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ぴーかる

大野城 (2024/05/11 訪問)

【大野城】
<駐車場他>城山公園駐車場あり。
<交通手段>車

<見所>土塁・曲輪・模擬天守
<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅9城目。大野城は南北朝時代に一色範光が築城したと思われます。一色氏は応仁の乱の後に次第に勢力を失い尾張守護の土岐氏に城を奪われます。家臣の佐治氏が入城し4代続きます。佐治一成(一説にはお江の夫、のち離縁)は小牧長久手の戦いの後に退城し廃城となったようです。
 北の駐車場からは曲輪が連段にあり、途中に櫓台のような方形の削平地も見られます。主郭の南側に空堀が見られます。主郭は狭く模擬天守、模擬天守の向かい側に櫓台跡があり佐治神社が祀られています。模擬天守内部に資料が展示されています。模擬天守からの眺望は良く、織田長益の関連は分からないが大草城が目鼻先の距離に見えます。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

見えないバリアー (2024/02/11 訪問)

現地の案内板によりますと、山田城は鎌倉時代から室町時代にかけて、この地を支配した山田氏が住んだ城館とされています。山田氏は志那・矢橋(いずれも草津市)とともに当時の良港であった山田港を押さえるために、ここに城を築いたとされています。
かつては円形の郭に二条の堀を巡らせてあったとされ、武道館の内部にその範囲を明示してあるとのことです。でも武道館の中は小学生くらいの子供がいっぱいいたので中には入りませんでした。

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イオ

佐和口多聞櫓特別公開 (2024/06/29 訪問)

佐和口多聞櫓(国重文)と楽々園御書院の特別公開に行ってきました。姫路城・西小天守といい大坂城・乾櫓といい、特別公開という言葉に弱い私です(笑) 佐和口多聞櫓の特別公開は、耐震工事で天守内部の公開が停止されることに伴うもののため追加料金は無く、入口で当日の入城券を提示すれば内部を見学することができます。

中堀越しに佐和口多聞櫓を眺めつつ、佐和口の桝形を抜けて馬屋裏手の入口へ。安全性のためでしょうか、入口前には仮設階段が設けられています。多聞櫓内に入ると、佐和口桝形や中堀に面する土壁が二重壁になっているのが目を引きます。天秤櫓や西の丸三重櫓も大堀切側が二重壁になっているように、やはり佐和口多聞櫓も重要な防御拠点なんですね。二重壁の側には△と□の鉄砲狭間が交互に配されていて、佐和口桝形に十字砲火を浴びせる造りになっていることがよくわかります。佐和口門は礎石が遺るのみですが、ここに二重二階の櫓門が立ち塞がっていたかと思うと、とても突破できそうにありません。

内面は柱を見せる真壁造りとなっていますが、天秤櫓や西の丸三重櫓と異なり貫(水平材)は塗り込められていて、そのため内壁が波打って見えるのが特徴的でした。また、西側の防火間仕切は壁土を塗り直したばかりなのか、白さが際立っています。そして防火間仕切の奥の部屋の扉の向こうは西接する二重櫓…のはずですが、特別公開はここまで。二重櫓に入れなかったのは残念でしたが、佐和口の堅固な備えを体感できたこと、様々な内壁を見られたことなど、2~3月の特別公開時に来られなかった分、今度こそはと勇んでやって来た甲斐がありました。

次は、楽々園御書院の特別公開に向かいます(続く)。
 

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赤い城

垂水城 香川県丸亀市 (2024/06/23 訪問)

城びと未登録、古城山浄楽寺が城趾です。
周囲は住宅地と農耕地で駐車場はありません。
境内の北西部に土塁が一部残っています。
お寺の前の道路はややカーブしていて堀跡かと思います。
室町時代に豪族の藤田大隈守が築城した平城とのこと。

また余呉さんの余呉図コレクションによるとここから少し北東に歩いたところに垂水館参考地があるとのこと。
行ってみました。
農耕地になっていて遺構は無さそうですが南側の道路がややクランクしていてそれっぽい感じを見ることはできました。

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todo94

カメラの落下破損 (2024/06/22 訪問)

早稲田高等学院が愛宕山砦の比定地とのことで当然中には入れません。石神井川沿いからグーグルマップの太田道灌愛宕陣比定地のポイント辺りを撮影してみました。その後、シェルさんのお薦めに従って三宝寺に向かう前に一眼レフカメラを落っことしてしまいました。御成門や勝海舟邸の屋敷門であった長屋門の写真を撮ろうとして撮影不可能であることを知り愕然としてしまいました。Nikonはもうミラーレスに移行してしまっているのでかなりのショックです。三宝寺関係の写真は、スマホのカメラで撮影したものです。

