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赤い城

トリーデなると (2024/08/03 訪問)

蜂須賀氏の阿波九城のひとつです。
妙見山公園の駐車場に車を置き登城しました。
石段を登り曲輪の跡っぽい部分からさらに登ります。
妙見神社が建っていて背後に石垣が残っていました。
わかりやすい遺構はこれのみかと思います。

山頂部には模擬天守が聳えます。
トリーデなるとという多目的ホールだそうですがこの日は閉館、中に入ることはできませんでした。

模擬天守から西側の石段を少し降りてみます。
明確では無いですが堀切跡?と思える部分もありましたが定かではないです。

この日はチームラボが鳴門に来ていたので予約時間前に立ち寄りました。
チームラボですが、豊洲のものとは違い内容はお子様向け、ちょっと物足りない感じ。
童心に戻ることはできたのかな?

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小城小次郎

石垣の増築痕 (2024/02/10 訪問)

2月の説明会から半年が経ち石垣の保存も決まり大津市と開発業者様が日本城郭協会から表彰された。めでたいばかりの話の中で改めて石垣の増設痕について考えてみた。そういえば坂本城には明智以降の歴史もあるんだな。

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村正屋敷と矢田城 (2024/08/08 訪問)

 村正といえば徳川家に災いをもたらす妖刀として知られていますが、三重県桑名市の矢田城のある走井山山麓に伝「村正屋敷」跡の説明板がありました。中世末期、桑名の刀工・千子村正の屋敷があったとされています。開祖とされる千子村正は出生の折、母親が矢田走井山に祀られている千手観音に祈願し村正を産んだことから、千手観音の申し子だとして「千子」の姓を名乗ったと伝わっています。走井山には刀鍛冶に必要な豊富な地下水があったようで、かつては桑名城の城主の飲料水として毎日城まで運ばれていました。

 矢田城は先にも記載しましたように三重県桑名市にある城びとには未登録の城址です。北畠氏の家臣である矢田半右衛門俊元の居城であったと伝わっています。織田信長の伊勢侵攻の際に滝川一益によって攻められ落城し、その後は長島一向一揆を攻略する最前線基地として使われました。遺構はないと思われますが、何となく雰囲気は少し伝わります。
 三岐鉄道北勢線馬道駅の北側にある山が城址で、マンションのあたりが村正屋敷の跡といわれています。

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しんちゃん

釜原(かまっぱら)城 遠州ちょっとイイネの城 (2021/02/13 訪問)

静岡県御前崎氏にある釜原城は城人の城でもないし、特に有名な城主もいませんが、なかなかに良い城です。この周辺には、ちょっとイイネ的な城が幾つか点在しております。城郭大系にも載っておりますぞ。
城址の東側に殿之谷と呼ばれる地名があり、そこから城址に道が続いています。茶畑として開墾される際に土塁は取り払われていますが、いくつも堀切を残しています。二の丸から大堀切を経て本丸に至ります。本丸の北側は三方向に尾根が伸びており、尾根上を堀切で区切って有ります。本丸の西側は「仏念」と呼ばれ、急峻な谷になっています。本丸から細い尾根道を行った先には出曲輪が配され見晴台も配されています。
麓にあった聖道寺に伝わる「聖道寺縁由記」によると城主は聖道寺の前身である真言宗の大旦那で南北朝の戦で落城したと伝えられています。戦国期に改修を受けており、高天神城争奪戦に伴い武徳いずれかの勢力によって使用されているようです。

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しんちゃん

笠置山 (2018/03/31 訪問)

京都府相楽郡笠置町の笠置山は後醍醐天皇が挙兵した際に御在所(笠置山城)として使用されましたが、今回は城郭とされる場所以外の投稿をさせていただきます。
笠置寺から南に道沿いに進んで行くと、様々な奇岩や磨崖仏などが出迎えてくれます。
この山の名の由来となっているであろう笠置石を越えて行くと、懸造の正月堂があり、その先には高さ9mの岩肌に刻まれた伝虚空蔵磨崖仏があります。弥勒磨崖仏は元弘の大火で焼け崩れてしまっているのですが、こちらの磨崖仏は往時の姿を良く留めてくれています。
千手窟→胎内くぐり→太鼓石と続いて、かつての戦で投石に使われた岩のなごりが「ゆるぎ石」として残っています。バランスが微妙で、端を押すとゴトゴト動くことから、その名がついたとされています。
この時期は桜がキレイでしたが、紅葉の季節から早春にかけ、風が穏やかな朝に放射冷却で発生する木津川の川霧が雲海となり、周囲の山々を包み込むようです。秋の笠置山はまた格別だと思います。

