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ぴーかる

真鍋屋敷跡の石垣は本物かどうか (2024/03/16 訪問)

【葛下城】
<駐車場他>駐車場は<35.109489,133.889157>付近に沢のほとりを削平した6台分程ありますが、県道337号線から西へ入る道が悪路で落石が多くパンクの恐れがあるのでお勧めしません。登城口まで歩きますが<35.111831,133.890671>櫓のある所の道路脇に停めるのがベターかも。
<交通手段>車

<登城道>踏み跡の道があったり、途中ロストしたりしています。登城口は上記駐車場から更に300m程西へ進むと右手に葛下城登城口の立書札があります。登城口には踏み跡がありますが、入るといきなり道がロストしていますので、左を向いて左方向に何となく登る。⇒道が湧いて出てきた時に右手の山に家臣屋敷の石垣が見えます。⇒家臣屋敷内の切通しを抜け、左手に連段の曲輪があります。⇒暫く道があります。⇒大きな谷の削平地に出ます。谷山の塁線に沿って大きく回り込むように進む(道は薄っすらある)⇒道がロストしています。腰辺りの灌木雑草をそのまま真っすぐに抜けると、道がまた湧いて出てきます。⇒正面上方に曲輪の縁の直線が見えますので登り切ったら舌状曲輪(城跡家臣屋敷の下段)に出ます。

<見所>登城口付近の家臣屋敷石垣・主要部の谷扇状曲輪
<感想>現地説明板によると葛下城の築城年は定かではないが、大河原大膳大夫なるもの此に居るとあります。戦国時代末頃には中村頼宗が領主となり毛利氏の麾下に属します。この中村頼宗が美作国岩屋城が宇喜多氏領だった1581年に決死隊を組んで主郭に繋がる落とし雪隠を暴風雨の中よじ登って奇襲し城を陥落させます。中村頼宗は毛利氏から恩賞として岩屋城主となりますが、本能寺の変の後、毛利氏と羽柴秀吉の講和によって美作国は割譲されましたので、この葛下城もこの時廃城になったようです。
 登城口の向かって右手に巨石で組んだ石垣が残っています。登城開始してすぐある真鍋屋敷・家臣屋敷跡の石垣も凄いのですが、ガラス・陶器・瓦片が落ちているので、近年まで建物があった形跡があります。石垣は当時のものか判別不能です。
 上記登城道から。到着した舌状曲輪は城跡主要部の南西部にあたります。谷の扇状の曲輪は整備されているようで通りやすいですが、城跡に内に道が無く、上方の主郭へ行くには雑木の少ない所を選び直登しなければなりません。主郭は楕円状の広い曲輪で半分程度雑草が刈られています。下段の2郭は広い腰曲輪状で主郭から行けず、違う場所から直登すると行けそうです。主郭の奥に城主館跡、その背後の山頂部が見張り台となっています。主要部に石垣は残っておらず、見張り台に僅かに石垣跡が見られます。

<満足度>◆◆◆ ※真鍋屋敷跡の石垣が当時の遺構だった場合として。

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ぎりょう

広大な会津の山城に感動! (2024/05/13 訪問)

会津の旅二日目は予報どうりの雨天。雨足も強く同行者も居ることで、向羽黒山城の初登城は無理と思いながら、湯野上温泉から会津若松市に向かいました。途中、同行者から会津美里町には本郷焼の展示施設があるから寄りたいと提案がありました。城址の近くであること、山城の中腹まで車で登れることから、行くだけ行ってみようということになりました。
城址が有る岩崎山を南西側から登り二曲輪(中城)下の駐車場に到着。最高所の一曲輪(実城)への登り口がありますが、雨は降り続いており一曲輪攻城は断念。二曲輪だけでもと、傘をさして登りました。
二曲輪は、東西60m、南北40mの広さが有り、展望台からは会津若松市周辺が望める絶景地。平場は東屋が建ち、植栽など公園化でかなり手が加わっているようですが、かつて城の中心的役割を担った曲輪の雰囲気があります。
その後は弁天神社前の急カーブを下り、二曲輪群と三曲輪を隔てる堀切と、伝盛氏屋敷跡を横目に十日町口大手に下りました。
今回はほんの立ち寄り程度の訪問となり残念でしたが、比高約190m、東西約1.4km、南北約1.5kmに多数の曲輪を連ねた中世会津の代表的な山城の雰囲気を感じ取ることはできました。
永禄4年(1561)に葦名盛氏が築城後、慶長6年(1601)の廃城まで、伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝と領主の変遷とともに、おりおりに改修が加えられているらしいのですが、次回は徒歩で登り、時間をかけて遺構の確認をしたいと考えています。

