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しんちゃん

吉野ヶ里遺跡 支配と葬送 (2014/01/01 訪問)

吉野ヶ里遺跡の周辺には縄文時代から人が住みはじめ、紀元前4世紀ごろには集落が形成されたようです。3世紀ごろには最盛期をむかえ、この周辺だけでも千人以上いたと推測されています。
吉野ヶ里の丘のいろいろな場所に甕棺がまとまって埋葬されていて、想定では15000を超す甕棺が埋められているとのことです。甕棺に葬られた遺骨の中には刀傷があったり、首が無いものも含まれており、倭国大乱とかかわりがあるのではないかと考えられています。
北墳丘墓は歴代の王が埋葬されている特別な墳墓と考えられており、異なる種類の土を南層にも突き固めた人工的に造られてた丘です。墳丘墓の内部はは展示用に公開されており、ここからは14基の甕棺が見つかっています。
主祭殿は周辺の王たちが集まって決議を行ったり、祭祀を行い信託を受ける場所として吉野ヶ里遺跡でも最も重要な建造物であったようです。

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しんちゃん

本丸南側の堀が見所。芭蕉ゆかりの地。 (2016/01/01 訪問)

黒羽城は天正4年に大関高増が白旗城から当地に本拠を移したことが始まりとされています。慶長5年の関ヶ原の合戦では徳川家康に味方し、上杉景勝への備えとして城の改修を行っています。江戸時代は黒羽藩主大関氏の本拠となり、かつては南北1.5km東西250mという規模の大きな山城でしたが、現在では本丸周辺が城址公園として整備されています。かつて三の丸には桃雪邸がありましたが、現在は黒羽芭蕉の館が建てられています。芭蕉は奥の細道の道中14日をここで過ごしており、居心地は良かったものと思われます。
本丸から南の三の丸(黒羽芭蕉の館)の間には二重の堀切があり、特に最初の堀は規模が大きく橋が架かっています。本丸周辺の土塁と南側の堀は特に遺構が良好に残っています。

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しんちゃん

吉野ヶ里遺跡 南内郭と北内郭 (2014/01/07 訪問)

南内郭には「大人」の家やら「王」の家やらありますが、何人いるんだろう偉い人。家の造りに関しては大人も王も一般の人の竪穴住居とそんなに変わりが無いように見えます。南内郭は周囲を堀で囲まれ、特に防御が厚く、王やリーダー層(大人)の住まうセレブなエリアだったようです。当時としては非常に貴重な鉄製品が多く見つかっていることから、そのように考えられています。
北内郭には主祭殿があり、その存在感は圧倒的です。まるでこの時代の宮殿のようでした。北内郭の周囲は二重の堀と柵に囲まれており北東から回り込むように進入路が設けられ、喰違い虎口のように入口が折れ曲がっています。この集落で最も守りが厚いエリアです。

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しんちゃん

かなりの規模を持った弥生時代の環濠集落 (2014/01/07 訪問)

少し古い写真ですが、しばらく九州には行けそうもないので吉野ヶ里遺跡の投稿をさせていただきます。集落の東を田手川が流れており、西には二本松川が流れています。集落内にも水路が流れており大規模な環濠集落になっています。入口付近にも堀や逆茂木(乱杭)が設置されており、かなりの防御力を持っていることが伺えます。
邪馬台国論争はいまだ決着がつかずですが、九州にかなりの先進的文明があったことは間違いなさそうです。私の知っている他の弥生時代の集落とは比べようがないほど広いです。最近は「謎の発掘エリア」という場所もあるようなので10年以内にはもう一度訪れたいと思っています。

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トク

曳馬城(引間城) (2024/02/13 訪問)

曳馬城((引間城)=浜松城)を訪れてきました。曳馬城は元々は今川領の城でしたが、1568年に家康が今川氏から奪い、1570年には信長の命で家康は岡崎から移りここを居城としました。その時、曳馬(馬を曳く)は負けを意味し縁起が悪いので浜松と名を改めた・・・というのが私が浜松を訪れる前までの予備知識でしたが・・・

