永禄5年(1562)の「久米田の戦い」の際に貝吹山古墳の上に三好実休が本陣を敷いたとされています。実休はこの戦で討死し、長慶の実弟であり右腕ともいえる実休を失ったことで三好氏は大きな痛手を受けたとされています。この時、実休を討取ったとされるのが根来衆徒の往来右京という人物であったとされています。
城址は現状・古墳で遺構らしきものは残っていません。
草カラス霜又今日ノ日ニ消テ因果ハ爰(ココ)ニメクリ来ニケリ とは実休が前日に読んだ辞世の句とされています。
自らが阿波国主・細川持隆(氏之)を殺害したことを気にかけていたようで、自身を草を枯らす霜に例えたようです。後世の創作ととらえる向きもあるようですが、実際のところはどうなんでしょう?
弟・安宅冬康の返しの歌が
因果トハ遙車ノ輪ノ外ニメグルモ遠キ三芳ノ原
とのことですが‥しんちゃん流に直訳してみると
「因果なんて知ったこっちゃねーけど故郷は遠いよなー」になりました。ひどいポンコツ直訳ですがこれでいいんでしょうか?
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