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朝田 辰兵衛

岩花集落に潜入すべし👉 (2024/04/06 訪問)

JR陸羽西線の津谷駅の南西部が岩花集落になります。集落入口の溜池を見つけ,道なりに上へ登れば岩鼻館があります。妙に集落になじんでおり,注意しないと見落としてしまうかもしれません。赤い鳥居よりも土塁のほうが目立つと思いますので,地形に注意されたほうが宜しいかと思います。

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小城小次郎

紛らわしいが (2024/11/04 訪問)

同名の温泉施設が城地に隣接し立派過ぎる天守も建っているので湯浅城を検索するとまずこっちが普通に出てくる。城としての湯浅城は鎌倉~南北朝に活躍した湯浅党の本拠地で本当に鎌倉時代から存在していたことがわかっている。

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しんちゃん

伏見櫓ほか (2024/01/04 訪問)

福山城は慶長20年(1615)に水野勝成によって築かれ、大規模な近世城郭としては最も新しい部類に入ります。城内に遣されている江戸時代からの遺構は伏見城から移築されたとされる伏見櫓と筋鉄御門のみで、それ以外の遺構は昭和20年の福山大空襲によって焼失してしまいました。天守と月見櫓、御湯殿は鉄筋コンクリートで再建され、鐘櫓は多聞櫓(鐘楼が設置されていた)を解体した古材を用いて修復したもので鐘楼の部分のみが市重要文化財に指定されています。
伏見櫓は2023年の8月に1日だけ特別公開されていますが抽選で180名という狭き門です。正直、これだけの城址を見学して鉄筋の天守だけというのはいささか物足りないので他の建築物の公開や整備も合わせてお願いしたいところです。

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ぴーかる

思い出の地 (2024/03/02 訪問)

【真田庵】和歌山県伊都郡九度山町
<駐車場他>九度山駐車場(真田庵前)に駐車しました。

<感想>30数年ぶりの訪問、今は亡き親父に多分19歳頃、紀伊半島1周の旅に連れてってもらい、真田庵もその時に行きました。近くの丹生川に鯉のぼりが沢山掛けてあったのと、プレハブ小屋みたいな資料館があったを鮮明に覚えていましたが、真田昌幸公の墓碑は覚えていませんでした。しかし、再訪して真田昌幸公の墓碑である宝篋印塔を見た瞬間に思い出しました。記憶って考えても出てこないのに海馬に残っているものなんですねぇ。大好きな武将なので感動しました。
 真田の抜け穴を見て、道の駅柿の郷くどやまに行って帰りました。道の駅は柑橘類と梅干の種類が多く充実しています。資料館も併設しています。真田ミュージアムには寄りませんでした。

 この日は佐味城⇒長藪城⇒不動山巨石⇒真田庵と巡りました。行けなかった佐味城に行け、思い出の地に行けて楽しさ満喫しました。走行距離280㎞無事走破。

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ぴーかる

不動山の巨石 (2024/03/09 訪問)

【不動山の巨石】和歌山県橋本市
<駐車場他>不動山巨石駐車場5台分程あり。

<感想>Googleマップで長藪城周辺を見ていると、好きな巨石の名勝を見つけたので行ってみました。専用の駐車場から階段が635段もあり(結構キツイ)登ると、山の中腹に角礫岩の巨石群があります。千早城にも近いことから、楠木公の腰かけ石と名付けられた石なんかがあります。大給城の超巨大花崗岩群を見た後なので、少し物足りなかった。

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しんちゃん

車だと楽して城址に来れる。各曲輪からの眺望は良好 (2024/01/02 訪問)

イオさんの高城の投稿を読ませていただきました。この時期はシーズンオフなのでさすがに地元のハンターさんもいないでしょう。
イオさんが無事に登城できたので、皆さん高城に行きやすくなったと思います。お疲れ様でした。
私も年内には再トライしたいな~。
いまは良い気候ですが、これからじわじわ暑くなってきますね。去年の7月、椿尾上城を意識朦朧としながら畝状竪堀を探していたのが懐かしい(ぴーかるさん、やはり無かったですか)。今年の夏はクーラーかけて家でガンプラ作ろうかな。

若山城の投稿です。ここは二の丸・三の丸が駐車所になっていて展望所にもなっています。ここまで車で来れるのは有り難いですね。まさに私好みの山城です。西側に向かって、本格的に遺構が残り、畝状竪堀を見ながら本丸に至ります。写真では少し見づらいけど確かに竪堀は複数ありました。さらに西に向かって進み西の丸に至ります。西の丸には東側周辺に石積みがありました。

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しんちゃん

東西に峰があって、東側が城址 (2024/01/02 訪問)