浜松を訪れたのは初めてで、実は私はここに来るまで勘違いをしていました。上記の内容から推測して、浜松城は別名曳馬城とも言われている事から、曳馬城と同じ位置で同じ場所に浜松城は建てられたものだとばかり思っていました。しかし、浜松城と曳馬城は近くではあるものの別の場所の城であった事を、訪れて初めて知りました。曳馬城は浜松城の東に約300m程行った駐車場と道路を挟んだ地にありました(曳馬城全景写真①と曳馬城の説明④)(浜松城の天守から見た曳馬城の写真②と位置図③)。

これはあくまで私の推測ですが、家康は曳馬城に入った時、いったん引間城と名を改めて、すぐ近くの丘陵地に浜松城の築城を開始し、完成と同時に町の名も浜松と改め、そして江戸時代に入り一国一城令の時、当時の藩主が引間城は浜松城の一部に含まれるように絵図に記述し合わせて一城として幕府へ申告、それから引間城の名は消えて行ったのではないかと推測しました。

現在の引間城は元城町東照宮になっていて(写真⑤⑥)、神社の前には家康が暮らした居館の跡がありました(写真⑦⑧)。家康は岡崎城を出て引間城に入った時、おそらく手狭であったため、より広く強固な浜松城をすぐ西の丘陵地に築城しようと考え、完成するまでの間、ここにあった引間城の居館で暮らしていたようです。

神社には家康と若き日の秀吉(藤吉郎)の銅像がありました(写真⑨⑩)。今川時代の若き日の藤吉郎は仕えていた城主とここを訪れた事があるらしく、その後両者とも出世した事にあやかり、現在の引間城は出世を祈願する神社になっていました。出世にあやかりたい方は、ぜひ二人の像と一緒に写真を撮られてみてはいかかでしょうか?(笑)(写真⑩)。

しかし、ここでふと疑問が🤔? 家康がこの引間城に入ってから、わずか2年後に三方ヶ原の戦いは起きています。負けて浜松城に逃げ帰ったとありますが、もうこの時に浜松城はどこまで完成していたのでしょうか? あの有名なかがり火を焚いてわざと城門を開いたという「空城計」の策は、もしかして浜松城ではなく、この引間城で行われたのではなでしょうか? と思いながら説明板(写真④)を家に帰った後で読み返していたら、何と答えが書いてありました。やはりこの時はまだ、浜松城は完成していなかったようです。よって家康が逃げ帰ったのは、やはりこの引間城だったようです。よって空城計の策は、引間城の玄黙口で行われたようです。「玄黙口を見逃してしまった~!」という事に後で気づいてしましました~!(😩もう遅い)。

次は、その三方ヶ原古戦場をちょっと見てきます。
  

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シェル

亀山公園編 能登半島地震の爪痕 (2024/02/25 訪問)

 朝倉義景墓所から移動し、いよいよ城内へ。模擬門のある南の登り口から登城開始。本丸までは30分程度です。  
 坂道を進むと、やや草が生えており見づらいですが堀切の遺構があります。
 堀切のそばの階段を登ると土井利忠の銅像のある曲輪に着き、その曲輪から本丸の東側の遊歩道を進むと、城址碑のある本丸北西側・長屋門跡に出ます。長屋門跡の近くには金森長近の銅像もあります。
 長屋門跡からいよいよ本丸へ
 本丸には野面積みの石垣と、その上に模擬天守が鎮座しており、圧巻でした。
 正午ごろに本丸を散策したのですが、正午のサイレンが天守のそばのスピーカーから爆音で流れて、とてもびっくりしました。お昼ごろ散策する際はくれぐれもご注意ください。
 本丸を見学後は北側のルートで下山。北側の道中には 亀山観音が鎮座しています。
 ニュースでも報道されていましたが、2024年1月の能登半島地震の余震の影響で、本丸南側 武具蔵跡の石垣が崩落しており、南から最短の階段ルートの一部と武具蔵跡そばの模擬門周辺は立ち入り禁止になっていました。一日も早い復興を切に願っています。

