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赤い城

大増城 茨城県石岡市 (2024/05/11 訪問)

城びと未登録の城です。
民家の方に声をかけて登っていくとかつては耕作地であった段になった削平地に。
この辺りにも遺構があったのでしょう。
しかも藪化していました。
まずは南に向けて進んでいきます。
尾根道を進んで行くと大きな竪堀、常陸の城のもう一つの見どころです。
常陸は南側は掘った城が多いですが北部に行くと少し登ることも多く、堀切や竪堀も見ることができます。
ここにも素敵な竪堀がありました。

尾根の南端まで行き竪堀を見学後主郭方面に戻ります。
主郭の回りには横堀、藪になっていますが進むとここもendは竪堀。

ここから主郭には直登で。
かつて主郭には祠があったとのことで石積もありますが城の遺構ではありません。

北関東にはまだ見ぬ名城(一般ウケはしない?)がたくさんありそうです。

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トク

101【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (井伊谷城③-直政と龍潭寺) (2024/02/14 訪問)

(26人目)井伊直政の続き③です。
井伊谷城の麓にある「龍潭寺」を訪れてきました(写真①②)。訪れたのは2月ですが、ちょうど「しだれ梅」がきれいに咲いていました(写真③)。

境内には井伊家にまつわる資料や木像などがあり、直虎や直政に関する展示もなされていました(木像写真④⑤)。井伊家歴代の霊殿や墓所もありました(写真⑥⑦)。墓は左手前から、直政・直親の妻(直政の母ひよ)・直親(直政の父)・直虎(直政の叔母で養母)だそうです。

また江戸時代に造られたという立派な庭園もありました。「小堀遠州」の作だそうです。どうりで立派な庭園だと思いました。江戸時代に入り、彦根藩2代藩主で直政の次男「直孝」が遠州に懇願し造らせたそうです。説明が静かに流れてきたので、座って聞きながら庭園を眺め、ふと気づくと30分も見入ってしまいました。なぜか妙に落ち着く庭園です。この座って正面から眺められる書院(写真⑧)は、幕末に訪れた大老「井伊直弼」をもてなすために建てられたものだそうです。そして右のこの角度(写真⑨)から見て遠近感を楽しむのがオススメだそうです。その遠近の先(左上)には井伊家霊殿につながっています。全体的に鶴が羽を広げた形を枯山水で表現し、その中に亀が大海に向かう姿を見立てた岩があるそうです。さあその岩はどこか・・・みなさん分かりますか?🤔 ペリー来航など動乱の最中に訪れた井伊直弼は、ここで井伊家の先祖を拝みながらこの庭園を眺め、いったいどんな事を考えていたのでしょうか?

私はこの庭園を眺めながら虎松(直政)の事を考えてみました。13才で井伊谷に戻り、直虎の養子となった虎松は、ここで南渓和尚や直虎の下で修業に励みます。そしてついに虎松は、自分から井伊家を再興したいと願い出たのでした。それはなぜだったのでしょうか? でもそれは直虎にとってはさぞかし嬉しかった事でしょうね。

そして14才になった虎松は、その願いを果たすべく、井伊谷を出て、家康に会うため浜松へ向かいます。

次は、虎松(直政)と家康が初めて出会った鷹狩の地を訪れます。
 

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しんちゃん

蟹江城合戦 (2024/03/10 訪問)

蟹江城合戦は天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦に連なる豊臣方と徳川方の戦いです。織田信雄の重臣で蟹江城主・佐久間信栄(正勝)に留守を任された前田与十郎(長定)は豊臣方の武将・滝川一益に内応します。やがて蟹江城には大野城攻略に失敗した滝川一益も籠りますが、徳川家康・織田信雄の大軍に包囲されてしまいます。半月の籠城戦の末、与十郎は勝ち目が無いと見た一益によって和睦のために殺されたとも、徳川方の追っ手によって殺されたとも伝わり、いずれにしろ事の発端となった人物は粛清されてしまったようです。
合戦が長引けば清洲城の家康と豊臣秀吉の大軍が再度激突する可能性が有りましたが、事態に早急に対処できたことで、秀吉方の攻勢に待ったをかけることに成功し、家康公にとっては重要な合戦になったようです。
現在は住宅地の中に本丸井戸の跡が残り、城址碑が立っています。