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ぴーかる

斎宮城 (2024/06/08 訪問)

【斎宮城】
<駐車場他>竹神社駐車場8台分程あり
<交通手段>車

<感想>日帰り伊勢志摩の平山城巡り旅3城目。以前に標柱の横に説明板があったようなのですが今は無くなっていました。先達方の撮影された説明板には室町時代齋宮の住人野呂三郎が城塞を築き勝手に徳政を敷き狼藉を働いた。国司北畠材親はこれを討伐した。とあります。どうも野呂三郎という者がここに城を築いて徳政一揆を起こしたということだろうか。
 現地には遺構は残っておらず、竹神社となっています。史跡齋宮跡を見たかったがプランが詰まっていたので、やむなく素通りしました。辛口にはなりますが、北畠氏でも伊勢氏でもない築城者の遺構の残っていない城跡がなんで城びとポイント選ばれているのであろうか。やはり歴史的にみて徳政一揆が発生し城を築いて立て籠もった場所として押さえておきたかったのかも。

<満足度>◆◇◇

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城壁、移築門などなど (2024/08/08 訪問)

 九華公園周囲も少し散策しましたので追加で投稿させていただきます。三の丸堀の城壁はよく残っています。野面積み、打ち込みはぎの2方法によっていると説明板にありました。係留されている船で見にくい所もありますが、それなりに楽しめます。
 移築門はいくつかあるようですが、今回は比較的近くにある了順寺の移築門を見学してきました。

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本多忠勝 (2024/08/08 訪問)

 久しぶりの桑名城です。揖斐川河口近くに築かれ、近くには七里の渡しもあり東海道の要衝を抑える場所にある城でした。関ケ原の戦いの後、この城に入った本多忠勝は桑名城の改修の他にも東海道宿場の整備も行い、「慶長の町割り」といわれる城下町の整備を行いました。城址は九華公園として整備され堀と石垣がすべてではありませんが、残っていています。三の丸の堀の石垣が川口樋門から南大手橋まで500mにわたって現存しています。当時は櫓51あったと伝わっていますが、今は一基もありません。七里の渡し近くに蟠龍櫓が国土交通省水門統合管理所として外観復元されています。

 以前に行ったときは急いで散策した記憶しかなかったので、今回再登城しました。桑名駅から徒歩15分くらいです。

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トク

平和について考える旅(岩国徳山3/4)―徳山城 (2024/08/04 訪問)

平和について考える旅(3/4)です。徳山城を訪れてきました。徳山駅北口から下松行のバスに乗り5分、「動物園文化会館入口」で下車すると、目の前の現在は文化会館になっている場所が徳山城跡です(写真①②)。駅から徒歩でも20分くらいと思います。

築城者は、長州藩から3万石で徳山藩として分離独立した毛利輝元の二男、「毛利就隆」です。駅からなだらかに坂を登った先の一段高くなっている場所にあるので、ここに城(天守はなく御館その後は陣屋)であった事がわかります。しんちゃんの彼女も、相変わらず風呂上りの姿で立っていましたよ(笑)(写真③)。

大坂城の普請のため、近くの大津島から採取したという石もありました(写真④⑤)。また横には就隆を祀る祐綏神社もありました。萩城でもそうでしたが、何故か私は? 毛利の家紋(一文字三ツ星)を見ると自然と武者震いをしてしまいます(笑)(写真⑥⑦)。

