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ぴーかる

ゆずりはの城 (2024/01/04 訪問)

【楪城】
<駐車場他>駐車場あり<35.031705, 133.428382>、登城口<35.032108, 133.428640>前にも縦列駐車3台分程あり。
<交通手段>車

<見所>曲輪・切岸・堀切・石垣跡
<感想>現地説明板によると、楪城の築城は鎌倉時代末期頃に新見氏によって築城されたと思われる。戦国時代に三村氏の侵入によって城主新見貞経は行方不明となる。1567年に三村元範が城主となるも1575年備中兵乱で毛利方の小早川隆景軍2万が押し寄せ落城します。その後、楪城は毛利方の吉川元春の城となり家臣の今田経高が城番となります。関ヶ原の戦い後に城は廃城となったようです。

 上記登城口から城跡までは700mあります。登山道は主郭北側の尾根上まで軽自動車1台分が通れる舗装道になっていて非常に登りやすいです。城跡は南北に非常に長く全長1㎞以上はあります。主郭の北西部下段に2段曲輪があり、ここから城跡に入ります。主郭南側に敵を誘い込む花の丸という曲輪があり虎口土塁で狭く塞ぎ、中が広い削平地になっていて凝った造りになっています。主郭は南北に広い長方形の曲輪で北側が少し上がって土壇か土塁のようになっています。主郭南下段も広く、トイレも設置されています。主郭~2郭までは細長い尾根上曲輪で繋いでおり、帯曲輪と表示されていますが馬場曲輪といった感じです。石積みの櫓台跡があります。2郭は三日月状の曲輪で切岸が高いです。2郭南下段の南に堀切があり、そこから南に現地縄張り図では尾根曲輪になっていますが、あまり曲輪感はないです。200~300mある尾根曲輪には防備遺構が表面観察では無く、私が城主なら連続大堀切を造成するのになあ。といったような遺構です。
 尾根曲輪南に大手道と繋がる舗装道があり、その南に3郭があります。3郭北側に大堀切があり3郭から城跡が石垣造りになり様相が一変します。3郭北下段の曲輪には転落石が多くあり進入口は枡形の虎口跡らしき石列が薄っすら残っています。曲輪壁に石垣は残っていませんが、表面に見える落ちている石の数も相当なので石垣が組まれていたことが分かります。3郭内にも石列や礎石らしき平たい石が地面に見えています。石組井戸も中心部にあります。
 現地説明板には本丸が新見氏時代で2郭・3郭が三村氏時代に増築されたと思われるとありますが、私の考えでは3郭だけがポツンと離れており別郭2城のような感じを受けたので、3郭だけが三村氏・毛利氏時代に増築・改修したものと考えます。帯曲輪にある石積み櫓台もこの増築・改修時に設置したものかと。残りが全部土造りの城なので。
 城跡はとても良く整備されていて、主郭周辺に楪の木が沢山あります。遺構も見応えあり、いい城跡でした。

<満足度>◆◆◆

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しんちゃん

海が良く見える総石垣の城。 (2019/05/04 訪問)

浜田城は西は浜田川、北は松原湾、外ノ浦に面した丘陵上に築かれており、江戸時代は浜田藩の政庁として機能していました。登城道には津和野藩の武家屋敷から移築した門が建っていて石垣しか残っていない城に良い風味を加えています。北の最高所に本丸が有り海を良く見渡すことが出来ます。南に二の丸が配されていて総石垣の枡形を備えた二ノ門跡は城址で最も見ごたえのある場所だと思います。
慶応二年(1866)の第二次長州征伐では長州藩の大村益次郎の進軍を受け、藩主・松平武聡は戦わずして逃亡し、残存の藩兵が城と城下に火を放ちことごとく灰燼と化したそうです。

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しんちゃん

畠山重忠の居館跡 (2019/08/10 訪問)

菅谷館は「鎌倉殿の十三人」で有名な畠山重忠の居館跡で、戦国時代は近辺の須川原にて山内上杉家と扇谷上杉家の対立が有り、山内上杉氏の武将太田資康(太田道灌の嫡男)が河越城に対する抑えの城として整備を行い、後に小田原北条氏の城となっています。
本郭の周囲に二の丸や南郭が配され、北西に西の郭、北側に三の郭と複数の郭が配され、最も広い三の郭の東に駐車場があり、博物館が建っています。

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織田晃司

♪遠ざかる雲を見つめて まるで僕たちのようだねと… (2014/02/11 訪問)

それは猿岩石!

