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しんちゃん

今でも残る環濠集落 (2024/02/23 訪問)

若槻環濠は今でも残る環濠集落で天満神社や西融寺を含む周囲に水路や堀が巡らされています。文正元年(1466)ごろには東端の庄屋屋敷と西端の宮地を繋いで東西に細長い環濠が形成されていたようです。現在の環濠の範囲は東西およそ200m、南北およそ70mになるそうです。車で来られる方は、周辺の道は狭いので置きやすい場所に車を置いて、あとは歩いていくしかなさそうです。

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しんちゃん

天守台跡に土盛りが残る。 (2024/02/17 訪問)

松ヶ島城は天正8年(1580)に織田信雄が入り、かつては五層の天守がそびえ立っていたそうです。後に蒲生氏郷が入りますが、天正16年(1588)に新たに松坂城を築いて城下の住民ごと強制的に移住したので、松ヶ島は元の漁村に戻ったと伝えられています。
かつては伊勢湾に面した海陸の要衝に築かれた城でしたが、今では本丸天守台跡に土盛りが残り、周囲の住宅地に堀跡が残っている程度です。天守台跡に登れば、かつての城址周辺を見渡すことが出来ます。
城郭放浪記さんの情報によると松坂市愛宕町の竜泉寺には松ヶ島城の裏門が移築されているとのことです。

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小城小次郎

紀伊田辺藩庁なのだ。最後は。 (2024/11/03 訪問)

水門が有名だが水門しか残っていないという言い方もできる。築いたのは浅野氏重だが紀州徳川家の附家老であった安藤氏代々が居住するところとなり、安藤氏が土壇場で独立大名になったので最後の最後に紀伊田辺藩庁となった。

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ぴーかる

鳥屋城 (2024/03/02 訪問)

【鳥屋城】
<駐車場他>鳥屋城山公園公衆トイレ前に3台程駐車できる。<34.063573,135.260068>から狭いが西へ入る。
<交通手段>車

<見所>石垣・堀切・眺望
<感想>日帰り和歌山山城攻め4城目。現地説明板によると鳥屋城の築城年代は明らかではないが、1379年に山名義理が南朝征伐のために石垣城(鳥屋城の別名)を攻めたとあり、南北朝時代には南朝方の城であったことがうかがわれます。室町時代には紀伊国守護の畠山氏が入国し畠山氏や城代の神保氏が治めました。1585年に秀吉の紀州攻めに際して神保氏が内通して城は落城したとあります。
 鳥屋城山公園に城跡碑・説明板・展望台・遊具があります。公園から山頂の城跡まで1300mの登山ですがハイキングコースになっているので苦はなく登れます。登城距離は長いのにもかかわらず現在は登城途中に表面観察できる遺構は特には見られず、いきなり山頂部の城跡に着きます。城跡は東西に長い細尾根を削平しています。登った所の左手が段になって虎口・門跡のようにも見えます。その先の西端に広めの曲輪、尾根の南側全体に帯曲輪(帯曲輪が曲輪で尾根を背後の土塁としている見方もできる)を通しています。城跡の中心部の尾根に堀切を設けていて、堀切から東側の曲輪にはかつて後世に社(現在は倒壊している)があった曲輪壁に石垣、その下の帯曲輪に石列、帯曲輪の斜面に石垣が残されています。ここら一帯が東端になり、その東側は切岸・堀切跡になっています。
 東端の石垣・石列の残る一帯が主要部のようですが比較的に細めの尾根上の削平地で戦国期以降によくみられる広い主郭をもつ城跡ではない。南北朝時代以前に詰め城として築城されて以降、地形の改修を行わず廃城となったのだとしたら、古い縄張り遺構がみれて見所はあった。

<満足度>◆◆◇

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肉球

見事な桜でした (2024/04/08 訪問)

10数年ぶりに訪れました。
大河ドラマからだいぶ時間が経ちましたけど
まだまだ人気者のようでかなりの人出がありました。

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肉球

水野長勝陣屋  埼玉県寄居町 (2024/04/08 訪問)

水野長勝は北条氏邦に仕えてこの地に屋敷を構えていたようですが
北条氏滅亡後は徳川家康の従兄弟とういうこともあり
そのままこの地を賜ったようです。
息子の代には領地替えのため陣屋は廃されたようですが
跡地には昌国寺が建てられ歴代のお墓が残されています。
およそ百メートル四方の枡形の土塁と空堀が良好に残っています。