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しんちゃん

地獄めぐり弐 (2014/01/14 訪問)

地獄めぐりの続き。国の名勝の「血の池地獄」と「龍巻地獄」です。血の池地獄は最も地獄らしい「地獄」で、酸化鉄の影響で池が赤く染まっています。朱色に近い感じですが、見事な色合いで「血の池地獄」とはよく言ったものです。
「龍巻地獄」は間欠泉で、一定の時間を持って「ぷしゃー」と噴出して来ます。この日は噴出して来るまでしばらく待って、写真をバッチリ撮ってきました。他にも坊主地獄の写真もあったはずなのですが、データフォルダの破損の際に紛失しています。大事な写真は二重に保管しておく必要がありますね。
こうして見ると地獄も悪くないと思います。地獄と極楽の二択を迫られたら地獄を選ぶのもアリですぜ。極楽は道楽も無く、お経三昧だろうし、退屈かもしれませんよ。地獄に行けばスリリングな毎日は請け合いです。戦国大名や武将の皆さんも手ぐすね引いて待っているかも(??)。

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しんちゃん

地獄めぐり (2014/01/14 訪問)

別府地獄めぐりは別府温泉に多数存在する「地獄」を巡る観光コースです。「地獄」とは自然に湧き出る源泉でコバルトや酸化鉄などによって特異な景観を造りだしているものもあります。間欠泉の「竜巻地獄」や熱泥で泡立っている「鬼石坊主地獄」なんてものも有ったりします。海地獄(コバルト・水色)/ 血の池地獄(酸化鉄・赤色)/ 白池地獄 / 龍巻地獄は「別府の地獄」として国の名勝に指定されています。
どうせこの世は地獄だよ‥とか、どうせ死んだら地獄行きさ‥なんてやさぐれている方には是非、訪れていただきたい。ひょっとしたら人生観が変わるかもしれません。
鬼山地獄では熱を利用してワニを飼育していて、別名「ワニ地獄」とも呼ばれています。イリエワニ、メガネカイマンなど100頭ほどのワニが飼育されていて、冬でも暖かい地獄はワニにとっては天国のようです。

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チェブ

城びと未登録のお城攻め「小栗城」。 (2024/04/13 訪問)

「久下田城」から「真壁城」に向かう途中に『城址入口』の立派な石碑を見つけ、ちょっと寄り道しました。
因みに、この時は何城か分かっていません。
石碑の大きさからいって、保存会の方々や自治会で大切にされている事は分かります。
向かって右側に『内外大神宮』があり、その周辺がお城跡かと思い向かいました。
車に戻る途中に、小さな手書きの案内板に「小栗城」とありました。
帰って来て「小栗城」を調べたら、私がうろうろした『内外大神宮』の奥に大きな「小栗城」がある事が分かりました。

「小栗城」は築城時期は不明ですが、古河公方の足利 成氏さんに攻められ落城しました。
その時の城主、小栗 満重さんと子の助重さん(小栗判官)が三河に落ちたそうです。
助重さんは、毒酒で殺害されようとするが、姫に助けられます。
助重さん、この事で目も見えず、耳も聞こえず、口もきけない身体になりましたが、熊野の湯治で回復し、姫と仲良く暮らしましたとさ。
このお話は歌舞伎の演目にもなっているそうです。

茨城県 筑西市 小栗に「小栗城」があります。
石碑周辺に駐車できました。
筑西市は12月に『小栗判官祭』を開催しているようです。歴代の判官役の方々が有名人でした。
『小栗判官祭』、見てみたいな~。

入口しか見てないので再訪を誓う「小栗城」攻めでした。

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モト

神籠石にうっとり (2024/05/17 訪問)

古代山城シリーズの1つ神籠石を眺めに行ってきました。
見学できる地点まで車で行けます。
案内板の建っているのですぐにわかります。
神籠石と土塁が郭確認出来ます。
見学できる所は短い距離ではありますが、神籠石とその土塁が比較的見やすい所なのではと思います。
土塁に沿って少し歩いた所にも神籠石が確認できました。

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イオ

畿内と阿波国を結ぶ要衝 (2024/03/30 訪問)