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シェル

城下・麓編 移築鳩門&朝倉義景墓所 (2024/02/25 訪問)

 一乗谷城から転戦。一乗谷の下城戸から徒歩5分ほど歩いた「安波賀」のバス停から京福バス 越前大野行に乗車し、約45分。越前大野駅の手前の「大橋」のバス停で下車。(京福バスの休日フリーきっぷを利用)
 亀山公園へ向かう前に「大橋」のバス停から少し歩いたところの光明寺へ移動。光明寺には、大野城の二の丸鳩門が移築されています。二階部分は改修されているらしいです。
 移築鳩門からはスタンプ設置場所の武家屋敷旧内山家まで、徒歩10分ほど。内山家で続日本100名城スタンプを押印。(冬季期間のみ設置とのことです。)
 鳩門と内山家の道中には、武家屋敷旧田村家があり、そこには土居が残っています。
 内山家の道の向かい側は、越前大野城の二の丸跡にあたり、学びのさと「めいりん」に沿って百間堀が復元されています。南東側は大手門広場になっており、案内板も設置されています。
 このまま登城したいところでしたが、一旦、亀山公園(大野城)を横目に南下し、義景公園へ。
 義景公園には、朝倉義景の墓所があります。朝倉義景は織田信長の越前侵攻の際、朝倉義鏡を頼って大野へ落ち延びたようですが、朝倉義鏡も信長に内通しており、義景は大野で自害したということです。義景墓所周辺は名水百選の御清水もあり、水の町としても有名らしいです。

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小城小次郎

湯浅城とともに国史跡となった (2023/11/04 訪問)

一次史料はないと言うが、湯浅党の中で高いポジションを占めていた藤並氏が居住していた館であることは間違いない。16世紀まで使われたが鎌倉時代まで遡れることと残存状況が良いのとで湯浅城ともども国史跡の指定を受けた。

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しんちゃん

金シャチ降臨 (2021/03/20 訪問)

コロナ禍の2021年3月に名古屋城の金シャチが地上に降臨いたしました。金シャチをま近に見る良い機会なので、行ってみたらコロナ禍の最中だというのにけっこうな人が来ていました。いま考えると、そういった時期に、このようなイベントをやるのもどうかなと思いますが、近くで見る金シャチはやはり見事という他になく、金シャチあっての名古屋城だと改めて思いました。
雄と雌がいるわけですが雄の方が口の開きがやや大きいようです。正直、私には見分けがつきません。尻尾も雄の方がやや前側に沿っているようです。当然金箔ではなく、全体に金の板を使っています。うろこの数は雌の方が多いですが、金の使用量は雄が44.69kg雌が43.39kgと雄の方が多いです。うろこ一枚あれば当分遊んで暮らせそうですね‥。石川五右衛門の気持ちが良くわかります。

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しんちゃん

陶氏の本城で陶氏(嫡流)の滅亡に伴い廃城 (2024/01/02 訪問)

若山城は若山の山頂に築かれていて陶氏の本城とされています。天文19年(1550)に陶晴賢(この当時 隆房)によって修築が行われており翌年この城にて挙兵し、大寧寺の変にて大内義隆を自害に追い込みます。
天文24年(1555)晴賢は行く厳島の戦いで毛利元就に敗れ、若山城を守る晴賢の嫡男・長房は杉重輔の手勢に城を追われ、追撃を受けて自刃に追い込まれます。嫡流の陶氏が滅んで間もなく若山城は廃城になりますが、なぜか西の丸の東側のみ石積みが良く残っています。

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ぴーかる

フルマラソンも長大山城も制す (2024/03/16 訪問)