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しんちゃん

東曲輪周辺の遺構も見事だが、なんといっても天然の崖の急峻さ (2024/06/01 訪問)

犬居城は徳川家康配下から武田信玄についた天野氏の城です。徳川から見れば裏切り者になるわけですが、地理的にも政治的にもやむを得ないのかもしれません。辺境の豪族はいつも大変です。
山城としては小規模ですが、なかなか技巧的な縄張りを備えています。現在の登城道がそのまま古来からの登城道を踏襲しているようで、東に大きくカーブする部分で本丸直下の急激な崖を目にすることになります。とても直登できるとも思えず、これでは直接、主要部を攻撃することはできないでしょう。城址の東端に出丸があって北に虎口がついているのですが、東側から大きく回り込んで、突き当たった先で道が90度南に曲がって虎口への土橋を登っていきます。木々が生い茂っていてわかりにくいのですが、おそらくここに到着するまでの間にずっと横矢がかかっていて、生きてたどり着けるものは少ないと思います。天然の崖が南側の敵を防いでくれるので、東側の防御を特に固めているようです。そこから先は細長い曲輪を通って、展望台のある狭い曲輪に到達します。この周辺が主要部になると思いますが、展望台は櫓台だったのではないでしょうか?

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刑部

萩城と城下町 (2024/05/22 訪問)

時間の関係で指月城〔詰め城〕より城下町を優先して実話はお腹が空いてて選択肢は食。午前中津和野城を登って移動してきたばかり、萩城跡から城下町。定番の名所を見ながら食べ歩き、やはり最近こちらがメインなのかな?一度は来たかった萩城下、満喫しました。!

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零汰

ノツカマフチャシ (2024/05/11 訪問)

全国の城郭配置図を見た時に北の方にチャシという名称を知りました。環濠集落とか陣屋とか城郭の裾野が広すぎて当時は気にも留めていませんでした。何より鹿児島から一番遠い場所にあるので尚更そうでしょう。そういえば一番近い南の方にグスクってのもありますね。

チャシとは柵とかの意味があり祭祀や砦の言葉を表しているそうです。なんとも便利で都合が良く大雑把な名称なんだと思いつつグーグルマップにマーカー作業。ですがどうしても場所が出てきません。アホな話ですがそれまで数年間「シャチ」と認識していたのです。その程度の知識で数みたらそのうち分かるだろうの程度で出かけました。

幾つも存在している根室半島チャシの中でノツカマフチャシは小ぶりですが良く遺構を見ることが出来ます。おそらく祭祀用のチャシだと思われます。特徴は写真1の様に円形で囲まれた濠の端部が海や川の崖まで続き掘り切っていること。盛土(いわゆる土塁)をはっきりと確認出来るのはこちらのチャシが一番でした。

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しんちゃん

記念艦・三笠 横須賀市三笠公園 (2014/01/29 訪問)

神奈川県横須賀市の三笠公園に保存されている記念艦三笠は世界三大記念艦と呼ばれており、現存する唯一の前弩級戦艦と呼ばれています。弩級とは1906年に登場したドレッドノート級のことをいい、それ以前に建造された古い戦艦であります。
全長は131.7mとそれほど大きくはないのですが、主砲・40口径30.5cm連装砲×2、副砲・40口径15.2cm単装砲×14となかなかの重武装ぶり。三笠の戦歴でもっとも有名なのが「皇国の興廃この一戦に在り」の日本海海戦です。ロシアのバルチック艦隊を対馬海峡で迎え撃ったときに連合艦隊司令長官・東郷平八郎の取った戦法が、かの有名な東郷ターンです。
敵が北上してくるので日本艦隊は南に進む。このまま船の側面を合わせて撃ち合いに持ち込むのかと思いきや、敵に横っ面を見せて進路を東に向ける。敵は縦列、こちらは横列になり敵に対して圧倒的に有利になるわけです。艦体を横に向けることで火力を集中出来、逆に敵は縦列なので前の艦が邪魔になって、こちらをうまく攻撃できないわけです。戦闘は射撃訓練のごとく一方的だったようです。
日本の駆逐艦と水雷艇が村上海賊の小早のごとく、残存艦を攻撃。日本側の死者は117人に対し、ロシア側は5000名の死者を出し、6100名が捕虜になりました。戦争は悲惨です。でもこの時代は、軍隊同士のみで戦っていたから、まだお互い様で済んだんですね。
記念館三笠には戦争が大量破壊兵器を使った凄惨な殺戮劇に移る前の漢のロマンが残っています。