お寺は現在無人のようで敷地に駐車できます。



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チェブ

樅の木は残ってた! (2024/05/04 訪問)

前回 の「中村城」と、こちらの「船岡城」は大河ドラマ『樅の木は残った』繋がりで投稿します。
『樅の木は残った』は仙台藩の伊達騒動を描いてます。

「船岡城」は伊達 政宗さんの家臣 原田 宗資さんの居城です。宗資さんの息子 原田 宗輔さんが『樅の木は残った』の中心人物です。
この方、悪人のイメージだったのに、ドラマでは悪人を演じて伊達家を救ったヒーローに画かれました。最後は殺されてしまいます。

「船岡城」は桜で有名な城址公園です。
大きな駐車場は、桜の季節が過ぎた5月でも いっぱいでした。案内板には「船岡城」の遺構は記載されてません。三ノ丸広場があるので、そちらを目指して歩きました。
因みに、「船岡城」は伊達騒動の事件後、幕府の命令で建物は壊されました。土も掘削され棄てられたんだとか。この事が影響しているかは分かりませんが、遺構は見当たりません。
でも、たくさんの草花が植えられていてます。
途中に『樅の木は残った 展望デッキ』があります。
樅の木は残ってました。
デッキからは遠くの山々が見えます。
下を覗くと『しばた千桜橋』が見え、東北本線の電車をカメラに納めようと、大勢の人がカメラを構えてました。

「船岡城」に行くまで『樅の木は残った』を知りませんでした。
実は、『樅』も『モミ』と読めませんでした。
何の木が残ったのか、後から知った「船岡城」攻めでした。

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平岩茂直 (2024/05/09 訪問)

 平岩茂直が楠氏挙兵に応じて築いた城です。
山頂部の曲輪と帯曲輪が確認できます。その場所だけでは狭いのですが、説明板によると周囲の山で平らになっている所が出丸の跡と書いてありました。
 河南町平石地区の大阪府道704号竹内河南線沿いに平石城を示す標柱があります。その道を入って行くと左手に草に埋もれていますが平石城への標識があります。その一本奥の道の側に石碑があり、そこからも行くことができます。両方の道は合流し10分くらいで城址へ行くことができます。

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石川総長 (2024/05/09 訪問)

 膳所藩主石川忠総の次男で大坂城番に任命された石川総長によって築かれた陣屋です。
石垣が残っているとのことでしたが、草でほんの一部しか見えません。近くへ行くと草の間から石垣が見えます。

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嶽山合戦 (2024/05/09 訪問)

 南北朝時代に楠木正成によって築かれた城ですが、室町時代中期には足利義政に家督を奪われた畠山義就が籠り、応仁の乱の前哨戦嶽山合戦の舞台となりました。
 亀の井ホテル富田林の裏にあるテニスコート横の小径が登城路です。石碑と説明板がありました。昭和58年から行われた発掘調査で遺構は発見されていないとの情報もあったので山の中の散策はしていません。

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todo94

金谷城特別公開前日の城めぐり① (2024/04/13 訪問)

4月14日の金谷城特別公開の予約が取れたため、新年度最初の城めぐりの行き先は首都圏に定めました。まだ献血をしたことのない海老名献血ルームに向かって城めぐりを進めます。とある煩悩の登城目録さんと同様、下溝駅より徒歩にて登城しました。「上磯部の土塁」の奥がグーグルマップのポイントになっていますが、私有地のため立入禁止です。献血の予約時刻の関係で能徳寺や御嶽神社へも脚を伸ばしませんでした。

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しんちゃん

ぶらり田原城 愛知県田原市 (2024/04/28 訪問)

この日はちょっとした用事があって、ふらりと田原城に行ってきました。近世城郭の跡なのに人が少ない‥GW中なのに。せっかくなのでゆっくり散策してみます。城址正面の桜門の表側はイチョウの木、裏側はもみじの木が植わっています。いずれも今は青モミジの状態ですが、これはこれで良いと思います。かつての蓮池跡は駐車場になっており、そこから続く堀跡にはアジサイが植樹されているようです。
イベントをやったり、企画展を開けばもっと人は集まると思いますが、マイペースなのも田原城らしいとも言えます。紫陽花の季節、紅葉の季節に散歩がてら寄ってみるのも悪くないと思いました。
なんといっても田原城は渥美半島一の有名人、渡辺崋山ゆかりの城であります。歴史の教科書にも載っていましたし(美術だったかな?)。