【矢筈城】
<駐車場他>千磐神社登城口:二十台分程あり。 美作河井駅登城口:駅の駐車場を利用できる。
<交通手段>車

<見所>石垣群・尾根曲輪群・腰曲輪群・堀切・草苅氏居館跡・眺望
<感想>現地説明板によると矢筈城は天文元年(1522年)から翌年にかけて国人領主の草苅衡継によって築城されました。草苅氏は2代目城主景継とその弟の3代目城主重継の時は毛利氏に属します。重継の代の時に毛利氏と羽柴秀吉の講和によって美作国が割譲された時に城を退去しました。
 6:25登城開始 長丁場の始まり、千磐神社登城口から登城しました。一旦ピークに登ったら堀切が1条あります。そこから尾根上や尾根の側道をひたすら登ります。この間に特に目立った遺構はありません。1200m登ったら腰曲輪群の西端に入ります。
 腰曲輪群は尾根上の削平地と北側に2段の合計3段構造で、とにかく曲輪がでかく圧巻です。東に進み、巨石の堀切、狼煙櫓台跡があり、その先の尾根上曲輪の北側斜面に石垣群があります。当時は100m以上の長大な石垣があったろうと思われますが、現在は崩落し途切れ途切れに一部残っています。それでも圧巻の見応えです。南側斜面にも一部石垣が残存していますが、南側なのでほとんど崩落してしまったと思われます。
 石垣群の東側の尾根腰部に広い3段構造の曲輪があり上段は隅角を取って内石垣があります。この曲輪とその東側の尾根上にも広い2段構造の曲輪があり、この辺り一帯が城の主要部(主郭・2郭3郭が比較的狭い山頂曲輪であった)であったろうと感じました。その主要部の南斜面にはかなり下がって腰曲輪があり竈門跡の石積み跡があります。主要部から奥に進んで、東側に深い堀切が1条あり、その先に城門跡、その先に礫石場を下って自然地形を利用した城跡最大の大堀切があります。
 大堀切から切岸を登ると3郭、土壇付きの狭い曲輪で巨石が2つあります。2郭、広い曲輪でここから河井駅登山道と繋がっています。東北隅に崖があり注意です。主郭、中程度の広さで腰曲輪が付いています。主郭2・3郭には石垣遺構は見られません。主郭の更に東側の矢筈の部分へは道も無く切り立った崖なので降りれませんでした。なので矢筈の向こう側へも行けませんでした。
 下山は美作河井駅登山道で遺構を見ながら降りました。こっちの道はかなりの急斜面です。ひたすら降りてひと段落した所に大蔵郭・馬場郭があります。大蔵郭は南側に櫓台のような土壇があり、馬場郭は南端に土塁があります。下山後に草苅景継墓所⇒県道6号線を歩き、草苅氏居館跡、ここも石垣が多く残っています。車も停めれます。居館跡からまた県道6号線を歩き、11:30千磐神社に無事戻ることができました。
 登城距離は長いですが、登山道がありますので迷う事はないと思います。超本格的山城、遺構の堪能度もトップクラス、この城跡に行ったら自分の中で山城の視点が変わるというか、見方が一皮むけたというか、最高峰の山城の基準ができたような感覚がうまれました。

<あとがき>タイトルのフルマラソンは40歳から6年間、「津山加茂郷フルマラソン全国大会」という市民マラソン大会に毎年出場していました。美作河井駅前の県道6号線はコースの一部になっており、駅に矢筈城の大きな看板があるので10年以上前から名前は知ってはいました。城びと入会後のマラソン大会に出場した時に、矢筈城を思い出し、調べたら長大な大城郭であったので、これはいつか攻めてやろうと思い定めていました。マラソンの自己ベストもこの大会でたたき出して、今回の山城攻めもトータル5時間(マラソンのタイムはもっと早いよ)かかり加茂郷の2大長丁場を制してやったぜ!

