【楪城】
<駐車場他>駐車場あり<35.031705, 133.428382>、登城口<35.032108, 133.428640>前にも縦列駐車3台分程あり。
<交通手段>車
<見所>曲輪・切岸・堀切・石垣跡
<感想>現地説明板によると、楪城の築城は鎌倉時代末期頃に新見氏によって築城されたと思われる。戦国時代に三村氏の侵入によって城主新見貞経は行方不明となる。1567年に三村元範が城主となるも1575年備中兵乱で毛利方の小早川隆景軍2万が押し寄せ落城します。その後、楪城は毛利方の吉川元春の城となり家臣の今田経高が城番となります。関ヶ原の戦い後に城は廃城となったようです。
上記登城口から城跡までは700mあります。登山道は主郭北側の尾根上まで軽自動車1台分が通れる舗装道になっていて非常に登りやすいです。城跡は南北に非常に長く全長1㎞以上はあります。主郭の北西部下段に2段曲輪があり、ここから城跡に入ります。主郭南側に敵を誘い込む花の丸という曲輪があり虎口土塁で狭く塞ぎ、中が広い削平地になっていて凝った造りになっています。主郭は南北に広い長方形の曲輪で北側が少し上がって土壇か土塁のようになっています。主郭南下段も広く、トイレも設置されています。主郭~2郭までは細長い尾根上曲輪で繋いでおり、帯曲輪と表示されていますが馬場曲輪といった感じです。石積みの櫓台跡があります。2郭は三日月状の曲輪で切岸が高いです。2郭南下段の南に堀切があり、そこから南に現地縄張り図では尾根曲輪になっていますが、あまり曲輪感はないです。200~300mある尾根曲輪には防備遺構が表面観察では無く、私が城主なら連続大堀切を造成するのになあ。といったような遺構です。
尾根曲輪南に大手道と繋がる舗装道があり、その南に3郭があります。3郭北側に大堀切があり3郭から城跡が石垣造りになり様相が一変します。3郭北下段の曲輪には転落石が多くあり進入口は枡形の虎口跡らしき石列が薄っすら残っています。曲輪壁に石垣は残っていませんが、表面に見える落ちている石の数も相当なので石垣が組まれていたことが分かります。3郭内にも石列や礎石らしき平たい石が地面に見えています。石組井戸も中心部にあります。
現地説明板には本丸が新見氏時代で2郭・3郭が三村氏時代に増築されたと思われるとありますが、私の考えでは3郭だけがポツンと離れており別郭2城のような感じを受けたので、3郭だけが三村氏・毛利氏時代に増築・改修したものと考えます。帯曲輪にある石積み櫓台もこの増築・改修時に設置したものかと。残りが全部土造りの城なので。
城跡はとても良く整備されていて、主郭周辺に楪の木が沢山あります。遺構も見応えあり、いい城跡でした。
<満足度>◆◆◆
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