戦国前期に、夙川東岸の六甲山地からのびる台地の突端に瓦林正頼が築いて瓦林城から居城を移しました。西国街道をおさえて畿内と阿波国を結ぶ要衝の地であることから、それ以降、三好氏と瓦林衆との間で激しい争奪戦の舞台となりましたが、戦国中期には三好長慶が入って居城とし、長慶が芥川山城に移った後は松永久秀が置かれました。三好長慶の死後、松永久秀と三好三人衆が対立すると篠原長房に攻め落とされて長房の居城となりましたが、織田信長の摂津攻めにより長房が阿波国に撤退すると廃城となりました。

阪急・西宮北口駅から阪急レンタサイクルS-styleで登城。宅地化によって遺構は消滅しており、大社小学校の南東隅に城趾石碑と説明板が立てられているほか、小学校の北東約150mの西宮市指定保護樹木のクロマツの脇にも城址石碑がある…はずですが、見付けられませんでした。このクロマツ付近が台地の東端にあたり、北に約100mの城山南公園付近は台地の突端であることがよくわかります。越水の名は「小清水」が転じたもので、台地の東麓には越水城の水の手だったと思われる越水井戸が2箇所遺っていて、今なお豊かに水をたたえ、阪神淡路大震災では被災された方の貴重な水源ともなりました。また、城域の東辺から南辺にはかつて外堀がめぐらされていましたが、現在では南東隅部に「城ヶ堀」の地名が残るのみです。

城跡の北西部にあるニテコ池は堀跡とも云われますが、現状は越水浄水場の貯水池として築造されたものです。ちょうどその越水浄水場でさくらの通り抜けが開催されていたので行ってみると、今年は開花が遅れたためソメイヨシノはまだまだでしたが、越水の名を冠したコシミズハヤザキやエドヒガンは満開になっていました。その後、浄水場下の西宮震災記念碑公園で慰霊塔と小説火垂るの墓誕生の地記念碑に手を合わせ、夙川沿いに下って(夙川公園の桜もまだまだでした)、西宮北口駅に戻りました。

越水城から浄水場、夙川公園とめぐって所要2時間弱、阪急レンタサイクルS-styleなら2時間で何と110円です。これからも阪急沿線の城めぐりには便利に活用できそうです。
 

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しんちゃん

貴船城 別府のあやしいお城 (2014/01/14 訪問)

貴船城は平安時代の武将・源為朝が砦を築いたとされる場所に建てられている観光用のお城です。お城‥でいいんだろうか? ちえぞーさんのサイトにも記載がありますよ。展望は最高で別府湾、別府の街並みを見下ろすことが出来ます。別府の街からは湯けむりが上がっていましたね。西側には鶴見岳や由布岳が見えたかな?よく覚えてない。
城内では白蛇神を祭っていて、五代目金城龍王が存命らしく、触ることができるそうな。怪しさ満載ですがそこが良い。ぜひ別府を訪れた際には寄って見てください。源為朝は乱暴が過ぎて、父・為義に九州に追放されたことが有るそうです。案外ここが気に入って居を構えた可能性も無きにしも有らずです。

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todo94

ゴールデンウイーク前半・献血前の攻城 (2024/04/27 訪問)

ゴールデンウイーク前半は昼寝城と4月27日の献血を最大の目的としていました。4月27日は今まで献血をしたことがない特別な日だったのです。本来ならば徳島か香川で献血したかったのですが、予約が埋まっていて断念せざるを得ませんでした。広島の献血ルームの予約が取れたので前夜に家を出て、名神の渋滞情報が入るとSAで仮眠をとったりしてうまく立ち回ったため、ゴールデンウイークの渋滞には全く引っかからずに広島市内にアクセスすることができました。黄金山の頂上が仁保島城の一の丸跡で、広い展望台が整備されていました。あいにくの天気で眺望を楽しむわけにはいきませんでしたけれども。二の丸跡には広島エフエム放送黄金山送信所が建っています。

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しんちゃん

山形城 本丸周辺 (2019/08/13 訪問)

山形城の本丸の周辺には空堀が配され、高麗門の先は枡形になっています。かつては本丸、二の丸ともに複数の門と枡形、櫓が配されていたようです。複雑な構造ではありませんが、セオリーには沿っています。
本丸一文字門や御殿の復元計画が有るようですが史料に乏しく目途が立っていない模様、やはり見所は二ノ丸東大手門の周辺に集約されているようです。広いだけに現状は中がスカスカの状態ですが、本丸周辺の石垣や堀は素晴らしいので、城びとは満足できるのではないでしょうか。一番最後の写真は私の以前の愛車です。アルファロメオの中古ですが結局3年しか持ちませんでした。いろいろ手間がかかって大変でしたが懐かしい思い出です。いまはハイブリッドのフリードスパイクに乗ってますが、全然壊れません。やはり日本車はいいですなあ。

