しのわきじょう

篠脇城

岐阜県郡上市

別名 : 郡上城
旧国名 : 美濃

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篠脇城跡標柱
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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)9日目:篠脇城&東氏館庭園(城びと未登録 岐阜県郡上市) (2023/04/26 訪問)

二日町城からの転戦です。古今伝授の里フィールドミュージアム駐車場入口(35.811258、136.924262)から進入して駐車しました。

『大和村史』によれば初代・東胤行の晩年に築城が始まり、14世紀前半の四代・東氏村のとき本格的に城が完成して移住したとされます。
1468年(応仁2年)には斎藤妙椿に攻められて落城したが、関東に在陣していた東常縁がこれを伝え聞いて詠んだ歌が妙椿に伝わり、贈歌10首と引換えに城を返還した、と『鎌倉大草紙』にはあるそうです。
1471年(文明3年)から1477年(文明9年)にかけて、宗祇が篠脇城に常縁を訪ねて古今伝授を受けています。
1540年(天文9年)に越前国から朝倉氏が来攻したが、城主・東常慶の指揮の下、放射状竪堀から巨石を投下し、撃退したといわれています。
しかし、これによって[要出典]城自体の破損が著しく、翌1541年に朝倉氏の再来攻の際は、油坂峠で迎撃しています。
常慶は篠脇城を修復せず、同年に八幡(現・八幡町)の赤谷山に築城して移転し、篠脇城は廃城となりました。
後に遠藤氏が東氏の後を継ぎ、郡上八幡城を本拠としています。

篠脇城は栗巣川南岸の標高480m程の山に築かれています。北麓に東氏の館跡があり、そこから遊歩道が主郭まで通じているようです。
東氏館庭園は栗栖川の南岸、篠脇城の北麓にあり、発掘調査によって庭園が確認され、東氏館跡庭園として名勝になっています。
東氏館庭園は駐車場から篠脇城登り口(35.810443、136.925684)へ向かう通り道になります。
篠脇城の攻城は強雨と霧の為、登城口を確認して撤退しました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=高富陣屋に向かいます。

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ぴーかる

篠脇城 (2022/04/02 訪問)

【篠脇城】
<駐車場他>古今伝授の里フィールドミュージアム
<交通手段>車

<見所>竪堀群・堀切・居館跡
<感想>1泊2日郡上の旅1城目。下総国千葉氏の庶流、東氏が承久の乱の戦功により郡上郡山田庄を加領される。4代目の東氏村の鎌倉時代末期に篠脇城を築き約230年にわたって居城とします。東氏は古今伝授の家として有名で、1468年斎藤妙椿に攻められて落城しましたが贈歌10首と引換えに城を返還したそうです。1540年には朝倉氏の来攻を受け防ぎましたが城の損傷が著しく赤谷山に築城して移転し、篠脇城は廃城となった。
 麓に東氏の居館庭園跡があります。城跡は本丸から北に二の丸・腰曲輪と3段の連郭一体型で本丸と南にある出丸との間に巨大2重堀切があります。本丸・二の丸・腰曲輪の周りは30数条の畝状竪堀で取り巻いています。この竪堀群は「臼の目堀」といわれるそうです。本丸内部は居館跡の発掘調査中で石垣が露出しています。本丸南の2重堀切はとにかく巨大で昇降するのにストック要です。圧巻の放射状の畝状竪堀群と巨大2重堀切、見ごたえあってお勧めです。放射状畝状竪堀ベスト1かと思います。

<満足度>◆◆◆

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バスツアーでの訪問 (2021/11/11 訪問)

