富山県の富山城です。1543年神保氏が家臣水越氏に命じてこの地に築城したのが始まりとされます。そして神保氏の居城となり、越後の上杉氏に抵抗する拠点となっています。1576年上杉謙信に富山城は攻略され謙信の家臣が城代となりますが、1578年上杉謙信が亡くなると上杉氏の跡目争いにより混乱するなか、神保氏は織田氏の援助を受け富山城を奪還。しかし、上杉氏に内応した家臣に幽閉され、これを織田氏の家臣佐々成政が攻略54万石で富山城に入城し城を大改修してます。しかし本能寺の変により柴田勝家方であった佐々氏は1585年豊臣秀吉7万の大軍の前に降伏、九州へ転封となり所領は前田氏が掌握。1595年前田利家が加賀・能登・越中三カ国を領有し、1597年利家の子の利長が富山城へ入城。1599年利長は加賀藩主となったことから金沢城へ移城し、富山城へは城代を置いてます。1605年利長が隠居し新川郡22万石を隠居領として再び富山城へ入っています。しかし、1609年城下から火が出て城は類焼したため高岡城を新たに築き利長が居城としています。1639年二男利次に10万石を分封し富山藩が成立、利次は富山城を修復し1661年居城としています。1690年二代藩主正甫は参勤交代で江戸城に登城した時、ある大名が腹痛で苦しんでいたため懐中にあった反魂丹という薬を与えたところたちどころに治り、これを見た多くの諸大名が反魂丹を買い求めたため、正甫の命で諸国に行商させたのが富山の薬売りの始まりとされます。城は神通川を北の守りとし本丸の南に二の丸、東西に出丸、その周りに三の丸を配し、周囲に神通川と水堀が廻り、東西700m南北600mの規模で天守閣は築かれなかったとされます。城跡は現在大部分が市街地に呑み込まれ、本丸と西の丸、二の丸の一部が富山城址公園となり唯一の遺構として千歳御門、千歳御門南側に復元石垣、模擬天守の博物館、三層櫓外観の美術館、水堀などが整備されています。
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