令をかけます。しかしその直後、天正の大地震が発生し、大垣城を始め築城中の伏見城など多くの城が何と倒壊! 秀吉はもう家康どころではなくなってしまいました。そこで妹の「あさひ」を正室として岡崎城へ差し出し、さらに母(大政所=なか)までも人質として岡崎城へ差し出し、強硬策から懐柔策へと切替えます。さすがの家康もこれには折れ、形だけの臣下の礼をとるため一カ月の間、大坂城を訪れました。直政はその間、岡崎城の留守居役を務めています。その時の遺構がどこかにないか? 岡崎城内をくまなく探してみましたが、見つかりませんでした。しいて言えば直政の名前が入った花壇があり、そこに花がきれいに咲いていたのと(写真③)、大河ドラマで井伊直政役を演じていた板垣李光人さんのパネルを見つけたくらいです(写真④)。なかなか岡崎で直政の痕跡を探すのは難しかったようです。

大政所が岡崎城に一カ月間滞在している間、直政は毎日のようにお菓子などを持って行き、話し相手をしてあげたとか。それで大政所はとても直政の事を大変気に入ったようです。しかしその様子が大河ドラマ「どうする家康」では、高畑淳子さんがおおげさに演じていられたのには、ちょっと笑ってしまいました。直政とはいったいどんな人物だったのか、なぜ皆にこんなに好かれるのか、不思議でなりません。そして家康が無事に大坂より戻ると、今度は直政が入れ替わりに大政所を丁重に大坂城まで送り届けたようです。その際に秀吉にも会い、家臣にならぬかと誘われるなど、秀吉は以前から直政に一目置いていたようです。しかし直政は、これを丁重に断り、そして同席していた裏切者の石川数正には罵声を浴びせて帰ったとか。また同じく同席していた小早川隆景からは何と、「直政は小身なれど天下の政道相成器量あり」と絶賛されたようです。

岡崎城外に出ると、唯一直政に関するものとして、直政の石像がありました(写真⑥⑦)。大手門(写真⑤)前から10分程国道1号を東に歩いた場所です。長久手の戦いで敵陣に向かって行く姿をイメージして造られた石像だそうです。しかしなぜか(🤔?)馬の首がありません。(誰だ壊した奴は😠!)と思ったら最初からのようで、作者の意図らしく理由は不明です。そして、ここにあった説明を読んでいてビックリしたのですが、実はこの石像のすぐ後ろにあるNTTビルの場所(写真⑧)が、当時築山があった場所(正室の「瀬名」が住んでいた場所)だそうです。

岡崎城内の茶屋では、八丁味噌を使った「味噌田楽定食」をいただきました(写真⑨)。とても美味しかったです。でもあとデザートに“ぴーこさん”が投稿されていた直政パフェがあるとは知りませんでした(食べたかった😩くやしいな~)。

次は、秀吉と北条との決戦(小田原攻め)に続きます。再び小田原で直政と北条の、二度目の関りを追いたいと思います。
 

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