愛知県豊橋市の吉田城です。城は1505年頃国人領主の牧野氏が東海道の交通の拠点であったこの地に築き当初は今橋城と呼ばれていたとされます。この当時東三河は、駿河から遠江に進出した今川氏、東三河宝飯郡の牧野氏、東三河渥美半島の戸田氏、西三河の松平氏が覇権を争い、今橋城は激しい争奪戦が繰り広げられ、四氏が城主としてめまぐるしく入れ替わり名称も吉田城に替わっています。今川氏が三河を平定するも、今川義元が桶狭間で討ち死にすると、松平氏(徳川家康)が独立、三河を平定するため1564年吉田城を攻略、城主に酒井忠次を置きます。1568年今川氏が武田・徳川により駿河・遠江を奪われると武田・徳川の覇権争いが激しくなり、吉田城も1571年武田信玄の攻撃を受けるようになります。しかし、武田氏が滅亡すると三河・遠江・駿河は徳川氏の領地となり、北条氏滅亡により徳川家康が関東に移封すると、池田輝政が1590年15万2千石で城主となり城を近世城郭に大々的に改修・城下町を整備しています。1600年関ヶ原の戦いの功績により池田氏は姫路城へ52万石で転封となり、徳川幕府成立後は譜代大名が代々城主を務め、1749年大河内松平氏が城主となると明治維新まで続いています。城は豊川と朝倉川の合流部南側に築かれ、川に面した本丸の周囲に二の丸、三の丸を配し各丸に土塁・堀を巡らしています。さらにその外側に武家屋敷を置き外堀を巡らし、東西1400m南北600mの規模とされます。石垣は主に本丸に使用され、野面積みの本丸鉄櫓下北側と西側は池田氏時代のものとされ、その他の石垣刻印が見られる部分は、天下普請による名古屋城築城の際参加した大名等の印入りの石材の残りを利用したものと見られています。城は現在本丸と二の丸・三の丸の一部が豊橋公園として整備され、遺稿として石垣と土塁・堀の一部が残り、本丸に模擬鉄櫓が展示館として造られています。
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