麓にある模擬天守は美術館で本来の岩石城とは無関係です。

ハイキングコースとして地元では有名で多くの登山者の方がいらっしゃいます。

本丸の説明板に石垣があるというので探し、それらしきものを写真にアップします。(違ってたらごめんなさい)

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織田晃司

キツい傾斜の登城路を (2024/02/11 訪問)

登りきると中世山城の名城・障子ヶ岳城にたどり着きます。
まるで西洋絵画のような美しい風景が目の前に広がります。

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織田晃司

非常にきびしぃ〜 (2024/02/10 訪問)

山城愛好家憧れの城、長岩城。
石塁と石垣満載の城。

一之城戸〜本丸は安全なほう。
小川を渡る場所があり、長いアルミ梯子を登り、細い断崖尾根を進む石積櫓は上級コース。
下手すれば命の危険を伴う弓形砲座は最上級コース。

天候と体調と相談して無理のない登城を。

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要らん直登で、斜面の急峻さを体感した (2024/02/11 訪問)

城びと先人の投稿を見て、行きたい城にノミネート。Googleマップに麓から城域へのアクセスも点線で示されています。ぴーかるさんの投稿の「砂防ダム」も頭に入れて出撃🏍️
Googleマップの目的地に着くと、山田城の説明板あり、山麓を流れる川に砂防ダムも。なんか砂防ダムが小さいなあ、と違和感持ちつつも、状況が三点揃った上に、登城を誘う階段も。しかし、すぐに道はなくなり、熊笹をつかんでの直登に。それでも滑るし。花崗岩の山体を布目川が侵食した急峻斜面を体感できました。東の郭の下に出ました。
先人のレポート通り、本郭周囲の造りは凄いです。本郭への道はないし、直登も場所を選ばないと無理です。
砂防ダム脇を通って下山しました。麓の説明板位置は、大物の城主だった山田道安の石碑の下に立てられてたのですなあ。先人の投稿の写真もちゃんと見とくべし、そして、Googleマップは参考程度に。

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カズサン

総堀土塁 (2024/02/10 訪問)

 「大手門跡から各門跡を探訪」のつづきです。

 吉田城惣堀を豊橋市文化財センターのHPを拝見して居ましたら吉田城址保存活用計画が見れるようになっており、総堀土塁の保存計画に入ってる事が記されて居り今回訪ねる事にしました。
 場所は豊橋刑務支所の東側の通り沿いに当たります。約100m程、北の朝倉川まででしたら約170m程在ります、堀は道に成り土塁が残されていました。
 高さと言い幅広さと言い存在感のある総堀土塁でした。
 惣堀の範囲は北を豊川、朝倉川が抑えて、東西約1,400m、南北約700m、総面積837,000㎡に及ぶと解説板にありました。

 続きます。
 

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カズサン

大手門跡から各門跡を探訪 (2024/02/10 訪問)

 「川手櫓・脇多聞櫓台から水門へ」のつづきです。

 大手門跡をグーグルマップ史跡マークで位置を確認しておき、豊川沿いの水門跡探訪後吉田大橋へ登り国道1号線を南下しポイントの「豊橋市八町通3丁目123-3、五月寿し店の前」大手門跡標柱を発見。
 
 写真撮影し12時を少し回って居ましたので、ひなびたすし店の五月寿しで昼食、リーズナブルランチメニュー800円握りと赤だし付きを頂きました、老夫婦で営んでるすし店で締めにプチコーヒーとビスケットをサービスで頂きすっきり爽やか、小さな店で後よりご夫婦連れ2組入り満員の状態。
 