<満足度>◆◆◆
 

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朝田 辰兵衛

主郭に転がる巨石のひとつが城址碑😲 (2024/03/30 訪問)

他では見かけないパターンですが,主郭に転がる巨石のひとつが城址碑です。等間隔に並んだ礎石に見とれていると,うっかり見過ごしてしまいます。ご注意ください。また,土塁と並行している散策道に石畳の遺構が見られる部分がありますが,草木の生い茂る季節は見逃す可能性が高いです。
個人的な感想になりますが,山形県や秋田県に多く見られる「●●館」というのは,ほぼほぼ山城だと思って攻めないとイタイ目に遭うのではないかと思います。

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天守無しがアツい

天狗党 知られざる幕末 (2024/05/11 訪問)

(水戸の弘道館HP)https://kodokan-ibaraki.jp/

JR水戸駅から歩いて10分ほどの場所に位置する水戸城…三の丸に位置する区域の中に弘道館という幕末に水戸藩校として開設された施設があります🏫 今回はそこを見学

実はこの弘道館…幕末…というか明治元年に壮絶な出来事がおこなわれた場所でもあり、(1枚目の)校門の右柱には何と弾痕が残ってます😅

この校門は現在は閉鎖されており利用禁止…右脇の料金所でチケットを購入→勝手口のような所から正庁に入る流れ🚶‍♂️

その正庁も玄関は閉鎖されており、そことは別に観覧者出入口があり、そこから入館します。(2枚目の)諸役会所の奥に「尊攘」と二文字で書かれた掛軸があり、それだけでこの藩校の過激さが伝わってくる気がしました🖌️

ちなみにこの弘道館…江戸城無血開城の際に最後の将軍、徳川慶喜が恭順謹慎していた場所でもあり、その部屋(至善堂 御座の間)も一般公開されてはいました…ただ…何とその部屋で「論語」の朗読会がおこなわれていたのです

中年の女性講師が「子曰く学びて時にこれを習う…」と一文読み上げ、続けて参加者が皆で同じ文を読む…流れ。場の空気的に部屋の撮影がしづらかったので、ここはただ展示文を読んで通り過ぎるだけにさせてもらいました

ちなみに慶喜の幼名は七郎麻呂と言い、御座の間の隣…二の間、三の間で勉学に励んでいたそうです。水戸藩は徳川御三家(他に尾張藩と紀伊藩)の中で最も将軍後継から縁の遠かった存在…14代将軍の座を慶福(よしとみ)と争った時も、紀伊藩の方が格上という事で血統が重視され(大老井伊直弼の独断もある)慶喜はなれませんでした…

けれど幼い時から勉学に励んで培った教養…そして腐らずに自分の役割をこなし続けた姿勢が、その後の将軍後継職→家茂(慶福)の死後に晴れて将軍就任…という流れを呼び込んだということでいいのかな?

この弘道館…日本遺産に認定されているそうで、他に…足利学校(栃木県)…閑谷学校(岡山県)… 咸宜園跡(大分県)…の4校を1組にして世界遺産登録を目指す動きも紹介されていました(http://www.kyouikuisan.jp/)

正庁内を一周した後、「二の間に弘道館の全体を描いた資料が展示されており、さっきは見学しただけだったが、やっぱりあれも撮影したい」「ついでに館内をもう一周しよう🚶‍♂️」と考えて再び二の間へ

その資料の名は弘道館鳥瞰図(こうどうかんちょうかんず)…この展示品は昭和40年に模写したものと説明文にあり、原本の存在は確認できてない…つまり現在は失われている…(でも原本が無いと模写はできないはず。なので昭和40年から現在までの間に失くなってしまったと思われる😅…何故?)

