池上氏館からの転戦です。徒歩にてアプローチしました。じゅんじんさんの投稿を拝見して、湯殿神社から梶原景時創建という萬福寺まで脚を伸ばしてみました。源頼朝の愛馬・磨墨の像がありました。羽黒城に行ったときに磨墨塚史跡公園にも立ち寄っているので、ちょっと嬉しくなりました。
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2024/12/13 07:19
2024/12/13 06:06
安徳台遺跡(安徳天皇ゆかりの地) (2024/12/09 訪問)
福岡県那珂川市の高台に「安徳台遺跡」という所があります。ここは壇ノ浦の戦いの時、入水した事で有名になった、幼い安徳天皇が1年間ほど源氏から逃れ過ごしていた場所だとされています。私も以前からこの一帯には「安徳」という地名が多く(例えば安徳小学校など)不思議に思っていましたが、やっと謎が解けましました。
安徳天皇は、高倉天皇と建礼門院(平清盛の娘)との間に生まれた子で、幼くして第81代天皇として皇位を継承しました(この時まだわずか満1才)。1183年源氏の台頭により木曾義仲(源義仲)が京を占領すると、都を追われ大宰府へ逃れます。当時太宰小弐の原田種直の所領であった岩門城そばの高台であるこの地に館が建てられ、三種の神器を携え1年程ここで匿われたそうです。
そして安徳天皇3才の時、木曾義仲が追討され亡くなると、京に戻るためいったん屋島に移されますが、そこで源頼朝が台頭してきます。平家追討軍として源義経が屋島に攻め込んだため、安徳天皇は平家の船に乗り込み、瀬戸内海を西へと逃げました。そして壇ノ浦で入水し、悲惨な最期を遂げたようです(参考写真⑤⑥:壇ノ浦安徳天皇入水の地)。この時まだ満6才だったそうです。
ここ安徳台には、幼くして亡くなった安徳天皇を偲び、「安徳宮」が建立されています(写真①)。
次は、その隣にある岩門城に行き、小弐氏の栄枯盛衰を追いたいと思います。
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2024/12/12 23:50
2024/12/12 22:13
土のお城の面白さ (2024/12/11 訪問)
山中城前の一つ前のドラゴンキャッスルバス停辺りから箱根旧街道を通って岱崎出丸へ 右側は出丸 矢や鉄砲で打たれる想像しながら進みます 山中城売店の裏辺りに岱崎出丸入口があります 出丸の旧街道側には土塁や畝堀で守りを固めているのが良く解り出丸だけでも見応えあります 出丸から売店へスタンプ押して御城印買って山中城本丸を目指して出発 三の丸の堀や沼など写真撮りつつ進むと畝堀が各曲輪を守っています 西の丸からは見事な障子堀が見えます 敵を落とすためのものなのに芸術的で美しい ここで壮絶な戦いがあったとは‥ 時の流れを感じます 土のお城の面白さは堀や土塁を自在に作れる所だと思ってます 土のお城で同じ印象な所って無いなと 山中城はそんな魅力がたくさん詰まったお城でした
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2024/12/12 21:59
世渡り上手。 (2024/09/18 訪問)
大田原城は天文14年(1545)大田原資清によって築かれ、明治4年(1871)の廃藩置県に至るまで大田原氏の居城でした。なかなか世渡り上手な一族で、豊臣秀吉、徳川家康と時の権力者に信頼されてきたのも長持ちの秘訣のようです。石高は1万1千石で、本来は城持ち大名の格ではないのですが奥州の大名への押えとして重視され、三代将軍家光からは常時玄米一千石を城中に貯蔵するよう命を受けています。
現在は龍城公園として整備されています。本丸の北に北城(北曲輪)があり、その先にも曲輪があります。東には蛇尾川が流れ、南に二の丸があり、三の丸は南の麓にあり御殿が築かれていたようです。北城・本丸・二の丸には土塁が残り、本丸の土塁はかなりの高さがあります。本丸と二の丸の間には空堀があり、その空堀は本丸の周囲に続いています。明治まで長く持ちこたえた城だけあって、遺構も多く残っていて、なかなか見ごたえがあります。
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2024/12/12 20:49
郷土史料展示室 (2024/05/05 訪問)
