静岡県御前崎市の舟ヶ谷の城山は井伊直政の恩人である新野左馬助親矩の城です。城跡には連続する堀切が7つも良好な形で残っており戦国時代の山城の堀切を体験するには格好の教材だと思います。
その遺構の見事さから、徳川か武田によって改修をされているものと考えられています。主郭が無くなってしまったのは残念ですが、それでも十分に楽しめます。
桶狭間の合戦のあと、今川氏は衰弱し家康を始めとした、領主や武将達の離反が相次ぎます。井伊家当主の直親は讒言により氏真に謀反の疑いをかけられ掛川で殺害されてしまいます。直親の嫡子・虎松(直政)も命を狙われますが新野左馬助によって母の「ひよ」とともに屋敷に匿われ左馬助の助命嘆願によって命を救われたそうです。
左馬助は後に、今川から離反し翻意を露わにした引馬城の飯尾連龍(遠州忩劇)を攻めている時に討死してしまいます。左馬助には一男七女があったとされ、息子の甚五郎は北条氏に仕え、小田原征伐で戦死してしまったそうです。徳川家康は井伊直政の恩人の嫡子が小田原にいることを知り、直政に呼び寄せるように申し付けますが、果たすことは出来ませんでした。直政は左馬助の娘たちを家臣に嫁がせ、その子孫である木俣家に井伊直弼の異母兄・中守が養子として入り、後に新野親良と名乗ったそうです。
親良は井伊家家老として幕府大老である弟を助け、直弼の死後も幕末から明治の初期にかけて彦根藩を支え続けたそうです。
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