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天守無しがアツい

八王子城 御主殿跡 (2024/06/29 訪問)

八王子城にはいつか行こう…と前々から考えてはいたのですが、「山城なので天守までの道のりが険しい…と以前ネットで調べたら出てきた。とある経験者のコメントによると…鳥取城と同じくらい😨⛰️」「つまり登るのめっちゃ疲れて汗かく」という事前情報が、何となくここを後回しにさせてたかもしれません

この日(6/29)は最初は他の場所に行く予定でした…ところが「滝山城と八王子城の御城印はセットで御城印帳にしまいたい。(滝山城は1ヶ月前に訪問&御城印ゲットしており)八王子城のためのページを滝山城の隣に空けているが、いつまでも空白のまま…だと何かスッキリしないのでそろそろ達成したい」という考えが抑えきれなくなります😅

八王子城の地図をネットで見てみたところ…その規模は広く…大きく分けて3つありました。1つ目は本丸、2つ目は御主殿跡、3つ目は北条一族の墓所および菩提寺

一回でほぼ全部周れた滝山城と違い、ここは一度で全部巡るのはちょっと無理…なくらい、城の規模がデカい事に気づきました。「朝から晩までかければ一回で終わらせられるのかもだけど、こんな壮大な城を一回で終わらせるのも惜しい」「こうなればここは周回前提…という事で…今回の訪問ではまず、ガイダンス施設とその付近の史跡…つまり御主殿跡の見学に専念しよう」という事にしてみました

JR高尾駅からバスで八王子城跡下車(平日はもっと手前の霊園前までなので土日限定とはいえここまで運行してくれるのはありがたい)🚌

バス停のすぐそばにガイダンス施設がありました。そこに入ると日本100名城スタンプに(もちろん真っ先にスタンプ帳に押印)、八王子城の城主だった北条氏照の紹介…城のジオラマを通じての各施設の紹介がありました

1枚目は滝山城と八王子城の無色ジオラマ。前者が平坦な地形を利用した造りなのに対して、後者は険しい山そのものを利用した、まさに天然の要塞⛰️ 秀吉の脅威に備えて城主氏照は滝山城→八王子城に本拠地を移動するわけですが、この対比ジオラマからもそのわけ…というか本気というか、「敵が大軍でもその侵攻を防ぎ我が領地を守り通す」心が伺えますね

この城から発掘された品々を紹介する展示はいくつもありましたが、実物を置いてるのはガイダンス施設だけ(他は写真のみ)。なのでそれを2枚目にすることに

焼けて炭化したおにぎり🍙…火縄銃の弾丸🔫…土玉(忍者道具のまきびしの一種らしい)…が写ってると思います。(写ってる範囲の外側には)中国製の陶磁器やベネチアングラス(の破片)がありました

当時そういう海外からの輸入物を持てるのは大名もしくは寺の坊さん…つまり身分が高くて金持ちに限られたそうです。そして大名でも弱小勢力…経済力の乏しい者は買えなかったのではないでしょうか?

「どうする家康」にて金平糖一袋で城がいくつも建つ…それだけ輸入品が超高価と伺えるシーンがあるのですが、それならばベネチアングラスも同様でしょう🥂 城主北条氏照がどういうルートでそれを入手したかは謎に包まれてるそうですが、伊達に秀吉の天下統一に最後まで抗った存在ではない…それだけの国力があった事がここからも伺えるのではないでしょうか?

ガイダンス施設を出てしばらく歩くと城跡の模型があり、さらに歩くと喫茶店や自販機にトイレがありました。そこをさらに奥に進むと歩道があり、大きな橋があってそこを渡ると石垣がありました(3枚目)

何とこの石垣…築城当時のものがそのまま残ってる珍しい存在だという事が紹介文に書かれており「という事は他の城の石垣はほとんど後世の復元ということ?とにかくそんなに稀有な存在なら撮影しないわけにはいかない」と思ったので撮影

砂岩を利用して一つ一つ丁寧に積み重ね、隙間には小石を敷き詰める…石垣の裏側にはたくさんの砕いた石を入れている…全体として強固な石垣としている…と紹介文にあり。それだけ手のこもった造り方をしたからこそ、数百年経った今にまで残ったのでしょう🪨🪨