徳山駅のホームからは、その石切場であった大津島がよく見えました(写真⑧)。そして写真中央の桟橋からは、大津島行きの船が出ています。

では次は、その駅前の桟橋から船に乗り、毛利家の石切場でもあった大津島へ渡ってきます。そしてその大津島で、平和についてまた前回の続きを考えてみたいと思います。


【余談】毛利就隆(輝元二男)
毛利輝元に二男がいたとはビックリです😲!
私は以前、豊後岡城主の「志賀親次」の晩年と墓を探して宇部の山中を歩き回った時、偶然そこで「毛利秀就生誕の地」の看板と碑を見つけビックリした事をお伝えしました(その時の写真⑨⑩)。輝元には正室との間になかなか子ができず、おじいちゃん元就の子「秀元」を養子にもらい、その秀元が関ケ原では大坂城にいた輝元に代わって、毛利の総大将として出陣し、南宮山に陣を敷きました。しかし関ケ原後、輝元に落とし種(=秀就)があった事が発覚。輝元は殺すよう命じましたが、宇部の山中でその秀就が実は匿われていた事を知った秀元は、家督争いで毛利家が割れる事を避けるため、実子である秀就に家督を譲って自らは身を引き、その秀就が完成したばかりの萩城に入り、初代長州藩主となりました。しかし実は輝元には、さらにもう一人落とし種があったという事ですね🤔。それを知った秀就は、弟である就隆に、長州藩の領地から下松徳山3万石を分地し、就隆は徳山藩を立藩したそうです。そして秀元の娘を正室に迎えましたが、結局は仲が悪く最後は離婚騒動になったとか? その後、その孫(三代藩主)が松の木を巡る本家との領地の境界問題でまたもや騒動を起こし、それで徳山藩は廃藩となり、館は陣屋になったそうです。
(ここで平和への教訓)
身近な家族や親戚とは、できるだけもめ事をしないように、気をつけましょうね😊!
 

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イオ

0×2=0 (2024/06/21 訪問)

室町中期に太田道灌が江戸城の出城として高台に築いた城で、江戸期には出石藩・仙石氏の屋敷があったことから仙石山の名が今に伝わります。市街化により遺構は消滅していますが、地下鉄・神谷町駅から北西に坂道を登って行くと、分岐の港区掲示板の下に先達の皆さまが投稿しておられる仙石山町會防護團の石碑がありました。分岐を北に進んだ突き当りの仙石山アネックスあたりが位置情報の地点ですが、こちらは特に何も見当たりませんでした。…なるほど、この石碑くらいしか写真のネタがないことがよくわかりました(笑)

あまりにも見るところがないので、ついでに神谷町駅から北にすぐの西久保城(東京都港区虎ノ門・城びと未登録)にも。詳細は不明ながら、西久保城は熊谷直実が築いた城で、現在の東京ワールドゲートあたりが城跡とされますが、遺構は消滅しており、歩道の石積や水辺テラスに無理矢理お城っぽさを感じることができる…かなぁ、という程度です。…うん、こっちも見るところがありませんね。結局、遺構の無い城を2つ見たところで、0×2=0ということですか(笑)
 

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yasu

五島列島の江戸時代最後の城「福江城」 (2024/07/20 訪問)

福江城(石田浜に築城されたので別名石田城)横町口蹴出門(けだしもん)。長崎の西約100km沖にある五島列島の福江島に江戸時代の最後(1864年=大政奉還の3年前)に築城された3方が海に面した海城(今は周囲が埋め立てられたため内陸の城)。幕末に海岸防衛の為に東シナ海に面して築城されたとの事。行ってみると石垣、枡形、大名庭園も残り風格がありました 。

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小城小次郎

朝倉浅井の陣城というが (2024/02/10 訪問)

宇佐山城周辺で激戦を展開した朝倉・浅井連合軍が陣取ったと「信長公記」が記す山城の中で場所がほぼ特定されているのがここ。でも陣城にしては石積みが多いので明智氏の頃に何らかの補強がなされたのかも。歩くと結構遠い。

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しんちゃん

銀液丹、万病円 テリブリー毒薬の世界 (2024/06/22 訪問)