その絵を見る限り…当時の弘道館は文館、武館、医学館…などの施設を含んだ、現在よりも建物の数が多くて敷地面積も広い施設…総合大学のような存在だったと思われます。けれど…全ての厄災は弘道館の戦い…建物の殆どは焼失→学制(明治5年)発布による閉校…県庁舎に図書館に小学校が(かつて弘道館の敷地内だった場所に)設立…それに伴う規模縮小という歴史的流れを経て現在に至ると

(水戸藩および天狗党を分かりやすく紹介した2本立ての動画)
https://youtu.be/98_NgKHqbAo?si=yZHoA1bmdTY1As17
https://youtu.be/blwmkQxAUV4?si=hx6P-Yb8A1QEulwz

幕末を扱ったドラマ…漫画…書物はたくさんあり、学校の歴史の授業でも「薩英戦争」「禁門の変」「薩長同盟」「大政奉還」「戊辰戦争」という具合に習うと思います

では…その中で水戸藩および天狗党…そして弘道館の戦い…について扱った作品がどのくらいあるか?歴史の授業で習うか?教科書および資料集に掲載されているか?

隅から隅まで調べたわけではありませんが、その答えは「とても少ない」ようです。水戸藩に関しては徳川斉昭が安政の大獄に連なる形で謹慎させられた…桜田門外の変で井伊直弼を暗殺した主要メンバーが水戸藩士だった…程度(しかも何故主要メンバーが水戸藩士なのかについての説明は無し)

高校日本史の資料集を確認してみたら、「幕末における日本各地の内乱」という図に天狗党の乱が一応あり、「筑波山で挙兵し京都へ向かうも敦賀で捕らえられ352名が処刑された」という内容の記載だけはありました(でも授業で習った覚えは全くありません👺)

弘道館の戦いについては全く無い…(と思います)。弘道館そのものについては「幕末における日本各地の藩校」という図で資料集に乗ってこそいましたが、明治元年に発生した天狗党の残党と諸生党の戦乱についての記載は無かったし、「マンガ日本の歴史」では薩摩長州幕府の人物は出てきても水戸藩は…全然😅

大河ドラマでは…(調べる前は「きっと無いであろう」と先入観を抱いていたのですが、「徳川慶喜」に登場シーンがありました(慶喜が水戸藩出身という接点からの登場と思われる)。リーダー武田耕雲斎とサブリーダー(?)藤田小四郎率いる天狗党が水戸城に銃撃して攻め込もうとし、それに応戦する諸生党(https://youtu.be/1hYCO21nXuc?si=mB3sEytJq24fnDdn)

私も天狗党およびその泥沼の争い…を知ったのは本当につい最近。それ以前は「天狗党?何ソレ?😅」でした…そんな私に水戸藩および天狗党の壮絶な過去を教えてくれたのが、上記URLの2本立て動画…

それを見てから私は水戸藩にダークホースなる存在感を感じて「現地へ赴いてより知りたい、肌で味わいたい👺」という気分になった。あの動画が私の肩を押してくれた…と思います

正庁の展示を二周してから…出口付近に置いてある感想ノートにコメントを残しました✏️ いずれ水戸城を訪れることになっていたとしても…あの動画を見たor見てない…とでは見学し終えての感想がまるで異なるものになっていたと思うから

かつて水戸藩は天狗党(尊王攘夷派)と諸生党(佐幕派)で壮絶な争いをし、天狗党は筑波山で挙兵後に二手に分かれ、一方は京都にて将軍後継職に就いてる慶喜を擁立すべく向かうも、逆に討伐の兵を送られて(尊王攘夷に味方すると幕府に知れて自分の立場が危うくなるのを恐れた)京都手前の敦賀にて(幕府側の)加賀藩に投降…そのうち352名が斬首…藤田小四郎も首を刎ねられ、武田耕雲斎は切腹

もう一方も那珂湊の戦いで諸生党および幕府からの援軍に敗れて壊滅…諸生党は天狗党の家族まで殺し、武田耕雲斎の一族は悉く処刑。それから数年後…戊辰戦争で倒幕軍が有利になると(土佐藩邸に匿われていた)天狗党の残党が立ち上がり諸生党に襲いかかります…

