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赤い城

鹿角城 香川県高松市 (2024/06/30 訪問)

高松空港に向かう国道193号線を少し入ったところにあります。
「かのつの」城と読みます。
城趾には鹿角神社が鎮座し、城趾の石柱が立っています。
周囲は水田で遺構はありません。
裏手の水路が堀跡なのでしょうか。

新居氏の居城でしたが長宗我部氏の侵攻により降伏しました。

近くには剛麺で有名な中西うどんさんもありますよ。
ここも美味しい。

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火ノ島豊後守正宗

川越城 (2024/07/10 訪問)

正73城目。
JR川越駅より川越城下町をねり歩きながら徒歩30分程度で到着しました。
ちょっとした城址公園です。正直言うと城郭よりも城下町の方が見る価値は大きかったですね。着物姿の観光客が城下町に映えました。

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ぎりょう

信州の五稜郭に感動! (2024/06/29 訪問)

今年もはや半年を過ぎて、前半の締めとして、長野県佐久市と小諸市に。一日目の午前中は日本に二つしか無い五稜郭、龍岡城(本来は陣屋)を訪問することができました。
この城は江戸時代終わりの文久3年(1863)に大給松平氏の乗謨(のりかた)が三河国奥殿から信濃国田野口に移封、稜堡式の城郭の建設を申請し、翌元治元年3月に着工されます。慶応三年(1867)四月に建物が完成し竣工式を行ったといいますが、実際は未完成のまま工事は中断されたようです。当時乗謨は、老中格・陸軍総裁の要職についており、崩壊寸前の幕府内にあって、自領の城を完成させる余裕は無かったのでしょう。
星形稜堡の五稜郭は平野に築かれてこそ本来の機能が発揮されるのですが、城地の北側には山が控えており、もしそこが敵陣となり砲弾を浴びせかけられれば、たちまち落城してしまうことを、早くから洋学を志した乗謨には承知のことだったと思います。生涯に一度の築城のチャンスに、これまで学んできた洋式城郭の知識を集大成した思いが伝わってきます。
城内の堀や石垣、土塁、現存建物である御台所など遺構はとても良く保存され楽しめたのですが、やはり全体の姿が観たくなるのが城好きの習性です。城址の北側に位置する中世山城、田口城跡にある「五稜郭展望台」に向います。ここ数年里山でのクマ出没で休んでいる山城探訪のせいで身体もなまっており、前夜の雨でぬかるんだ、比高150mほどの登城路を息も絶え絶え登りきりました。函館五稜郭の半分ほどの規模なのですが、青空の下の五稜郭の姿にとても感動しました。




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しんちゃん

詰の城・天守台 (2024/01/28 訪問)

前回の八王子城の投稿ですが、北条氏直公らの話で少々脱線気味でした。これも伏線の一つとしてご容赦を。
さて本丸から大堀切を経て詰の城に向かいます。城びとで詰の城まで行かれている方は二名おられるようで、やはり首都圏の城びとにとって八王子城は特別な城みたいです。詰の城までは少し距離がありますが、大きな起伏も無いので遺構を楽しみながら進むことができます。目的地に近づいてくると周辺に石垣が目立つようになって来ます。思ったより広い範囲に築かれているようですが、麓の御主殿ほど洗練されてはいないようで、いつごろ築かれたのか興味の湧くところではあります。正直思ったより広く、立派で驚きました。本丸周辺ほどの広さは無いですが、なかなか見応えのある遺構が残っています。かなり大規模な破壊を受けたようで途中、至る所に石が散乱しています。
地元が配布しているパンフレットなどでは、だいぶ控えめに記載がされている詰の城周辺ですが、安全面と遺構の保存のための配慮かもしれません。とにかく遺構を壊さないように気を付けて周辺を散策します。

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キンヤ

「家忠日記」を記した松平家忠の誕生地で城主を勤めた城跡 (2024/06/08 訪問)

