みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

肉球

住宅に攻め込まれてます (2024/03/02 訪問)

江戸時代に入り秋元氏によって築かれ甲斐国谷村へ転封となると廃城。
わずか30年ほどしか存在しなかってようです。
本丸と二の丸の一部は利根川に侵食され存在していません。
説明板のある城川公園東側は二の丸跡なのか堀跡なのかわかりませんが
宅地化され住宅に埋め尽くされるのも時間の問題かと。
その宅地化された南端には二の丸堀といわれる溝が僅かに残されています。
物見櫓があったとされる遠見山古墳の西側も住宅の建設が進められ
こちらも住宅に埋め尽くされそうで城の痕跡を見つけるのも難しくなりそうです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

美濃南部城廻り旗本徳山陣屋 (2024/03/16 訪問)

 日帰りで美濃南部城廻りを昨年10月21日美濃西部城廻りで取り残した南部木曽川沿いの城跡群を探訪、先ずは高速を飛ばして各務原市の更木陣屋・旗本徳山陣屋を初めて訪ねました。

 駐車場:更木陣屋・徳山陣屋門前の導入路脇の北側縦列駐車場を利用(3台ほど有る)、トイレ完備。
 参考資料:城郭放浪さん、グーグルマップ、城びと投稿者の皆さん。

 登城前は駐車できない時に桜体育館駐車場も考えていたのですが9時前に着き陣屋門の縦列駐車場に駐める事が出来ました、復元された模擬陣屋門が脇土塀を従えて朝日に当たり脇の黄色いサンシュユの花が門前に映えていました。
 陣屋門南前には旗本徳山陣屋公園の案内板、復元井戸、公園トイレがります、門を入ると北側に庭園池、地元の方が散歩中、南側に屋根付き井戸の復元、大きめの東屋、その奥に地面表示の屋敷跡、部屋名が石盤に刻まれ埋められてる、南の玄関先から北の奥向きの間まで表示されて居り草刈されて時期には良く分かりますが、草が伸びたら見分けがつきません。
 北西側の低い土塁が残っており今の時期の白モクレンが丁度満開でした、東側の導入路には早咲きの桜が咲き始め、枝垂れエドコヒガンサクラの様な小振りな桜で可憐でした。
 
 陣屋跡は平成12年発掘調査と古文書の更木陣屋絵図を基にした復元が行われて平成15年旗本徳山陣屋公園として整備された。

 徳山氏は美濃国大野郡徳山郷の出身で、初代徳山則秀は織田信長、柴田勝家、前田利家に仕え関ケ原戦では徳川家康に仕え戦功をあげ出身地徳山郷周辺含め旗本5千石の知行地を拝領し明治まで徳山氏が継承した。(案内板抜粋)
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

T-Shionoya

丸馬出だけでない諏訪原城 (2023/12/30 訪問)

昨年12月末に訪れた静岡県島田市の諏訪原城。

牧之原台地北端部、駿遠の国境とされた大井川を見下ろす比高約150mの台地の縁に築かれた城。
東海道沿いに位置し、7つの馬出を備えた正に軍事要塞。

信玄が没した1573年に武田家臣の馬場信春が築城。
1575年の長篠の戦の後、徳川が攻略し牧野城として改修。
武田時代も徳川時代も高天神城攻めの拠点の1つとなった模様。

残された資料と発掘調査から大半が徳川時代の大改修跡と考えられ、現在も6つの馬出や堀が良好に残る整備された城跡。

訪問時、まずは二の曲輪大手馬出の思い掛けなく深い三日月堀と二の曲輪外堀に驚嘆。
本曲輪虎口は期待した桝形ではないものの、堀と土橋は立派もの。
そして複雑な二の曲輪南馬出周辺はワクワクさせられるつくり。

ビジターセンターは休館日でしたが、滞在時間は約3時間。
丸馬出以上に堀のハンパない土木量に目を奪われた、私の城郭巡りの169城目でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

とばつびしゃもん

日朝外交の舞台の城 (2024/03/09 訪問)

