常陸と安芸の宍戸家はそれぞれ佐竹と毛利という雄藩で重臣に名を連ねていたという、ある意味「持っている」家柄。八田知家の子孫(宍戸)と大江広元の子孫(毛利)が5kmしか離れていないところにいたというのも奇跡だと思う。それも何かのご縁なのだろうか。
+ 続きを読む
検索結果・・・「」を含む投稿
2024/06/06 21:22
それも何かのご縁なのだろうか (2023/11/23 訪問)
常陸と安芸の宍戸家はそれぞれ佐竹と毛利という雄藩で重臣に名を連ねていたという、ある意味「持っている」家柄。八田知家の子孫(宍戸)と大江広元の子孫(毛利)が5kmしか離れていないところにいたというのも奇跡だと思う。それも何かのご縁なのだろうか。
+ 続きを読む
♥ いいね
9人が「いいね」しています。
2024/06/06 20:13
穴だらけの地面の一角に (2024/05/15 訪問)
道路を走っていると日頃と景観が違ってガードレールが見当たりません。替りにマイナーな城では滅多に見ることの無い立派な立派な横堀が続いています。各々の敷地の出入口はアピール抜群の土橋が。土橋って目立たなくて写真撮りずらいのに。
「・・・・これってアスファルトを避けて写真撮ってどっかの城跡の写真ですって出しても分からないんじゃね?」
こちらのチャシは竪穴式住居跡の一角に存在します。グーグルマップにも出てきて迷わず近くに辿り着くことが出来ます。田んぼのあぜ道を渡ってマーカー近くで林の中を覗きますがちょっと雰囲気がそうじゃない。東に100~150m程度あぜ道歩いて行くと「開発局」の看板がありました。どうやら遺跡の場所に設置しているようです。こちら以外に数か所で見かける事になります。そこから入り込むと目当てに行き着きました。「北の遺跡案内」でも同程度のズレがありましたが、ピンポイントのマーカーなので誤差の範疇です。
穴だらけの地面の一角にそれはありました。堀は浅くなっていますがこれまでの2か所のチャシと形状は同じです。こちらを見ることでこのタイプのチャシは祭祀用なんじゃないかと気が付きました。(例えば集落にある神社のような関係性など。ですが私個人の見解で裏付はありません)
+ 続きを読む
♥ いいね
15人が「いいね」しています。
2024/06/06 19:42
村岡城! (2024/06/05 訪問)
眺めの良い場所で往時が偲ばれて良かったです。
+ 続きを読む
♥ いいね
7人が「いいね」しています。
2024/06/06 19:41
上を向いて歩こうかな。 (2024/04/13 訪問)
楽田城は織田久長によって永正元年ごろに築かれたとされ、「遺老物語」によれば永禄元年(1558)城中に高さ5mの檀を築き、その上におよそ12mと15mの櫓を建て、階上の中央に八畳敷き程の座敷を設けたとあります。どうやらこれが天守閣に対する最も古い記述とされているようです。
天正12年の小牧・長久手の戦いの際には小牧山の徳川家康に対して、豊臣秀吉家臣・堀秀政が守り、秀吉も犬山城から楽田城に入ったとされています。かつての土塁や堀も今は失われ、楽田小学校の一角に城址碑が立っています。
話はかわりますが、コンビニのツバメが巣立って行きました。一羽残らず巣立つことができたようで、ツバメの親の努力には頭が下がります。だいぶお疲れと思うのですが、いまごろ四羽を先導して南に向かって飛んでいるのでしょうか。一羽も欠けることなく目的地にたどり付けると良いですね。
また話はかわりますが、正直 「百名城かるた」の件は残念です。自分のことばかり書いていますが、こうしたイベントで城びとが盛り上がってコンテンツとして長く続いて欲しいと思っているのは本当です。「かるた」もなんらかの形で継続していって欲しいと思っていますし、様々なイベントで皆が楽しめて、新しい城びとが入ってこれる呼び水になってくれればいいなと思っています。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2024/06/06 19:14