NHK Eテレ 先人たちの底力 知恵泉「松平家忠日記に見る戦国処世術」を見て興味を持ち、家忠の誕生地と紹介されていた深溝城と瑞雲山 本光寺に行きました。 
 
「松平家忠日記」は、家忠自筆の天正3年(1575)から文禄3年(1594)までの17年間の日記で、戦国時代の様子を伝える貴重な史料として重要文化財に指定されています。

深溝城は、鎌倉時代又は室町時代前半に三河大庭氏により築かれました。
16世紀前半に大庭氏が松平氏に討たれた後は深溝松平家の居城となり、深溝松平家4代の家忠も城主を勤めました。
後の寛永16年 (1639)、板倉氏が深溝陣屋を構えました。
城跡は工場と宅地になってますが、周囲を散策すると高台にあることが分かります。
工場西側の一角に城址碑が建てられており、工場東側と宅地の間の道沿いに遺構と思われる高い土塁が一部見られました。
深溝陣屋の門が医師の名家であった高橋家に移築され、今でもお宅に立派な門が残されていました。

瑞雲山 本光寺(深溝松平家の菩提寺・墓所)
深溝松平氏は各地に移封を重ね、島原7万石の大名となり明治を迎えましたが、当主が死去しても遺をこの地に運び埋葬されました。
島原藩主深溝松平家墓所として国史跡に指定されています。
東西の御廟所に分かれ、初代忠定から19代忠諒までの墓所があり、家忠のお墓にもお参りできました。6代から19代までのお墓は神殿石造りで珍しいです。
ちょうど紫陽花まつりが開催されていて、見頃前でしたが綺麗でした。

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小城小次郎

海峡を睨む、本気の台場 (2024/01/13 訪問)

一見すると明石海峡大橋を望む普通の公園だが大砲のオブジェもあるし、よく見ればW字型の石垣も垣間見える。淡路島の松帆台場と一対で明石海峡を睨みつけていた本気の台場がほぼ形を保って地中に眠っている。

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零汰

チャシって言われないと分からない (2024/05/10 訪問)

こちらのチャシに行き着く前後の風景は写真の様な風景が続いていました。枯れた熊笹の景色が崖から突き出たり小山の様になったり竪堀みたいにと。ここが目当てのチャシって分かっていないと普通に通り過ぎる事もありそうです。そんな数々のそれっぽい場所の中にも実は無名のチャシが一つ二つあったんじゃ無いかと今は思っています。

登っていないので確認していませんが中腹に濠があるそうです。気になった2条の堀切のように見える跡は遺構ではないようです。単に通路でしょうか?2条じゃなくても良いような気がします。私は満足したので謎は謎のままで終わります。行かれる方は中腹の濠と2条の堀切みたいな通路を歩かれてみてください。多分年中熊笹だらけだと思いますが・・・。

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しんちゃん

昨日のジョー(不完全燃焼) (2024/02/11 訪問)

青地城は志津小学校や小槻神社のあたりが城址とされています。城址北側の神明宮から志津小学校、小槻神社と訪問し、神社背後の丘陵も散策させていただきました。小槻神社の北側が堀跡と見られますが、城址碑を確認していないので、遺構をいくつか見落としているみたいですね。こんなときは‥てへぺろってやつです。できるだけレビューは見ておいた方がよいですね。

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ぴーかる

富貴城 (2024/05/11 訪問)

【富貴城】
<駐車場他>白山社前に駐車できます。
<交通手段>車

<感想>岡崎平野・知多半島ちょこ城巡りの旅10城目。現地説明板によると富貴城は室町時代後期に岩田氏が築いた。戦国時代に入って戸田法雲が城主となり館を城北の光明寺付近に建てたので大高城とも呼ばれます。
 白山神社が主郭のようで、周囲より少し高くなっています。西隣のお寺さんと墓地が2郭のようで北側に対してはより高くなっています。背後の竹林に土塁・堀が残ります。

<満足度>◆◇◇

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カズサン

水堀、石垣、土塁が残って居ます (2024/06/23 訪問)