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チェブ

にらみ続ける伊達家の人々。 (2024/05/04 訪問)

悔しい思いをした「前川本城」から「川崎城」に転戦しました。
「川崎城」は、またの名を「前川城」「川崎要害」といいます。
「前川本城」の砂金氏が「前川城」を築城しました。
新しいお城を「前川城」。前のお城は『本』を付けて「前川本城」なんだそうです。

築城は1608年。
1615年の一国一城令で「川崎要害」とし、お城ではない事を幕府にアピール。

「川崎城」は『城山公園』が本丸跡のようです。
お隣に小学校があります。
説明板の写真を写し、ぐるっと公園内を歩きましたが、高い所にある位しか分かりませんでした。
再度、説明板に戻り読めば、『最上氏に対し最前線にある』と、あり『単純化されたのは江戸時代初期の築城という事情による』と締めくくってあります。

最上氏に対して「前川城」を築城したのに、一国一城令で 強硬に 改修工事ができなくなってしまったのでは?

「前川本城」から悔しい思いをして来たのは、私だけではなかった「川崎城」攻めでした。

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カズサン

八年振り二度目の登城・本丸建物跡編-6/6 (2024/05/20 訪問)

 本丸内部は8年前と同じです、発掘調査されて東門と両脇の建物跡、本丸御殿広間跡が礎石など配置して建物跡の地表表示されて各案内解説盤が設置されて大変分かり易く案内されています。

 長々と投稿ご覧頂きありがとうございました、三之丸の北と南側の土塁・二重堀・中土塁の復元整備を拝見して大変感激しました、よくここまで復元頂いたと感謝です、8年振り950km程走破の再登城は成功でした。
 
 

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カズサン

八年振り二度目の登城・本丸編-5/6 (2024/05/20 訪問)

本丸は8年前の登城時と同じ姿で出迎えてくれました、本丸内堀は当時復元整備されたばかりでした、東門、西門周囲の本丸土塁展望デッキもそのままでした。

 本丸建物跡編に続きます。

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サポーター200人、100万円超えました!達成まで残り33%!残り時間わずか!!!

最近、かるたの投稿ばかりで申し訳ございません。
おかげさまで、「日本100名城かるた」商品化プロジェクトのサポーターが200人になりました!
応援購入総額も100万円超!
誠にありがとうございます。

プロジェクト達成まで、残り33%、約49万円!
プロジェクト終了は6月5日(水)18:00!!
応援購入はこちらから!⇒ https://www.makuake.com/project/oshiro_karuta/

最後まであきらめません。
周囲の方に、かるたを宣伝していただけましたら幸いです。
どうぞよろしくお願い申し上げます。

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カズサン

八年振り二度目の登城・二之丸編-4/6 (2024/05/20 訪問)

 二之丸は8年前に初登城した時に復元された土塁、虎口の状態で変わりは有りません、丁度草刈作業をされて居り、草の伸びるのが早い事です。二之丸西虎口跡、二之丸郭内北側、南側、掘立柱建物跡地表表示をサラッと見て終了としました。

 本丸編に続きます。
 

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カズサン

八年振り二度目の登城・三之丸東側編-3/6 (2024/05/20 訪問)