諸生党は会津藩に味方になるよう頼もうとするも会津戦争で会津藩が倒幕軍の前に降伏。弘道館に立て篭もり天狗党との一戦…激しい銃撃戦となり、校門の柱に弾痕が残った🔫 館内はほぼ全焼…諸生党は弘道館を脱出して逃走するも追撃してきた天狗党により全滅…血で血を洗う殲滅戦が明治元年10月におこなわれた🔥

今は校門の弾痕以外その地獄絵図の面影は見られない、ここ弘道館…4枚目は対試場および違う角度から見た正庁。こうして見ると「今は」のどかですね😅

斉昭が弘道館の創立者でありますが、弘道館碑なるものを敷地内に設けており、それを雨風による侵食から防ぐために建設されたのが(5枚目の)八卦堂🏠 戦時中に水戸空襲で焼失…それからしばらく碑は野晒しになってしまうも、八卦堂は再建され、近年になり碑が補修工事されて現在に至る…この日は一般公開されてました

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コロスケコロコロ

高崎城! (2024/05/16 訪問)

街中から突然現れて、櫓とかしっかり見所があって良かったです。

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まさお

川越城 本丸御殿・中ノ門堀跡 (2024/05/16 訪問)

川越城本丸御殿と中ノ門堀跡を訪問しました。
さすがに国際観光都市川越らしく、訪問者の大半が外国の方でした。
英語・中国語・タイ語等々いろいろな言葉が飛び交っていました。
本丸御殿は以前にも訪問したことがあるのですが、家老詰所で会議中の
マネキンの家老の方々は前から居られたかなと思いました。
家老詰所がふじみ野市の星野家に移築されていて、再度またこちらに
戻ってきたそうで驚きました。ふじみ野では星野家は有名な名家なので。
本丸御殿から中ノ門堀跡まで歩きましたが、歩道等きれい整備されていて
川越市の力量を感じました。

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イオ

迷うことなく登城できる…はず (2024/03/09 訪問)

阿坂城の南東約1kmの丘陵上に位置し、高城とともに阿坂城の出城とされますが、築城時期や城主等、詳細は不明です。

「松阪の城50選」で案内されていた阿坂運動公園の駐車場から伊勢自動車道沿いに南下してガードをくぐり、あとは山見老人会による案内標識に従って進めば迷うことなく城跡に行ける……はずが、登城口のゲートから入ってしばらく進んでも、右手に見える枳城のある丘陵に近付くどころかむしろ遠ざかるようで、不安になってGoogleマップで確認すると、より丘陵に近い側にもう一本別の道があるようです。曲がるところを間違えた!? と引き返してそちらの道に向かったのが運の尽き、進んでも進んでも案内標識は無く(当たり前)、ついには丘陵の中腹で行き止まりになってしまい、もう一度引き返すくらいなら、この丘陵の上にあるのは間違いないんだから、と直登して丘陵東端の尾根に出て、尾根伝いに西に向かって何とか主郭にたどり着くことができました。やれやれ…。

主郭は東西に細長く、説明板と「大日さん」と呼ばれる石仏がありました。南側の眺望は開けていますが、北西側の阿坂城(南郭)は樹木の合間にわずかに覗く程度です。主郭から下りると主郭の周囲をひとめぐりします。東側の尾根との間には堀切が設けられています。「この先、道無し。来た道を戻ってください。」 堀切付近の山見老人会の案内表示が身に染みます。…ええ、身をもって承知していますとも。北側に回り込むと、主郭の切岸と帯曲輪が続いています。帯曲輪は切岸から続く竪土塁でいくつかに区画されていました。西側の尾根も堀切で断ち切り、堀底を南側に抜けると登城道に出ました。登城道が南側の帯曲輪のようです。

その登城道を下って行くと、道沿いのあちこちに案内表示が設けられています。みかん山の作業道から山道に入るところにも案内表示があり、先ほど引き返したあたりを過ぎて登城口のゲートに到着。なるほどこれなら普通は迷うことはないでしょうなぁ……わざわざ途中で引き返したりさえしなければ。…ということで、普通なら登城口から15分程度で行けるところを40分以上も要してしまった枳城でした。
 