大名格の交代寄合の陣屋跡 (2024/03/10 訪問)
西高木家陣屋は河岸段丘上に築かれた西高木家の陣屋跡で、前身は関一政の築いた多羅城とされています。高木家は西家・2300石、北家1000石、東家1000石の三家で交代寄合美濃州として交代で参勤交代を行い、大名と同等の格式を与えられていたようです。天保3年(1832)に北高木家が火事にあい、西高木家も屋敷を焼失したそうです。
嘉永5年(1852)に表門が、明治29年(1896)に屋敷が再建され、敷地内には大垣市上石津郷土資料館が建てられています。また当時の石垣が残り、見たところ河戸石が使われているように見受けられます。どうやら95%が養老山系の硬質砂岩(河戸石)、4%が花崗岩、1%が結晶片岩のようです。河戸石はジュラ紀の地層から採取される、硬い砂岩で、名古屋城の二の丸外周や加納城(推測)にも使われています。劣化して崩れてくるというよりは、端が割れたり欠けたりしています。苔むして変色してくると、もはや花崗岩などと見分けがつきません。立派な石垣になっています。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2024/06/06 12:29
かるた大会
CF、力及ばず無念です…。昨夜からため息をつきながらつらつらと考えるに、日本100名城かるた自体に魅力がないのではなく、魅力をより多くの城好きに知ってもらう時間が足りなかったのかなぁ、と。
だとするならば、現段階での商品化は出来ないとしても日本100名城かるたの魅力を広く伝えることができれば結果は違ってくるわけで、販売用の商品でなく城びと編集部の備品としてかるたを10セットばかり用意することがもし可能なら、百聞も一見も体験に如かずで、お城EXPOでかるた大会を開催して参加者にその魅力・面白さを体験してもらうことで、城好きの間に日本100名城かるたの存在が浸透し、あわせてチラシ等を配布して次なる戦略につなげる…。
商品の企画や広報宣伝は全くの素人なので、そんな簡単な話ではないんでしょうけど、以前からかるた大会、かるた大会と言い続けている身としては、お城EXPOで城好きのみなさんとわいわい楽しくかるたに興じることができるなら、さしあたっては商品化されなくてもいいかな、とさえ思っています。
……いや、でもやっぱり手元にほしいな(笑)
+ 続きを読む
♥ いいね
12人が「いいね」しています。
2024/06/06 08:05
二つの砲台 (2024/04/13 訪問)
江戸末期に大阪湾防備のため勝海舟の建議により江戸幕府が築いた台場で、完成後の試射で砲煙が内部に充満するなどして、実戦に用いられることなく明治を迎えています。
西波止町バス停が最寄り(徒歩約2分)ですが、この日は阪急レンタサイクルで小松城から転戦しました。御前浜公園の北西部に砲台の石堡塔(砲塔)と外郭(土塁)が現存しています。石堡塔は直径約17m、高さ約12mの円筒形で、1階北側に入口(内部非公開)があり、2階の周囲には11個の砲眼、北側に縦長の窓が1個開口しています。石堡塔の周囲を囲んで外郭が設けられていて、西辺には外郭の土塁が遺り、南辺と北西辺(防潮堤の向こうの西波止公園内)には外郭の石材が並んでいます。石堡塔の入口付近には外郭石材(たぶん)が集められていました。また、外郭土塁の南部と北部、防潮堤北側の階段脇に西宮砲台の説明板が、階段の道向かいには史蹟 西宮砲台の石碑が立てられています。
なお、西宮砲台から東南東に約1.3kmには西宮砲台と同時期に築かれた今津砲台がありましたが、陸軍省から民間に払い下げられて解体され、現在では跡地に砲台の石材を利用した今津海岸砲台記念石と今津砲台の説明板が立てられているのみです。さらに訪問時は道路工事中だったため、記念石も説明板も柵越しにかろうじて見えるだけでした…。小松城からの道中だったこともあり立ち寄ってみましたが、こうして二つの砲台をめぐってみると、石堡塔と外郭が遺る西宮砲台がいかに貴重な存在であるかがよくわかります。