永禄6年(1563)3月、成田親泰の次男・小田助三郎(朝興)が守る騎西城が上杉謙信に攻められ、助三郎は自害し、騎西城は落城しました。天正2年(1574)にも上杉謙信によって騎西・菖蒲・岩槻などの北武蔵の諸城が落城させられています。
徳川家康の関東移封後の天正18年(1590)松平康重が2万石で入り、江戸時代にも使用されますが寛永9年(1632)に大久保忠職が美濃国加納に転封となると廃城になったようです。
現在、天守を模した郷土史料展示室がありますが、ここはかつては外堀であったようです。かつての本丸は田畑となっていて、かつての面影は有りません。二の丸は住宅地になっています。本丸の南東が馬屋曲輪と天神曲輪の跡になり、ここに土塁跡がありますが、写真を撮り損ねています。しまったにゃあ。
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2024/12/12 20:20
久居陣屋 (2024/11/23 訪問)
【久居陣屋】
<駐車場他>津市久居グラウンド駐車場に停めました。
<交通手段>車
<感想>日帰り伊勢山城攻め旅4城目。現地説明板によると久居陣屋は藤堂高虎の孫藤堂高通が1669年に5万石を分地され久居藩を立藩します。1671年に野辺野と呼ばれる高台に陣屋と城下町を造ります。築城は認めらていなかったが堀と防塁は造ったようです。永久鎮居の願いをこめて久居藩と名付けました。久居藩は明治まで続き、本家の津藩へも跡継ぎを出しています。
現地は公園や中学校になっていて遺構はほとんど残されていません。空堀が残されているようですが、中学校の金網の向こう側のようで公園を一回りして終了しました。
<満足度>◆◇◇
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2024/12/12 20:11
栃木城址公園 (2024/09/14 訪問)
栃木城は慶長14年(1609)に皆川氏が改易になると同時に廃城になったようです。城として機能したのは、わずか19年という短い間でした。かつての栃木城は東西約149m、南北約131mの本丸の東に二の丸と三の丸が配され、南側に南丸、北側に屋敷があったと考えられています。平成20年に主郭の調査が行われ、堀底に畝の様な盛り上がりが見つかり、障子掘りであったことがわかりました。
現在は栃木城址公園として整備され、堀と土塁の様な築山が残っています。
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2024/12/12 19:08
いつも素通りしていたが,ようやく… (2024/11/03 訪問)
いつも素通りしていた勝沼氏館に,ようやく機会が訪れました。神奈川県の「奥●●城」へのバスダイヤ,午後のほうが計画しやすかったためです。午前中の穴埋め程度で訪れましたが,空堀や土塁に惚れ惚れしました。
3日目にしてようやく晴れました。この日も雨だったら,山梨県リニア見学センターに行こうかな…と。
久しぶりの山梨県の城です。
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2024/12/12 11:58
家康公騎馬像 (2024/11/24 訪問)
松の大木が伐採され天守南面スッキリ!の続きです。
岡崎城天守閣南面のスッキリした姿と名鉄東岡崎駅頭に建立されて家康公騎馬像を見学したいと、朝早く電車を乗り継いで東岡崎駅へ、東口に向かい家康公騎馬像の案内指示も有り2階屋根付きテラスを進むとテラス上広場に徳川家康公騎馬像がでんと建立されている。
朝の陽ざしで正面の家康公騎馬像は影って暗く映る、後ろ正面は陽ざしがばっちりで奇麗に映る、四方を撮影、各角に四神像が随身しており、説明板によると三河武士団の持つ四の徳「忍」、「智」、「勇」、「慈」を具現化したと、「忍」・・忍耐[北西]、「智」・・知恵[南西]、「勇」・・勇気[北東]、「慈」・・人からの信頼[南東]、徳川家康公騎馬像は徳川家康と改姓した25歳当時の姿を現しているそうです。表側には徳川家康、裏には厭離穢土 欣求浄土と2行に刻み、書は先代徳川恒孝さんに依ります。
「厭離穢土欣求浄土」は家康公が桶狭間の戦いで敗戦し菩提寺の大樹寺に逃げ込み墓前で自害を試みました時、13代住職登誉上人に諭されて自害を留まったと言われています。以後「厭離穢土欣求浄土」を御旗にして戦っていきました。最終的には徳川氏が江戸時代265年戦の無い時代を築いたわけです。(案内板より抜粋)
