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しんちゃん

遺構は良く残っている。 (2024/09/18 訪問)

いんげん丸虫さんの投稿にもありますが、確かにこの城址には複数の呼び名が付いているようです・・宇津野城、鳩が森城など。
鳩ヶ城は寛治2年(1089)山本家隆によって築かれたとされています。山本氏は後三年の役の際に源義家に従って軍功をたて、現在の塩原町から矢板市にかけての箒川筋八ヶ村・伊佐野郷十五ヶ村を領有していました。
城址は箒川の西の丘陵に築かれ、主郭の周囲には土塁や堀が良く残っています。南側にも郭がありますが、比較的小振りな城址だと思います。土塁は良く残っているほうですが、草ぼうぼうで少しわかりづらい。まあ土ですからね・・草も生えますね。wwWWww

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しんちゃん

権現 (2024/09/18 訪問)

矢板城は平安時代末期に塩谷氏の重臣・矢板重郎盛兼によって築かれたとされます。江戸時代には廃城になっていたものの、「たたり山」と呼ばれ遺構がそのまま残っていたようですが、明治以降に開発でじわじわ削られ今ではほとんど残っていないようです。

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奥平信昌 (2025/01/23 訪問)

 1600年関ケ原の戦いに勝利した徳川家康が娘婿奥平信昌を加納藩主10万石に据え、加納城築城を命じました。当時の目的は西国大名への抑えでした。岐阜城の石や建物を移したとされ、東北隅櫓は岐阜城の天守を移したと伝わっています。二の丸にあたる岐阜地方気象台に石垣が残っていました。それ以前にも城はあり文永2年(1445年)、守護代斎藤利永によって築かれたのが最初のようです。城主は斎藤妙椿、妙椿養子の妙純と続きます。斎藤妙純の失脚により一度城はその機能を失いました。発掘により本丸周囲は障子掘であった可能性が高いようです。
 本丸の形状が四角形ではなく凸型になっていて、これは出枡形を本丸の正門に設けたものです。この形は初期の徳川の城に見られる特徴のようで加納城がその初現ということで「加納城型」ともいわれています。本丸周辺は石垣がよく残っています。
 
 今までは夏にしか来たことがなく石垣も草に隠されたところがあり、一度冬に登城したいと思っていました。岐阜市に所用があり、JR岐阜駅からも徒歩約15分で登城できるので、空き時間を利用してぶらりと行って来ました。

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ぴーかる

まるごと将軍山城 (2024/12/15 訪問)

【清沢の石切場跡】
<登城路>大山祇神社から比叡山に到る旧道を進みます。城域1の南側の谷に3股に分かれる分岐があります。そこを直進すると着きます。ちなみにその分岐の右手の沢を登っていくと城域2に到ります。

<感想>登城時には石切り場跡とは知らずに城域1の東ゾーンを散策中、上から谷に堡塁が見えて、切岸を頑張って降りて見ると谷一帯に石垣群が広がっていました。こんなすごい遺構が何で誰も取り上げていないのだろうと、帰宅後インターネットで調べた限りですが、「城中心のお出かけ記」さんに同じような事が書かれていました。そこでは清沢の石切場というらしく、検索すると「瓜生山歩人」さんに石切場の事がアップされていました。そこには昭和15年の地図に石切場の記号が書かれていました。
 谷は主郭の手前で2手に分かれて、右手に行くと上部の大空堀の南端とぶつかります。左手に行くと両サイドから城門みたいな岩壁で間口を狭くして、中がホール状の行き止まりになります。ここは岩場の感じは全くないです。また南ゾーンの尾根先が2股に分かれた間の谷に見事な曲輪の石垣が残されています。谷底の通路壁の石垣や谷の土留めの石垣、虎口や堡塁にも石垣が残り私にはどう見ても城跡の一部だったように見えました。(まだ納得いっていない)当時はどんな感じだったろうと想像すると、大空堀の南端はぷっつり切れて崖になっているので削り取られた感があります。尾根の曲輪群は輪郭がきちんと残っているので改変されていない、谷のすぐ上部が主郭主要部になることから当時もこの谷に何らかの防御の施設があったはず、と考えたい。想像と浪漫をかきたてられる場所でした。