 五月寿し店を後に国道一号線の陸橋を渡り豊橋市公会堂の横を通り三の丸口門へ、左右の土塁と門跡の鏡石を確認素晴らしい、此処は歩兵第18連隊の出入口でも有りました、三の丸土塁は東の美術博物館駐車場まで残って居ます。
 三の丸、二の丸に入り、二の丸口門跡の石標柱を確認、二の丸の着到櫓台と石標柱を確認、二の丸御殿跡石標柱も確認、二の丸土塁も東側は残っており東の門跡を通って二の丸堀を確認、三の丸の川毛口門跡と左右の土塁も確認。
 三の丸堀、二の丸堀とも埋められて道に成っております、二の丸堀は埋められて公園広場の一部に成っています。

 訪ねませんでしたが、大手門の在る吉田城惣堀の東の端に吉田宿東惣門跡「豊橋市八町通5丁目73、八町もちやの前」が有り1/2サイズの惣門が展示されて居ます、同じく西端に吉田宿西惣門跡「豊橋市湊町15」国道23号線沿いに1/2サイズの惣門が展示されている。また別の機会に訪ねたいと思います。
 
 続きます。

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ランフランコ

#31 磯城 (2024/02/10 訪問)

信貴山の山頂であり、朝護孫寺の空鉢護法内に記念碑のみ残ってます。

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イオ

湖中に残る石垣 (2024/02/11 訪問)

発掘調査現地説明会に続いては、湖中に残る本丸石垣を見に行きました。前回登城時は湖中に沈んでいて見られず、2年前の渇水時には来られなかったことから、今度こそは! と念じつつも、2月に入って急速に水位が回復していると聞き、やきもきしていましたが……何とか間に合いました(発掘調査現地説明会がなければ、3月予定の高島市の城めぐりの前に立ち寄るつもりでした)。渇水は1月がピークだったようで、肉球さんの投稿された写真と見比べると、石垣の東辺はほぼ沈んでしまっていますが、南辺ははっきりと確認できましたし、念願を果たすことができてまずは満足です。

せっかくなので本丸周辺もぶらぶらと。「麒麟がくる」放送中の前回は週末には公開されていた本丸跡(企業敷地)も、さすがに今回は閉ざされていました。本丸跡道向かいの明智塚に手を合わせて東南寺へ。この日も東南寺の門には柵がされていましたが、柵越しに覗く境内の石仏群が明智一族の首塚(供養塔とも)のようです。そして東南寺の西側の城址碑で坂本城跡の見どころをひとめぐり。…早っ!(笑)

数年に一度の湖中に残る石垣を見ることができてさえ、こんなに見どころが限られているんですから、やっぱり今回の発掘調査の成果は何とか残していただきたいな、と改めて実感しました。
 

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todo94

城カードゲット (2023/12/27 訪問)

島原城の入場料が、700円、駐車場代が500円、城カードが350円。ここだけで1550円もかかってしまいました。いつも原城と抱き合わせてしまうので島原城は駆け足での攻城となってしまいがちなのですが、今回はここから諫早方面に引き返す予定なので、島原城にそれなりに時間をかけることができます。廊下橋跡や二の丸周りの堀などじっくりと散策させていただきました。

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稲荷曲輪についてのそこそこ長い案内 (2024/02/11 訪問)

躑躅ヶ崎歴史案内隊のEです。
当隊は躑躅ヶ崎館跡こと史跡・武田氏館跡でボランティアガイドを行う有志甲冑集団です。

2月11日は初午いなりの日。
隊のツイッター(現:✗)でいなりの日だからと
沖縄のソウルフード・いなりずしを紹介しかけて思いとどまり
そういえば躑躅ヶ崎館にも稲荷曲輪ってあったよね、と紹介したのを再編して
躑躅ヶ崎館の鎮守の森・稲荷曲輪を案内します。

躑躅ヶ崎館は複数の曲輪によって構成され、
稲荷曲輪は主郭や西曲輪から空堀を隔てた北側にある
東西20m、南北15mほどの小さな曲輪です。

現在は(主郭や西曲輪のような)土塁ではなく、堀とおぼしきくぼみに囲まれ、
一部には石垣が積まれています。
長らく雑木林のように木々に囲まれてましたが、
昨年周辺を伐採して、曲輪としての姿をはっきり見せています。

甲府市教育委員会の発掘調査報告書をみると、
稲荷曲輪は躑躅ヶ崎館の鎮守として御崎社(=稲荷社)を祀ったと伝えられます。
現在もキツネの像が並ぶ小さな石祠があり、時折お供え物も見かけます。

