たんのわじょう

淡輪城

大阪府泉南郡

別名 : 淡輪邸
旧国名 : 和泉

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①城跡(土塁らしきものあり)
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昌官忠

(東海&関西)遠征15日目:淡輪城 (2025/05/29 訪問)

淡輪駅から徒歩5分で、説明板前(34.331936、135.175314)に着きました。
その後、西林寺鳥居前(34.332126、135.175718)に向かいました。

元久年間(1204年~1206年)頃、この地の地頭となった佐藤忠信の子小治郎重治が居住し、淡輪氏を名乗り淡輪城を築いたようです。
1333年(元弘3年)淡輪正円は足利尊氏に従い、室町期は和泉半国守護の細川氏に従ったようです。
戦国期に入り、天正初期には織田信長に従い、水軍を率いて1576年(天正4年)木津川の戦いで毛利氏の水軍と交戦しました。その後の雑賀攻めにも参加しました。
1582年(天正10年)の本能寺の変で信長が横死した後は豊臣秀吉に従い、淡輪良重(徹斎)の娘「おこよ」は豊臣秀次の妾となって小督(ここ)の局と呼ばれました。
しかし、1595年(文禄4年)秀次事件で秀次が切腹に連座して、小督(ここ)の局は三条河原で斬首され、淡輪氏は改易となりました。
また、徹斎の次男六郎兵衛重政は1615年(慶長20年)4月29日、大阪夏の陣の前哨戦「樫井川の合戦」で塙(ばん)団右衛門と共に討死したそうです。

説明板がありません。付近を5分くらい捜しましたが見つかりません。
先人のみなさんの投稿写真を確認しましたが、2年前のぴーかるさんの投稿で写っていた建物がありません。
1年前のしんちゃんさんの投稿では建物は無くなっていました。回りの風景は同じなのですが・・・。
説明板は確認できませんでしたが、土塁らしきものは確認しました。
淡輪城は西林寺の南側一帯に築かれていたようですが、西林寺には何もありません。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=中野城を目指す為、淡輪駅から電車で東松江駅に向かいました。

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しんちゃん

土々累々 (2024/02/25 訪問)

淡輪城というよりは館の跡のように見受けられます。道路に面して南側に土塁に囲まれた一角があるのでわかりやすい。
淡輪氏の祖先は義経に仕えた佐藤忠信らしきことが案内板に記載が有ります。別の辞典には橘兼重なる人物が淡輪荘の下司職を源頼朝に認められ、これが淡輪氏にあたるようです。
戦国時代には淡輪微斎の娘「おこよ」が豊臣秀次の妾となり小督の局と呼ばれたが、三条河原で斬首されたとのこと。微斎の次男六郎兵衛重政は大坂夏の陣の前哨戦「樫井川の合戦」で塙直之(団右衛門)とともに壮絶な討死を遂げたとのことです。

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todo94

ニアミス (2023/04/30 訪問)

和歌山のホテルに泊をとり、朝食をとってからの朝駆けです。前日からの雨はまだわずかに残っているという感じでした。まさか、びーかるさんと同じ日に攻めていたとは。時間もかなり近かったのではないでしょうか。3枚しか撮影していない写真も、かなり似通っていますよね。

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ぴーかる

淡輪城 (2023/04/30 訪問)

【淡輪城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>南海電車

<感想>大詰め大阪府の城びとの旅1城目。大阪府の城びと最南端の城跡です。現地説明板によると淡輪城は1204年頃に地頭として住み着いた佐藤忠信の子、小治郎重治が淡輪氏を名乗り築城したとされます。戦国時代は淡輪徹斎の娘おこよは豊臣秀次の妾となり小督の局と呼ばれたが秀次事件に連座して斬首されました。また徹斎の次男六郎兵衛重政は大坂夏の陣の前哨戦で大坂方に付き樫井川の合戦で討死します。
 現地は説明板とその奥に私有地と思われる畑に土塁が残されています。出立時は止んでいた昨晩の雨が大阪南部は残っていて駅前にコンビニも無く傘も買えずに少し濡れつつ早々に淡輪駅まで戻りました。

<満足度>◆◇◇

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 淡輪氏
築城年 鎌倉時代
主な城主 淡輪氏
遺構 土塁
再建造物 石碑、説明板
住所 大阪府泉南郡岬町淡輪字城の藪