 三之丸は国道7号線バイパスで東西に分断されていますが南側の外堀より国道下を東西連絡路トンネルが通ており東西交流が楽になっています、三之丸東側は西近くに五箇村堰が南北に流れて居り東西通路より木橋を渡って三之丸復元エリアに入ります、北側には外堀に向かって中土塁、二重堀、土塁と西側より国道、堰の分断は有りますが繋がって復元されて居り素晴らしい景観を整備されています。
 北土塁に仮設工事の足場の様な展望デッキが施設されて居り北側復元景観、東側三之丸を展望俯瞰する事が出来ます。
 三之丸東側外堀東外には駐車場、休息施設、トイレ、旧石戸谷住宅が復元移築されて堀越城跡ガイダンス施設に成っています、ガイダンス施設には厩を整備し各種解説説明板、堀越城模型が展示されています。パンフレットをゲットしました。
 堀越城の南から東に前川が流れて外濠の役目を果たし、前川は北東で平川と合流し岩木川へと更に合流し十三湖、十三湊から日本海へ繋がって居ります。
  
 二之丸編に続きます。
 
 

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カズサン

八年振り二度目の登城・三之丸西側②編-2/6 (2024/05/20 訪問)

 三之丸西側①編-1/2の続きです。
 三之丸南虎口の連続虎口折れの復元が余りにも素晴らしく最初に紹介投稿しましたが、三之丸は国道7号線バイパスで東西に分断されて居りますが北側の外堀、中土塁、二重堀、土塁と重なり素晴らしい復元です、南側の土塁、二重堀、中土塁、外堀も同じくです。
 8年前の景色と違った復元景色でした素晴しい!
 三之丸西側は本丸内堀と接して、本丸東門と内堀木橋で繋がっています、その木橋東側には南北に掘立柱建物跡が地表表示され解説板と併せてよく理解できる様に成っています、この辺りは8年前と変わりは有りません。

 三之丸東側編へ続きます。
  

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カズサン

八年振り二度目の登城・三之丸西側①編-1/6 (2024/05/20 訪問)

 石川城別称大仏ヶ鼻城を終えて8年振り2度目の登城と成る、津軽為信最後の城として有名な堀越城登城、8年前は外周の復元整備工事中でしたので復元整備後の姿を体験する事が大変楽しみでした。

 駐車場:堀越城北側の休息施設側を利用、別途三之丸東側休息施設側にもあります。トイレ両方とも完備。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 駐車場から道なりに南下し、三之丸北側復元土塁、堀を確認し三之丸西側内部へ、西には本丸がよく見える8年前と同じ姿である、南側は虎口が完成、内側と中土塁側との二重折れ連続虎口を構成しており、見所であり素晴らしい復元です、南側土塁の展望デッキに登り周辺を俯瞰する、復元の様子が良く分かり見所です、三之丸南連続虎口を出て外堀、土橋を渡り外構跡へ、南の前川周辺、城道跡を見学、三之丸は国道7号線バイパスで東西に分かれていますが外堀南側でトンネル東西連絡路で繋がっています。

 三之丸西側②編-2/6へ続きます。
 

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イオ

市街地の中の遺構 (2024/04/13 訪問)

詳細は不明ながら、室町中期に薬師寺氏によって築かれたと考えられ、大物城、伊丹城、越水城の中間地点に位置することから、戦国期には細川氏や三好氏の内紛で争奪戦が展開されました。織田信長の有岡城攻めでは河原林対馬守が陣を置いたと伝わりますが、その後は廃城となったようです。

この日は西宮北口での所用のついでに、阪急レンタサイクルで近隣の城めぐりをしました。富松城跡バス停の前に「中世の富松城跡を守ろう!!」の看板が立てられ、その背後に土塁と堀が南北にのびています。往時の堀は現在の市道にかかるほどの幅があったようです。バス停のベンチ脇には富松城跡の説明板も設けられています。土塁南端の道を東に入ると、柵が設けられていて中には入れないものの、土塁を内側から見ることができました。北辺にも堀があるようなので行ってみると、北西隅から県道沿いにしばらく東にのび、小道として緩やかに南に折れて続いていました。その途中の南北に金網フェンスが設けられたあたりも堀跡のようです。県道の北側には北方土壇と呼ばれる櫓跡があったようですが、現在は稲荷社の土壇にその痕跡が見られるのみです。