報告書での表現が「御崎社(=稲荷社)」となっているのはどういうことかというと、
山梨県神社庁サイトなどネットの情報をひもとくと、
もともと武田氏では信虎公の時代、甲府に住まう前の石和の川田館に
館の守護として御崎神を祀っていたのを甲府に移したとのことです。

この御崎神はミサキ、すなわち神の先触れとなる精霊的な存在全般を言い表します。
稲荷神の使いである狐もミサキの一類であり、
民間信仰では稲荷神と狐とがしばしば同一視されることから、
いつしか御崎社と稲荷社が混同され、俗称として稲荷曲輪の名前で現代に残ったようです。

ただ、躑躅ヶ崎館に設けられた御崎社は、
甲府城築城に伴い甲府市美咲の御崎神社として遷座され現存しています。
ここからは推測になるのですが、遷座後も祠が残っているというのは、
地元の信仰の対象として、ちょっとした鎮守様のような役どころとして
祀られていたのではないかと考えます。

また、曲輪を囲む石垣は大手石塁などと同じ野面積みですが、
いつごろ積まれたか示す資料が見られず、はっきりしてません。
(実は、稲荷曲輪自体発掘調査された記録は見受けられません)
武田氏時代は土塁を築くのが主流なので、
少なくとも武田滅亡後に入った支配者によって改修されたか、
あるいは廃城後に地元住民が神域として補修したのかと
これも勝手に推測しています。

躑躅ヶ崎館跡の北側には、古図面によると稲荷曲輪のほかにも
御隠居曲輪、味噌曲輪、無名曲輪が設けられ、ひっくるめて北曲輪と称されますが、
これらの曲輪は現在はほとんど農地などに開発され、
稲荷曲輪が唯一曲輪としての面影をとどめています。
先述のとおり、昨年周辺の伐採によって曲輪の姿がみやすくなってますし、
隣接する味噌曲輪では現在発掘調査が進められてますし、
また、甲府盆地の北の山々、信玄公生誕の地として知られる要害山城を望むこともできます。
躑躅ヶ崎館を訪ねた際には、城郭の北側も散策してみてはいかがでしょうか。

長々と続いた案内文におつきあいくださりありがとうございます。
とアフィブログみたいな〆をしますが当方には1円も入ってこないシステムになっております。
と、ガイドのときの鉄板ギャグをして案内を終わります。

どうでもいいことを付け足したくなる性分なので付け足しますが、
「無名曲輪」の名前を思うたびに、「無名祭祀書」の語が脳裏をよぎってなりません。

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しんちゃん

清龍寺徳源院・京極家菩提寺  米原市清滝 (2019/11/24 訪問)

清龍寺徳源院は鎌倉時代から戦国時代まで北近江を支配した佐々木京極氏の菩提寺です。弘安9年(1286)京極氏初代の氏信によって建立されたと伝わります。寛文12年(1672)に讃岐国丸亀藩主二代目、京極高豊によって京極氏の墓が集められ三重塔も建立されました。
境内は元々、氏信の柏原館が有った所とされ回遊式庭園は春には道誉桜と称されるしだれ桜が咲き誇ります。訪問した時は秋ですが紅葉が見事でした。

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しんちゃん

総石垣の見事な山城 (2019/05/02 訪問)

若桜鬼ヶ城は八東川の南西の標高452mの鶴尾山山頂に築かれています。天正9年(1581)の鳥取城攻めの後に羽柴秀吉の家臣・木下重堅に与えられ、関ヶ原の合戦で重堅は西軍につき改易となりますが、若桜鬼ヶ城はそれまでの間に総石垣の城として近代化がなされたようです。出丸である六角石垣の周辺と本丸・二の丸・三の丸のある主要部は見事な総石垣となっており、本丸には天守台が築かれ、北に二の丸、三の丸が配されています。南北に城域が連なり主要部の東西の壁面には石垣が良く残っています。
マ〇〇さんが「鳥取には砂しかない」とおっしゃっていましたが、鳥取には「すなば珈琲」と素晴らしい山城が多く残っています。(他には無いんかい?)