<軽いまとめ>曲輪群の多さに日を分けて攻城し、投稿をまとめるのに数日かかって、もはや我が城のように愛着がわきました。将軍山城はそこを占拠した者が都度改修したり、曲輪群を造成したり、出ていく時には城を焼いたりして手を加えてはいますが、その分曲輪群が多い凄い大城郭となった。私が見た感想ですが、やはり南方向の麓の北白川から谷を登って攻めてくる敵を強く意識した造りになっていると感じました。戦国時代は最後に比叡山に陣取った浅井・朝倉軍を京への侵攻を押さえるために明智光秀が軍を詰めています。それにしては比叡山からの進入口にあたる城域2の北東方向の守りは薄いように感じました。私自身は光秀はあまり手を加えていないように思いました。山から京都市街が一望でき、足利義晴・義藤父子が見えているのに入京(御所に入れない)できない悔しい思いの方が強く印象に残りました。(もしかしたら籠城とはいっても慈照寺に常駐してたかも)
 
 読んで下さった方、長々とお付き合いいただきありがとうございました。拙い文章であまり良く伝わらなかったとは思いますが、とにかく凄い城跡だった事は確かです。また城びとで全ての遺構を巡れたのは私が初めてであろう、ちょっと自慢で満足しています。忘れられない城跡となりました。

<満足度>◆◆◆

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いんげん丸虫

見処一杯 (2024/12/31 訪問)

整備された見学しやすい城跡ということ
で、公園化されてるのかと思い、あまり
期待しなかったのですが、遺構満載の
素晴らしい城跡でした。
石積み、虎口、堀切、横堀、畝状竪堀群
などなど、、未訪の方は是非どうぞ。

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南曲輪群(南城) (2025/01/25 訪問)


 現地の縄張り図では二の丸と表記されていました。ただ二の丸というにはかなり離れています。明智光秀がこの城を攻めいたときに築いた相城という説もあります。北側に見事な堀切があり、城内には石垣も少し残っていました。倒木がありますが、散策には概ね支障はありません。

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北曲輪群(北城) (2025/01/25 訪問)

 鞍馬街道と敦賀街道とを押さえる要衝の地にある城で城谷山の山頂部にある北曲輪群(北城)と東部尾根部分(シロヤマ)にある南曲輪群(南城)に分かれています。文明年間に山本佐渡守尚親が築いたとも、明応年間に山本対馬守資幹が築いたともいわれていますが、詳細は不明です。
 北曲輪群(北城)は現地の縄張り図では本丸と表記されていました。
主郭周辺より3方の尾根に曲輪が展開しています。北西の曲輪に浅くなった堀切がありました。石垣が残っていると書かれた本もありましたが、よくわかりません。

 静原神社付近より北曲輪群へ登城するルートもありますが、自分は静原小学校跡より南曲輪群へ向かいました。右参道静原山の石碑より歩いて行くと城跡の標識があり、それに従って山へ向かいました。すぐに道がわからなくなり右往左往しながら麓に辿り着きました。登城口がわからず仕方なく直登始めると、すぐに京都洛北ライオンズクラブと左京消防団静原分団設置の標柱を見つけ見上げると木にピンクリボンを見つけました。標柱は山岳ルートへの救助用標識だと思います。そこにはそれなりの踏み跡があり、ほっとして、その道(踏み跡ですが)を登りました。ところが途中でピンクリボンを見失い、また直登。しかし少し登って見上げると石垣があり、何とか城域に辿り着きました。南曲輪群から北曲輪群へはなだらか坂で倒木はありましたが、ストレスは少なかったです。帰りは静原神社側へ下山しましたが、こちらは急坂でトラロープたよりに降りて行きました。登城口さえわかれば南曲輪経由で登城した方が負担は少ないと思います。

 地下鉄国際会館駅より静原までバスがありますが、本数が少ないので注意が必要です。

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チェブ

番外編、小山田 信茂墓(伝)鎧塚の巻。 (2024/12/29 訪問)

東京都あきる野市にある山城「戸倉城」。
登山経験がなく体力が人並み以下なので、攻め込む事ができません。
なので今回は、以前、所用でこの辺りの地図を見ていたら意外なお名前に出会ったので確認しに向かってみました。
「小山田 信茂墓 鎧塚」
武田家家臣がなぜ、北条領に?