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todo94

【城びと未登録】金谷城(千葉県富津市) (2024/04/14 訪問)

海城サミットのチラシをお城EXPO2023でいただいてぜひ参加したいと思っていた金谷城特別公開に幸運にも参加することができました。通常非公開の主郭部分に加え、今回が初公開となる三の郭迄、金谷城を堪能させていただきました。此れだけの城が城びと未登録なのはなんとも残念な限りです。

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ぎりょう

景勝会津治世の夢の跡 (2024/05/12 訪問)

久しぶりに兄姉たちと会津若松方面に出掛けました。温泉と観光が目的の家族旅行なのですが、私としては名所訪問の合間に城館跡への立ち寄りを考えていました。一日目の主たる見学地を湯川村の勝常寺(平安初期の開山で重要文化財指定の元講堂と仏像十二体を有する古刹)としていたため、その途中で神指城を訪問しました。
会津盆地の南側中央に位置する神指町にあった上杉景勝時代の城郭跡です。中世の長い期間、会津は葦名氏が治めた場所で、古くから会津黒川城(後の会津若松城)が利用されていました。伊達政宗により葦名氏が滅亡、会津は一時伊達領となるのですが秀吉の奥州仕置きにより蒲生氏郷が、その後の慶長三年(1598)には上杉景勝が120万石で配されます。景勝は黒川城が手狭であったことから、慶長五年三月に、黒川城から北西4kmの神指ヶ原に新城を築き始めます。会津周辺や仙道、越後から八万人もの作業者を動員して本丸、二ノ丸を築きますが、中央の情勢変化により六月には工事は中断、関ヶ原戦後の米沢移封により廃城となったといいます。
かつての城地は圃場整備により見渡す限り田んぼとなり、わずかに残る本丸と二ノ丸の土塁に、会津治世の新たな拠点をと夢見た景勝の思いが偲ばれます。

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備中兵乱 (2024/05/16 訪問)

 福山の西北、標高164mの小山の頂上にあり、眼下に山陽道が一望できる良好な立地条件の下に築かれた山城です。16世紀の後半には、備中松山城主三村元親と毛利氏の間に備中兵乱と呼ばれる戦が起こり、幸山城はその舞台のひとつとなりました。
 東の曲輪と西の曲輪に分かれていて間に幅30m、深さ4mの堀切があります。低い曲輪だと思っていましたが、堀切とは説明板を見て知りました。また説明板には「福山の北西の中腹から大きな堀切を下りて、、」とあります。福山から来る途中に土橋、竪堀のような地形はありましたが、その場所が説明板に書いてある堀切なのかはわかりません。コンパクトな城址で土塁が少し残っています。

 福山城より登城しました。下りなので20分くらいで行けると思います。ただ自分は妙見展望台や八畳岩などに寄り道をし、さらに道に迷ったので40分くらいかかってしまいました。

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福山合戦 (2024/05/16 訪問)

 湊川合戦の前哨戦として知られる福山合戦の舞台となった城です。奈良時代より平安時代にかけて山岳寺院「福山寺」が存在していました。この山岳寺院を改造し城郭としたと伝わっています。
 土塁、空堀、井戸等が一部ですが残っています。奈良平安時代に存在した福山寺は伽藍が全山に及んでいたようです。主郭に案内図がありますが、実際には図で示された地域より平坦地は広く存在していました。山岳寺院の頃の規模を考えると城域は案内図よりかなり広範囲に及んでいたのではないかと思っています。

 登城路はいくつかあり幸山城から福山城へ「幸福の小径」を使うルート、東側から1234段の階段を登って来るルート、安養寺方面から登るルートなどがあるようですが、西の和霊神社からの登城路は高低差があまりなく20分くらいで主郭へ行くことができます。和霊神社までは車で登ることができ駐車スペースもあります。ハイキングコースとして整備されていて歩きやすい道です。

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