市街地の中に一部とはいえこれほど明瞭に堀と土塁が遺っているのは貴重なことですね。看板にあるように、ぜひこの歴史遺産を守り継いでいっていただきたいものです。
 

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びーこ

楽しみ方いろいろ、犬山城! (2024/05/20 訪問)

犬山城の登城は今回で3回目。大好きな城なので、何度来ても楽しめる!それにしても、前回来た時とは城下町の様子が様変わりしていて、参道はお洒落なワンハンドグルメで溢れている。色々なものに目を奪われながらも、まずは天守を目指そう。

趣のある石垣を横目に、登り難い間隔の階段を登っていくと、そこにはお馴染みの可愛らしい天守が登場!花頭窓が目、唐破風がヒゲのように見えるのは私だけではないはず。

靴を脱いで急な階段を登り、階ごとに入念に見学していく。高い天井の武者走り、唐破風内部、桃瓦などなど。そして最後のお楽しみは何と言っても最上階からの眺めあろう。廊下は外側に傾斜しているし、手摺は低いので少々怖いのだが、だからこそのこの解放感!木曽川からの風が心地良い〜来て良かった〜

木曽川の対岸から犬山城を見るために、ライン大橋を渡って岐阜側の河川沿いの公園へ。これは絶景だ〜モンブランケーキの上にちょこんと乗っている様な姿が雄大過ぎる!

最後はお洒落な城下町で、そのモンブランケーキを頂いた。栗が犬山城かな〜疲れた体に美味しさが染み渡る・・

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ぴーかる

最大級の井戸跡 (2024/04/13 訪問)

【金川城】
<駐車場他>御津町郷土歴史資料館
<交通手段>車

<見所>随所石組井戸・堀切・土塁・石垣跡
<感想>日帰り今シーズン山城攻めラスト旅3城目。上記資料館で頂いた資料によると1339年に松田元喬が金川城を築いた説があります。この頃の備前松田氏の本拠は富山城で1480年に松田元成が金川城に本拠を移して改修または築城したとする説があります。1568年に松田元賢の時、妻の父である宇喜多直家に攻められ落城し松田氏は滅びます。その後宇喜多直家の弟宇喜多春家が入城し関ヶ原後小早川秀秋の時廃城となりました。
 登城は2ルートあり、妙覚寺からとからと岡山市役所御津支所前からがあります。いづれの登城口にも縄張り図のある案内図が置いてあります。私は妙覚寺から登って御津支所へ下山しました。妙覚寺から登城するとまず道林寺丸・道林寺址の連段の曲輪があります。城主の松田氏は日蓮宗に信仰が厚かったそうで、城内に道林寺の道場を造ったそうです。石垣も一部残っています。道林寺丸を過ぎると本丸跡へ行けますが通過して北の北の丸・大堀切・白水の井戸跡に行きました。白水の井戸は扇状谷の下部斜面にあり、石組です。谷全体が井戸曲輪のようになっています。その北にある北の丸は広く2段構造で大石の磐座もあります。北の丸の北側に4重堀切があり、1重目が巨大、2重目が中くらい、3・4重目が超ちびの堀切になっています。見応えあります。
 主要部主郭は北に堀切があり、南東側斜面に降りていくような縄張りになっています。北端に天守櫓台と思われる段があり巨石がゴロゴロ落ちています。櫓台の東側曲輪壁面の巨大井戸があり「天守の井戸」と名付けられています。直径8mあり、石組であったであろうと思われる壁面に残り数個だけ残っています。この井戸も圧巻の見応えです。主郭南端には土塁の残る枡形虎口跡があり、細曲輪を通過して二の丸跡に入ります。二の丸跡には杉の木井戸という斜面にではなく曲輪内部に周囲を掘り下げて石垣で囲んだ井戸があります。二の丸跡から下山して途中に出丸跡の削平地があり麓に着きました。
 廃城となった際にどうも破却されているようで、主郭の櫓台や主要部の石垣跡は僅かに残るだけですが、散策と石垣跡を探索する楽しさ、井戸跡に見応えを感じる城跡も珍しい。いい城跡でした。