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しんちゃん

高館義経堂 平泉町平泉柳御所14 (2015/05/04 訪問)

高館義経堂は北上川に面している丘陵上に建てられ判官館(ほうがんだて)とも呼ばれています。頼朝に追われた義経はこの地に居館を与えられますが文治5年(1189)4月30日に藤原泰衡の軍勢に急襲され妻子とともに自害したと伝わります。
鞍馬山に始まる義経巡礼の旅はここで終焉を迎えるのですが、東北各地には「義経北行伝説」にまつわる地が幾つもあるようです。高館で亡くなった義経が実は別人だったとしたら、この地は義経第二の伝説の出発地になるわけですね。
高館跡に建てられている義経堂は仙台藩主四代伊達綱村公によって建てられたとされています。

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しんちゃん

怪しい模擬天守もすでに無し。 (2015/05/04 訪問)

岩崎城は夏油川の北に接する丘陵上に築かれていて、西から三の丸、本丸と続き北に二の丸が配されています。三の丸には枡形状の虎口が付いていて、周囲に土塁が残っています。本丸と三の丸の間には空堀があり、その上に橋が架かっています。
かつては本丸には天守を模した公民館が建っていましたが老朽化のため解体され、訪問時には神楽殿が建っていました。
城主岩崎氏の主筋の和賀(鬼柳)氏の子孫と私は旧知の中で、この城の話をしたら驚いていました。〇〇さん、元気にやってますかねえ。

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しんちゃん

古代における東北の拠点 (2015/05/04 訪問)

胆沢城は古代城柵と呼ばれる政庁で国の史跡に指定されています。坂上田村麻呂によって延暦21年(802)に築かれ後三年の役の時代まで約150年、鎮守府として機能したようです。敷地はかなり広かったと思われますが要所としては正殿が北側に建てられ四方を柵塀が取り囲み、四方に門が設けられており脇殿が東西に建てられていたようです。
訪問時には城址碑ぐらいしか見当たりませんでしたが整備が進んで築地塀などが再現されているようなので、また寄って見たいと思います。

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チェブ

千代さんも入れてあげて。 (2024/01/03 訪問)

「黒田城」は岩倉織田家の家老だった山内 盛豊さんの居城です。盛豊さんの子、山内 一豊さんは「黒田城」で産まれたそうです。
ですが、岩倉織田家は信長さんに滅ぼされてしまいました。盛豊さんは討死。一豊さんは諸国を流浪します。

「黒田城」はJR東海道本線沿いの黒田小学校辺りがお城跡です。小学校の一画に模擬冠木門があります。
すぐ横に川があり堀の役割をしていたのでしょう。そして、一方通行の道路。
路駐して写真をパチッパチッっとし、足早に退陣です。
私は夜の7時頃に「黒田城」に到着しました。オレンジ色の灯りが「黒田城」を照らしてます。
山内 一豊さんと馬の銅像があり、サイズ感が笑えました。
山内 一豊さんの奥様、千代さんの内助の功と言ったら有名です。
きっと銅像の馬は、千代さんが嫁入りの時に渡された黄金10枚で買った馬なのでしょう。

銅像の土台部分は、デーンとしているのに、一豊さんと馬は小さいです。
だったら千代さんの銅像も入れてあげて欲しかった「黒田城」攻めでした。

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登城口脇のおたくのおじさんによると (2024/02/11 訪問)

道端の自然石の道標に従って短い坂道を登ると、民家の私道・作業場とも見える場所に。大根を洗って軽トラに積んでいるおじさんがおられて、目があったので、挨拶して、バイクを停めさせてもらいました。車なら駐車は無理かも。その少し前に、googleマップに導かれて、一本南の坂道を登っていく私を見たと。「googleマップに頼るとあっちに行くみたいやね」とも。下城後、感想を尋ねられました。北側、西側の堀も廻ったと言うと、喜んでもらいました。有志が年に一度、城域を草刈りしておられるそうです。
「昨年の大河ドラマ どうする家康 の影響で
千賀地氏城への訪問者が増えた。」「(千賀地氏城所縁の)服部半蔵が握り飯一つで下知される、あまりな描写は、地元民としてとても残念」とも。

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