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しんちゃん

入ってすぐに見どころ多し (2019/08/13 訪問)

山形城は東北でも屈指の規模を持つ、輪郭式の近世城郭です。最上義光によって三の丸を含む城域に拡張され、鳥居忠政の時代にいまの形に整備されたそうです。二の丸の外堀は広大で木造の橋を渡って二の丸東大手門から城内に入ります。門の先は枡形になっていて東大手門櫓は木造再建され公開されています。大手門櫓の西側には最上義光の騎馬像があり、皇居の楠正成像に匹敵する格好良さです。
本丸の周囲には空堀が巡らされており、本丸高麗門の先も枡形になっています。

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もりちゃん

駅チカです❗ (2024/05/18 訪問)

土塁ってお城の内部から見ると足元までで、その上に壁があったりするものだと思っていましたが、このお城の土塁は壁のようにそそり立っていて、お城の内部は一段低く、本丸は土塁に足を掛けるような造りだったとのことで、何か不思議な感覚です。
景色を見渡すことはできませんが、地図を見ながら町を歩き、当時の城下に想いを馳せました❗
陸軍が使用していたという、トイレや飛び下り訓練用階段も面白かったです。
近くには麻賀多神社があり、もちろん御朱印好きにもお勧め‼️

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しんちゃん

龍潭寺 庭園のサツキが見頃で今が旬 (2024/05/18 訪問)

浜松市浜名区にある龍潭寺は井伊氏の菩提寺で、大河ドラマで活躍した井伊直虎や井伊直政と深いかかわりがあります。池泉鑑賞式庭園は小堀遠州の作とされ、国の名勝に指定されています。小堀遠州は近江国小室藩の初代藩主であり、茶道や建築(築城も含む)、華道にも優れた才能を発揮したマルチな人物ですが、作庭も素晴らしく龍潭寺の庭園は彼の代表作の一つではないかと思います。
ちょうど季節も夏に移りつつありますが、鶯がさえずり、蜻蛉がとびかい、サツキや蓮の花がさきみだれ、池の鯉が蓮の葉をつついています。季節的に最高の状態で、龍潭寺庭園はまさに今が見頃です。
中央の大きな石(守護石)は本尊を表しており、左右の大きな石は仁王様の阿吽を表しています。三角の石が張り出した箇所は亀の頭を表し、二つの丸い石は亀の目だということです。
井伊直虎の晩年は龍潭寺の松岳院(もしくは自耕庵)で過ごしたとされ、龍潭寺の井伊家墓所にはかつての許嫁の直親の墓と隣り合って直虎の墓が、ひっそりと佇んでいます。

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住吉神社 (2024/05/18 訪問)

 飯島バス停から登城しました。説明板、正覚寺、住吉神社などを散策しました。遺構はよくわかりません。
近くには六角の井、現存する我が国最古の築港遺跡である和賀江嶋があります。
 天候に恵まれ富士山、江ノ島を見ることができました。海もきれいです。多くの方がマリンスポーツを楽しんでみえました。

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旗立山 (2024/05/18 訪問)

 鐙摺バス停より登城しました。登城口に旗立山、山上には伊藤祐親入道供養塚の説明板があります。遺構はわかりません。
 遠くには富士山と江ノ島を見ることができます。

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大楠小学校 (2024/05/18 訪問)

 逗子駅からバスに乗り芦名バス停下車。城址と伝わる大楠小学校へは徒歩3分くらいで行けます。途中、降りて行く階段があり、芦名城址庚申塔へ行くことができます。土曜日でしたが、小学校のグランドには児童がいましたのでネームプレートだけ撮影しました。

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金沢氏の城 (2024/05/18 訪問)

 金沢文庫駅よりバスにて釜利谷高校バス停下車、周囲を散策しました。釜利谷東4丁目付近にあったらしいが、今一つ明確に場所が記載されている資料をみつけられませんでした。というわけでグーグルマップに青ヶ台城址と表示されている場所に行きましたが住宅地となっています。写真は撮りましたが、住宅しか写っていないので投稿することは遠慮しました。にのまるさんと同じように釜利谷赤坂公園と階段の写真を投稿させていただきました。

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朝田 辰兵衛

山形県最高難所の予感… (2024/04/13 訪問)