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天守無しがアツい

北条氏照の居城 (2024/05/06 訪問)

(八王子市HPより)https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/002/005/p003412.html

JR八王子駅からバスで20分の所にある滝山城址🚌 バス停からファミマが見えるのですが、それとは反対方向に進み、案内板に従って竹の茂った坂道を進みます(というかもうそこからが城址の敷地内なんだけど)

三の丸→二の丸→と進みます🚶‍♂️ 途中、封鎖されてる道および場所が3箇所(そこは脇道なのでそのまま進む分には支障は無いけど)ありました。中丸に着くとトイレがあり、レジャーシート敷いたファミリーがおり、そして城址というか滝山公園という名前で案内板(1枚目)がありました

北条氏照(小田原北条氏3代目氏康の次男、4代目氏政の弟)がこの城を居城としており、永禄十二年(1569年)には小田原城に攻め込んだ武田信玄がここを包囲…周辺の村々を焼き払い(城こそ落ちなかったものの)甚大な被害を受けた模様🔥🏠

(本能寺の変が起きた)天正十年(1582年)ごろから、ここより更に堅固な天然の要塞である八王子城の築城工事が始められ、天正十五年(1587年)には拠点はそこへ移り、滝山城は廃城になってしまったそう

中丸にはかつて宿泊所となっていた建物(2枚目)もあり、そこに日本100名城スタンプ(画像右下)が設置されてました。今の私にとってスタンプは御城印と同じくらいの価値と達成感のある存在なため、スルーなどあり得ません…

郵送販売用の用紙が備え付けられており、念の為にそれを取って、その捺印欄に試し押し…文字が薄らとしてる箇所はありましたが、及第点には色が写っていたので、それに続きスタンプ帳にも押しました

3枚目は本丸の中心地。この側に霞神社…金刀比羅神社…と言った神社があり、まずそこにお参り。規模が小さく無人の施設だったので御朱印の類はおそらく無いと思われます。日露戦争および満州事変や太平洋戦争における戦没者を慰霊する文章が彫られた石碑(慰霊碑と思われる)もそこにありました🪨

それから階段を降りて空堀を歩き、中丸と本丸を繋ぐ橋の下を通る…そして本丸に戻り、滝山城址の石碑…その歴史が短めに紹介された石碑を眺めたわけです。北条氏照が当主で八王子城に移転する前までは、この辺りに何らかの屋敷がおそらくあったのでしょう🏠

本丸の端から眺めた光景(4枚目)川…そしてマンションがズラリと並んだ街並みが見渡せます。これを一目見て「撮影してSNSに挙げる価値あり」と直感した私は迷わずスマホの撮影機能を立ち上げてシャッターを押しました

ここの城が現役だった頃にはどんな風景が映っていた…のでしょうか

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しんちゃん

コンパクトだが遺構はなかなか充実している。 (2024/04/21 訪問)

端谷城は衣笠氏によって築かれたとされています。三木合戦の際には城主、衣笠範景は別所氏に味方しますが三木城落城後の天正8年(1580)2月に織田方に攻められ落城したとのことです。
城址はコンパクトな構造で訪問もし易いのですが、遺構はなかなか充実しています。三の丸である満福寺の脇から登城道が伸びていて、大きな堀切に土橋がかかっており、そこから先に登って行くと二の丸に至り、すぐ近くに本丸が迫っています。本丸の北西部には物見台があり、本丸の背後(北側)には大規模な堀が周回しています。雑木が生い茂っていて堀の全容は把握しづらいですが、この城址の見どころとなっているようです。

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しんちゃん

荒木村重が最後に籠った城 (2024/04/21 訪問)

花隈城は織田信長が荒木村重に命じて築かせた城で築城時期については諸説あるようです。築城の際には穴太衆を用い、かなりの量の石垣を使用したようです。天正6年に荒木村重が信長に反旗を翻すと、有岡城の支城として戦い、有岡城・尼崎城から撤退してきた村重が最後に籠った城とされています。花隈城はその後、池田恒興らに攻められ天正8年(1580)に落城し、村重は高野山を経て毛利氏の下に亡命したとされています。
本丸跡地にある駐車場には模擬石垣が積まれ、石垣の上は公園になっています。模擬天守台の上からは周囲の街並みを見ることができます。

