天正6年(1578)3月から2年近くに渡って繰り広げられた三木合戦。秀吉の本陣として築かれたのが、この平井山本陣です。
発掘調査や文献などで確認された、三木城包囲網を構築すべく秀吉が築かせた30近くある付城群のうち、ダントツの最大規模を誇ります。
築城されたのは開戦の年の7月。織田方の総大将として参戦した織田信忠によって神吉城や志方城が相次いで落城した頃だといわれています。
8月、秀吉が入城。
10月、津田宗及を本陣に招いて、なんと茶会を催しています。余裕綽々ですね。
ところがその7日後、別所方の襲撃を受けます。が、返り討ちにしています。ちなみにこの時の戦で別所方の別所治定(別所長治の実弟)が討死しています。
また天正7年(1579)6月22日、この本陣において軍師竹中半兵衛が病により亡くなったといわれています。麓にお墓があるのもそのためです。
そして天正8年(1580)1月17日、三木城への兵糧攻めを中心とした壮絶な合戦が市内あちこちで繰り広げられた末に、別所長治ら一族の自刃により戦は終結。
この後、秀吉は戦後処理のために本陣を平井山から三木城近くの本要寺に移し、免租など三木城下の再興をおこなったのです。
さて現在、跡地周辺は観光ぶどう園があったりして車でのアクセスは割と簡単に行けるかと思います。登山口前には広い駐車スペースもあり、国指定史跡らしくきれいな説明板があります。その隣にはポストがあり、その中には三木市作成のパンフレットが入ってます。平井山本陣の縄張図と解説、裏面には三木城跡と周辺の付城跡群と土塁跡の位置を示した地図も詳しく載ってます。ありがたく頂戴しましょう。
登山口を入って少し登ると小さな祠があり、そこからが本陣跡です。少し広めの平坦地があり、その先を進むと尾根を利用して城道が作られています。そのすぐ横側には平坦地が斜面のあちこちに何段にも築かれています。こうした場所は兵の駐屯地となっていて、山中至る所にあるのです。虎口の跡も明確に残っています。
ある程度まで登ったところで、突然平坦で少し幅のある城道が主郭まで続きますが、ここは通称『太閤道』と呼ばれています。各曲輪をつなぐ重要な導線となっています。
そして主郭。三方を土塁で囲み、そんなに広さはないものの一番厳重な造りとなっています。ここには仮設の展望台が据えられていて、南西方向には三木城跡を一望できます。先述の茶会が開かれたのもこのあたりでしょうか。
主郭を出て犬走り状の城道を進むと南側に回り込んで下ります。その先が大手口です。虎口らしき跡の両側には平坦地が段々に築かれ、厳重な造りです。平坦地それぞれに柵を巡らし、織田方の幟が立てられ、兵がせわしなく行き来している光景を想像すると、かなり威圧感が漂います。
このように見応え十分な秀吉の本陣跡ですが、土砂崩れの危険性もあって立ち入り規制がかかっている箇所もありますので、足元にはくれぐれもお気をつけて。あちこちに順路を示す案内がありますので、それに従えば安全かと思います。
あと、竹中半兵衛のお墓参りもお忘れなく…。
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