田中城から南に程なく行くと田中城下屋敷があり、敷地内には本丸櫓が移築されており、無料で中を見学することができます。田中城は家康の趣味の鷹狩の際の宿泊所としてよく利用されましたが、元和2年(1616)正月21日、家康公は鯛の天ぷらを食した後に腹痛を起こし、駿府城に戻って静養しましたが、4月17日に亡くなったとのことです。
藤枝市のマイ広報紙によると腹痛の後、万病円30粒と銀液丹10粒を飲んで気分が良くなったと側近に語ったとのこと。銀液丹というのは名前からしてヤバいですが、間違いなく水銀が調合されています。
元々、健康オタクの家康公ですが、中国の医学書「和剤局方」や薬草辞典「本草綱目」を愛読していて、自ら薬研で薬を調合していて、側近らにも分け与えていたようです。家康公は不調の原因を寄生虫によるものと考えていたらしく、水銀の副作用である下痢が効果的と考えていたのかもしれません。万病円と万病丹がごっちゃになっている感がありますが、加賀藩の秘伝の薬剤にも万病円があり、一部の業者に調合と販売を許可したようです。外貨獲得が目的と思われますが、この万病円は中国の丹薬や金丹液(雄黄を含む)の影響を受けているようです。銀液丹の名称から伺えるように、家康公も影響を受けているようですね。

万病円の成分として、牛黄(ごおう)・麝香(じゃこう)・犀角(さいかく)などの強壮剤
マメハンミョウ・ムカデ・トカゲなどの動物薬
朱砂や雄黄といった水銀やヒ素の化合物も含まれているようです。全部だめですね、家康さんの調合した薬。
家康公の死因は胃がんとされていますが、毒物の影響があるのではないかと言われているのは、これらの薬が原因のようです。
ヒ素というのは無味・無色・無臭で暗殺にはもってこいと言われています。ヒ素で殺害されたのではないかと思われている、武将や人物はけっこう多いみたいですね。
個人的には 豊臣秀吉(!)・小早川秀秋が怪しいと思います。後の時代の松平忠長も怪しいですね。彼はなかなか死なないので、結局自害に追い込まれてしまったようですが。そんな気がします‥。

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しんちゃん

滝境城 馬場美濃守の縄張りとされる。 (2021/02/13 訪問)

牧ノ原市片浜の比高60mほどの丘陵上に滝境城は築かれていました。曲輪はほぼ茶畑になっていて、縄張りは連郭式で、角郭の間を堀切で区切ってあり、二重堀になっている所もあるようです。東の先端部に本曲輪が築かれ、西に二の丸が配され、その先にも幾つか曲輪が配されています。主要部の周囲は急な斜面になっており、地元では「ホッカケ」と呼ばれているそうです。
地元の案内板によると元亀2年(1571)武田信玄の命で、馬場美濃守が築いたとされ、後に武田勝頼が高天神城を落とす際に大いに役に立ったようです。

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零汰

それでも遺構は残る (2021/04/25 訪問)

写真1が南側の入口なのですが躊躇してしまい北側から入りました。結局出る際はこちらから出てきました、倒竹を避けながらでしたケド。

北側は耕作地や低木の植樹地となっており現役として活用されていました。城域には昔の牛舎だかなにかの建物跡が有ったりとそれなりに荒れてはいます。石積があるとのことでしたので目を凝らして見つけてみると確かに見る事が出来ます。まぁ見ようによっては後年の石積に見えなくもありませんがここでは当時の物と考えました。(城郭放浪記さんにもそうあったし、信頼できる長い物には巻かれておかないと)

耕作地のあたりが主郭なのでしょうが私には確信は持てませんでした。空堀が始まる周辺は竹が猛威を奮っていましたがそこを抜けると一転して空堀がきれいに見えてきます。常に思う、たとえ荒れていても遺構は残るものなのだと。見せるのが目的の城跡では無い場合は一寸踏み込んでみないと遺構を見る事は難しそうです。こちらは見せる城跡ではなく見る城跡です。

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しんちゃん

遠州は意外と穴場 佐馬武神社 (2021/02/13 訪問)