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bono

とても良かった

一度は行きたいと思っていました。GWだったため駐車場は資料館のところまで満車で、一番下のバス停前になんとか置いて行きました。巨岩が多く、非常に見ごたえあります。途中落ち葉などで足元が不安定なところもあるため、気を付けてください。的場跡がありましたが、安土も残っていて嬉しかったです。

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チェブ

かやの木は残った? (2024/04/13 訪問)

中村 朝宗さんが築いた「中村城」。
中村 朝宗さんは、源 頼朝さんの奥州討伐に従い戦功を挙げた方です。恩賞に伊達郡を貰います。つまりは、伊達家の初代に当たる方です。
ん?茨城県の「伊佐城」でも伊達家の祖の方がいらっしゃったような、、、。
写真⑦の説明板によると、朝宗さんの息子さんが伊佐領を塀領したようです。

遍照寺周辺が「中村城」です。
遍照寺に駐車場があるようですが、土塁に平行に路駐しました。そこから歩くと土塁は二重になっているのが確認できます。
この二重土塁を内側から見ようと、お社の後ろあたりをうろうろしました。
少し歩くと『中村城主 藤原 日向 入道 玄角終焉の地』の石碑がありました。この方は14代目です。
玄角さんと共に「中村城」は廃城しました。

「中村城」をWikipediaで調べたら、NHK大河ドラマ『樅の木は残った』のモデルになった古木がある。とありました。
『樅の木は残った』は仙台藩の伊達騒動を描いてます。
中村家が、伊達郡に赴く際に植樹したんだとか。
因みに、遍照寺の古木は、樅ではなくカヤです。
少し前に『樅の木は残った』の総集編を観たばかりだったのでビックリしました。ドラマ内で映った古木が、こちらのカヤだったのかもしれません。

でも一番ビックリしたのは、カヤの古木の写真を写していない事だった「中村城」攻めでした。

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ぴーかる

日方城 (2024/03/02 訪問)

【日方城】
<駐車場他>駐車場はなし。市民の森まで車で行け、停めれなくはないがきちんとした駐車場はない。手前の分岐<34.165153,135.220083>に2台程度停めれるので、ここから歩くほうがいい。
<交通手段>車

<感想>日帰り和歌山山城攻め3城目。日方城の城郭情報は少ない(現地説明板が錆びて読めぬ)のでよく分からないが、築城主:山名氏、築城年:南北朝時代となっていることから、紀伊国守護に任ぜらた山名義理が大野城に本拠を移した前後に支城として築城したと考えます。
 市民の森から傾斜面を数百m登ると虎口的な薄い段、正面に切岸が見えます。曲輪進入口左手斜面には竪堀のような跡、進入口右手の土塁は明瞭に残っています。進入口から入った曲輪は副郭のようで平坦地になっています。その曲輪に錆びて読めない説明板が木に立てかけてあります。そこから西へ緩傾斜に登っていき山頂になっています。なんせ、城跡の南半分しか藪が伐採されていなく、北半分は背丈以上の笹薮となっていて様子がよく分かりません。緩傾斜の南側斜面と曲輪の切岸は明瞭で山頂手前には横堀とみられる遺構もあります。山頂部分が少ししか整備されていなくて、広い主郭が北方向に広がっていそうなのですが‥‥‥。

<満足度>◆◇◇

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朝田 辰兵衛

母のガイドついでに… (2024/03/18 訪問)

齢80を超えている母に「スカイツリーで同級会やるから連れてって…」と嘆願され,ガイドとして同行しました。さすがに集まったのは,5名(私を除く)。当然,カメラマンも頼まれ,ホテル手配,チケット購入なども引き受けました。
待ち合わせ時間をランチタイムに合わせていたため,ホテルの朝食からチェックアウトまでの間,数時間の余裕ができました。
東武を使って押上駅から西新井駅まで。西新井駅からは,徒歩約20分。天気は良かったのですが,強い風が吹いた日でした。
中曽根城(中曽根神社)の前はゴミステーションとなっており,地元の方々が朝の挨拶を交わしているところにおじゃました形となりました。
単発ですが,久々に東京ポチです。

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うさ

小里城 (2024/05/08 訪問)

麓にも山頂にも素敵な石垣が見られます。
まあまあの山登りですが、見る価値ありです。

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