 滋賀県未踏の城廻りで野洲市の桜生城を初登城。

 駐車場:日吉神社参集所横の駐車エリア(35°04'16"N 136°02'28"E h=120m)
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 日吉神社に参拝し、南は城郭エリアですが私有地で末裔の方の住居、水堀が虎口玄関左右に有り、護岸は石垣で守られている、北西側に折れの有る高土塁が虎口まで伸び、虎口から南に石垣・水堀、その南側に底部が石垣の土塁、腰巻石垣なのだが?曲輪が草に覆われてある。 
 野洲市歴史民俗博物館側居りひって来ましたので、角に銅鐸出土跡の碑が有り解説板と共に撮影、日本最大の銅鐸(134.7cm)が発掘されたそうです。
 雨小振りの中コンパクトカメラで撮影、雨、曇りで薄暗くなり本日の探訪は終了、宿泊先の八日市へ移動。
   

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カズサン

衣川台団地北の小公園に石碑・案内板 (2024/06/23 訪問)

 滋賀県未踏の城廻り琵琶湖の西岸は衣川城のみ、依って早めに西岸を攻めて後の東側の廻りをスムーズにと琵琶湖大橋を渡って衣川城を初登城。

 駐車場:無しトイレ無。一時小公前に路駐。対向車が来ましたので即退散。
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 衣川城跡小公園前に路駐は大変気が引けましたが、さっさと石碑、案内板(文字が経年劣化で良く観えない)、公園周りを撮って対向車が来ましたので撤退。
 琵琶湖西岸で天神川の南丘陵中腹に位置する城郭、見通しは良かったのでしょう。

 トイレが有りませんでしたので、琵琶湖大橋西の付根「道の駅・琵琶湖大橋米プラザ」でトイレ休憩。
 

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イオ

楽々園御書院特別公開 (2024/06/29 訪問)

(続き)

この日は佐和口多聞櫓だけでなく、楽々園御書院も特別公開されていました。楽々園自体は無料で公開されていますが、外から御書院を眺めることはできても内部に入ることはできなかったので、この機会に内部を見学させてもらいました。

靴を脱いで上がったところが玄関で、玄関右手の供侍には地震の間の構造模型が展示されています。玄関左手の内玄関、繋ぎ之間を経て御入側と呼ばれる縁側を進むと、御次之間の奥に御小座敷、上之御間の奥に一段高い御上段が配されています。隠居所(または下屋敷)だけに派手さはないものの、御上段などは落ち着いた格式が感じられる造りでした。御書院の奥の地震の間は非公開ですが、御書院内からは地震の間や庭園をいつもと少し違う角度で眺めることができました。また、御入側には御書院に関する説明パネルが展示されています。

楽々園に続いては玄宮園を散策。定番の天守を仰ぎ、北端の二重櫓跡にも行ってみました。何度も訪れていてもまだ見たことがないところはあるもので、いつか玄宮園をとことんめぐってみたいものです。

さて、2つの特別公開でこの日の目的の大半は果たしましたが、せっかく彦根城に来ているんですから、改めて城内(と城下)を散策してみるとしましょう(続く)。
 

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カズサン

住吉神社周囲に土塁が残って居る (2024/06/23 訪問)

 梅雨の時期、降ったり止んだりの天候でしたが、叔父の1周忌法要の後、滋賀県も未踏の城が沢山残ってる!と1泊2日で廻りました。

 駐車場:無し。住吉神社鳥居前の道を褶曲し南東約200mで東芝テクノネット(株)滋賀サービスステーション西前に幅広の路側帯が有り路駐。(35°02'55"N 136°00'05"E 100m)
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 路駐した処から戻って住吉神社鳥居より入り参拝。城跡に神社が鎮座しており、神社東側と県道11号線の間にも土塁が残って居る、神社北側の裏手にも土塁が残って居る、見学は東側、西側から北側へ、東の県道11号線側よりも眺める。
 周辺は住宅街が迫って居りますが神社境内と言うことでここまでよく残ったのでしょう、樹木で鬱蒼としております、やっと訪ねる事が出来ました。
 