+ 続きを読む
♥ いいね
17人が「いいね」しています。
2024/06/06 06:50
百草城 東京都日野市 (2024/05/16 訪問)
城びと未登録城のレポートが続きすみません。
京王百草園と百草八幡宮周辺が城趾です。
百草園駅から徒歩で15分位、早朝だったため百草園開園前でした。
八幡宮から裏手に回ると切通状の道があり、進むと堀切と土塁が残っていました。
江戸時代には松連寺があった場所で土塁上には石碑が立っていました。
更に進んでいこうとしましたが百草園のフェンスに阻まれここまで。
築城者や年代は不明ですが規模は大きかったと思われます。
関東にいる間に行こうと思っていましたが行けなかったので今回訪問してみました。
+ 続きを読む
♥ いいね
17人が「いいね」しています。
2024/06/06 00:36
朝一番 (2024/06/05 訪問)
夜勤明けにバイクで訪問。バイク置き場があって助かりました。
城山神社が本丸で、神社の周囲を堀切や二の丸など遺構が残っていて見応えありました。
高台にある、本丸からの眺望も素晴らしい。
+ 続きを読む
♥ いいね
9人が「いいね」しています。
2024/06/05 21:06
認めたくないものだな‥ (2024/02/23 訪問)
認めたくないものだな 城びとのクラウドファンディング の失敗というやつを‥ (by赤い〇星)
やっぱりだめでしたか。最終日の数字を見て、これアカンやつだ‥と思ったけど。かるた買うたらなんか、ひょっとしたら奇跡が起きるかも‥みたいな気になったんだけど。悲しいけど これ現実なのよね。
私、かるたに参加してないんですね。
百名城かるたCF達成→商品化→続百名城かるた製作決定→投稿できる! といったおいらの野望もこれでパーだぜ‥。
シロー★城びと編集部さん 今はヤキトリだと思うけど、いずれ不死鳥のように蘇ることを期待します。
田原本陣屋‥以前あった標柱は撤去されてます。いろいろあったんですね。案内板によると平野藩陣屋は田原本陣屋町と共に二代藩主、平野長勝が寛永12年(1635)から13年の工期を費やし完成させたとあります。寺川を東の防御とし、残る三方の堀の内側に寺社を配置し、浄照寺は西の守りを担っていたようです。街中の狭い路地を抜けると見えてくる太鼓櫓が、その雰囲気を出しています。
+ 続きを読む
♥ いいね
12人が「いいね」しています。
2024/06/05 20:44
CF,残念な結果となりましたが… (2024/04/06 訪問)
CF,残念な結果となり悔しいですが,みなさん頑張ったと思います。大変にお疲れさまでした。関係者やスタッフ以外で,奔走された方もいたかと推察します。「応援コメント」で盛り上がればと思い,積極的に「いいね」のリアクションをされた方もいらっしゃいました。
スタートダッシュがイマイチだった時の私の投稿で,「最●の城」や「博●ちゃん」で宣伝されれば…と提案しましたが,実現には至りませんでした。難しい側面もあったかと思いますが,ちょっとそれが心残りです。
昨年の姫路と横浜で,かるたの今後の見通しを伺ったことにより,このCFでの展開は不思議でも何でもありませんでした。どちらかというと,「一緒に戦うか!」とスイッチが入りました。
ま,結果は結果なんで受け止めざるを得ないです。まずは,今夜はゆっくりとお休みください。明日以降,前を向いて考えていきましょう。
私からの提案は,先日の投稿で「仙台城」の絵札と読み札が並んだカード紹介がありましたが,そのフォーマットで全カード紹介をしてみてはいかがでしょうか…?
この悔しさは,戦った者だけの特権です。傍観者にはわかりませんョ。戦った者は胸を張ってください。あなたは「英雄」です!