11/11にバスツアーにて篠脇城跡を訪問致しました。
ここの特質は、畝状竪堀群がくっきりと分かるということです。
篠脇城の戦国の庭園は、山麓にあり国指定になっております。
その戦国の庭園跡が、山腹の山城に屋敷跡と共に発掘されたことであります。
今までも、一乗谷城のように山麓では戦国の庭園は発見されておりますが、山城で発見されたのは初めてです。
そして、11/27に現地説明会があり翌日には地元の岐阜新聞に掲載されました。
そして、大桑城でも同じように山城で戦国の庭園が発掘されています。
篠脇城東氏、大桑城は土岐氏ですが岐阜県で2箇所も戦国の庭園が発見されたことになります。
来年、大桑城への見学会もあるので早速申し込みました。
また、来年はリニューアルオープンする福山城と岡山城が有ります。
一乗谷朝倉氏遺跡資料館の前に、新しく一乗谷朝倉氏遺跡博物館が来年の10月にオープン致します。
朝倉館の原寸再現や一乗谷の城下町ジオラマや遺構展示室に加えて探究ラボでの体験学習で出来、朝倉氏の歴史や遺構の見所などわかりやすく紹介されます。
また、山城サミットが恵那市で来年は開催されます。
来年も新しい発見がありそうですね。
にのまるさん、東京都の城びと登録城を制覇されたそうで、本当におめでとうございます。
江戸城36見附を歩かれた情報を拝見し、江戸城のスケールが大きさを実感しております。
人々の往来を監視し、江戸城を防衛する軍事施設が見附なのですが、
内郭は周囲約7.8Kmで、外郭は周囲約16Kmもあるのですね。
これを歩かれたにのまるさんには敬服致します。
そこで、外郭の門は殆どが枡形を形成していて、土橋、高麗門、櫓門がセットになっておりますね。
ただ、喰違門だけが外郭門の中で唯一枡形にならない虎口となっていますね。
木戸門だけで、石垣も櫓門もなかったようです。
何故、ここだけ枡形にならなかったのでしょうか?
疑問を持ちました。
喰違門が真田濠と弁慶濠の分水嶺に位置していたことが影響したのでしょうか?
牛込門と市ヶ谷門は、東西の堀の水面の高さが異なっていて、小さな滝で水量を調節していたのですね。
牛込橋には、現在も二段の滝があるそうです。
山下門は、最も小さな門だったので櫓門は置かれなかった。
枡形門ではあるが、直進して中に入れたようです。
もう一つ、面白い門が有りますね。
芝口門は、朝鮮使節来日の際に国威を示すために設けられた門なのですが、焼失してのちは再建されないで、また石垣も撤去され、芝口門そのものが廃止されたのですね。
だから、江戸切絵図には新橋としか載っていません。
このように、各門がユニークでありそれぞれ個性を持っていたことが分かりました。
にのまるさん、貴重な情報ありがとうございました。
また、来年も宜しくお願い致します。

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くっしー

【現地説明会】山上の主郭から庭園の遺構見つかる!! (2021/11/27 訪問)

篠脇城は元々山麓から東氏の庭園が見つかって、名勝に指定されているのですが、今回の発掘調査では、山上(標高486m)の主郭から庭園の遺構が見つかりました。

昨年度の調査では礎石建物、石垣などの遺構が見つかっているのですが、性格不明の遺構も見つかっており、この不明遺構の性格を確定するために今年度の発掘が行われたそうです。その結果、大きな景石や青みのある川原石などが見つかり、庭園としての意匠を備えた遺構である可能性が出てきたということです。

遺物としては、天目茶碗、擂鉢、土師器皿(かわらけ)、青磁や白磁の中国産磁器などが見つかっているそうです。

これらの調査成果を踏まえると、詰城としての性格が強いと考えられていた篠脇城が、実は居館としての性格を多分に持っていた可能性が高いということです。山上のお城が戦いのときに立てこもるだけの場所ではなく、日ごろから人々が住み、時には宴会なんかもここでやっていたんだろうなということが想像されます。

地表面の観察だけではわからないことが発掘調査では明らかになってくるので面白いですよね!!

でも、今回の調査でよくわからなかったこともあるみたいです。
昨年の段階で、主郭の端に立石が二つ並んで見つかっていました。おそらく虎口であろうということで、その間を掘ったところ、石臼の破片が見つかっています。すなわち、虎口として使われていたけど、のちに埋められてしまったということです。とすると、この主郭では途中改修などが行われていた可能性もあるわけで、どの様な変遷がそこになったのかということを検討していく必要があると思います。また、庭園、虎口、礎石建物の存在は明らかになりましたが、その全体像(主郭の中の構成)ははっきりしていません。
今後の調査に期待です。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 東氏村
築城年 鎌倉時代後期
主な城主 東氏
廃城年 天文10年(1541)
遺構 曲輪、櫓台、堀切、横堀(空堀)、礎石、畝状竪堀
指定文化財 県史跡(篠脇城跡)
再建造物 碑、説明板
住所 岐阜県郡上市大和町牧志の脇
問い合わせ先 郡上市役所大和振興事務所振興課
問い合わせ先電話番号 0575-88-2211