静岡県御前崎市新野は井伊直虎の叔父であり、井伊直政の命の恩人とされる新野左馬助親矩公ゆかりの地です。けっこう遠州も穴場が多く、武田・今川・徳川ゆかりの城址が豊富にあります。新野には親矩公の墓と、彼を祀った左馬武(さまたけ)神社があり、付近には地味ながらもなかなか魅力的な城跡が残っています。
釜原城は堀切などの遺構を残す、連郭式の山城で武田氏か徳川氏の手が入っているとされています。
舟ヶ谷の城山は親矩公の居城とされ、後に武田氏によって改修を受けたのではないかとされています。
天ヶ谷の城山も武田氏によって改修を受けているとされ、二重堀などの遺構を良く残しています。
少し離れて牧之原市の滝境城は武田信玄の命で馬場美濃守が築いたとされ、空堀や土塁が残っています。
甲斐から遠く離れた遠州にもこれだけ武田氏ゆかりの城跡が残っているわけです。

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零汰

(2024/05/23 訪問)

洲崎館・花沢館・勝山館の次に訪問したのはこちら原口館です。
厳密には想定地のようです。

現地の周囲は見渡す限り緑が広がっていました。
ナビの案内で到着した所、案内を放棄した看板が目に入ります。
すると脇には緑の中に誘うような入口が有りました。
緑の中には「ここだよ」と言わんばかりの畑が忽然と現れました。

何故ここだけ畑?

見渡す限りの緑の中で畑と姿を変えて残っているのも悪くは無いと暫く一人畑とその先を眺めていました。

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朝田 辰兵衛

海津城ができるまでの北信濃重要拠点ということで… (2024/05/05 訪問)

海津城ができるまでの北信濃重要拠点ということで,猛暑の中ではありましたが,興味が高まり決行しました。
往路も復路も,玉依比賣命神社からのコースを選択しました。登城口から,徒歩約70分です。
プランでは,復路は北側尾根で下山でしたが,本郭周辺をスズメバチが回遊していたためです。「5月でもダメなの…?」と,落胆しましたが,なんとか本郭までは辿り着き,撮影することができました。頂上ではゆっくりしたかったのですが,スズメバチの数が次第に増えてきたので,慎重かつ速攻で下山しました。
ホンネは,とある煩悩の登城目録さんや昌官忠さんのように,ゆっくりと山全体を堪能したかったです…<泣>。

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イタさん

次浦城跡 千葉県香取郡多古町 (2024/08/06 訪問)

築城年代は不明だが、北の山中に次浦八郎常盛の館跡がある。千葉氏一族が次浦を領有し、次浦氏を名乗り、その後本拠地を次浦城に移したものと推測・・・と案内に載っている。

多古町次浦地区は道が狭く、曲がりくねっており分かりづらい。城跡入口周辺には駐車場はないが、車の通りはほぼないので端の駐車可能な場所に駐める。入口から虎口、主郭に入った場所までは草刈りがしてある。虎口は坂虎口で両土塁は高い。主郭内の東から南の土塁は確認出来るが、北から西は下草が多く踏み入れられず確認出来なかった。中央北側に鳥居が見えるが側に寄れない。虎口下から北を見ると、郭跡かと思えるが、藪になっている。奥に土塁状の高まりが見えるが、城に関係するものだろうか。主郭南西隅から北に向かう堀跡と思われるが、ここも木々・下草が多く分かりづらい。

城跡南で農作業していた男性が、この地区は4つに別れており、その1つで城跡の草刈りをしているそうだ。毎年2月に実施するので、その後に来たらいいですよ、と言っていた。また主郭は地権者が前に売りにだしていたらしいが、他の郭辺りは所有者が違うので整備にも差がでるらしい。主郭内の神社は稲荷を祀り、月に一度当番で管理するとも。他の情報では妙見社とあるが、千葉一族なら妙見神社か。多古城郭保存活用会さんと連携しているのだろうか。

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三浦の晃ちゃん

東北の関ヶ原 (2024/08/07 訪問)

直江兼続と最上義光が、戦った東北の関ヶ原と呼ばれる長谷堂城ノ戦いの舞台です。城址公園があり、車を停められます。険しい要害の感じです。大雨の影響が、ありそうなので、途中まで登りました。

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