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赤い城

この日は外周のみ (2027/06/23 訪問)

垂水城登城で丸亀まで来たので丸亀城へ。
資料館横の無料駐車場に車を置き、いつものように崩れた石垣の石が置いてあるグラウンド方面に。
積み直しはこの夏から始まるそうで完成は4年後くらいになるとのこと。
積み上がって行く姿を見守りたいと思います。
石垣復旧PR館を見学して搦手門から南へ。
外堀公園に向かいました。

外堀の一部で土塁が残り、公園として散歩コースになっています。
再び内堀沿いに戻り外周を歩きました。
東側から大手門のある北側へ、こちらはいつもの景色ですね。

西側の郵便局横に水路跡があると聞いていたのでこちらにも足を伸ばしました。
この日は外周のみで本丸までは行ってませんが良い運動にはなりました。

そういえば7月から延寿閣別館での城泊が始まっていますが泊まった方、いるのかな?

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todo94

再訪 (2024/06/22 訪問)

三宝寺まで足を伸ばしたので、カメラを壊してしまったあとではありますが、石神井城には立ち寄っていくこととしました。2008年以来、16年ぶりの再訪です。16年前は主郭部に入ることができ、美しい土塁や空堀を間近で楽しむことができたのですが、現在はフェンス越しに眺めるしかありません。この後、予定していた攻城はすべてとりやめ、西武池袋線で池袋にアクセスし、ワンディコンタクトを購入しました。さほど、老眼が進行している訳ではありませんが、コンタクトを入れた時に文庫本が読みにくく感じていたので、今回は遠近両用にしてみました。

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朝田 辰兵衛

にのまるさん,新潟市のPRありがとうございました🌟 (2024/06/21 訪問)

新潟城のレポートは,各個人のグルメや周辺観光を織り交ぜながらデザインされるだろうなぁ…と思っていました。しかし,良く走って行きましたネ!

東横インは私も結構利用します。ハレの日や特別な日の前日はリッチモンドホテル。沖縄はダイワロイネットホテル。ま,立地条件で他のホテルも試してます。諫早,函館,木古内,根室,玖珠,宇和島など…。東横インですが,周囲に食事をすることができない「新八代駅前」は,無料でカレーライスの夕食サービスがあります。他にもあるかもしれません。
下関でも,東横イン下関海峡ゆめタワー前を利用しました。朝食で印象的だったのが太麺の焼きそばでした。ピリ辛でお腹にズッシリきておいしかったです。

カレーライスで思い出しましたが,ちょっと前に書店で「しあわせの黄色いカレー」を特集した書籍がありました。全国の黄色いカレーを食べ歩いている方がいろんなお店を紹介していました。ラストに紹介されていたのが,新潟のバスセンターカレーでした。恐れ多くも「しあわせの黄色いカレーの聖地」との評価が…。正直,驚きました。バスセンターで列をつくっているのは,ほとんど新潟市外の方ですョ。
バスセンターには,壽屋(ことぶきや)という🍙屋さんがあります。以前は古町にあったのですが,バスセンターに入ってきて繁盛しております。私はここの🍙がスキです。
新潟駅の工事が進むと,東横インと反対側のエリアに高速バスターミナルを建設する計画がありますが,具体案は示されておりません。県内・県外合わせるとかなりの本数があるため,名古屋みたいな感じになるのかな…と想像しています。
すると,バスセンターはどうなる…?