両側に石垣のある道を進み門を潜ると御主殿に到着。かつてここには広い屋敷と池が備わっていたそうです。建物は2つあり、宴会をおこなうための屋敷は(4枚目のとおり)床のみ復元されてました

それにより建物の見取り図が分かる…◯畳の部屋がいくつあったのかが分かる…というわけで、柱の跡しか残ってない屋敷跡よりも視覚による理解がしやすいかな🏠

秀吉軍の脅威に対して防衛を固め、城内で軍事訓練をおこなう一方で、この場所にて宴会をおこない、お偉いさん(氏照やその側近、大将クラスの者)はベネチアングラスに酒を注いで「敵が何万で攻め寄せようとも、この城は絶対に落ちぬ。太閤(秀吉)の天下取りなぞ夢のまた夢よ…フハハハ😆🤣🥂🍶」と談笑し、息抜きをしながら優雅なひと時を過ごしていた

そんな当時の姿を脳内再生してみました

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しんちゃん

長丁場・体力、水はしっかりと (2024/01/28 訪問)

八王子城の投稿です。標高445mの深沢山山頂に本丸が築かれているのですが、とにかく城域が広いです。今回は御主殿・本丸・本丸西側の曲輪・詰の城まで含め3時間半の散策となりました。比高は240m程度なのですが、段差が結構あるので下りは、なかなか膝に来ます。
詰の城まで訪問する場合は知らず知らずに体力を消耗するので休息を挟んで行くと良いと思います。八王子城は信仰の山でもあり本丸付近に八王子神社が祭ってあります。鳥居をくぐって先に進み、金子丸・慰霊碑・石垣?と順に訪問しながら八王子神社に到着です。

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しんちゃん

矢島御所 滋賀県守山市矢島町 (2024/02/11 訪問)

矢島御所は室町時代最後の将軍・足利義昭が永禄8~9年(1565~1566)にかけて居住した居館とされています。明治6年頃にはまだ三方を囲む土塁が残っていたようですが、今は矢島自治会館の周辺に、わずかな土盛りが残るのみです。かつては土塁の外側に二重の堀が巡らされていたようですが、周辺の道路や少林寺の境あたりになるのでしょうか。

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キンヤ

離島にある南北朝時代の城跡、名古屋城築城の石丁場 (2024/06/22 訪問)

知多半島の南先端にある師崎港からフェリーで篠島港へ渡り、篠島内は徒歩で巡りました。

南北朝時代に室賀秋季が築城したと云われます。
南朝の義良親王(後の後村上天皇)が東国へ向かう途中に暴風雨に遭遇して篠島に漂着し、滞在したとされます。
山頂部の広い主郭は城山水神天狗となっており、低いですが北側に土塁状が見られました。
主郭の周囲に郭が見られますが、薮や個人宅になっていて、どこまでが縄張りか分かり辛いです。
大した遺構は見られませんでしたが、愛知県では唯一島に残る城跡ということで(日間賀島に「城ノ山」と記される伝承地があるそうですが)、尾張に住む私としては行くことができて良かったです。

篠島には、加藤清正が名古屋城築城のため、石垣の石を切り出した石丁場(採石地)があります。
海岸の石丁場は、篠島小・中学校の北西側の小山べた・ホラボウズといわれる所から、南西側の南風ヶ崎にかけて矢穴石が多いです。
小山べた・ホラボウズへは、干潮時でも濡れた岩場を渡る必要があり危険ですが、見事な矢穴石があります。
南風ヶ崎では篠島内で最も矢穴の数と列も多い巨石を間近で見ることができ、切出し途中の状態がよく分かり、1番の見所と思います。矢穴の残石もいくつか見られました。
陸上の弁財採石地でも矢穴の数が多い巨石があり、矢穴の残石も見られました。
お寺の庭や街中に再利用残石があるとのことで、狭い道が入り組んだ街で探すのは難しかったですが、いくつか見付かりました。
篠島城に行かれる際は石丁場・残石にも併せて行かれることをお勧めしたいです。

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小城小次郎

意外と大きなお城だったという (2024/01/13 訪問)

荒木村重が最後に籠ったお城として知られるお城の一角にある花隈公園はやたら石垣が目立つがお城との繋がりはない(高低差はイメージできるけど)。実際の本丸はこの公園の4倍くらいあったそうで意外と大きなお城だったらしい。

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零汰

美しい堀切 (2022/11/20 訪問)

