宮城県加美町の中新田城です。1354年奥州管領に任命され奥州に下向した足利氏一門の斯波家兼の子孫は大崎氏を称し、室町から戦国時代、奥州探題として大崎五郡(加美・志田・玉造・栗原・遠田)20万石を支配し15世紀後半には、中新田城を本拠としたとされます。戦国末期の義隆の時代には周辺大名との争いが激しくなり、本拠を名生城に移しています。1588年大崎家臣の反乱に乗じて伊達政宗は留守政景・泉田重光を大将に大崎領に侵攻。留守政景が5千の兵を率い大崎方の城を牽制するなか、泉田重光が7千の兵で大崎領深く中新田城を攻撃、一気に名生城まで攻めようとしますが、中新田城代南條氏は兵1千5百を率い激戦を繰り広げ、二の丸を落とされるも本丸を死守、夕刻になっても落城しない中、大雪となり形勢逆転、伊達軍は撤退の中、殿軍の小山田氏が討死、泉田氏は包囲される中、大崎領内の味方の新沼城へ籠城、別動隊留守氏も攻撃を受け伊達領へ撤退。伊達氏は大崎氏に人質を出すことで和議を結び、泉田軍の引き上げを許されています。その後、1590年大崎氏は小田原不参を理由に豊臣秀吉から所領没収の処分を受け250年の歴史をとじています。中新田城は、羽後・中羽前街道が交わる交通の要衝に築かれ、規模は東西320m南北250mで、周囲に堀と土塁を築き、その内側に東西130m南北110mの内堀に囲まれた本丸を配した平城となっています。現在は、国道457・347号の交差点の多川稲荷神社や長興寺駐車場が本丸跡、二の丸北側は八幡神社・長興寺・瑞雲寺、二の丸南側は住宅地となり、遺構としては二の丸北側の堀跡が残るのみとなり、八幡神社に裏面に城由来が彫られた城址碑と斯波家兼像が立っています。
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