長くなりましたが,お返しに下関のPRを少し…。念願の唐戸市場で「からと屋」に入り,ミニ海鮮丼とふぐの天ぷらを食しました。1年前に下関駅ナカで食べたものとは,格の違いを感じました…<笑>。

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ryu

猛暑の中津城 (2024/07/06 訪問)

JR鈍行列車を使って中津城探訪

駅前の観光協会で貸自転車(300円/4h)を借りて中津城へ

駐車場にチャリを停めて、猛暑の中、歩いて本丸の外周の石垣を見てまわる。
模擬天守内を見たあと、中津市歴史博物館を見学、チャリで大手門跡の石垣、金谷口のおかこい山を見て、チキンハウス中津本店でからあげ定食(上)950円を食べる。砂ずりの唐揚げが美味。

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小城小次郎

復元石垣を今から心配しても仕方がないが (2023/01/13 訪問)

石垣が出たとのニュースはかなり以前だったが漸く見に行けた現場は巨大なイオンモールに占有されていた。入口二ヶ所に石垣が復元されているがイオンモールを建て替える際に壊されやしないかと今からはらはらしている。

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しんちゃん

本丸周辺の曲輪・西の曲輪  北条氏直について (2024/01/28 訪問)

もーしわけないけど、八王子城の投稿、まだ終わっていません。これだけのボリュームのある城郭だと、なかなか一回の枠では収まりきらないんですわ。ゆるしてニャ。
八王子城の何が凄いって、中世から近世にいたる城郭の構造の変化を感じ取れる稀有な城だと思うんですね。本丸周辺には小宮曲輪、八王子神社のある曲輪、松木曲輪があり、この辺りは道が通じているので訪問には苦労しないと思います。作業道と標柱の立っている細い道があって、ここから詰の城に行けるのかなと思ったら本丸の西の曲輪に付きました。うん、道理で道が良くないと思った。ほとんど獣道みたいだったし。でも西の曲輪は見れたぞ! 分岐まで戻って詰の城を目指します。

八王子城の合戦の際には、本来の城主北条氏照は小田原城に参じており城代の横地監物吉信ら3000人(非戦闘員含む)が籠って戦ったとされています。豊臣方の攻撃は深夜より始まり、一日中に落城し、城内は凄惨な有様だったようです。
北条氏政・氏照の兄弟も北条氏の降伏と共に切腹を申し付けられますが、結果として五代目当主・北条氏直と小田原城兵の命は救われたと言えます。氏直は徳川家康の娘婿であったため家康からの助命嘆願もあったとされます。しかし、秀吉が小田原と会津の間の街道を整備し、家康を関東に移封すると状況は異なってきます。関東に強い影響力を持つ北条氏当主である氏直は家康にとって徐々に危険な存在になって来たと思うのです。
天正19年(1591)1月から氏直は家康に依頼するなどして赦免活動を開始し、8月には河内と関東に1万石の領地を得て、豊臣家臣の大名として復活をします。これが良くなかったのだと思います。家康からすれば氏直が秀吉に懐柔されて国人一揆を起こすことを警戒していたであろうし、秀吉の命で東北諸将が一致して関東を攻めることも恐れていたと思います。
氏直は大名に復帰して三月とたたずに死んでしまいます。死因は当時流行していた疱瘡(天然痘)とされますが、氏直は自らの立位置をよく理解しないまま家康に赦免の協力を依頼したことで自らの寿命を縮めてしまった可能性があると思うのです。
天然痘は感染力が強く、患者より薄着等に天然痘ウイルスを移し取ることで容易に罹患させることが可能です。氏直の最期は家康と秀吉という二つの巨魁の間で翻弄された結果のように思えるのです。奥方の督姫が下手人とは思いたくはありませんが、督姫(良正院)本人も慶長20年(1615)2月4日 家康と会うために滞在していた二条城で疱瘡にかかり死去したとのことです。督姫の息子の忠継も同年2月23日に岡山城で疱瘡で死去したとされているので、疱瘡に因果の有る系譜なのかもしれません。

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零汰

中にも入れるそうです (2024/05/10 訪問)

帰宅してから愕然としたチャシです。
こちらは山型のチャシで大きな濠が入っているそうです。南側からはフェンスで囲まれておりてっきり入れない場所だと思い込んでいました。ですが先輩方の投稿にはしっかりと濠が映っていて見上げる姿とは全く別のチャシの様にも思えます。調べないで訪問する際のデメリットですが知っていたら北側から見る事も出来たので残念です。行かれる際は最低でも北側の高台から見る事をお勧めします。

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