訪問データー:1時間20分:1.9km:累計高低差254m

その日の一番最初に訪問開始したのは朝6時半、川添の案内板の前にバイクを停めました。そこから苦手な民家の小道を通り抜けます。一軒の番犬がこちらを見た途端に唸り吠える、随分の間吠え続けていました。悪い事をしているつもりはないが少し後ろめたくなります。

案内に従って寺丸・大夫丸を過ぎるといよいよ六の丸からの段曲輪が始まります。北側通路からは急勾配の虎口や境界の石列?が良く見えます。一番の見所の本丸土塁と背後の堀切も美しいです。こちらは迷うことなくサクサク歩けますし案内も必要最低限で気分がいいです。

気分よく降りてきて来たところ先程の番犬にまたも吠えられる。こちらに限らず良く犬に吠えられます。忠犬なんでしょうけど。民家周辺は苦手です。

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しんちゃん

八王子城の支城 (2024/01/28 訪問)

小田野城は北浅川の西の丘陵上に築かれており北に練馬街道が通っています。八王子城の出城とされ、頂部には主郭が広がり、南側には土塁が残り、北側には高地になっている場所があり、見晴らしは良さそうです。周囲にもいくつか曲輪が有るようでした。南の城山霊園から西に進むと、城に入る道が有るので、そこから訪問しています。ちなみに車はポリに捕まらない場所に停めてあります。

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しんちゃん

金森御坊 (2024/02/11 訪問)

金ケ森城は善立寺の周辺に築かれていたとか。 川那辺氏の城(居館)だったのだけど、浄土真宗がブイブイ言わせていた時期に城主が浄土真宗に帰依し城跡がそのまま「金森惣道場」になったのだとか。
若き日の金森長近がここで過ごし、地名を取って「金森」姓を名乗ったとされています。

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カズサン

丘陵南東端の小代氏館 (2024/06/08 訪問)

 高坂氏館を終えて、昼食を近くのピオニウォーク東松山店で摂り、高坂氏館からは南東に約1.3km程、ピオニウォーク東松山店からは南に約0.8km程の所に在る、小代氏館(正代館)を初登城。今回の源範頼館、野本氏館、高坂氏館に次4城目でラストに成ります。

 駐車場:小代氏館跡地の青蓮寺北門柱西横の参拝者駐車場を利用。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 北の門柱より入り南行、西行し青蓮寺本堂参拝、西横に弘安4年銘板石塔婆が祀られている、石板塔婆が屋根付き建物で覆われて、標柱、建物には小代重俊供養塔の表示看板、解説板が設置されて、小代氏の系譜、経歴なども記されている。
 弘安4年と言うと2度目の元寇の弘安の役の年に成り、小代氏は地頭職が肥後(現在は熊本県荒尾市)であり参陣したのでしょう。
 
 本殿の南に山門が有り、2段に成って南の川方面に落ちている、南から見ると郭の切岸が連なってるように見える、南を沼、河川で守り北、西、東は堀土塁で防ぐ城館で有った様ですが、堀跡、土塁跡は確認できていません。
 南側の見通しは非常に良い。東の都幾川、南の九十九川、越辺川に囲まれてる丘陵先端部、この丘陵には北西部先端に高坂氏館が構えてる。川は最終的には荒川に注がれているようです。

 4城を終え、高坂氏館の土塁と深い堀に感動し浜松に帰路を取り、順調な高速道路走行でした。
    

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赤い城

原田しろあと館 (2024/06/21 訪問)

阪急曽根駅から西に徒歩7分くらい。
周囲は住宅地となっています。

原田しろあと館が城趾で説明板も立っています。
皆さんのレポートにあるように平日は閉館、やむなく外周を回るのみの登城となりました。
(とは言っても1周はできません。)
土塁が残りますが外から見上げるのみ。
少し西に行くと原田井の洗い場がありました。
かつては水路が巡っていたようです。

原田城は北城と南城で構成されますがしろあと館がある所は北城。
南城の跡にも向かいましたが更地となっていて遺構は残りません。

このしろあと館ですが開館日の土日にはイベントも催され、地元の皆さんの憩いの場になっているようです。

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しんちゃん

丸亀城の石垣 (2018/01/03 訪問)