対馬初上陸。レンタカーで観光情報館ふれあい処つしまへ。パンフ収集と翌日攻城予定の金田城の続日本100名城スタンプポン。案内所の方から勧められた周辺4施設対象の「対馬の歴史探訪パスポート」を購入。情報館前に車を駐車し、歩いて各施設と金石城へ。
最初に対馬博物館で対馬の歴史(宗氏の国書偽造事件は興味深い)を学んだ後、大手門から金石城登城開始。
大手門には珍しい2階建て櫓門があり、特徴的な石垣の積み方とともに目を引く。手前にはかつて遮蔽物があり桝形虎口になっていたそうだがその遺構は見られない。櫓門を通って城内右手には御台所門跡が見られる。先に進むと金石城庭園、その出口には搦手門櫓台が残る。
20分ほどで攻城を終え、搦手の先にある萬松院へ。日本3大墓地の一つに挙げられる宗氏の墓所がある。
昼食に対馬グルメの対州そばを食べて腹ごしらえをし、清水山城へ向かう。

+ 続きを読む

3月18日(月)池袋駅にてアプリ「風雲Yotte GO! 謎解き寄居町 ~鉢形城攻防戦~」PRイベント開催

3月18日(月)11:00~18:00
池袋駅にて
アプリ「風雲Yotte GO! 謎解き寄居町 ~鉢形城攻防戦~」PRイベント開催!

日本100名城を有する埼玉県寄居町および鉢形城を120%楽しめる凄いアプリがリリースされました。
PRイベント会場では、現在寄居町で開催中のリアル宝探しの冊子配布や、VRチャンバラ「VS北条氏邦」無料体験を実施。
「VS北条氏邦」で装着するVRゴーグルは最新の『Meta Quest 3』!
実際に戦いの場にダイブしているような不思議な感覚で、迫りくる敵方のド迫力に圧倒されます!
ぜひ、お立ち寄りください。

開催日時:2024年3月18日(月)11:00~18:00
開催場所:東武池袋駅南口地下1階イベントスペース(東京都豊島区東池袋4丁目4−4)
※JR池袋駅南改札出てすぐ右。オレンジロードつきあたり

+ 続きを読む

POYO58

森蘭丸、長可が愛した地 (2024/03/15 訪問)

2年ぶりの攻城です。これが2回目。今回は美濃金山城と犬山城に行きました。なぜかというともちろん通りすがりだからという理由もあるのですが、美濃金山城の天守と門が実は今の犬山城に移築されたという説があるので、関係掴みに行ってみました。でも時間の都合上で犬山城の移築門は見れませんでした。
美濃金山城のルートとしては新可児駅からさつきばすで城戸坂まで行き、そこから森蘭丸広場まで歩き、出丸→三の丸・二の丸→本丸→搦手道→米蔵跡の順にしました。

ではまずは出丸から。出丸には主に石垣が現存しています。破城の痕跡も僅かに確認できます。石垣は野面積みで約5m程でしょうか?比較的長く、低い石垣でした。出丸周辺は駐車場になっており、トイレもありました。春になると周辺には桜が咲くだとか。

次は三の丸と水の丸。三の丸には破城の痕跡が1番確認できる大きな石垣があります。約2メートルほどの高さでしょうかね。切岸も存在します。また、水の手の方に行くと水の手虎口が確認できます。写真ではわかりづらいですが、枡形が意識されている模様。

そして二の丸へ行ってみますと、ここ最大の見どころの大枡形虎口があります。一の門から入り、右側の二の門へ行く敵を阻む堅固な防備になっています。一の門から入って左手に櫓が、右手に二の門があったそうです。今は石垣が残っており、枡形もはっきりとしています。

では、次は本丸へと行きます。 続く

評価★★★★☆

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ヒロケン

平井金山城 (2024/03/02 訪問)

平井金山城は関東平野の北西部、鮎川が関東平野に流入する谷口にある、標高331m金山の山頂とその尾根筋に築かれた山城で、平井城の詰城であったと考えられています。
城の規模は、東西400m、南北400m程で山頂の主郭を中心に東、北、西側稜線に郭が展開された不規則な連郭構造で構築されています。
主郭から北側に伸びる尾根筋に北郭群が設けられ、主郭の下に帯郭、主郭と北郭群とを隔てる堀があり、主郭と北郭群をスロープ状の土橋で繋げています。
北郭群はなだらかな北側稜線を加工し7~8段、階段状の郭群からなり、低い段差で仕切られており、尾根筋が狭く、また側面が急峻な斜面になっていて、堅固な防御ラインとなっています。また、北郭群から北西方向に張り出した稜線に井戸郭があり、岩盤を削って築かれた井戸跡が残っています。