+ 続きを読む
♥ いいね
17人が「いいね」しています。
2024/06/05 20:25
熊笹と熊ってセットですよね (2024/05/14 訪問)
こちらのチャシも現地に行けないのじゃないかと考えていた場所です。「北の遺跡案内」で調べると道道306号から林道を通ると近くに行けそうです。道道だから大丈夫近くに行ける、あとは林道だけと考えて道道脇に到着しました。林道ですが田んぼのあぜ道を拡幅したような道で進入を諦めそこから歩いていきました。そう、「道道だから大丈夫」この頃はそう思っていました。
通行止の橋を過ぎ林道を進んでいくと熊笹の茂みに到達しました。そこを潜って行かないといけないようです。バイクに熊鈴を置いてきていたので躊躇ていると野獣の目を思い出します。あと100mちょいだからと潜ってみると一面熊笹だらけ。熊笹と熊ってセットですよね。
「来るなよ来るなよ」と声を出しながら進んでいくと熊笹地帯は過ぎて目当てに行き着くことが出来ました。
こちらのチャシは背後に2本の川に面していて崖となっています。横堀は円形で両端は各々の崖まで掘り切っておりノツカマフチャシと形状が同じです。こちらにも小さいながらも土橋がついているのですが何やら黒い物が転がっていました。今まで見た事の無いような立派な獣の排泄物でした。排泄物に詳しく無いのですが、大きさにすっかりビビってしまいさっさと退散してしました。
北海道の中でもマイナーな部類のチャシではないでしょうか。横堀内部の平地にもしっかり植樹されていましたし。
遺構の存在を見ることは出来ましたが、昨今の熊被害を鑑みると無責任に他人にお勧めは出来ません。
熊笹を潜って以降、熊の恐ろしさを知らない分大げさではなく終始怖かったです。
+ 続きを読む
♥ いいね
15人が「いいね」しています。
2024/06/05 19:26
中野 竹子殉節之地の巻き。 (2015/05/04 訪問)
戊辰戦争の時、娘子隊の先頭に立ち薙刀を振るって戦った、会津藩の中野 竹子さん。戦いむなしく銃弾に散りました。
世辞の句は
『武士の 猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ 我が身ながらも』
悔しいですね。
悔しい、、、。カルタ、悔しいです。
ちょっと強引な投稿ですが、城びと事務局の方々の努力を感じていたので残念でなりません。
落胆しないで、また楽しい企画や情報を発信して下さいね。
ありがとうございました。
+ 続きを読む
♥ いいね
15人が「いいね」しています。
2024/06/05 18:13
白旗
戦いが終わりました、、、。
残念ながら達成しませんでした。
一緒に戦っていただいたみなさま、誠に誠にありがとうございました。
気持ちを整理したら、改めてお礼申し上げます。
一旦敗戦をお知らせ申し上げます。
+ 続きを読む
♥ いいね
11人が「いいね」しています。
2024/06/05 17:57
かるた 買うたった けど大丈夫? (2024/02/23 訪問)
シロー★城びと編集部様‥‥
「日本100名城かるた」のクラウドファンディングのほうはどんな感じでしょうか?
最後の奇跡が起きることを願わずにはいられません。
でも‥集まらなかったららどうなるの? わたし‥次の続百名城も楽しみにしてるんだけど。だって百名城応募してないもん。
大丈夫ですよね?
箸尾城‥石碑と案内板がありました。かつては環濠集落の平城であったとのこと。城主の箸尾氏は筒井氏、越智氏、十一氏と共に大和四家と呼ばれた豪族だったそうです。
PS‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ドンマイ
+ 続きを読む
♥ いいね
11人が「いいね」しています。
2024/06/05 14:20
城名:竜と龍をなんで変えてる? (2024/04/13 訪問)
【竜王山・城?】
<まえがき>城びとの竜王山城は竜王山の山頂にフラッグがあり、Googleマップの龍王山城は400m程南南西の場所にあります。フラッグの立て間違いなのか、こちらも城跡なのか分からなかったので、一応両方行きました。まず竜王山から。
<感想>車は西に通っている県道375号線の道路脇に停めれます。進入口は<34.917650, 133.905953>の三叉路から東手の山に入ります。遊歩道の板がありますが遊歩道には行かず、板の南の道路との並行地から入ります。山に入って緩斜面の東方向に登って(道はない)行くと右手に堀状地形と奥に削平地があります。削平地の上部にも竪堀状の堀があり、削平地から直角に曲がっているので人工的なものだとは思います。但し周囲が杉の植林地になっているので後世に手を加えたかもしれません。尾根上に出ると尾根上の長い削平地になっていて、東に進むと竜王山頂の三角点と木札があります。山頂の東奥は堀切も無く山状の地形でした。城跡ともいえるし、ただの山ともいえる何とも判別不能でした。
【龍王山城】