日本百名城の丸亀城は標高66mの亀山を利用して築かれた総石垣の渦郭式の平山城です。三の丸から右回りに回りながら登っていけば本丸にたどり着きます。三の丸には麻生にあった丸亀藩京極家の江戸藩邸の一部が移築されており「延寿閣別館」の案内板が立っています。
本丸の北側には三の丸井戸という花崗岩製の立派な井戸があり、深さは31間(約56m)もあるそうです。城外への抜け穴伝説もある不思議な井戸です。
丸亀城の石垣は総高60mもあり、単体で一番高い部分は三の丸で22mにもなるそうです。全体の高さだけならユルい山城に匹敵すると思います。ふもとの方には野面積の石垣が残り、やや古い時代のものと思われます。

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しんちゃん

鬼ノ城 屏風折れの石垣 (2013/12/15 訪問)

鬼ノ城の「西門」に並ぶもう一つの見どころが「屏風折れの石垣」だと思います。1300年前に築かれた山城ですが、詳細は不明で案内板には温羅(うら)と呼ばれる一族が朝鮮より渡来し居住したと言われていると書かれています。平安時代には山上仏教が栄え、大規模な伽藍が多数建っていたとも記載があるので密教仏教がここで隆盛を誇っていたとも考えられます。
これだけ不明な点が多いにもかかわらず、鬼ノ城が百名城に登録されているのもすごい話ですが、訪問して見ると、そのスケールと雰囲気に圧倒されました。少し異世界訪問の感覚が入ってますね。

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ぴーかる

大草城 (2024/05/11 訪問)

【大草城】
<駐車場他>大草公園駐車場5台程あり。知多市観光協会にて御城印販売・パンフレット・城カードもらえます。
<交通手段>車

<見所>水堀・土塁
<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅8城目。現地説明板によると大草城は、織田信長の弟で織田長益(有楽斎)が知多郡南部の大野谷を拝領し大草の地に築城し始めましたが、本能寺の変により築城途中で断念した幻の城である。織田長益は小牧長久手の戦いの後に秀吉から摂津国へ転封になり廃城となりました。
 城跡は平山城となっていますが丘城といった感じで小山の周囲を水堀で取り囲み小山に大きく主郭と2郭を配しています。小山とはいえ、空堀はよくありますが、切り立った崖の際に水堀が残る中世の城跡は珍しいのでなかなかの見応えがあります。山頂の主要部はだいぶ大きく削平しており、全体を高土塁で囲んでいて主郭と2郭の間に仕切り土塁があります。主郭はグラウンドになってしまっているので、そこにある古い模擬天守も遺構を邪魔した感はなく味があります。周囲の土塁は高土塁で土塁上が散策できるようになっています。なかなか楽しめました。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

へいっ (2024/02/24 訪問)

畠中城は奈良時代には神前氏の先祖となる渡来人の館で、平安時代には当主・神前清実が源行家を匿ったとされています。戦国時代には根来衆の城として築造され、元亀元年(1570)の野田城・福島城の戦いで織田信長に敵対し落城、天正13年(1585)の豊臣秀吉の根来攻めの際にも攻撃を受け落城したとのこと。江戸時代には本丸跡が要家の庄屋屋敷となり、要家は岸和田藩より七人大庄屋の一人として列せられたそうです。
今でも誰か住んでいるようですが、要氏の子孫の方かどうかはわかりません。長屋門(南側)の写真を取り損ねたので、別の写真で代用します。北側の壁が少し倒れかかっているようです。江戸時代から使われているのであれば維持は大変だと思います。
「壁が倒れるぞー」「へー ほうかい」 などと言ってはいけません。

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しんちゃん

青蓮寺城から虹を見上げる (2024/02/18 訪問)

三重県名張市青蓮寺に存在した青蓮寺城は青木城とも呼ばれ、地蔵院の周辺が城址になっています。地蔵院まで車で行けば楽なのですが、今回は南側の麓から登っています。こちらからだとなかなか比高があり、角度も急でかなり急峻です。途中にいくつか曲輪跡かもしれない扁平地がありました。南側には遺構はありませんが、北側三方を囲っている土塁はかなりの高さがあるようで、外側を堀切が巡っています。案内板によると天正9年9月の第二次天正伊賀の乱の際に織田信長が4万の軍を率い伊賀国に攻め込んできて、青蓮寺城は上出城、雪岡城、愛宕山砦らとともに焼き払われてしまったとあります。実際の総大将は織田信雄とされていますが、この周辺でも激しい戦闘が行われたのだと思います。
この日は城址から虹がキレイに見え、帰途に就いた先でも良く見えていました。というより、かなり明るいですね。ふもとの方が照らされて明るくなってます。

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