平井金山城へは、初めての訪問でT₋shionoyaさんが投稿した櫓門跡の石垣が見たく行ってきました。皆さん方の投稿にあるように、結構急峻な登城路で、枯葉で足を滑らせながらの登城です。また、登城口から登り始めて直ぐに、人為的に竹が伐採され登城路を塞いでいました。登城路を間違えたのかと思い、登城口まで引き返したぐらいです。また、至る所に獣の〇〇が大量にあり、相当数の獣がいるものと思われます。
 何故、この様に平井金山城を否定的に投稿するかと言うと、T₋shiionoyaさん投稿の櫓門跡の石垣を見学するのを忘れてしまったからです(涙)駐車場・トイレ完備、説明版、各郭の案内、パーフェクトでした。ですが、石垣を見ずに帰っちゃった(涙)途中のサービスエリアで画像の確認をしている折に気付き、引き返そうかと思ったが、泣く泣く帰宅しました。
それともう一つ、金山城で検索すると、100名城の金山城ばかりがヒットして、平井金山城はあまり出てきません。下調べをする際は、平井金山城で検索することをお勧めします。

正直、石垣を見ずに帰宅するという大チョンボをおかしましたが、それ以外は戦国時代の構造をよく残す山城で、絶対にお勧めの山城です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

大嶽城 福寿丸 山崎丸 (2024/03/16 訪問)

 大嶽城は浅井亮政によって築かれたとされています。亮政の時代には小谷城は大嶽にあったという説があるようです。小谷山山頂にあり、土塁、堀切、竪堀と遺構が思っていたより残っていました。北西部にある二重堀切は見どころのひとつだと思います。山王丸から六坊を経由して行きましたが、こちらも登城路は整備され歩きやすかったですね。城域は藪になっているかもしれないと思っていましたが、予想以上に整備され遺構が見やすくなっていました。下から見ると小谷城の尾根続きの高い山が小谷山で大嶽城です。大嶽城へ行く途中の岩尾からは小谷城を眼下に見ることができます。
福寿丸、山崎丸にも土塁などが残っています。こちらも整備され散策しやすくなっていました。

 前回登城したときは出丸方面から登城し清水谷から下山したため、小谷山山頂経由のルートは散策していません。いつかは大嶽城、福寿丸、山崎丸を見てみたいと思っていました。天候にも恵まれ、登城路、城域とも思っていた以上に整備されていて気持ちよく散策できました。
あまり人はいないだろうと思っていましたが、大嶽城方面にも多くの方が登城されていました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

あっちゃん

一乗谷城 (2024/03/16 訪問)

のどかな谷から戦国時代を想像して散策しました。

+ 続きを読む

あっちゃん

丸岡城 (2024/03/16 訪問)

急な階段でした。落ちないように気をつけました。

+ 続きを読む

石垣散策 (2024/03/16 訪問)

 小谷城には多くの石垣が残されています。本丸南側の石垣と山王丸周辺の石垣の他にも大堀切近郊や帯曲輪などにも見ることができます。探せば石垣がまだあるような気がします。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

戦国の聖地 (2024/03/16 訪問)

主要な曲輪の周囲にも魅力的は曲輪が展開しています。前回来た時には赤尾屋敷跡と月所丸跡には行っていなかったので行って来ました。赤尾屋敷跡には「浅井長政公自刃之地」の石碑がありました。浅井長政は最後の攻撃の時に黒金門から打って出ますが、織田信長に攻められ本丸に帰ることができず赤尾美作守の屋敷で自刃したと伝わっています。月所丸には土塁がよく残っていましたが、進んでいくと堀切が3条ありました。他にも帯曲輪やお局屋敷跡など多くの曲輪が展開しています。曲輪から下を見ると削平地となっている所があり、案内板がある所以外にもいくつか曲輪があると思われます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

トク

96【関ケ原の26人】(25)島津豊久 (山田城―庄内の乱から運命の関ケ原へ) (2023/11/05 訪問)

(25人目)島津豊久の続き⑨です。庄内の乱で豊久が攻め落とした山田城を訪れてきました。

JR西都城駅から「山田総合センター行」のバスに乗り30分、終点で下車するとそこが山田城です。現在の城跡は総合センターや運動公園になっていました。本丸と曲輪からなる城だったようで、本丸に立っている忠霊塔がここで合戦があった事を物語っています。