建立は令和6年7月吉日、作者は日本芸術員会員・神戸峰男氏と記されていました。
素晴らしい施設と家康公騎馬像が完成し新しい観光スポットが出来上がりました。
東岡崎駅と乙川リバーサイドを繋ぐリバーサイドテラス、レストラン、商業施設に導きます、降りると乙川沿いに岡崎城へ続く道です。
東岡崎駅頭から岡崎城登城散歩へ続く。
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2024/12/12 10:29
松の大木が伐採され天守南面スッキリ! (2024/11/24 訪問)
初登城以来五十数年、登城の度に天守閣南面の松の大木が邪魔で天守閣のスッキリした写真が撮れない、伐採してほしいと思っておりましたが、NHKの大河ドラマ「どうする家康」効果なのか天守閣のリニューアルと令和5年度の石垣損傷樹木の伐採事業に入れられて令和5年度末には伐採されたようです。
皆さんの城びと投稿を見ていると登城日2023年2月は大木が有り、2023年4月には大木が無く、天守閣南面のスッキリした写真投稿が続いております。
五十数年来願って居た松の大木が伐採されて、岡崎城天守閣南面のスッキリした写真を撮りたい眺めたいとの願いが50数年ぶりに叶いました。遅ればせながら天気の良い11月勤労感謝の日の翌日、何時もは車で登城するのですが東岡崎駅頭に家康公の騎馬像もNHKの大河ドラマ「どうする家康」に合わせて建立された様で合わせて是非見たいと電車を乗り継いで出掛けました。
登城は11月でしたので菅生曲輪近くの菅生神社、本丸にある龍城神社は七五三参りで着飾ったお子さんと親御さんで賑わっていました。
リニューアルした天守閣にも登り、清海堀は堀底に降りての探検が年1回の割で実施されていましたが以前探検しましたので今回はパス、一昨年の2022年11月6日以来振りの登城でした。
今回はスッキリした天守閣の見学観察撮影が主目的、願いが叶い充分堪能しました、気長に待つものですね。
家康公騎馬に続く。
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2024/12/12 07:19
PIKUMIN BLOOM JOURNEY TOKYO DOME CITY2024参戦翌日の攻城④ (2024/11/24 訪問)
ちょっと距離はありましたが、行方氏館から徒歩にてアプローチしました。池上氏館跡の本行寺に赴く前に池上本門寺に立ち寄っていきました。2003年5月以来、実に21年ぶりの再訪です。ちょうど開館時刻の10時になったので、霊寶殿も見学してきました。本門寺宝塔、狩野家墓所を経て日蓮上人入滅の地という本行寺にたどり着きました。
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2024/12/12 07:06
堂山城 香川県高松市 (2024/12/01 訪問)
北岡城の後は堂山城へ。
城びと未登録城です。
登城口はいくつかありますがいずれもハイキングコースとなっていて歩きやすいです。
この日は南側から攻城、途中ハイカーさんともすれ違い。
私よりも歳上の方が多かったのですが交わす挨拶で清々しい気分になります。
途中◯合目の案内もあるのでゴールへのモチベーションも維持できます。
まずは南側のピークへ。
ここには龍王宮が祀られ、展望台になっています。
南嶺からさらに進み堂山302へ、まだ城跡ではありません。
さらに先の堂山304が主郭部、手前の尾根道には浅くなった堀切も見られます。
主郭にも祠が鎮座し、別名の福家城の看板がありました。
まずはここで一休み、朝の空気を吸い込んだら主郭下の帯曲輪へ。
久しぶりの藪漕ぎでしたがこの時季なのでストレス無く進めます。
浅いですが横堀も良好に残っていました。
藪から出たところでハイカーさんに出会いちょっとびっくりされました。
そりゃそうですね。
帰りは南嶺の手前まで戻り、綱敷天満宮のそばの登城口へ下りるコースを取りました。
お昼前のこの時間、さらに多くのハイカーさんとすれ違い。
気持ちいいハイキング、、いや登城でした。
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2024/12/11 22:55
信玄棒道ウォーキング (2024/10/13 訪問)
「JR全線秋の乗り放題パス」で3日続けて小海線に乗りに通いました。