私はtodo94さんと同じルートから登城しました。他のルートを知らなかったし、なんか私有地の看板の横の登城道が「おいでおいで」しているように見えたので、気が付いたら入っちゃてました。誘惑に弱いですね。
城址は東のピークなのですが、西の方に行って登り切ったあとに、なんか違うな~と気が付きました。この辺は物見の跡ですかね?改めて東の城址に向かいます。東の峰の方が登りやすく、堀切や幾つかの郭が有りました。

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WEST

上山城探訪 (2024/05/10 訪問)

上山城を訪問しました。JRかみのやま温泉駅から徒歩で向かいました。所要時間は約10分です。
このお城は藩主土岐氏の時代に「羽州の名城」と呼ばれていたようですが、江戸時代前期に転封とともに取り壊されたそうです。
現在は、二の丸跡に郷土資料館を兼ねた模擬天守、本丸跡には月岡神社が建てられています。
なお、当時の遺構としては、内堀跡と石垣跡の一部を見ることができます。しかし、注意深く散策しないと見落としてしまいそうでした。
訪問後は城下町にある武家屋敷に寄りました。そのうち、三輪家は内部を見学ができ。江戸時代当時の雰囲気を感じることができました。

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WEST

米沢城探訪 (2024/05/10 訪問)

米沢城を訪問しました。米沢駅からは山交バスに乗り上杉神社前バス停にて降りました。
米沢城は関ケ原の戦い以降、上杉氏の居城です。本丸、二の丸には櫓等の建物があったそうですが、明治時代に入り破却され建物の遺構はないようです。しかし、本丸を囲む水堀は立派であり、この城の見どころの一つでしょう。
現在、本丸跡には上杉神社が、二の丸跡には松岬神社が鎮座しています。
なお、二の丸跡には、上杉記念館、米沢市上杉博物館がありますので、訪問をお勧めします。特に米沢市上杉博物館が所蔵する国宝「上杉本洛中洛外図屏風」は必見ですね。

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トク

「筑後赤司城」と「太刀洗平和記念館(ゴジラ-1.0)」 (2024/05/15 訪問)

筑後赤司城を訪れてきました。西鉄甘木線大城駅から北へ徒歩10分の所にあります。

平安時代に赤司八幡宮が建立され、鎌倉時代に赤司氏により赤司城が築城されたとされていますが、年代や詳細は定かではないようです。赤司八幡宮(写真②)の境内の南にある一段高くなっている場所が本丸とされています(写真①)。八幡宮には説明板がありました(写真③④)。過去に何度か戦があった場所のようですが、今回は立花道雪にゆかりがある城と聞き、さらに別の理由もあってここを訪れました。

1584年沖田畷の戦いで龍造寺氏が敗れると、大友義統(宗麟の嫡子)は大友配下であったが龍造寺に寝返った筑後一円の豪族たちの鎮圧に乗り出します。大友家の重臣である立花道雪(立花山城主)と高橋紹運(岩屋城主)は黒木氏の猫尾城を攻め落とした後、蒲池氏の柳川城攻めに向かいます。しかしその途中に、何と道雪の病が悪化したため反転帰途に。本陣を高良山城(モトさん5/14投稿の場所)から赤司城に移すも、紹運らに見守られながらこの地で息を引き取ったという説があります。その死に際に道雪は、「我が死体には鎧兜を着せ高良山に頭を柳川に向けて埋めよ」という遺言を残したとか、よほど蒲池氏が憎かったのでしょうか? しかし宗茂が、敵地に埋めるには忍びないと立花山へ運び帰るよう命じたそうです。

その後に豊臣秀吉から、道雪の実娘「誾千代」とその婿養子で紹運の実子の「宗茂」には、蒲池氏の居城であった柳川城(8万石)が与えられるので、これも何かの皮肉と言うか因縁めいたものを感じます。

関ケ原後は、筑後柳川に入った田中吉政の弟で田中清政が城代となり、赤司城は現在のような城郭になりました。しかし一国一城令で廃城となったようです。そしてその石垣や廃材などは、後に筑後久留米に入った有馬豊氏により、久留米城の一部に使われたそうです。

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【余談】太刀洗平和記念館
ここからは、実はここを訪れたもう一の理由です。

この赤司城から北へ3kmの広大な一帯には、太平洋戦争中には日本陸軍の「太刀洗飛行場」がありました。その場所には現在は平和記念館が建てられています(写真⑤)。ここから沖縄へ向け飛び立った特攻隊員たちの遺書や遺影、マーシャルから引き揚げられた実物の零戦32型などが展示され、また当時の飛行場の様子やB29の空襲で犠牲となった31名の小学生たちの悲しい物語などがシアターで語り継がれています。もし機会がありましたら、皆さんにも合わせて是非一度は訪れていただきたい場所です(甘木鉄道太刀洗駅前に記念館はあります)(パンフレット⑥)。

実は、この記念館を訪れたかった理由は、最近の映画「ゴジラ-1.0」(写真⑨)の撮影で実際に使用された戦闘機「震電」が、今何とここに展示されているというので見に来ました(写真⑦⑧)(🤔デカい!)。震電は当時日本で3機試作されましたが終戦となり、実際に戦闘に出る事はありませんでした。その震電を映画のために忠実に再現したそうです。私もその映画を見に行きました。特攻隊員の生き残りを演じる神木隆之介さんがこの震電に乗り、1000kgの爆弾を抱え、そして日本を救うため、ゴジラの弱点とされる口の中めがけて突入して行ったラストシーンは衝撃でした(😱お~!)。その震電が今ここに展示されています! そして最後はどうなったのか!・・・それは映画を御覧あれ(え?😲教えてくれないの?)。
 

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イオ

警戒しつつ登城… (2024/03/09 訪問)

阿坂城から北東にのびる尾根の突端に位置する丘城で、詳細は不明ながら阿坂城の出城として北畠氏重臣の大宮入道含忍斎が守ったとされ、阿坂城の落城に伴い廃城となったと思われます。

阿射加神社の駐車場に駐めさせてもらい、南東側の登城口(道沿いに案内表示あり)から登城開始。水路を渡り石仏に登城中の無事を祈りつつ登って行くと、緩やかに傾斜した削平地に高城跡の説明板が立てられていました。その先の虎口を抜けると主郭に至ります。主郭内には用途不明の窪地がいくつも見られ、前夜の雨が溜まっているところもありました。主郭の西半分(北辺~西辺~南辺)には土塁がめぐり、北西隅と南西隅は特に分厚く高くなっていて櫓台だったものと思われます。西側の虎口は枡形状で、北西隅の櫓台の麓を回り込むように登城道が設けられていました。そして最後に、主郭北辺の踏み跡をたどって下りて行き、北尾根を遮断する二重堀切を確認して高城をひとめぐり。

登城の3週間ほど前にしんしんちゃんさんから注意喚起の投稿があり、猟犬に襲われるのも撃たれるのもイヤだなぁ…と思いつつも、松阪市内の城めぐりは今年の一年の計でもあるので、ヤバそうな雰囲気を感じたらすぐに撤退しよう、と警戒しつつの登城でした。小さな城ながら虎口も土塁もなかなか見応えありますし、そんな心配をすることなく登城できればいいんですが…。
 

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todo94

金谷城特別公開前日の城めぐり⑥ (2024/03/13 訪問)

枡形城からの転戦でこの日最後の攻城です。とある煩悩の登城目録さん、赤い城さんに倣って善性寺と六所神社を回らせていただきました。善性寺はちょっとした高台に本堂が建っているのでほんの僅かですが砦テイストを味わうことができました。この後は、小田急線と東京メトロで銀座にアクセスし、銀座ライオンにて晩酌を楽しみました。

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しんちゃん

白黒のパンダ天守 (2024/01/04 訪問)

福山城は最後の近世城郭と言われ元和8年(1622)水野勝成によって築かれました。五重(当初は四重とも)の天守と7基の三重櫓を擁した堂々たる近世城郭で、天守は昭和20年の福山大空襲で焼失するまでは国宝に指定されていました。
昭和41年に建設された天守も近年リニューアルされ、北側の鉄板も史実に基づいて再現され、2022年8月より公開されています。独自の景観を持った日本唯一の天守ですね。

※間違って別の福山城に掲載していました。申し訳ないけど再度掲載させていただきます。

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しんちゃん

豊国廟 豊臣秀吉公廟所 (2017/05/28 訪問)

豊国廟は関白・豊臣秀吉公の廟所で京都府東山区の阿弥陀ヶ峰の頂部に築かれています。麓から563段の石段を登っていくと頂部に至り、そこに秀吉公の五輪塔があります。かつての壮麗な豊国廟は阿弥陀ヶ峰の西麓の太閤平と呼ばれる平坦地にありましたが、大阪夏の陣の後に破却され、社殿は残されたものの朽ち果てるまで放置され続けたとのことです。
明治6年に阿弥陀峯を豊国神社の鎮座地と定め、明治13年に方広寺大仏殿跡地に豊国神社が建てられました。墳墓の移築工事の際に秀吉公の亡骸も発見され丁重に埋葬されています。西麓には新日吉神宮が鎮座し、境内には樹下社(豊国神社)が祭られています。

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小城小次郎

見どころには事欠かない (2023/11/04 訪問)

関ヶ原で西軍につき大坂の陣で大坂城に籠るという、運に見放されたような玉置城の本拠地。お城は地域No.1クラスに大きく、瓦も落ちてるし石垣の残欠もあるし大きな堀切もある。程よく草も刈られていて見どころには事欠かない。

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しんちゃん

元乃隅神社  山口県長門市油谷津黄498 (2024/01/02 訪問)

元乃隅稲成神社は1955年に白狐のお告げにより創建された神社とされています。日本海に向かって123基の鳥居が連なっていく景色は圧巻で、アメリカのマスコミにも取り上げられています。なんでも「日本の最も美しい場所31選」(2015)に選定されたとか。
高台の大鳥居の上部にある賽銭箱にお賽銭を放り込むことができると願いが叶うそうです。私は3回ぐらいトライして、成功しました。少しコツが要りますが運動会の玉入れの要領です。

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しんちゃん

閑院宮邸跡 京都御苑内 (2017/05/28 訪問)

閑院宮家は四親王家の中では最も新しく、宝永7年(1710)に創設されました。光格天皇は閑院宮家の出身で安永8年(1779)に9才で皇位に就いています。邸宅は宮家が東京に移って以降は華族会館や裁判所などに使用されました。
明治16年に宮内省京都支庁が設立され、太平洋戦争の後に京都御苑が国民公園となってからは管理事務所に使用されてきましたが、平成18年に改修工事を終え、一般にも公開されています。月曜日と年末年始は休館していますが、比較的容易に見学できる上に、何と言っても無料なのが良いですね。タダより安いものは無いといいますが、無料なのは有り難いことです。

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朝田 辰兵衛

まずは難読地名(難読駅名)をクリアしてから… (2024/03/30 訪問)

「象潟」という難読地名(難読駅名)をクリアしてから,いざ攻城されるのが宜しいかと思います。東北地方出身者でも,日本海側に縁遠い方は「ぞうがた」と言い間違えています。
正しくは「きさかた」です。とくに鉄道利用の場合は,目的となる象潟駅を通り過ぎてしまう恐れがあります。くれぐれもご注意ください。
最寄りのバス停は,熊野神社前ですが,本数的に使えません。別の用事と抱き合わせなら別ですが…。

道路に面してパネルが設置されており,これを見逃すことはまずないと思います。奥に石垣が見え,その上が本丸となります。
本丸へは,西側隣接の民家奥に小路がありますのでここを進んでください。特徴的な虎口が迎えてくれます。
搦手虎口は改変された感があります。しかし,民家ワキにミニ神社があったので,昔からあったと推察されます。
歴史については,パネル画像をお読みください。たった9年間しか存続しなかったお城です。

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イタさん

堀・土塁がよく整備されている (2024/05/10 訪問)

鑁阿寺境内が館跡になり、周囲を堀と土塁が囲み東西南北に門がある。境内には本堂・中御堂・経堂・多宝塔・鐘楼・御霊屋・蛭子堂などの建物がある。

鑁阿寺の南東に隣接するように足利学校跡がある。南半分、東、北は狭くなって半分程度の堀が遺る。土塁は全て確認しないが南を除きよく観られる。南道路脇の入徳門を入れば拝観料480円を払う。足利学校入学証と学生証のシールがもらえる。先の学校門左奥に稲荷神社が祀られている。学校門の先に更に門で仕切られた孔子廟が建っている。右手には茅葺きの方丈・庫裏・書院の建屋、前の池脇に衆寮とある学生寮、奥に行って木小屋と言う物置等々が観られる。物置の横、順路を西に行った先にハッキリと土塁がある。

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イオ

南郭(白米城) (2024/03/09 訪問)

(続き)

北郭南端の堀切から南郭へと続く尾根筋には二条の堀切が設けられています。南東側の堀切を過ぎて坂道を登って行くと、眼前に立ち塞がる南郭主郭の切岸…。高さと大きさは北郭以上で、こちらもよく刈られていて大迫力です。南西麓のスロープから主郭に上がると、楕円形の曲輪には白米城阯石碑が建ち、360度視界を遮るもののない眺望が広がっています! この地に城が築かれた理由と、ここまでの道中で多くのハイカー(登城者ではない)と出会った理由がよくわかりました。南郭はほぼ単郭ですが、切岸の下には帯曲輪がめぐり、南方向に竪堀(堀底道)が落ちています。北東にはほぼ自然地形の尾根がのび、その付け根を堀切と堀切から続く竪堀で断ち切っています。南東方向への竪堀はかなり下まで落ち込んでいました。尾根の東端から北側に派生する支尾根の付け根にも浅い堀切が見られます。

阿坂城の両郭をひとめぐりした後は来た道(浄眼寺ルート)を下山しましたが、東麓の浄眼寺は北畠氏の菩提寺であり、往時は阿坂城を詰の城とする山麓の居館としての役割もあったようです。

北郭も南郭も切岸と堀による防御を主としたオーソドックスな中世山城ながら、草木が綺麗に刈られているために切岸の高さと急峻さが際立ち、大変に印象的でした。この状態を維持し続けるのは並大抵のことではないと思いますが、おかげさまで阿坂城を存分に堪能させていただきました。
 

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