たんのわじょう

淡輪城

大阪府泉南郡

別名 : 淡輪邸
旧国名 : 和泉

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todo94

ニアミス (2023/04/30 訪問)

和歌山のホテルに泊をとり、朝食をとってからの朝駆けです。前日からの雨はまだわずかに残っているという感じでした。まさか、びーかるさんと同じ日に攻めていたとは。時間もかなり近かったのではないでしょうか。3枚しか撮影していない写真も、かなり似通っていますよね。

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ぴーかる

淡輪城 (2023/04/30 訪問)

【淡輪城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>南海電車

<感想>大詰め大阪府の城びとの旅1城目。大阪府の城びと最南端の城跡です。現地説明板によると淡輪城は1204年頃に地頭として住み着いた佐藤忠信の子、小治郎重治が淡輪氏を名乗り築城したとされます。戦国時代は淡輪徹斎の娘おこよは豊臣秀次の妾となり小督の局と呼ばれたが秀次事件に連座して斬首されました。また徹斎の次男六郎兵衛重政は大坂夏の陣の前哨戦で大坂方に付き樫井川の合戦で討死します。
 現地は説明板とその奥に私有地と思われる畑に土塁が残されています。出立時は止んでいた昨晩の雨が大阪南部は残っていて駅前にコンビニも無く傘も買えずに少し濡れつつ早々に淡輪駅まで戻りました。

<満足度>◆◇◇

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小督の局 (2022/07/07 訪問)

 淡輪駅より徒歩5分くらい、淡輪邸址の案内板があります。土塁が奥にありますが、夏で草も多くよく見えません。

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イオ

秀次切腹事件の悲劇 (2021/05/10 訪問)

鎌倉期に土着の国人 淡輪氏が築いた城館で、織豊期までこの地を領しましたが、淡輪徹斎の娘が豊臣秀次の側室「小督局」となっていたことから、秀次切腹事件に連座して没落しました。その後、徹斎の長男・重利は紀州藩 浅野氏に仕え、二男・重政は大坂の陣で豊臣方につき、夏の陣の樫井の戦いで討死しています。

周囲に土塁をめぐらせた方形館で、東辺、南辺、西辺に土塁が残りますが、曲輪内は私有地で立ち入りできない上に、土塁のあたりには樹木が生い茂っていて北側の道路から見てもよくわからず、かろうじて説明板が立てられている西辺の土塁を確認できるくらいでした。

ところで、淡輪城から東北東に車で約15分、南海・鳥取ノ荘駅近くの法福寺は「お菊寺」とも呼ばれ、小督局の娘・お菊の木像が安置されています。小督局が三条河原で斬首された際、まだ生後一か月だったお菊は助命され、母のいとこにあたる後藤興義の養女として育てられますが、紀伊国山口の代官 山口喜内の嫡男 山口兵内に嫁いでまもなく大坂の陣となり、山口氏が豊臣方について夫が大坂入りしたため、お菊は男装して大坂への密使を務めました。しかし、返書を持って戻る途中に徳川方の浅野氏に捕らわれ、助命の申し出を拒んで処刑されました。そして、わずか20歳で生涯を閉じたお菊を哀れんだ養母が、後藤氏の菩提寺である法福寺に木像を納めたと伝わります。最上の駒姫はじめ、秀次切腹事件はあまたの悲劇を生みましたが、お菊の悲劇も二重三重に積み重なっていて言葉もありません。ただただ手を合わせてきました…。
 

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 淡輪氏
築城年 鎌倉時代
主な城主 淡輪氏
遺構 土塁
再建造物 石碑、説明板
住所 大阪府泉南郡岬町淡輪字城の藪