五日市街道から檜原街道に曲がり、少し先に五日市警察があります。その裏手に『あきる野市郷土館』と『五日市高校』。この『五日市高校』の敷地の少し高い所に「鎧塚」の石碑がありました。
フェンスがあり中には入る事はできません。

小山田 信茂さんは、武田家の滅亡の話しには必ず登場する人物です。いわゆる裏切り者です。
その後、甲斐善光寺で処刑されます。
山梨県大月市にある、信茂さんの「岩殿山城」へおじゃました時には、大軍勢が攻め込まないように守ってくれたヒーローだったと受け継がれてました。。(こちらも山城なので登山口で退陣しました(´ε` ))
東京都あきる野市に小山田 信茂さん、信光さん親子が落ち延びたという伝承があるようです。
大月からあきる野への間道があったのでしょうか?
ギリギリ北条領なので、見つからないで良かったです。

私は昔、あきる野市民だったので、今でも通っているお店があります。JR五日市駅からバスに乗るまでの空き時間、檜原街道を歩くと、美味しいお土産と「鎧塚」に出会えますよ。

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しんちゃん

二階堂氏 (2024/09/14 訪問)

須賀川城は本丸跡に二階堂神社があり、南の市民交流センターが二の丸にあたるようです。周囲は堀と町屋によって囲まれ、橋によって繋がっていたようです。応永6年(1399)足利満貞・満直の家臣・二階堂行続によって築かれたとされています。
戦国時代から幕末まで城主が幾度となく変わりますが、寛永4年(1627)加藤嘉明が会津藩主となった後、廃城となりました。現在は市街地に飲み込まれ遺構は有りません。北西にある神炊館神社は二階堂氏によって城域内に勧請されたものとされます。

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しんちゃん

草がぼうぼう (2024/09/15 訪問)

長沼南古館は江花川北岸の段丘上に築かれていました。堀などの遺構が残っているはずですが、足を踏み入れるのを躊躇するほど草が生い茂っているので外観で済ませています。案内板が立っているので、場所の特定はできました。

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しんちゃん

二本カヤ (2024/09/15 訪問)

中畑陣屋は天保8年に幕府旗本・松平軍次郎康済によって築かれたとされています。周囲は私有地になっていて立ち入ることは出来ません。陣屋の庭園跡が個人の敷地内になっていますが、二本カヤを今でも見ることができます。

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しんちゃん

紆余曲折 (2024/09/18 訪問)

御前原城はシャープ栃木工場の南側の一角に築かれていて、周辺が公園として残されています。城址への入口は北側に付いていますが、虎口や大手は南側に付いていて、周囲に堀や土塁が残っています。
昭和38年に国道4号矢板バイパスの路線決定により存続の危機に立たされましたが、保存運動がおこり県知事の決定で路線が変更となりました。とはいえバイパス開通後の開発により主郭と虎口以外の遺構は消失してしまったようです。
現在残っている遺構は15世紀のものとされますが、御前原城の起こりは、建久3年(1192)ごろ、塩谷北部地域を治めていた塩谷朝義に跡継ぎがいなかったため、宇都宮朝綱の孫・朝業が養子となって、この地域を治めたとのことです。

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T-Shionoya

落胆と幸運の清洲城 (2025/01/24 訪問)

本日は急遽愛知県清須市の清洲城へ。

時間の読みが外れて一時は落胆。
しかしその後に2本目があった幸運!!

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しんちゃん

城前官衙 (2025/01/02 訪問)

多賀城は外郭部分の南門と築地塀が再現されており、その内側に配されていた官衙の主屋が構造復元されています。政庁南大路の脇には排水用の暗渠も設けられていたようです。多賀城には鎮守府が置かれていた時期が有りましたが、主要な機能は胆沢城に移り、宝亀11年(780)の伊治公呰麻呂の乱で政庁や官衙の建物はほぼ全焼したと見られます。

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しんちゃん

伽羅御所 国衡館 (2017/05/02 訪問)

伽羅御所・・岩手県平泉町平泉伽羅楽にあった奥州藤原氏の居館跡です。奥州藤原氏三代秀衡が嘉応2年(1170)に鎮守府将軍・陸奥守に任じられた際に柳之御所が政庁として大改修されたため、新たに居館として築かれました。現在は市街地に飲み込まれ、かつての栄華を感じとることは難しそうです。

国衡館・・平泉小学校・幼稚園が館跡になります。藤原国衡(くにひら)は奥州藤原氏三代秀衡の長子でしたが、側室の子であったため当主にはなれず、泰衡や弟たちとの争いを傍観するしかなかったようです。奥州合戦で阿津賀志山の戦いに総大将として出陣するも戦死しています。館跡は周囲より高地にあり、雰囲気はあります。

同日に訪問した接待館の写真も掲載します。やはり春は良いですね。今は4月中旬か下旬ぐらいの頃が一番良い頃合いでしょうか。5月上旬はもう暑い気がします。

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しんちゃん

佐野厄除け大師 (2024/09/14 訪問)