<満足度>◆◆◆

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しんちゃん

南北朝からの合戦場 今はハイキングコース (2024/06/01 訪問)

人任せばっかりにしてないで、私も遠州の山城をハシゴに出かけます。というより、リハビリを兼ねているんですね。サポーターをガッチリ巻いて無理せず、足を慣らしていきます。やはり山で使う筋肉は他と違うので、ここを定期的に鍛えておかないと山に登るのがしんどくなってくるんですね。
山腹の三岳神社に駐車場があって、ここからの比高は140mちょっとです。けっこう人が多くて、家族連れのハイキングの人達やバードウォッチャー達が来ています。どうやら八色鳥という珍しい鳥がいるらしい。私は見ることができませんでしたが、山にはそういう楽しみもありますね。皆表情が明るくて、全体的にプラスのオーラが出ています。
延元2年(1337)井伊氏を頼ってきた宗良親王を奉じて、井伊氏は北朝方と戦いましたが、興国元年(1340)三岳城は落城したとのことです。戦国期には井伊氏は今川氏と戦いますが、永正10年(1513)またも落城してしまいました。
登城道を登って行くと東が東曲輪跡、西が本曲輪跡になります。本曲輪跡は二段構造になっていて東側にもう一段、曲輪があります。本曲輪跡の西側に藪の隙間から腰曲輪が見えますが、今回はここまで。
眺望はすこぶる良く、浜名湖や周囲の街を眺望できます。ハイキングコースになっているのも納得です。

八色鳥‥ネットで見たけどキレイな鳥ですね。羽の色は緑色に輝いています。渡り鳥で夏場は日本に居て、冬に中国南部やボルネオ島に移動するようです。本州でも中部以北では見ることがないそうなので、ちょうどこのあたりが繁殖に適しているんでしょうね。

PS‥みんなの投稿見たら零汰さんの投稿が出てる。 はじめまして、しんしんちゃんです。北海道いいですね~。うらやましい。


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零汰

ここ行くの無理じゃねぇ? だからエセ訪問 (2024/05/10 訪問)

当初から位置とルートが分からなかった場所です。北海道教育委員会より出ている「北の遺跡案内」というサイトに行き着き、場所の詳細な特定ができ、辿り着くルートも把握出来ました。おそらく砂利道の林道でしょうか「3~4Km程度をゆっくりバイクで行けばいいや」深く考えず予定していました。

出発1週間前、砂利林道にて軽トラックを襲うヒグマの衝撃映像を見、映る野獣の目が脳裏に残ってしまい、昨年東北某県にて、雨上がりの早朝にツキノワグマに遭遇しイキられた記憶が甦ってきました。

シュミレーション・砂利林道で前からヒグマが出た場合・・・Uターンで転倒→不死身の杉本では無い→アシㇼパさんはいない→詰。
後ろからヒグマが出た場合・・・砂利道ではスピード出せない→追いつかれる→以下同文。砂利道をバイクで走るのは安定しない上に、40kg超の荷物を載せて走るのは困難。(礼文林道ではしっかりと転倒してしまう)結果、現地に行くことを諦めてしまいました。

そこで、厚岸町から海を隔てて眺められる道路を見つけたのでそこから眺めてエセ訪問の完了。

神岩チャシは海沿いの小高い土地に2か所あり、並びにも2か所別のチャシが存在するそうです。

北海道に上陸後15日間、走行距離5300Km、攻城団も合わせ60か所余りのチャシ・陣屋・館を訪問しました。「北の遺跡案内」のおかげで全てに行きましたが、進入禁止や登録チャシ自体がマイナー過ぎて・・・等、お勧め出来ない場所もあるのも事実。とりあえず鹿児島の私は北海道エセコンプリート。

飽きが来ない限り、お勧め出来ない場所も含めて北海道の投稿をマイナー中心にしていきたいと思います。

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