「城びと」の山形県登録城コンプまで残り24城となっており,とりあえず残り24城の机上事前調査を済ませました。そのうえで,この嘉門館が山形県最高難所の予感がしました。
北側に登城口(鳥居が目印)があり,神社までは難なく行けます。そこから尾根(北の郭)に取り付くまでが難渋します。山城攻城の個性が現れる瞬間でもあります。ロープや鎖など一切ありません。「岩場を直登するストレートコース」がスタンダードと思います(古城盛衰記さんは2度目の攻城でここを選択されていました)。他に「西側の岩場斜面を廻るコース(滑落したら重傷か死亡。城郭放浪記さんは麓からこの斜面をよじり登ったのであろうか…😲)」と,「東側の土の斜面を廻るコース」がありました。とくに道があるわけではありませんので,私なりの表現ととらえてください。
私は1年前にギックリ腰になり,さらに股関節のハマリが悪いことから,岩場を避けることのできる「東側の土の斜面を廻るコース」で尾根(北の郭)を目指しました。真下まで見下ろすことができ,「滑落しても死なないし,這い上がってくればいい」と…。この土の斜面ですが,全くエッジが効かない。落ち葉の層がかなり深い。「熊の足の爪が欲しい…」とマジで思いました。2足歩行では心もとない状況となり,4足歩行に切り換えました。爪を立てる感覚で…。
見どころは,主郭南西部の3重堀切です。これを目にした瞬間,野獣のように遠吠えをしたくなりました…<笑>。

山形県,河島山遺跡以北は攻城済です。そのうえで,嘉門館を超える難所はありませんでした。気になっているのが,沼平館,畑谷城ですが,地元のボランティアの方が整備されているみたいです…。ただ,すでに山城オフシーズンなので,来シーズン以降のレポートになるかと思います。
他の方のレポートも,とても気になります…。

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AJ

飛ぶ家風 (2018/05/13 訪問)

上州言葉では「走る」を「飛ぶ」というのだそうです。

安政遠足。えんそくではなく、「とおあし」と読みます。江戸末期に行われた、安中城(現在の群馬県安中市)から碓氷峠頂上までの七里余(約30キロ)、高低差1,000メートルの競走で、「日本最古のマラソン大会」と表現されることもあります。そんな藩士鍛錬の行事に想いを馳せ、1975年に始まった「侍マラソン」。つい先日、50回目の記念大会が行われました(*山道が荒れているとの理由から、城址から峠関所・坂本宿までの約20キロで開催)。

武術の真髄は刀槍弓馬にあると言われますが、戦場に参じるのも、いざという時に逃げるのも脚あっての話。動乱期に関所を預かった藩主・板倉氏の家祖は徳川家康の信任篤かった京都所司代・勝重。同家の武勇専一たる気性はこのイベントにも見て取れますね。

実は数年前、筆者も知人と参加させていただきました。中年侍ふたりは無事完走。もともと参加者が思い思いの仮装で走ることで有名な大会ですが、いわゆるFun Runは関所まで。20キロ過ぎから山中に分け入る「峠コース」はガチのトレイルランで、沿道の声援は野生動物の鳴き声に変わります。それでも仮装で挑む強者はいて、岩に腰掛けて休憩する信玄公や亀仙人を目撃するのは一興でした。

ゴールは長野県境にある熊野神社。そこで美味しくいただけるのが「力餅」。中山道を踏破した参勤交代一行を支えた炭水化物、ぜひ一度ご賞味ください。現代版は上品なひと口サイズ。かつてはきな粉が主流だったようですだが、今はあんこ、おろし、ずんだとバリエーションも豊富。これを飯や蕎麦と一緒に掻き込んで糖質チャージ。峠越えに臨んだわけです。

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しんちゃん

吉野ヶ里遺跡 支配と葬送 (2014/01/01 訪問)

吉野ヶ里遺跡の周辺には縄文時代から人が住みはじめ、紀元前4世紀ごろには集落が形成されたようです。3世紀ごろには最盛期をむかえ、この周辺だけでも千人以上いたと推測されています。
吉野ヶ里の丘のいろいろな場所に甕棺がまとまって埋葬されていて、想定では15000を超す甕棺が埋められているとのことです。甕棺に葬られた遺骨の中には刀傷があったり、首が無いものも含まれており、倭国大乱とかかわりがあるのではないかと考えられています。
北墳丘墓は歴代の王が埋葬されている特別な墳墓と考えられており、異なる種類の土を南層にも突き固めた人工的に造られてた丘です。墳丘墓の内部はは展示用に公開されており、ここからは14基の甕棺が見つかっています。
主祭殿は周辺の王たちが集まって決議を行ったり、祭祀を行い信託を受ける場所として吉野ヶ里遺跡でも最も重要な建造物であったようです。

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