1599年6月、庄内の乱で島津豊久は都之城に立て籠る伊集院忠真の外城であるこの山田城を攻め落とします。翌1600年3月、忠真は徳川家康の仲介で降伏し、都之城を明け渡しました。

そして5月に豊久は再び大坂に戻り、薩摩当主の義久(当時67才)の名代として大坂城西の丸にて家康に謁見、仲介に対する感謝の意を伝えます。そして7月になり大坂より佐土原への帰途に着こうとしていた矢先、何やら伏見にて叔父の義弘がわずか200の兵で石田三成の元で挙兵したと聞きます。状況がよくわからないままとにかく叔父だけでは大変であろうと大坂にいた家臣を同行させ伏見の義弘の元へ向かいます。この時に豊久はまさか本当に戦をするとは思ってもいなかったのではないでしょうか?(せめてにらみ合い程度であろうと)。しかしこれが豊久の運命を大きく変えてしまいました。

豊久は1588年根白坂の戦いの翌年に父の家久が亡くなった後、18才で佐土原城主を継ぎ家久に代わって朝鮮へ出兵します。そして叔父の義弘と行動を共にし戦のノウハウを義弘から教わったようです。つまりこの時から、豊久は義弘の事を父親のように慕うようになったのかもしれません。よってその叔父が挙兵したと聞き、心配でいてもたってもいられなかったのでしょう。伏見で合流し大垣へ。大垣城での軍議にて、赤坂にいる家康に夜襲を仕掛ける策を豊久は三成に直接進言するも却下され、この時から義弘とともに三成に不信感を持ったようです。そしてそのまま西軍と共に関ケ原へ。しかし家康には恩があるため中立の立場を貫こうとしますが通用しませんでした。気が付いた時には西軍は総崩れ、大勢の東軍に囲まれてしまいもはや絶体絶命! 義弘はここで自害しようとしますが豊久が説得し撤退するようこう進言します。

「島津家の存亡は義弘公の一身にかかっておりまする! 必ずや落ち延びて下され~!」

そして二人は、引くのではなく、なんと敵中突破の道を選んだのでした。ここから壮絶な島津の退き口が始まり、豊久は義弘を逃がすべく、何と殿(しんがり)を務めます!😲

次は、豊久がその殿で深手を負った「烏頭坂」(うとうざか)を訪れます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

浅井長政 (2024/03/16 訪問)

 久しぶりの小谷城です。山城の魅力満載の小谷城ですが、ありがたいことに整備されていて歩きやすくなっています。山王丸から南側番所あたりの領域が主要な城域で、ここを観るだけでも十分楽しめます。
清水谷には大野木屋敷跡、三田村屋敷跡などがあり、山王丸から尾根を歩いて行くと大嶽城、そこから下って福寿丸、山崎丸があり遺構もそれなりに残っています。前に来た時に清水谷から下りたので、今回は大嶽城から福寿丸、山崎丸を経由して下りてきました。この日は春の陽気でしたが、風が心地よく快適に散策できました。ただ熊出没注意の看板がいくつかあり暖かくなってくると心配になります。この日は他の見学者の方も何人かみえていて心強かったです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小堀政之 (2024/03/16 訪問)

小堀遠州の遺領を引き継いだ政之によって築かれた居館跡です。当時の面影は残っていないようなので石碑の写真を撮って退却しました。

+ 続きを読む

しんちゃん

野牛郭 (2024/03/16 訪問)

長篠城に来るのは何回目になるでしょうか?最新の写真が欲しくてやってきたのですが、せっかくだから普段いかない場所に行ってみようと思って駐車場(巴城郭跡)に車を停めて古城跡踏切を越え、南東の野牛(やぎゅう)郭を訪問しました。
踏切の名前もいいセンスをしてます。線路で土塁が分断されていて、その先に進むと野牛郭に到達します。殿井と呼ばれる井戸跡も残っています。家屋があるので、その先に進むのを躊躇しますが、どうやら廃屋になっているようです。そこから川辺に降ってみると宇連川が流れ、その先で豊川と合流しています。川の流れがキレイですね、完全に春の陽気になっています。はっきり言って熱いです。
その後はいつもの通り本丸を訪問です。休日ですが他の百名城と比べると断トツに人は少ないですね。でも毎年5月5日の長篠合戦のぼりまつりの時には多くの人手で賑わいます。火縄銃の演武やよさこい踊りも見ることができます。事前に奥三河観光ナビをチェックしていただけると良いでしょう。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