佐野厄除け大師の名で知られる栃木県佐野市の惣宗寺には佐野城の門が移築されています。道路を隔てた向こうには物産館と佐野ラーメンの店があります。この一帯に佐野が詰まっている感じがしますね。後ろの写真は小山市にある壬生城の門です。

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しんちゃん

仕切られた主郭。 (2024/09/18 訪問)

飛山城の続きです。7つの郭で構成されているとされ、北西部の4~5つの郭が主郭という扱いになるようです。最も広くて、建物跡が多い曲輪4が主郭の中でも主要な部分になるのでしょうか。主郭が郭で仕切られているので、実際は異なる郭のように見えます。

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トク

引地山城と到津八幡神社 (2025/01/19 訪問)

到津の森公園から北東へ歩いて10分、地図で推測しながら国道3号線から少し坂を登り路地へ入った、このあたりの小山に本曲輪があったのではないかと思われます。今では座禅道場が建っていました(写真①②)。土塁や他の曲輪などもあるはずなので、少しでも見る事がでる場所がないか小山をぐるりと一周してみましたが、裏手からは土塁らしきものが少し見えるのですが、「私有地につき立入禁止」の札や柵があり結局は中に入れませんでした(写真③)。

ならば次は、ここからさらに東へ5分程歩いた所にある「到津八幡神社」へ行ってきました(写真④⑤⑥)。到津(いとうず)という地名の由来は、神功皇后が三韓征伐の折に宇美の里で応神天皇をお産みになり、豊浦宮へお帰りの際に御座船を当地に着けられたそうで「到津=着いた港」という意味のようです。そしてその皇后をここにお祀りしたのが起源だそうで、安産などの守り神となっているようです。

その後平安時代に入ると、神社は宇佐神宮の神領となり、宇佐大宮司の支族が到津氏を名乗ってこの地を守りました。鎌倉時代には宇佐宮司の清水氏が代官として派遣され、引地山城を築城します。戦国時代には大友宗麟との戦いで宇佐神宮が焼け落ちたため、宇佐の宮司たちは戦火を逃れて、しばらくこの地に滞在したようです。今では二つの山は別々になっていますが、これは住宅開発によるもので、かつての到津八幡神社と引地山城は、一つの尾根でつながった一つの山であったと思われます。

江戸時代には、神社は小笠原家から庇護を受けていたようです。小倉藩小笠原家と水戸徳川家は輿入れなどで縁があり、江戸の小石川後楽園から譲り受けたという石橋がここにありました(写真⑦)。水戸黄門様も渡ったことがある橋ではないかと言われているそうで、小笠原家と水戸徳川家との間には良縁があった事が想像できました。

次は、ここから西に見える花尾山(花尾城)に登ってみようと思います。

P.S チェブさんへ
ライオンまんじゅうのルーツは今川焼か🤔? 私もそこまではよくわからないので、ここは地元北九州出身の「にのまる」さんなら御存知かと(城野も北九州)。ちなみに左があんこ、右がカスタードでした。本物のライオンもいましたよ!
 

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赤い城

とりあえず「行った」ことにしておこう (2025/01/04 訪問)

土佐泊浦背後の松瀬山に城跡があります。
皆さんのレポート通り、南海病院の敷地となっています。
どうやら新病棟の工事中で病院に行くのも躊躇してしまいました。
周囲を一周して退却、とりあえず「行った」のポチはしておきます。
長宗我部氏の阿波侵攻で唯一落ちなかった城なのでいつか公開される日が来てほしいですね。

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天守無しがアツい

信玄ミュージアム (2025/01/12 訪問)

(HP)https://www.city.kofu.yamanashi.jp/rekishi_bunkazai/kofu-takedashirekishikan.html#hotta

武田神社の向かいに信玄ミュージアムという施設があります。入館は無料…入口には信玄が着用したと伝わる兜と鎧(1枚目)が置いてあり、兜を被って鎧の後ろに回り記念撮影ができました。この白い毛が生えた兜…オリジナリティを感じたのでそれを被ってみました🪖

すると館員がそれに気づいて「お写真撮りましょうか?」と言ってくれたので、お言葉に甘えて2枚撮ってもらいました(1枚目はマスクをつけたまま…2枚目は表情が分かるようにそれを外して歯を食いしばり口を横に開きながら😬)

