トクさん、丁寧にご返事いただき有難うございます。私はトクさんの愛情たっぷりに関ヶ原と武将達を繋げて物語のように綴っていくスタイルは素晴らしいと日ごろから思っております。私の投稿は、従来の説とは異なる白峰氏や他の方の説も多分に参考にさせていただいており、その分ドライに徹せざるを得ない部分が有ります。
関ヶ原にいろいろな可能性があると知ってから自らの足で確認をしてみたいと思い実践をし、これからも継続をしていきたいと考えております。当然間違いもありますし、おそらくこれからも多くの誤った考えを投稿する可能性があると思います。私自身が馬鹿にされたり、嫌われたりする分には構わないのですが、誰かを傷つけたりするのは出来る限り避けたいところであります。
また、以前投稿した内容を修正する投稿を後日行うことも有ると思います。人は当然過ちを侵すし、歴史は「生き物」だと思っておりますので間違いながら(最小に)進んでいこうと思っています。松尾山城の初期の投稿は酷いものですが、あえて削除せず残してあるのもそのためです。
私が関ヶ原に興味を持ったきっかけの一つに、小早川秀秋公のことが有ります。当時からこの若者は不当に低く評価され、侮られているのではないかと感じておりました。松尾山城を歩いているうちにその思いは強くなり、いろいろ調べるようになりました。命を懸けて戦場に赴いてくるこの時代の若者に侮れるものは一人もおらず、それは毛利秀元公にも通ずるものがあると思います。
小早川秀秋は松尾山を降り、もっと低い場所に陣を張ったとする説もあるので、私が以前投稿した松尾山城の出城に最初に陣を張った可能性もあります。臨機応変に戦闘を行うには松尾山城は標高が高すぎるので、その可能性はあると思います。そうなると小早川秀秋に対するイメージも大きく変わってくるのではないでしょうか。
前振りが長くなったので関ヶ原古戦場の福島正則陣跡の投稿に移ります。福島正則陣跡は不破関跡と藤堂高虎・京極高次陣の中間にあります。福島正則公に関しては松平忠吉・井伊直政との先陣争いにかかわる逸話が残っています。徳川家康にとって福島正則は盟友の加藤清正よりは扱いやすいイメージがあったと思いますが、関ヶ原の合戦の後に亀居城や鞆城の破却を命じられても我慢して従っています。また安芸備後に49万8000石を得たあとは、検地を公平に行い農民への過度な負担を無くすなどの善政を行っています。
ただ大坂夏の陣で豊臣家が滅び、翌年家康公が亡くなってからは自暴自棄的な行動が見え、所領を4万5千石に減らされたうえ、死後に福島氏は改易になっています。
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