於ふうさんが可哀そうじゃん (2024/03/16 訪問)

新城城は長篠の合戦の後、長篠城主・奥平信昌によって構えられたのが始まりとされています。彼の最初の妻・於ふうは齢13で武田の人質に送られ16で新城市のコオリ坂で山県昌景により磔にされてしまいました。信昌はこの城に移り徳川家康の長女・亀姫を正室に迎えラブラブ生活を‥ いい気なもんだぜ信昌さん。於ふうさんが可哀そうじゃねえかって、これが世知辛い戦国の世ってもんですか。
城址はほぼ新城小学校の敷地内となっており立ち入りはできません。ただ南東部から土塁のある城址南部に入れる箇所があり残存する遺構を確認できました。実はこの城に来るのは3回目なので裏手から入れるのは知っているわけです。
南東部には土塁と城址碑が残存し、かつての堀跡を確認することができます。南西部には堀が二重に存在し、土塁を一部確認することができました。城址の南部は豊川の造りだした天然の切岸になっています。ただ、さらなる天然の要衝である長篠城からここに移った理由は不明です。うらめしや~が恐かったわけではないと思いますが。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

細かい制約を書いた標識が足を止める… (2024/02/12 訪問)

コインロッカーのない鶴川駅からアップダウンを繰り返し,いつの間にか川崎市に入り,再び町田市に入ってました。コロナ禍での生活は不便だったと思います。新潟県津南町と長野県栄村の関係性のよう…。
この日は天気は良かったものの,キャリーバッグと一緒は難儀しました。沢谷戸自然公園内はずっと持つか下ろすかで…。どこでもそうですが,張られたロープを無視することは論外。しかし,それ以上に細かい制約を書いた標識があります。団体NGとか取材NGとか…。わかってないと,急に気持ちが萎えるのではないかと思います。そんな中,誰かが監視しているのではないかと注意を払いつつも,無事に七面堂の建つ主郭櫓台跡にたどり着くと,他のお城では感じなかったような達成感が…。達成感ではなく安堵感かもしれません…<笑>。
久しぶりに東京都のお城をポチッ👉}}}

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

三浦の晃ちゃん

九鬼水軍 (2024/03/16 訪問)

九鬼水軍で有名なお城です。
石垣が見事でした。
本丸からの景色は、最高でした。
往時は天守閣もあったようです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

松平城山城 (2024/01/27 訪問)

【松平城山城】
<駐車場他>そのまんま公園駐車場数十台あり。
<交通手段>車

<見所>巨岩・曲輪・虎口跡・堀切・横堀
<感想>日帰り松平郷の旅2城目。松平城山城は太田道灌が築城したという伝承がありますがそれはさすがに信憑性に欠けます。松平宗家三代信光が築城または改修を行い、子の光親(能見松平氏の祖)を城主としたと伝わります。更にその後は大給松平氏の支城となったようです。
 城跡へはそのまんま公園の東の登り階段途中から左手に「これより先は登山道‥‥」の札が木に付けてある場所から山に入ります。途中の城山城跡付近の巨岩は見所で巨岩の上に登れば絶景が見られます。登山道を少し進むと巨岩2つを利用した折れ曲がり虎口のような道になっています。
 城跡の縄張りはおおまかに尾根上に沿って凵字状になっており、公園から登ると凵字の左側の尾根から入ります。左側尾根は2段の連段になっていて堀切で仕切っています。上の段の曲輪壁に石積みが残っています。主郭は凵字状の底部中心にあり東西を堀で区切っています。主郭に磐座と思われる巨岩が置いてあります。主郭の南下段にも巨石があります。主郭主要部の東端に堀切があり凵字の右側に行きます。右側が大手になるようで、全面に堀を配置した虎口跡や横堀を廻らした大曲輪が数か所あり見応えがあります。曲輪壁にも僅かに石積みが残存しています。凵字状の左側は搦手側のようで、奥に進むにつれてだんだんと見応えが増してきて楽しかった。

<満足度>◆◆◆

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ281