発掘現場は、現在の大阪府警察本部建物の地下にありますので見ることはできません。当時は、大坂の陣で豊臣期大坂城が落城した頃の遺構である三の丸南西角部分と障子堀跡が地下6mから出現したことで多くの見学者が訪れました。堀底に立つ説明員との比較で堀の深さ、幅の規模や構造がよくわかると思います。粘土に覆われた斜面の角度は45度あり、迂闊に入ると重武装の武士ひとりでは堀からの脱出は困難だったでしょう。鉄砲の有効射程も織り込み済みで、堀に侵入した徳川軍は、堀底の仕切りで行動の自由を制約されたうえに豊臣軍から鉄砲弾を頭上から容赦なく撃ち込まれたことになります。防御戦を有利に、あるいは真田丸のような出丸構造なら反撃戦が広範囲で可能な城であったということになります。
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