しのわきじょう

篠脇城

岐阜県郡上市

別名 : 郡上城
旧国名 : 美濃

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主郭
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しんちゃん

主郭の周囲に多様な堀の遺構が残る (2024/10/20 訪問)

篠脇城は東氏の城ですね。東氏は鎌倉幕府の功臣・千葉氏の流れをくみ承久2年(1220)郡上郡山田荘を領したとされます。南北朝の時代に南朝方の拠点、越前からの来襲に備え篠脇城を築いたとされています。応仁の乱の際には城主・東常縁が関東に下向している隙に守護代・斎藤妙椿に城を奪われてしまいます。常縁が詠んだ「あるが内に斯る世をしも見たりけり 人の昔の猶も恋しき」という歌が妙椿の耳に入り、かつての友人で歌仲間である常縁の悲嘆と歌に感じ入った妙椿は自分に歌を10首送ってくれれば、奪った所領をすべて返そうと約束します。常縁が歌を妙椿に送ると本当に城と所領を返してくれたそうです。
応仁の乱で敵味方に分かれていたとはいえ、両者ともに争うのは本意ではなかったようです。戦国時代では考えられない話ですが、何となく人間味が有りますね。
篠脇城主要部は主郭の北側に郭を段々に配したものですが、周囲に竪堀や畝状竪堀を周到に配しています。久々に来たし、じっくり遺構をみていこう、と考えていたのですがお腹の調子が悪くさっきからゴロゴロいってます。なんてこったい‥写真を撮りながら下山にかかります。

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しんちゃん

電気柵またぎ (2024/10/20 訪問)

篠脇城もいずれ国の史跡になると思います。入口に電気柵がありフックを外して欲しいと記載が有りましたが、それはそれでなんとなく不安があるので、またいで通りました。
電気柵はメーカのものだと3000~10000ボルトという、高い電圧がかかっていますが、電流はわずかなのでで大事に至ることはないです。電線は2本か4本が主流で、2本ならたいがい跨いで通れます。電圧が非常に高いので獣の蹄やゴムの靴底でも電流が流れるとメーカの方に説明を受けています。電流が流れる時間は0.1秒ほどでブレーカを設置するなど法で規則が定められているようです。
電線に流れているのはプラス側の電流で、地面にアースが埋まっており、それがマイナス側になるようです。実はメーカから電気柵用のテスタが2000~6000円程度で販売されており、結構真面目に購入を考えてます。
そこまでして城跡に行きたいのか? と聞かれると答えはイエスです。行けるんだったら行きたい。
電気柵用のテスタは家庭用電流の100Vには互換性がありません。いまは法律で規制があるので、ブレーカなしで家庭用電流を柵に流し続けている人はいないとは思いますが‥。山奥だとわからないですね。

篠脇城の投稿でした。主郭の周囲に数段の郭がある単純な縄張ですが、大型の竪堀が複数あり、周囲を畝状竪堀群が囲んでいて、なかなか壮観です。東氏はこういう城が好みなのでしょうか。 

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しんちゃん

和歌は武士(もののふ)のたしなみ‥だそうな  東氏館&庭園 (2024/10/20 訪問)

東氏館は東氏館跡庭園として国の名称に指定されています。今年6月24日に「東氏館跡および篠脇城跡」を国の史跡に指定するように国の文化審議会は文部科学大臣に答申したそうです。篠脇城もいずれ国の史跡になるということですね。
東氏館は篠脇城の麓に位置し、庭園が整備され池もあります。近くにいくと足元が濡れている感じがするので、あまり粘土などで固めているわけではなさそうです。昔のままということですね。
「こきんはし」を渡って県道318号線を越えた先に「古今伝授の里文化財展示館フィールドミュージアム」があり和歌に関する様々な展示施設があり勉強になります。東氏二代目・東胤行は和歌に優れ、藤原定家の孫娘を妻として、和歌の世界で名を知られた人物であったようです。九代・東常縁も古今和歌集の研究者でしたが応仁2年(1468)篠脇城を留守にしている時に、美濃国守護代斎藤妙椿に城を奪われてしまいます。二人は実は文化人として交流があり、常縁に自分に和歌を送れば奪った所領を変換すると伝え、常縁は十首の和歌を妙椿に送ったところ所領の返還が決まったそうです。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)9日目:篠脇城&東氏館庭園(城びと未登録 岐阜県郡上市) (2023/04/26 訪問)

二日町城からの転戦です。古今伝授の里フィールドミュージアム駐車場入口(35.811258、136.924262)から進入して駐車しました。

『大和村史』によれば初代・東胤行の晩年に築城が始まり、14世紀前半の四代・東氏村のとき本格的に城が完成して移住したとされます。
1468年(応仁2年)には斎藤妙椿に攻められて落城したが、関東に在陣していた東常縁がこれを伝え聞いて詠んだ歌が妙椿に伝わり、贈歌10首と引換えに城を返還した、と『鎌倉大草紙』にはあるそうです。
1471年(文明3年)から1477年(文明9年)にかけて、宗祇が篠脇城に常縁を訪ねて古今伝授を受けています。
1540年(天文9年)に越前国から朝倉氏が来攻したが、城主・東常慶の指揮の下、放射状竪堀から巨石を投下し、撃退したといわれています。
しかし、これによって[要出典]城自体の破損が著しく、翌1541年に朝倉氏の再来攻の際は、油坂峠で迎撃しています。
常慶は篠脇城を修復せず、同年に八幡(現・八幡町)の赤谷山に築城して移転し、篠脇城は廃城となりました。
後に遠藤氏が東氏の後を継ぎ、郡上八幡城を本拠としています。

篠脇城は栗巣川南岸の標高480m程の山に築かれています。北麓に東氏の館跡があり、そこから遊歩道が主郭まで通じているようです。
東氏館庭園は栗栖川の南岸、篠脇城の北麓にあり、発掘調査によって庭園が確認され、東氏館跡庭園として名勝になっています。
東氏館庭園は駐車場から篠脇城登り口(35.810443、136.925684)へ向かう通り道になります。
篠脇城の攻城は強雨と霧の為、登城口を確認して撤退しました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=高富陣屋に向かいます。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 東氏村
築城年 鎌倉時代後期
主な城主 東氏
廃城年 天文10年(1541)
遺構 曲輪、櫓台、堀切、横堀(空堀)、礎石、畝状竪堀
指定文化財 県史跡(篠脇城跡)
再建造物 碑、説明板
住所 岐阜県郡上市大和町牧志の脇
問い合わせ先 郡上市役所大和振興事務所振興課
問い合わせ先電話番号 0575-88-2211