武田神社では躑躅ヶ崎館の御城印が扱われていましたが、ここでは武田氏館跡(2枚目右)と信玄ミュージアム(2枚目左)のが販売されてました

躑躅ヶ崎館=武田氏館と言えるので、信玄ミュージアムは一応別の建物だから…(躑躅ヶ崎館のは昨年(2024年1月に)購入済なので)片方だけの購入でもいい気はしましたが…「これが5種類ならともかく、2種類しかないから1枚も2枚も大して出費は変わらん」…というのもあり、結局両方買いました

この施設には常設展示室と特別展示室(有料)…そして旧堀田古城園という古民家と庭がありました。常設展示室では武田氏三代(信虎・信玄・勝頼)にまつわる展示が…

奥の方に関連書籍がたくさん並べられてるコーナーあり…マンガを1冊読みました。それによると…信虎の政策は戰のために民に重税を課すのは当然…領主は民から搾り取り威圧的になる事で示しがつくというもの

けれど息子の信玄は…「人は城 人は石垣 人は堀 なのであり、圧政で支配するなんて間違っている」「人の和こそ最大の武器であり、民の生活の安定こそ第一に考えるべきである」というポリシーで父と対立

そして親父信虎を家臣と共謀して「駿河国に隠居していただきます」と告げて追放。この時信虎の命に従うものはおらず、周囲の者にあっさり取り押さえられる形で籠に乗せられたようなので…どうやらゼロと言っていいくらい…周りからの支持を得てなかったものと思われます

それから由布姫というカフェで…謙信ラーメンというメニューを摂りました。謙信の名が付いてはいても中身は…メンマとナルトとチャーシューとノリの入った醤油ラーメンです🍥🍜🐖

腹ごしらえを済ませた後はフォトブース陣屋にて甲冑の撮影をまたしちゃいました(3枚目)。ここのはお触り禁止であくまで撮影のみ…けれど甲冑の後ろに並ぶ武田軍の旗が格好良さを引き立たせており…(1枚目の甲冑とは)また違った魅力を感じた気がします

旧堀田古城園の建物は基本…外からの見学のみで、どうしても中に入りたいという場合には受付で許可を得てからと説明に書かれてました。けどそこまでしなくていいかなと思えたので、ここは外からの見学だけにしておきました

レコードに黒電話、レトロテレビなど昭和チックな部屋(4枚目)と屋敷全体(5枚目)を撮影してから特別展示室に向かいました。そこの館内は全て撮影禁止だったため、代わりに旧堀田古城園の画像を載せてる…とも言えますね

館内には武田氏の歴史を記録した甲陽軍鑑…武田氏館から出土した品々(銅銭、瓦、天目茶碗など)が展示。奥にある映像展示では…肖像画とアニメーションの融合とでも呼ぶべき映像が流れました

信玄の肖像画は幾つかありますが、そのどれもがかなり顔の印象が異なるもの…なのでどれが実際の信玄に近いのかははっきりとは分かっておらず、謎に包まれているそう

なので「これ最も近いかも」と伝わる肖像画を元に信玄の顔がアニメ化され…彼の生涯が紹介されていました(赤ん坊として生まれた→幼少期→初陣で勇ましく活躍→父を追放→三方ヶ原で家康に大勝する…)

そもそも…その肖像画も…信玄の死後、後世に描かれたものだって結構あるんじゃないかと思うんですよね。例えば信玄と家臣24人を描いたものがあるのですが…それは江戸期に信玄ブームというか人気に火がついたあたりに描かれたもの…本人の死後100-200年経ってからなので、本人および家臣の顔は作者の想像で描かれたのは言うまでもない😅

当時は肖像画しか人の顔を記録するものは無く、しかもそれだって本人の死後に描かれることは珍しくなかった…墓はあるようですが、そこに遺骨は果たしてあるのか?そう考えると…もはや本人は本当はどんな顔してたかなんて分かりようがない🤔

「信玄の死因」についての紹介文もあり…結核説…肺がん説…暗殺説…がありました。有力視されてるのは結核説。ちなみに修羅の刻(日本の歴史上人物が出てくる川原正敏先生のマンガ)では暗殺説…不破虎彦という若者に首の骨をへし折られてあの世逝き…👼

まぁ…当時は今より医学なんてかなり遅れていたと思われるし、そもそも結核(当時の呼び名は労咳)だったとしてもそれを診断できたのか?ガンならなおさら怪しい…診断できたとしても、特効薬も無いため気休めの漢方薬くらいしか出せるものがない…様子が目に浮かぶ

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