<駐車場他>駐車場はありませんが、<34.913024, 133.903862>から東方向の未舗装道を進んで籾山神社の南下に1台停めれます。
<交通手段>車
<感想>日帰り今シーズン山城攻め旅4城目。先達に、あさんが登城されています。城びとの城郭情報にも主な城主に岸氏秀と記載されているのでこちらがポイントかと思います。龍王山城の詳細は不明で岸備前守氏秀の供養塔が東麓に残されています。
城跡は籾山神社の裏手で緩地の奥を進むと主郭に行けます。ほぼ単郭方形に城跡で北と西を堀で囲んでいます。南に腰曲輪があります。西の堀の西側に2連の竈門跡のような石積み跡が残されています。北と南は主郭から緩斜面になっていて防御遺構はありません。東からの進入口も籾山神社から堀切も無く、防御遺構はありません。お城感はなく、山頂居館跡のような印象を受けました。満足度は2か所1つで。添付写真は最初の5枚が龍王山城跡、後半5枚が竜王山のものです。
<満足度>◆◆◇
+ 続きを読む
♥ いいね
16人が「いいね」しています。
2024/06/05 13:48
大鐘家 静岡県牧之原市片浜 (2024/05/25 訪問)
柴田氏の家臣で丸岡城家老の大鐘藤八郎貞綱が慶長2年(1597)に遠州相良に移住、江戸初期には旗本三千石の格式を持ち江戸城の外郭に屋敷も構えていたようです。大鐘家は18世紀初めに大庄屋となり、この地に館を築いたとされています。約一万坪の敷地内には約一万本の紫陽花が植えられ、ちょうど今見ごろを迎えているころです。9月上旬~10月中旬には酔芙蓉が見ごろを迎え一年を通して楽しむことができます。売店では伊勢神宮の外宮にも奉納されている百葉茶が売られ、コラーゲンなどを添付し美容にも良いと評判の百葉茶102も女性を中心に人気を博しています。
ちなみに大鐘藤八郎貞綱は賤ヶ岳の合戦では、柴田家内部のいさかいから豊臣秀吉の側についています。
もひとつ言うと紫陽花の季節には拝観料がちょっとマシ(+)になります。しっかりしてますな。
シローさん、かるた購入したけど大丈夫ですか? ちょっとヤバいんじゃないですか?
+ 続きを読む
♥ いいね
12人が「いいね」しています。
2024/06/05 13:23
イカス山城天国 (2014/01/24 訪問)
日帰り遠州山城ハシゴ旅、高根城だけどりこぼしちゃったんだな。この城だけ外れた所にあるんですわ‥‥‥ガサゴソ‥‥‥
高根城には応永21年(1414)奥山金吾正らが伊良親王を守護して奥山に仮宮を設け、城を築いたという伝承があります。伝承の真偽はさておいて、戦国期奥山氏は永禄年間(1558~70)後半、今川氏の勢いが衰えると今川・武田・徳川のいずれにつくかで揉めに揉め、内部分裂で城は落城したそうです。その後武田氏によって改修を受けますが、武田氏滅亡後、徳川によってさらに改修を受けている可能性は有りますね。
いいかんじに山城が再建されている貴重な城で、本曲輪には土塀、門、井楼櫓、蔵、主殿がひとしきり再現されています。各郭の間を堀切で区切ってあって、南側には二重堀切が有り見所がたくさんあります。
中部には愛知の足助城(有料)や長野の荒砥城(有料)など再現された山城が多いですが、なんといってもここはタダなんですね。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2024/06/05 10:14
達成率70%に届きました! 残り7時間で30%!!
商品化をめざしてクラウドファンディング中の「日本100名城かるた」、
おかげさまで、達成率70%にいきました!!
残り時間7時間!!
本日18時までです。
最後の追い上げ、どうぞみなさまお力をお貸しください!
https://www.makuake.com/project/oshiro_karuta/
+ 続きを読む
♥ いいね
9人が「いいね」しています。
2024/06/05 08:05
立願の撫猪 (2024/04/13 訪問)
詳細は不明ながら、平安末期の内大臣・平重盛の居館と伝わります。
最寄駅は阪神・武庫川駅(徒歩約8分)ですが、この日は阪急レンタサイクルで富松城から転戦しました。岡太神社あたりが城跡とされますが遺構は消滅しており、境内に「小松内大臣 平重盛之城趾」石碑と「伝小松内府平重盛卿供養塔」が建てられているくらいです。手水舎の脇の井戸は往時からのもの…だったらいいなぁ。境内東辺には尼崎藩領の境界標も建てられていました(小松城とは無関係ですが)。
ところで、先達方の投稿で岡太神社の狛犬が猪であることは承知していましたが、境内の説明板によれば、恵美須大神に高潮や洪水等の災害の静止(シシ)を祈願することから猪(シシ)が大神の使いとされるんだとか。境内には天満宮の撫牛ならぬ「立願の撫猪」が奉献されているので、猪像を撫でて私も祈願してきました。「これからも猪に遭遇することなく山城めぐりができますように…」
+ 続きを読む
♥ いいね
17人が「いいね」しています。
✕
人が「いいね」しています。