初日にチャレンジしたのが信玄棒道ウォーキングです。信玄棒道とは武田信玄が北信濃攻略のための最短の道として開発した軍用道路で、数年前に平山優先生の講演会で市街地の道路に見られる棒道の痕跡について拝聴し、興味を持っていました。
とはいえ自力で辿るのは無理だろうと諦めていたのですが、昨春、谷戸城を訪れた際に長坂駅に信玄棒道ウォーキングマップがあるのを見つけました。
読んでみると、江戸時代に30基の観音像が安置されたことで棒道の一部(上の棒道)が残り、現在はハイキングコースとして整備されているとのこと。これはぜひ歩いてみたいとマップを持ち帰り大事に保管していました。
そして一年半後、ついに決行の日がやってきました。(後押ししてくれたのはもちろん乗り放題パスです。)
中央線を西へ西へと進み、小淵沢で小海線に乗り換えてひと駅の甲斐小泉で下車。
最初に名水百選の三分一湧水へ行き、あとはマップを見ながらひたすらゴールを目指して8.5km歩きます。
途中で大きな鹿3頭に遭遇し心臓バクバクしたりもありましたが無事ゴールイン。
舗装されていない山道では信濃攻略の気分を味わえましたし、棒道を歩いているということ自体がとてもうれしい時間でした。
道の駅こぶちざわに寄ったあと、時刻表を確認して小海線のビューポイントとして紹介されているところまで行ってみました。キハ110がよく似合う風景でした。
思い出に残る楽しい一日が過ごせました。
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2024/12/11 21:47
2024/12/11 20:55
2024/12/11 20:32
2024/12/11 20:11
姫路城・大天守・姥ヶ石 (2024/04/20 訪問)
姫路城の続きです。ぼちぼち出させていただきます。菱の門を通過した後は「い・ろ・は・に」の門を通って「ほの門」をくぐれば天守はすぐそこです。石垣の間に「石臼」が挟まっており「姥ヶ石」の通称で知られています。
羽柴秀吉が姫路城を築くときに石集めに苦労しており、城下で餅を焼いて売っていた貧しいおばあさんが使っていた石臼を寄付したそうです。この行為が評判となり、国中からたくさんの石が寄付され、築城が急速に進み、立派に完成したとのことです。
・・サクラじゃないですかね? とはいえ、石垣自体は池田輝政が築いたものなので、あくまで伝説とのことです。
「水三門」「水六門」を通ってようやく大天守に入れました。
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2024/12/11 19:51
木造城 (2024/11/23 訪問)
【木造城】
<駐車場他>駐車場はなし。車はあまり通らないので土塁横に停車
<交通手段>車
<感想>日帰り伊勢山城攻め旅3城目。現地説明板によると木造城は1366年北畠顕能の3男顕俊が築城しました。顕俊は木造氏とあらためこの辺り一帯を支配しました。1528年7代城主の木造俊茂が古城の北300mのこの地に新たに城を築き、後1584年に城を明け渡すまで使われました。とあります。
現地には小さくなった土塁がポツンと1つ残されており、その上に城跡碑と説明板があります。
<満足度>◆◇◇
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2024/12/11 11:49
もみじまつり前日-8/8 紅葉編 (2024/11/15 訪問)
もみじまつり前日-7/8 石垣長塁と諸門の2/2編の続きです。
津山城を3の丸、2の丸、本丸と廻り、備中櫓登閣、天守曲輪、天守台、粟積櫓台に足を運び、裏中門跡周辺には踏み込みませんでしたが、紅葉を都度都度の個所で眺め、特に天守台、大戸櫓台からの裏中門のもみじ谷の楓の紅葉を上空より眺める素晴らしさを体験しました、桜満開に無い体験でした。
晴天で青空での紅葉が最高でしょうがたまにしか訪ねられない定めでしょう、石垣と紅葉を小雨の中楽しみました。
この後は津山ICより中国道新名神湾岸道新東名と高速を利用して約450km程を途中PAで食事をし、湾岸で渋滞も有りましたが約5時間半で帰宅しました。高速で便利になりました。
長々と9編に渡りご覧頂きありがとうございます。
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